■ここは、主に副島隆彦の弟子から成る「ぼやき漫才・研究会」のメンバーが小論を掲示し、それに師や他のメンバーが講評を加えていくところです。

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(2002/04)

プロ野球を通した日本社会論 13 〜とうとう最終回・どさくさに紛れて「副島隆彦モンスター論」〜 せいの介
魅力的なプレイヤーは、今後も続々とメジャーへ流出して行くだろう。日本のプロ野球が、メジャー流出問題・プロ野球の人気低下問題について考えるならば、私が書いてきた「メジャー流出論」を避けては通れない。どうせ、これを認めた上で対策を講じないと、どうしようもない。認めたくないなら、勝手にしてればいい。

みんな出ていけばいいのさ。メジャーでプレイしたい選手は。・・・やっぱ訂正。大阪近鉄の中村だけは例外。日本の他球団にも絶対行くな。・・・我ながら身勝手だなあ。

私は、これからも続くであろう「流出」を、にやにやしながら眺めているつもりだ。なぜなら、

プロ野球人気の低下 ≒ ジャイアンツ人気の低下

だからである。いずれ、「近鉄バファローズ論」の中でも書くが、「近鉄とは、一度ファンになってしまうと、ファンをやめられない球団」である。だから、プロ野球人気が低下しても、大阪近鉄人気が低下するわけではない。つまり、プロ野球人気が低下すると、大阪近鉄は相対的に有利になるということだ。私は、アンチ・ジャイアンツの司令塔(?)として、このまま傍観する。これが、国益にも適う。とりあえず、阪神とも手を組む。戦略的パートナーとして認める。しかし、牛党として言わせてもらえば、いずれ、虎退治もせねばならないだろう。バッファローズが大阪において正統なる地位を占めるには、中ノ島(大阪の地名、私が考える、近鉄と阪神の勢力圏の境界)以南から虎は駆逐せねばならない。

まず、ジャイアンツという、リヴァイアサンよりも恐ろしいモンスターを退治せねばならない。私は、アンチ・ジャイアンツであり、かつ、アンチ・グローバリストである。だから、何の躊躇いもなく、ジャイアンツ退治を実行に移す。私にとって、ジャイアンツは、RPG(ロールプレイングゲーム)の、最後のボスキャラである。これを退治せぬことには、お姫様を救出することも出来ないし、王国に平和をもたらすこともできない。ジャイアンツ、恐るに足りず。なぜなら、私の師・副島隆彦も、リヴァイアサンよりも恐ろしいモンスターなのだから。モンスター同士の対決だ。「ジャイアンツ VS リヴァイアサン VS ソエジマタカヒコ VS ロックフェラー VS・・・ついでにキングギドラも入れちゃえ」副島隆彦は、日本が生み出したモンスターである(副島隆彦モンスター論)。(生体ならぬ)国体防御反応の一環として生み出したのだ。本当に、とんでもない化け物を生み出してしまった。

野茂やイチローが、どれだけ凄いのか、を、流出前に見ぬいていた日本人は、ほとんど皆無だろう。みんな、彼らがメジャーで活躍し始めてから気付いたはずだ。私は、「お前だってそうだろ」と言われたら、「そうだ」と答える。私が、このことに気づいたのは、イチローが流出した後のことである。そして、私は、「メジャー流出問題」の重大さに、日本で一番最初に気づいた若い猿である。

私は、イチローが流出してから、この問題の大きさに気づいた。イチローが日本にいた時に、もっと彼の一挙一動をしっかりと目に焼き付けておくんだった、と悔やんだ。野茂が投げる時も、もっと藤井寺(球場、大阪ドームの前のホームグラウンド)に、見に行ってあげればよかった。三万人も収容できない藤井寺に空席をつくること自体が、野茂に対して失礼だったのだ。あのボロくて狭い藤井寺球場のマウンドに立っている野茂の勇姿が、未だ脳裏に焼き付いている。そうか! あれが、世界水準だったんだ。最高峰のメジャーリーグでも「救世主」と崇められ、目の肥えたアメリカのファンをも熱狂させる。我が家から自転車で1時間強で行けたのに。観客が私一人増えたところであまり変わらないかもしれない。しかし、中学生だった当時の私には、野茂を引きとめるには、それくらいしか出来なかっただろう。今となっては、すべてが、もう手遅れである。藤井寺で野茂が演せてくれたトルネードの重たさが、十年後の今、やっと分かった。

