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プロ野球を通した日本社会論 9 〜野茂とイチローが出ていった本当の理由〜 | せいの介 |
私は、野茂もイチローも(伊良部も吉井も新庄もみんな)、アメリカに行って良かったと思う。「ドジャースの野茂」「マリナーズのイチロー」であると同時に、ベースボール(アメリカ)の英雄・ヒーローとして認められているからだ。彼らは、あのまま日本でプレイし続けたとしても、野茂は、近鉄の英雄(ここでは「ひでお」でなく「えいゆう」と読む)でしかなく、イチローは、神戸のヒーローでしかなかっただろう。たとえ、奪三振や最多勝、打率や盗塁数で、どんなに素晴らしい記録を打ち立てたとしてもだ。 野球選手にとって本当にうれしいこととは何か? 年棒の増額か? 五億くらいもらったら満足するのか? それでも足りないのか? 違う、金(ゼニ)でない。新庄や小宮山が、それを証明した。新庄は、阪神の引きとめを断って、最低年棒でメジャーへ行った。 では、タイトルか? 奪三振王とか、首位打者とか、三冠王とか、そんなタイトルを獲得するのが一番うれしいのか? いや、そうではない。偉大なる記録を残した、野茂もイチローもローズも、自分の成績より、チームが勝つことの方が大事だと言明している。 そうか! 分かった。野球選手にとって一番うれしい、至上の悦びとは、優勝することだ。みんな「ビールかけしたい」って言ってるもんな。来期の年棒も上がるし。そうだろ? それが答えだろ?まあまあいい線いっている。しかし、残念だが、それも違う。 もう、いいだろう。答え。プロ野球選手にとって、本当にうれしいこととは、超満員のスタジアムでプレイすることである。その観客たちのレベルが高ければ、なおよろしい。中には、「いや、オレはゼニの方が大事や」という選手もいるだろうが。そして、この、超満員のスタジアム(球場でもいい)でプレイしたい、という願望は、超一流の選手ほど強いのだ。マズローを持ち出すまでもなく。野茂やイチローは、ホンモノの選手だから、当然に、この通りである。これは、他のスポーツのプロ選手にとっても同様だろう。 ここで、補足。私が使用する、「一流」と「超一流」の違いについて。一流とは、世界水準以上の選手である。超一流とは、世界水準以上であり、かつ、野球(ベースボール)に革新(イノベーション)をもたらす選手である。今回のタイトルに、野茂とイチローだけを使ったのは、彼らが超一流の選手だからである。エコヒイキしているのではない。他の、メジャーでプレイしている日本人選手は、一流であるが、超一流ではない。この「一流」と「超一流」の違いは、他の分野にも適用可能である。「副島隆彦=アインシュタイン論」では、学者や言論人に適用した。 (野茂英雄『僕のトルネード戦記』p69〜72より引用) 日本国民は、野茂やイチローといった超一流のプロ野球選手を、満員のスタジアムでプレイさせてあげられなかった時点で、彼らに対してとやかく言う権利は失ったのだ。だから、アメリカにまで追いかけ回すのは、もう止めなさい。未練たらしいことも、もう口にするな。日本にいた時に、正当な評価をしていた極一部のマスコミ関係者だけが、アメリカにまで追跡する権利をもつ、と私は思う。野茂もイチローも、このことをよく分かっている。だから、二人とも、日本のマスコミが大嫌いなのだ。日本のマスコミ関係者は、今ごろになって、国民の知る権利だとかを振りかざして、プライバシーを侵害してまで、彼らを追いかけ回す。そもそも、日本に「個人」は成立していないのだから、「自由」「人権」「平等」などの基本的な概念を理解できない。プライバシーの概念も存在しない。 私が、彼らを代弁する。彼らが、日本人に対して本当に言いたいのは、こういうことだ(ただし、発言内容や口調については、私が責任をもつ)。
これからは欧米基準で日本の企業や商品、そして個人に対しても、格付けがどんどんなされていくことになる。さて、あなた自身は、自分を格付けしたことがあるだろうか?たとえばプロ野球で「格付け」を考えてみると? 会社や人間の格付け(レイティング)というのは、客観的な世の中が行なう評価なのであって、政府やお上が行なうものではない。アメリカ人はテニスやバスケット、ゴルフといったプロのスポーツ選手などに対しても、公正な点数(ポイント)制にして、細かく成績表をつけている。これも格付けの一種である。 野球選手やフットボール選手に対しても同様である。すばらしい球を投げたり打ったり、豪快なシュートを決めたとなると、4点とか6点といった具合に厳格に点数づけをする。それによって、その人物の業界における能力評価がランクづけられてはっきりと決められるのである。あるいは「獲得賞金ランキング」となって、その年1年間のその選手の能力の金額評価まで行なう。 <略> そうした格付け社会であるアメリカのプロ野球界に、野茂や佐々木、イチロー、新庄などの日本人選手が飛び込んでいった。イチローが在籍するシアトル・マリナーズには、昨年までアレックス・ロドリゲス遊撃手というスーパースターがいた。そのロドリゲスは、イチロー入団前にテキサス・レンジャーズに移籍した。年俸は、大リーグ史上最高の10年契約で約2億5000万ドル(1ドル120円換算で300億円)である。一方で、新庄は大リーグ最低保障のたったの20万ドル(2400万円)である。はじめはこんなに安い契約金でもいいからと、大リーグ行きを選んだのである。 彼らはなぜアメリカに流れ出していったのか。それは日本の各球団が、まだまだ個人の能力を冷酷に正しく評価していないという不満が、彼らの気持ちの根底にあった。日本の野球は、プロといえどもチームワークが強調される。チームワークリーダーといって、チーム全体を率い、他の能力の劣る選手たちの面倒までそれとなく見ることを要求される。そんな日本野球を嫌い、自分の能力の全面開花を求め、そして最終的にはそれに対する正当なる金銭的評価を、つまり大きな報酬を期待してアメリカへ行ったのである。 アメリカには人間関係のベタベタしたものを排除しようとする合理的な精神がある。そこには妙なしがらみがないし、感情的な個人的な好き嫌いではものごとを決めない世界である。その代わりに、個人の業績評価は冷酷なまでに数字で表わされる。イチローたちはそれを求めたのである。 (引用おわり)
この観客の質(観る目)という問題は、日本人の中にも気づいている人は、結構いる。ただし、このことは、スポーツジャーナリズムにおいて、決して表には出ない。匂わせるような記述もダメだ。「みんなメジャーに行きたがるのは、メジャーの観客の方が目が肥えているからではないだろうか」というような、素朴な問いかけもしてはならない。私が、スポーツジャーナリストだったら、絶対にこんなことは書かない。書けない。書いたとしても、デスクを通らない。下手すると首が飛ぶ。 「大切なお客様を批判してはいけない」――これは、言論商売(特に大衆を相手とする場合)の鉄則である。この点、副島系サイトが特殊(異常?)なのである。だから、副島本は、真剣に「世の中」を考える上層国民にしか売れない。 「メジャー流出問題」は、球団経営者(オーナー)、首脳陣(監督コーチ)、マスコミ、観客の、四方向すべてから観察すべきなのだ。しかし、ほとんど誰も観客の質という問題に真正面から向き合わない。このことを少しでも書いていない「流出・比較本」を私は認めない。だから、日本人の書いたやつは、みんな、ほとんど読むに値しない。 野茂やイチローは、「世間」が嫌で、「社会」へ出ていったのだ。「世間」では、みな、まわりの目を気にする。このような社会(「世間」)では、野茂がトルネードを、イチローがレーザービームを、演せても見向きもされないのである。それよりも、みんなジャイアンツのベンチに座っている監督の方を見たいらしい。それじゃあ、ジャイアンツは磐石かというと、そうでもない。ジャイアンツの選手も満足していないだろう。このような「世間」で人気を集めても、本当は何の意味もないのだ。真に賢明ならば、ジャイアンツの選手も気づいているだろう。 (つづく) 次回は、ジャイアンツ論、です。
2002/03/30(Sat) No.01
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プロ野球を通した日本社会論 番外編 〜「個人」と「社会」の補足 | せいの介 |
「個人」と「社会」について、いろいろ書き漏れ等があったので、簡潔に書いておく。 まずは書き忘れ。欧米が中世を無視・暗黒視するのは、中世を否定して近代に入ったとしているから。だから、欧米における中世の評価は、公平で客観的とは言いがたいと思う。案外、われわれアジアの土人の方が、本当のところを暴けるのではないだろうか。実はイスラムから大きな影響を受けて近代学問が成立した、ということに、彼らは触れられたくないのだろう。 それから、なぜ欧米では、「個人」が成立しているのに、社会がバラバラにならないのか。
この世で最も偉大なことは、いかにすれば自分自身でありうるかを知ることである。人は誰しも自分の前方に目をやる。しかし私は私自身の内側を見る。私は自分以外のものに関心を持たない。絶えず自分自身を省みる。私が命じ意に従わせるのは私自身である。私は私自身を吟味する。――幾分かは社会に負うところもあるが、大部分は自分自身に負っているのである。他者に自分を貸すことも必要である。しかし自分を与えるのは自分自身のみであるべきだ。[Montaigne,Essais(1580)、邦訳はモンテーニュ『エセー』岩波文庫ほか] こんな奴らばっかりだったら、集団生活なんて営めそうにない。最近いろいろ調べていて分かったのだが、「個人」と「社会」(欧米社会)を結ぶ絆は、どうやら「信仰」らしい。