「日本の対アフリカ政策」エヌ
1 アフリカ(本稿では特に断わらない限り、サハラ以南のアフリカ47カ国を指す)ときいて、日本の人々は何を思い浮かべるだろうか。荒涼とした砂漠、灼熱のジャングル、飢餓、疫病、野生動物の王国、黒光りする人々など様々であろうが、どれもその一部しか物語っていない。一口にアフリカといっても、世界の4分の1にあたる47もの国を擁し、世界の20%を占める大陸であるから、多種多様の地形、気候、民族を抱えている。いずれにしても、アフリカは、日本人にとってなじみの薄い地域である。 ところが、世界的にいえば、アフリカは決して小さな存在ではない。たとえば、アフリカ問題は、世界経済及びテロ対策と並んで、本年6月カナダで行われるカナナスキス・サミットの三大議題の一つになっているのが、よい証拠である。 2 では、アフリカ問題とは何を指すのであろうか。アフリカの多くの国は、冷戦時代米ソの勢力圏争いの場となり、多額の軍事的経済的援助を受けてきた。1960年代には、アフリカの方がアジアより豊かだったのだ。ところが、1970年代に約600ドルであった一人当りGNPは、冷戦終了後の90年代に逆に約500ドルまで落ち込み、極度の貧困に喘いでいる。これに冷戦時代から継続したきた紛争、冷戦後にいわゆるタガがはずれて発生した紛争という要因が加わり、貧困やエイズなどの感染症の問題との相乗効果で、悪循環に陥っている。 3 日本は、アフリカに対して何をしているのだろうか。日本にとってアフリカの存在は小さいが、アフリカにとって、日本は大きい存在である。日本は、アフリカに対する全世界のODAの約10%を供給し、90年代を通じて上位にあまり引き離されていない3位か4位の地位を保っている。現にいくつかのアフリカ諸国において、日本がトップドナーとなっている。 逆に日本の対アフリカ二国間ODAは、90年代を通じて平均約10億ドル(1250億円)で、全体の約12%程度である。これが高いか安いかは判断が難しいところであるが、比較の数字を挙げておけば、98年の中国一国に対する二国間ODA総額が11.6億ドル、対インドネシアが8.3億ドルである。ただし、国連などの国際機関に対する拠出金のかなりの部分は、アフリカに仕向けられていると考えられるため、その点は注意が必要である。金額ベースでは、日本は上位を占めているが、欧州諸国のほとんどはODAの30〜40%を、米国でも20%ほどをアフリカに割り当てており、割合だけでいえば、日本の対アフリカ援助は他の先進国に比べてかなり少ない。 4 では、日本はアフリカに対してどのように関わっていけばよい(関わらないという選択肢も含めて)のだろうか。 2001年1月、日本の現職総理としてはじめてアフリカを訪問した森総理(当時)は、南アフリカで行った政策スピーチの中で、「アフリカ問題の解決なくして21世紀の世界の安定と繁栄はない」と述べた。このスピーチの原稿を書いた榎泰邦中近東アフリカ局長(当時:現駐南アフリカ大使)は、日本はアフリカに積極的に関わっていかなければならないという前提に立って、その正当化事由として、国連での票、人道的配慮、資源という要因を全て不十分であると否定し、「アフリカは、日本が国際社会にあって、真にグローバルな役割を果たして行ける国であるか否かを示す試金石である」と述べている(2000年6月、北海学園大学における同氏講演)。 同氏は、アフリカに歴史的責任を有しない日本が欧州以上に人道的責任を感じる必要はないし、アフリカの資源も中東の石油ほどの戦略性はないと断じ、また国連の票にしても、それだけが目的であれば、国連の選挙の時だけメリハリをつけて援助をばらまけばよいという。選挙の時だけ露骨に票を買うような手法が本当に成功するかどうかは別として、確かに上記3つの理由だけで、年間10億ドルの説明がつかないのは明らかである。 しかし、日本がグローバルパワーの一つとして、アフリカに対する国際社会の責任を担っていくべきであるという論法は、そもそも論理矛盾であり、そうした議論には、決して乗るべきではない。だいたいが、日本がグローバルパワーであったことは、過去に一度もないし(副島隆彦助教授著書どれでも参照)、近い将来そうなることもありえない。 仮に、森前総理(榎氏)のいう「アフリカ問題の解決なくして21世紀の世界の安定と繁栄はない」という言辞を、そのまま受け入れたとしても、それがいったい「日本の安定と繁栄」に何の関係があるのだろうか。そもそも日本に何ら関係しない「国際社会の責任」とやらを無責任に引き受けるべきではなく、本当に責任のある国々に引き受けさせればよいのである。日本国民の安全と繁栄に(結果的にでも)資する目的以外に血税を使うことは許されるべきことではない。 