昔、どこかで読んだ。野茂が、ある人(その記事を書いた人)と名古屋駅で待ち合わせをしていた。その人が野茂を見つけた時、野茂は、雑踏の中で一人ぽつんと立っていた。その人は、確かこのように書いていた。
「野茂がセ・リーグの選手だったら、そのようなことはなかっただろう」
野茂は、パ・リーグの最多勝投手であり、奪三振王である。しかし、誰も、その青年が野茂であることがわからなかったのだ。野茂がジャイアンツの選手であったならば、もみくちゃにされるだろうから、名古屋駅で待ち合わせなど出来なかっただろう。この時の、野茂の背中の寂しさを理解できない人は、野茂を語ってはならない、と私は思う。野茂のメジャー移籍を批判するなど、もってのほかである。

現在のスーパープレイヤー、野茂やイチローよりも過去の長嶋を選び続ける社会。メジャー移籍宣言とは、そんな日本社会に対して、野茂・イチロー自身が叩きつけた、サヨナラ宣言である。

今後も、メジャー流出は避けられない。メジャーの方が魅力的だしレベルが高いから。しかし、以下に書くように、プロ野球の完全空洞化を防ぎ、辛うじてメジャーと共生することは、実現可能である。能力のある日本人選手が、メジャーでプレイしたいと言い出す。それに対して、日本のマスコミや国民は、彼の意志を尊重して、暖かく送り出す。よりレベルの高いところで自分の力を試してみたいと思うのは、人間として当然である。この流れは、止められない。そこで、私が主張したいのは、以下の点だ。私が思うには、メジャーかプロ野球か、二者択一でしか考えられないのが、おかしいのである。これは、属国のグチャグチャにされた精神状態を示していると思う。

どうして、このようにやり取りできないのか。
「また、いつでも戻って来いよ」
と送り出して、それに対して、野茂やイチローが、
「うん、分かった」
と答える。それだけのことだ。せめて日本がこのような応対のできる社会であったならば、野茂やイチローが、絶縁に近い状態で出ていくことはなかっただろう。そして、五年後くらいに、メジャーのスーパープレイヤー、野茂やイチローが、日本に戻ってくる。それを、日本人は、何事も無かったかのように受け入れる――それが健全な関係だと思うのだが。そうなれば、プロ野球も、もっと盛り上がるだろう。当たり前だ。メジャーの英雄やヒーローが、プロ野球でプレイするのだから盛り上がらないはずがない。

野茂やイチローは、自分やカネのことだけしか考えないような、器量の小さい男ではない。だから、このように送り出してくれたならば、ある程度で、まだまだ脂がのっている時点で、日本に戻っていただろう。
「また戻ってきてね。みんな出て行っちゃうと寂しくなるから」――この一言で、すべてを察するはずだ。自分がプロ野球を盛り上げないといけない、ということくらいは理解しているし、そのようなプロ野球界ならば、野茂やイチローも恩返しをしたいと思っただろう。自分が日本の子供たちの前でスーパープレイを演せてあげることが、何よりの、プロ野球界のみならず、自分を育ててくれた祖国に対する最大の恩返しなのである。野茂もイチローも、それくらいは解かっているし、心の底では、それを望んでいるだろう。もう一度、大阪や神戸でプレイする、野茂やイチローを観れるかどうか、それは日本人次第なのである。

(おわり)

これで、「プロ野球を通した日本社会論」は終わりです。賛同、質問、反論、なんでもいいので、「ふじむら」にでも書いていただければと思います。

2002/04/23(Tue) No.01

プロ野球を通した日本社会論 12 〜近代を支える「個人」、及び「大日本帝国」再考〜 せいの介

(『日本人はいかに生きるべきか』p172より引用)
 私は、日本は明示以降今日までの間に二つのシステムによって生きてきたと思います。一つは近代化システムで、さっきお話したように文字や数字をいうもの中心にし、主観を重視する、個人を重視し、合理主義を標榜する、そして先ほど学長のお話にもありましたヒューマニズムを基底とする近代化であり、合理主義であったと思うのでありますが、もう一つのシステムについては誰もが知っているけれどもそのことを皆口に出さない、特にインテリは口に出さない。
 それはどういうシステムかといいますと、言葉や身振り、義理人情、宴会などをキーワードとするものです。私は歴史的伝統的システムといっておりますが、例えば今からかなり前になりますが、「隣人訴訟」という問題がありました。これはどういう訴訟かといいますと、近所に住んでいるある二組の夫婦、家族がいて親しい関係だったのですが、その一つの家族の子どもをもう一方の家族に預けて出かけることになり、「お願いします」といって子どもを預けて出かけることになり、「お願いします」といって子どもを預けて出かけたのです。ところが預けられた子どもは、外へ遊びに行ったまま行方不明になって、発見したときは池の中で溺れて死んでいたのです。
 いろいろいやなことがあったようですが、結局被害者の両親がその預かった夫婦を訴えたのです。ヨーロッパやアメリカなら当たり前なのですが、訴えたことが新聞に出た瞬間に、その訴訟を起こした人の家に電話や手紙等々でたいへんな数の誹謗・中傷が寄せられて、非難の矢面に立たされて、生きていけない、暮らしていけないほどになった。そこで被害者のご両親はいろいろ苦労したあげく、訴訟を取り下げたのです。
(引用おわり)

日本は、合理性を理解していないが、多少の合理性はある。本当は、「合理性がある」のではなく、規範がないから「伝統主義に陥りにくい」だけなのだが。だから、戦前は軍事大国を、戦後は経済大国を創りあげた。表面上は、近代国家(社会)である。しかし、欧米の近代国家(社会)とは、系譜が違う。中身は、近代国家(社会)ではない。

(阿部謹也『「世間」とは何か』p19 より引用)
宮崎勤という人は、幼女誘拐、殺人などの疑いでいま裁判が進行中である。聞くところによれば、彼の姉妹は婚約を解消され、父親は新聞社を解散してついには自殺してしまったという話である。この姉妹や父親はいったい何をしたというのであろうか。本人達が勤君の事件には何の関わりもないことは明らかである。にもかかわらず彼らは「世間」をはばかって生きなければならないのである。
(引用おわり)

私が聞くところによると、宮崎勤の姉は、過去を隠して転居しても、すぐに嗅ぎつけられるという。ストーカーのような人がいて、近所の人に言い触らすらしい。日本では、「個人」が成立していないから、法意識も甘い。日本では、逮捕・起訴が、事実上の有罪判決である。その後の裁判なんて、どうでもいいのだ。さらに、裁判官と弁護士が裏取引していることも、山口宏・副島隆彦が暴いて書いた。無茶苦茶な法(近代法)意識である。近代法体制が有効に機能するには、「個人」の確立が不可欠なのである。

次は、資本主義。日本では、優秀(いわゆる偏差値の高い大学出身)な人ほど、大企業や官公庁に入りたがる。アメリカでは、逆らしい。優秀な人は、起業するか、小さな会社に入りたがり、次に優秀な人が、大企業や官公庁に入るらしい。

(阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p76より引用)
 日本の個人は世間というものの中にあるのです。だから日本人は自分の個を全面的に発揮することができなくて、世間に合わせようとします。会社の中で自分の仕事を必ずしも好きなようにできなくても、全体に調和させながらやっていこうとする。自分の好みや希望と、まわりの関係を調整しながら生きているわけです。それが日本の個です。
<略>
 そういう意味で、日本の個というものは、世間、つまり自分がいる会社や組織などの全体の動向に合わせることによって成り立っています。そこから飛び出していって、自分一人で何かをやろうという人は少ない。まわりから目立たないようにして、まわりに合わせていくという生き方が日本的個の在り方です。まわりが世間だったら世間に合わせる。だから日本人は独創的な仕事はできないとかユーモアもないと言われるのです。
(引用おわり)

このような「世間」で育っているから、冒険をしない。このように、まず、起業を志す人そのものが、違う。次に、出生の段階で違う。日本では、若くて能力のある起業家に、なかなか資金が廻らない。日本でも、一時、エンジェルやベンチャーキャピタルが持て囃されたが、やはり根付かなかった。さらに、前回書いた、幼児体験の問題が待ちうける。いい製品や技術を持っていても、知名度が無ければ、日本社会では売りものにならない。日本では、ベンチャーを起こしても、一回倒産したら、もう終わりである。「世間」は、一度失敗した人間を許さない。そして、成功した人を妬む。アメリカだと、賞賛するらしい。こんな社会だから、ベンチャーが育たない。だから、資本主義が機能しない。なぜ、ベンチャーが誕生しなければ、資本主義は機能しないのか。それは、「資本主義の生命は革新にある」(小室直樹)からだ。つまり、「個人」が成立していなければ、資本主義も成立しないのである。