5 では、明解な正当化事由が見当たらないから、日本はアフリカから撤退、すなわち対アフリカ援助を引き上げるべきなのであろうか。ここでの議論は、それほど単純なものではない。 日本には、1980年以降、全世界の対アフリカ援助の10%以上を賄ってきたという実績がある。日本の援助は、被援助国のニーズにあっておらず感謝されていないだとか、被援助国の政治家ばかりか日本の政治家がリベートをとっているだとか、物資や金銭を与えるだけで顔が見えない等の様々な批判を浴びては来たが、とくに冷戦終了後欧米諸国が援助額を大幅に減らしたにもかかわらず、20年余継続してアフリカに援助し続けてきたという実績は、アフリカ諸国民からそれなりの感謝を受けており、これは日本国民にとってかけがえのない財産である。 確かに、80年代以降、日本経済がバブルを謳歌し、莫大な貿易黒字を溜め込んだために、主に米帝国からの非難に対する免罪符として、ひたすらODAの量的拡大をはかった経緯がある。世界一の富豪となったビル・ゲイツが、まわりの嫉妬をかわすために慈善事業に精を出すのと同じ発想である。日本の対アフリカ援助も、その一環で、援助を大量に吸収してくれる「上得意」として、量的拡大を続けていっただけであり、特段の戦略的意図があったわけでないのは、事実である。 しかし、今後全体的にODAが減少していくなかで、対アフリカ援助も減額していかざるをえないとしても、厳然として存在する「財産」は、できる限り守っていかなければならない。 6 私の主張は、その際に、欧米の議論に乗っかり過ぎてはならないというものである。欧米諸国が各国がそれぞれ違う思いを抱えながら、「アフリカ問題」の深刻さをアピールし、その解決のために努力すると約束する際、日本は言葉上おつきあいするだけで十分である。アフリカの貧困というのは、本当に深刻な根深い問題であり、諸外国が莫大な資金と人力を注ぎ込んでも、それで再生するという類いのものではないからだ。まさに砂漠に水を捲くようなものである。 したがって、「アフリカ」と言って、47カ国全てを均等に扱ってはならないのである。砂漠も区画を区切って集中的に水をやれば緑化できる。もともとそのような中途半端なものなのだ。アフリカ全体を引き受ける義理も何も、日本にはない。 世界規模での米国系グローバリスト対欧州系グローバリストという構図は、アフリカにも存在するが、日本としてどちらか一方に加担して争いに加わるほどの利害関係はない。したがって、アフリカの諸紛争の政治的仲介(親分同士の手打ち)などできようはずもない。しかし、一国、一国見ていけば、同じ欧州勢力でも、英仏はもちろん、ドイツ、イタリア、ベルギー、ポルトガルなど、それぞれの国で様々な形に割れている。こうした間隙を縫って、かつ過去の「財産」が一番大きく蓄積されているという要因を重視して、日本独自の「重点緑化地区」を選定していかなければならない。アメリカだって、忙しいから、アフリカの一国、一国で、日本がどのような動きをしているかまでは、監視が及ばないのだ。 とは言っても、こうした対アフリカ援助ですら、経済法則に見合った投資ではない。しかし、不況になったからと言って、ODAを大幅に減らしてその分を国民生活に回すことなど、許してもらえるはずがないのだ。アフリカ47カ国に対する援助の合計が、99年の一年間に中国やインドネシア一国に対した行った援助額よりも少ないのである。その程度の額なのに、わざわざアフリカだけ大幅に減らして、アフリカ諸国 に嫌われ、20年余の財産をふいにする必要はない。しかも、「援助」といっても、全てが被援助国に落ちるわけではない。国民の雇用にも資しているのだ。その伝統的な形態は、日本の大手業者が大型プロジェクトを受注して、道路や橋を建設するというものであった。しかし、これからは、本当に若者の職がない中、若者の雇用対策として、青年海外協力隊や日本のNGOの職員に、どんどんODAを配分していくべきである。アジアは最早そうした活動の需要が少なくなってきたし、逆に供給は増えて競争率が増え過ぎている。この点、アフリカにはまだまだ需要がある。しかも、本当に厳しい環境を若い時に体験して成長するという意味では、アフリカに勝る土地はない。こうした意味で、対アフリカ援助は、その重点を若者ボランティアの派遣に移していくべきである。 したがって、G8や援助協調の議論には、総論賛成各論反対の姿勢で程々に付き合うのにとどめ、日本は日本で、地道に、そしてこれからは人的派遣を中心に、アフリカ諸国と関わっていくのが肝要であると考える。(了)
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