デモクラシーも同様である。「個人」が成立していない社会において、デモクラシー(代議制民主政体)を採用することが、どれほど危険なことか。「民主主義を守れ」と絶叫する人たちは、このことを考えたことがあるのだろうか。「世間」においては、「デモクラシー = 全体主義」である。いつでもヒトラーが誕生する土壌が整っている。デモクラシーを「民主主義」と誤訳するくらいなら、おもいきって「全体主義」と誤訳した方がいいのではないか。国民も、何かに気付いてくれるかもしれない。

つまり、近代の三面等価(近代法 = 資本主義 = デモクラシー)は、「個人」の成立なしには、成立しえない。そもそも、「個人」が誕生したから、「自由」「人権」「平等」という、近代を支える概念が誕生したのだ(「liberal」は、もともと、宗教用語らしいが)。だから、私は、近代成立の直前に誕生した「個人」を、あそこまで重視したのである。私の過大評価だろうか。

前回書いた、「世間」が引き起こした三面等価(メジャー流出問題 = ベンチャーの幼児体験 = 第六権力論)も、今回書いた諸問題も、近代国家と接触するから引き起こされた。鎖国していたころは、これらの問題は生じなかった。黒船の前に、屈服するしかなかった。今でも、アマゾンの奥地で伝統的な生活を営んでいる部族には、全く関係ないことだ。日本は、前近代・「世間」であるにもかかわらず、欧米の制度を取り入れたから、矛盾が生じる。中身は、変わらず、前近代・「世間」のままである。開放された前近代国家は、必ずや、この問題にぶちあたるのだ。

そして、日本ほど、この問題に直面してきた国家はないだろう。なぜなら、戦前は軍事大国として、戦後は経済大国として、欧米と(表面上は)対等に闘ってきたからである。このような前近代国家は、他に、ソ連くらいのものではないのか。そして、日本・ソ連ともに、敗れ去った。

(小室直樹『悪の民主主義ー民主主義原論』p171より引用)
 戦前の日本における議会政治(立憲政治)、民本政治(戦前には、「デモクラシー」を「民本政治」と呼んでいた)も、議会における言論の自由の抹殺によって死んだ。
(引用おわり)

戦前は、「デモクラシー」を「民本政治」と呼んでいた。戦後は、これを「民主主義」と訳している。アホか! なんで、「民主主義」になるんや。「クラシー」は、政体だろう。価値を含む「イズム」とは違う。
デモクラシーを理解していない証拠ではないか。それに、帝国時代には、女や低所得者に選挙権を与えていなかったから、今よりもマトモにデモクラシーが機能していた。

経済も同様。社会主義的経済になったのは、昭和に入ってからである。それが、戦争中の統制経済によって、さらに進展した。野口悠紀雄は、「1940年体制」と呼ぶ。戦前の日本経済は、今よりも、資本主義的だったのである。

法もそうだ。大日本帝国憲法は、曲りなりにも、日本人が書いた。日本国憲法は、どうなんだ。誰が書いたのか、護憲派の連中は知っているのか。言ってみろ。大学院生の若造が書いた憲法を、一億人がかりで一文字たりとも変えられなかった。どこが近代国家なのか。憲法のなんたるかを知らない。お上が勝手に決めるものだと思っている。

戦前の日本は、今よりも、近代に近い位置にいた。しかし、敗戦により、近代から後退した。天皇という「絶対神」を失ったからである。私の考えでは、近代への最初の第一歩は、絶対神である。天皇という「絶対神」を得た大日本帝国は、三千年の遅れを、一気に取り戻す可能性を秘めていた。天皇は、西洋の絶対神とは、違う。だから、日本が向かっていた近代は、西洋の近代(私の考えでは、「合理性」と「個人」に支えられている)と同一ではない。もし大日本帝国が滅びなかったとすれば、どのような社会になっていたのか、今の私には、わからない。どうせ最終的には、日本人は、(西洋)近代を本当に理解することは出来ない、近代人にはなれない、近代社会を築き上げることは出来ない。しかし、極めて近代に近い社会までなら何とかなる、というのが、私の現段階での理解だ。

「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」(三島由紀夫『英霊の声』)

三島由紀夫は、天皇の人間宣言を嘆いた。せっかくいいところまで行っていたのに、後退した。また一から出直しである。大東亜戦争において、日本がアメリカに敗けたということは、前近代国家が近代国家に敗けた、ということである。それだけのことだ。別に物量に敗けたのでもないし、アメリカの文化に敗れたのでもない。日本は、「アメリカ」にではなく、「レイシオ」に敗けたのだ。日本の兵器は、近代兵器だった。しかし、その近代兵器を扱う人間が、前近代人だった。下士官・兵は、前近代人でもかまわない。むしろ、その方がよいくらいだ。だが、士官から上は違う。士官以上が近代人でなければ、近代国家には勝てない。日本は、戦前は軍事大国として、戦後は経済大国として、アメリカと(少なくとも表面上は)対等に勝負した。そして、二回とも完敗した。なぜ、敗けたのか。真に敗因を研究すれば、「天皇の神性」を守護せねばならないというところに行きつく、と私は考える。

(つづく)

2002/04/21(Sun) No.01

プロ野球を通した日本社会論 11 〜日本「世間」の三面等価〜     せいの介
「メジャー流出問題」は、日本人が考えているよりも、遥かに重大な問題である。プロ野球が、国民的(観戦)スポーツであるからではない。仮に、そうではないとしても、重大な問題なのである。だから、「私は、野球には興味がないから関係ない」では済まされない。なぜそうなのか、それを、今回は書く。

まず、3ヶ月くらい前の、私(せいの介)の投稿を引用する。

(ふじむら掲示板[1031] プロ野球を通した日本社会論+ナベツネ少々(こさじ1杯程度)より引用)
日本の製造業ベンチャーは、画期的な新製品を開発したら、まず、日本の企業に売りこみに行く。しかし、相手企業の担当者は、納品実績を尋ねてくる。「まだないです」と答えると、「まず、実績を積んでください」と言われる。国内なら、どこへ行ってもそうだ。それで、そのベンチャー企業は、仕方なく、アメリカへ売りに行く。すると、アメリカの企業というのは、会社の名前にも実績にも、イチャモンはつけづ、製品だけを鑑定して、購入するかどうかを決めてくれる。その後で、日本に帰り、前に断られた企業に再度出向く。そして、「アメリカの大手○○○に、3000個収めました」って言うと、すぐに買ってくれるそうだ。だいたい、日本の製造ベンチャーは、このように発展してしまっている。困ったことだ。そりゃー、こんな社会なんだから、野茂もイチローも、みんな出ていくって。
(引用おわり)

本当に、この通りなのだ。正月にテレビを観ていたら、ネジの会社(ベンチャー?)が紹介されていた。画期的な新商品(錆びないネジだったかなあ)を開発したが、日本では売れず、仕方なく、最初は米国へ売りこみに行ったらしい。京都の、ある製造ベンチャー企業もそうだった。日本では売れなかったから米国で売り出した、と社長が言っていた。確か、ソニーや京セラも、こうやって発展してきたのではなかったっけ?(←記憶違いかもしれません)

日本は、製造業で生きている国だ。そして、その「虎の子」製造ベンチャー群は、米国なしに成長し得なかった。これが、日本の製造業ベンチャーの「幼児体験」である。このように、首ねっこを押さえられている。日本という国家がアメリカという国家に首ねっこを押さえられているということだ。

これは、代議士の選出過程にも絡んでくるから、重大な問題なのだ。

昔、あるアメリカ人と話をしていて、大阪と東京(私は、大阪を先に書く。ひねくれもんだから)の知事の話になった。彼は、大阪も東京も、元コメディアンが知事であることに対して驚いていた。私は、「日本人は、誰に投票するのか、を、知名度で決めるんだ」と言って嘆いてみせた。すると、そのアメリカ人は、「どこの国も同じだ。アメリカもそう。日本は、それがヒドいだけだ」と言った。今になれば、彼の主張の方が正しかったと思う。その後で、彼はこう言った。
「この前、アメリカでは、プロレスラーが知事になった」
ベンチュラのことだろう。その頃の私は、背景を知らなかったから、そんなものか、と思っていた。しかし、今、考え直すと、そうでもないではないか。
「彼は、リバータリアン(だったよね?)というきちんとした政治思想上の立場がある。彼と、日本の青島・横山とは違う。彼らは、本当に思想上の立場など無いんだ」
と、今の私なら反論したろうに。


(副島隆彦「今日のぼやき」[166]より引用)

 アメリカの対日戦略は、石原は自分たちの言う事をきかないやつだ。それなら、更にその上から大きく取りこんでしまえ、というものです。リチャード・ゲッパートと言う民主党の大物政治家がいます。米大統領になってもおかしくないほどの人物です。このゲッパートとの関係が一番深いでしょうね。『NOと言える日本』で「ウルトラナショナリスト・イシハラ」と呼ばれて危険視され始めたころからアメリカ側の石原取りこみ作戦は出来ていたのでしょう。日本人の反米感情をイシハラに集合させて表面に出させて上手に引き回せばよい、と。私はこのアメリカの作戦を「石原ゴキブリ・ホイホイ論」と名づけています。それで日本を上手に反米から、反中国の方へ持っていって、中国と喧嘩させ、日中を分断して、それでアメリカの東アジア(極東)管理政策を達成する、というものです。石原さんは、シナ、シナと言いますからね。丁度いいのです。

 彼のスタンドプレー主義には、危うさがあります。合意の上で作られた政治権力でないから、風向きが変わったときに誰も支えてくれないし、本人も汚れてまで頑張ることをしない。私は、6年前に、これからは「有名人」というメディアによって作られた偶像が権力になるという「有名人権力論」を唱えました。有名人権力というのは、今や「第六の権力」と呼べるほどの大きなパワーです。マスコミ・メディアのことを三権に継ぐ「第四の権力」と呼ぶでしょ。その次の「第五の権力」が市民運動を指します。有名人権力は六番目に登場した権力です。田中康夫をはじめとして、実績や経験ではなく、知名度で当選する無党派知事が続々と誕生しつつあります。有名人が権力を握り華やかにスタンドプレーをやり、それが有効性を持つという政治形態はこれからももっと増えるでしょう。

(引用おわり)


日本は、事実上、アメリカに政治を支配している。日本は、アメリカの属国だから、である。気に食わない奴は、疑惑を流させて、追い落とす。ロッキード事件が、模範。そして、自分の息のかかった政治家を後釜に据える。こんなことを、戦後、ズーっとやってきたのである。日本は、やられてきたのである(副島隆彦『日本の秘密』を参照)。

アメリカでも、マスコミによる情報操作は行なわれているし、ひっかかる人もいるのだろう。大衆は、そんなものだ。しかし、日本は、その効果が大きい。なぜなら「世間」だから。だから、日本がアメリカから独立しようとすれば、この問題にも向き合わねばならない。

それにしても、西村眞吾も陥とされていたとは、ショック(「今日のぼやき」[278]を参照のこと)。あのオッチャンは、堺の代議士だから。まだまだ、総合力では副島先生には勝てないなあ。

西村眞吾も、石原慎太郎も、大きくは、既に、アメリカに取り込まれてしまっている。やはり、日本人は裕次郎の亡霊からも離れなければならない、と私は思う。「裕次郎の兄です」の一言と石原軍団で勝ちが決まってはいけない。

なーんだ。全部、同じことじゃあないか。

野茂やイチローがメジャーへ出ていったのも、製造業ベンチャーの最初のお客さんがアメリカの企業であったのも、アメリカの息のかかった候補者が選挙で選ばれるのも。全部、日本に「個人」がいないから、つまり「世間」だから、これらの社会現象が起きるじゃねーか。なーんだ。同じことか。だから、

メジャー流出問題 = ベンチャーの幼児体験 = 第六権力論

なのだ。これらは、すべて、日本という「世間」を、別の方向から観察したに過ぎない。同じことだ。三面等価だ。しかも、全部、アメリカが絡んでいるではないか。そして、日本「世間」がアメリカに依存しきっていることを、示しているではないか。

真の独立のためには、日本にも「個人」が成立しなければならないのだが、難しいだろうなあ。今まで、ずーっと「世間」だったからなあ。これからも、ずーっと「世間」なんだろうなあ。

(つづく)

2002/04/05(Fri) No.01

プロ野球を通した日本社会論 10 〜「ジャイアンツ・長嶋茂雄」論〜 せいの介
(ロバート・ホワイティング著 松井みどり訳『ニッポン野球は永久に不滅です』p14 より引用)
 何人かの評論家はこう言う――ジャイアンツ・フィーバーは、野球界にとって毒にしかならない。特にシーズン中盤の年中行事、オールスター戦がひどい。ファン投票の結果、ジャイアンツのプレーヤーが大半を占めてしまう。能力的には申し分なくても、他チームというだけで無視されるのだ。
 しかし、ほとんどのファンはそんな批判もどこ吹く風。近所のトンカツ屋のマスターに言わせればこうである。
「そんなことはどうだっていいんですよ。だって日本には本当のプロ野球ファンなんていないんですから。ジャイアンツ・ファンか、アンチ・ジャイアンツか、そのどっちかなんです」
(引用おわり)

 ちなみに、私はアンチ・ジャイアンツである。本当に、マスターの言う通りである。トンカツ屋のマスターの、この最後の一言は、卓見である。ずばり、寸分の狂いなく、心の臓を突いている。

私は、ジャイアンツ・ファンであることを批判しているのではない。ジャイアンツ・ファン一人一人に対して「お前は土人だ」と言うような馬鹿なことはしない。私は、このジャイアンツ・ファンを生み出した「世間」を批判する。野球ファンの半分がジャイアンツ・ファンという状況は、やはり奇異である。アメリカでも、ヤンキースのような人気球団と、エクスポズ(カナダに本拠地)のような人気イマイチ球団というような格差は、ある。しかし、日本のように、半分がジャイアンツ・ファンなんてことは、ない。

(ロバート・ホワイティング著 松井みどり訳『ニッポン野球は永久に不滅です』p13 より引用)
アメリカのファンのひいきチームは、てんでばらばら。どのチームを選ぶかは、とりも直さず個性の表現だからだ。反対に、文藝春秋のある編集者が言うように、
「日本人というのは目立つのが好きじゃないんです。みんなと同じようでありたいと思ってる。ジャイアンツを応援するのはごく当然のことなんですよ。なにしろまわりがみんなジャイアンツ・ファンですから」
 横柄な口調で次のように言ってのける管理職もいる。
「ジャイアンツ・ファンじゃない人間は、日本社会では地位が低いのじゃよ」
(引用おわり)

 ただし、大阪では少し事情が違う。大阪では、上の引用文における「ジャイアンツ」が、「タイガース」に入れ替わる。タイガース・ファンじゃない人間は、大阪社会では地位が低いのじゃよ。私が小学生の頃、遊びと言えば野球だった(今の小学生は、野球には見向きもせず、専ら蹴球らしい)。そして、タイガースは優勝してしまった。あの頃、朝のニューズは、「また勝った」「優勝」とか、そんな感じで、タイガース一色だった(黄と黒だから二色?)のを鮮明に覚えている。昨年、バファローズが優勝しても、大阪は平穏だった。タイガースが優勝するのと、バファローズが優勝するのとでは、経済効果が10倍くらい違うらしい。だから、経済の地盤沈下に悩む大阪人は、タイガースに優勝してもらいたいそうだ。大阪人よ、お前ら自身に問題があるんじゃねーの?(ちなみに私も大阪人。大阪府民という意味で)
「阪神は、兵庫の球団だ。南海ホークス亡き今、大阪の球団は、近鉄だけだ」と、どれだけ言っても、状況は一向に変わらない。

 それくらいに、大阪ではタイガースが強い(野球は弱いが)。ある級友は、ジャイアンツ・ファンであることを隠し通していたが、5,6年生の頃、とうとうバレた。いじめられるようなことはなかったが、よく、からかわれていた。大阪では、タイガース・ファンか、それよりは少ないがジャイアンツ・ファンしかいない。昔、たまーに、こんな質問をされた。
「プロ野球どこのファン?」
私は、当然、
「近鉄」
と答えた。すると、5秒の沈黙が、ほぼ確実に訪れた。

彼らは、私に対して「阪神」という回答を期待しているのである。そして、その後で、「今度優勝するのいつかなあ」とか、「バース帰ってきてくれへんかなあ」とか、そんな会話をする用意を既にしているのだ。もしくは、「巨人」という回答(20〜30%?)に対して、「この裏切り者。それでも大阪人か!」という切り返しをも、用意しているのである。この二つで十分なのだ。なぜなら、それ以外の回答は、存在しないから。だから、彼らは、「近鉄」という答えが返ってきた時には、何が起こったのか理解できなかったのである。それが、5秒の沈黙の正体である。

しかし、本当なら、大阪南部において、もっとも期待される回答は、「南海」か「近鉄」のはずなのだ。私の住んでいた堺市は、南海電車が文字通り縦断していて、「南海」なしには、生活できないほどである(大げさか)。または、隣接する、松原市や大阪市を走る「近鉄」だろう。本来なら、堺における正統なる回答は、一番目が「南海」であり、二番目が「近鉄」、三番目が「阪神」か「阪急」だろう。しかし、「世間」は、その常識を覆す。なぜなら、まわりがみんなタイガース・ファンだから。

(阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p76より引用)
 日本の個人は世間というものの中にあるのです。だから日本人は自分の個を全面的に発揮することができなくて、世間に合わせようとします。会社の中で自分の仕事を必ずしも好きなようにできなくても、全体に調和させながらやっていこうとする。自分の好みや希望と、まわりの関係を調整しながら生きているわけです。それが日本の個です。
<略>
 そういう意味で、日本の個というものは、世間、つまり自分がいる会社や組織などの全体の動向に合わせることによって成り立っています。そこから飛び出していって、自分一人で何かをやろうという人は少ない。まわりから目立たないようにして、まわりに合わせていくという生き方が日本的個の在り方です。まわりが世間だったら世間に合わせる。だから日本人は独創的な仕事はできないとかユーモアもないと言われるのです。
 ユーモアというのは、自分を取り巻いている先輩や集団に反抗する精神です。反抗しながら、反抗している自分を外から見ている姿を描くのがユーモアです。だから日本の個人でユーモアがあって、しかも理想を語る人は、本当に一人で暮らしています。しかし、世間を意識しないで暮らしている人は社会的には恵まれない。収入も少ないだろうし、世間からはみだしたら、生きていないようになっているのです。
(引用おわり)

(爆笑)。私は、この引用を、このサイトを訪れる人々に捧げたいと思う。

 それでは、ジャイアンツとは、一体、何なんだ。プロ野球ファンの半分が、このファンであると噂されるジャイアンツとは、一体、何なんだ。簡単に言えば、上に挙げた、大阪におけるタイガースが、日本におけるジャイアンツだ。大阪がタイガースに頼ることによって自らの首を絞めているのと同様、日本(野球界だけじゃないゾ)はジャイアンツに頼ることによって自らの首を絞めている。もうそろそろ気づいたらどうか。

北海道のロッジの親爺も、京都の旅館の厨房で働く親爺も、鹿児島の小さな離島の漁師の親爺も、みんなジャイアンツ・ファンだった。彼らは皆、ナイターが始まるとテレビの前に陣取った。そして、ジャイアンツが負けると、一様に不貞寝した。日本全国に、このような親爺が、数百万人いるのではないか。

 長嶋茂雄は、支持率の落ちない、歴代最強の総理大臣である。他球団から金で集めた、主砲とエースで、優勝して当然の戦力を有するジャイアンツを、彼は率いる。それで優勝できなくても、絶対に支持率は落ちない。小泉総理も長嶋に弟子入りしたらよかったのではないか。

 副島先生が、どこかで、このように書いておられた(と記憶する)。「日本の本当の総理大臣は、長嶋茂雄じゃないのか」と。戦後日本は、政治や国防から目を背けるために、経済と文化(スポーツ・芸能)が異常に膨れ上がった。象徴的に言えば、堺屋太一・長嶋茂雄・石原裕次郎に熱狂することによって、「日本はアメリカの属国である」という事実への直視を、避け続けてきたのである。元々「世間」であった日本社会が、戦後、アメリカの属国と化した。ジャイアンツとは、「世間」日本と「属国」日本とが交配することよって生み出されたモンスターであり、その頂点に立つのが長嶋茂雄である。リヴァイアサンよりも恐ろしい。

高度経済成長時代の堺屋太一や、選手時代の長嶋茂雄の業績は、私も認める。しかし、経企庁長官としての堺屋、野球監督としての長嶋は、能力が足りなかった。そして、何より、そのことに目をつぶって、彼らに身を委ね続ける日本人はいけない。きっちりと、能力で判定しなければならない。だから、日本人は、堺屋と長嶋から脱却せねばならない時期にきているのである。

それでは、石原裕次郎は、どうなのか。私は、石原裕次郎について何も知らない。俳優としての彼が、どれほどの実力の持ち主だったのか、は全くわからない。だから、彼自身を、上述の堺屋・長嶋と一緒に扱うようなことはしない。では、彼は無罪放免なのか、というと、そうもいかない。なぜなら、「裕次郎の兄です」と言い放った瞬間に、東京都知事選における、石原慎太郎の勝利が決まったからである。

私は、日本人は、今こそ、彼らから離れねばならない、と考えている。石原裕次郎は、既に死んだ。だから、彼は永遠に生き続けるだろう。日本人は、彼らが存命の内に、長嶋と堺屋から脱却しなければならない。

(つづく)

次回は、「世間」の三面等価、です。

2002/04/01(Mon) No.01

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