キリスト教は、もともと「集団の信仰」だったのが、「個人」の成立と平行して「個人の信仰」に移行していった。後のプロテスタントなど、その最終完成品だろう。「信仰」とは、もちろん、キリスト教の信仰である。これがあるから、バラバラにならず、社会を形成できる。だから、フランス革命やマルクス・レーニン主義というのは、「社会」(キリスト教社会)にとっては、死の宣告である。 これに簡単にひっかかった東方正教会社会は、もしかすると「個人」が成立していなかったのかもしれない。 (小室直樹『日本人のための宗教原論』p90〜91より引用) 「内面」が生まれたから、「個人」が生まれた。「罪」意識が生まれたから、「内面」が生まれた。つまり、 罪 → 内面 → 「個人」 原罪(罪)思想のない東方キリスト教社会からは、西方キリスト教社会が生み出した「個人」は生まれない。東方キリスト教社会は「社会」なのか。もしかすると「世間」ではないのか。だから、もしかすると、東方正教会社会は、第二段階なのかもしれない。
それでは、三段階進化論を用いて、現在の人類社会を四段階に分類してみよう。 1、多神教・「世間」・前近代 東アジア(日本も!)、東南アジア、インド、アフリカ (引用おわり)
はて、チリって、カトリックじゃなかったっけ? ということは、南米のカトリック社会は、第二段階か? それから、全体主義にひっかかったフランス・ドイツ・イタリア・スペインなどは、「個人」の成立が未熟だったのかもしれない。 最後に、副島先生の、「社会」「世間」に関する記述を引用しておく。 (山口宏・副島隆彦『法律学の正体』p177より引用) 次回は、「野茂とイチローが出ていった本当の理由」です。
2002/03/28(Thr) No.01
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プロ野球を通した日本社会論 8 〜近代の三面等価による『日出づる国の「奴隷野球」』分析〜 | せいの介 |
では、『日出づる国の「奴隷野球」』の分析をしていく。 (ロバート・ホワイティング『日出づる国の「奴隷野球」』p9より引用) (上掲 p12より引用) (上掲 p13より引用) (上掲 p34〜35より引用) 日本は、もちろん、前近代国家である。これは、散々説明してきた。そして、阿部謹也の「世間論」を用いれば、日本社会は、「社会」でなく「世間」である。だから、その中のプロ野球という社会も、当然に前近代であり、「世間」なのだ。 (『日出づる国の「奴隷野球」』p203より引用) 長嶋や、後述する村上のように、「メジャーに行きたい、プレイしたい」という流れは昔からあった。しかし、それを抑えこんでいたのである。ところが、90年代に抑えきれなくなった。日本の農業・金融業と同じく、これまで保護されてきた産業が、突如として、外国との競争にさらされるようになった。人間の欲望に国境はない。こうして、ベースボールと野球の間に、摩擦が発生し始めたのだ。 「社会」や近代社会と直接の競争にさらされない限り、自分たちの社会が「世間」であり前近代であることは、何も問題はない。もちろん、一部の変わり者(目的合理的な人、個人主義的な人)はストレスがたまるだろうが、社会全体としては、不都合はない。しかし、「社会」や近代社会を背景とした社会が競争相手として出現すると、そうはいかない。「社会」や近代社会の方が強いからだ。だから、「世間」前近代側は、「社会」近代側の諸制度を導入せざるをえない。しかし、それらは、西欧において、千年の歴史をかけて熟成されて来たものだ。それを、真似することなど、表面だけは出来ても、中身までは出来ないのだ。日本が明治以降に辿った歴史が見事に立証している。そして、ここ十年の、メジャーリーグと野球の関係も、まさに、その通りであった。プロ野球界が前近代であること、日本が前近代であることを証明してくれた。以下、このことを、『日出づる国の「奴隷野球」』を分析することにより、考察する。まずは、フリーエージェント制について。 (『日出づる国の「奴隷野球」』 p14より引用) メジャーリーグにおけるフリーエージェント獲得までの歴史は、1970年のカート・フラッドを嚆矢とする。訴えは最高裁判所で却下され、彼は二度と復活することはなかった。しかし、それに続く選手たちが出現し、ようやく、この制度を勝ち取っていったのだ。言ってみれば、これは、デモクラシーの要求である。 (『日出づる国の「奴隷野球」』 P29より引用) (上掲 P30〜p31より引用) (上掲 p93〜94より引用) 日本プロ野球界において、フリーエージェント制は、93年に導入された。それまでは、ずっと、こういった動きを弾圧してきた渡辺氏が、実はジャイアンツにとって都合がいいことに気づき、導入したのである。マッカーサーによって、戦後日本に突如として出現したデモクラシーのようなものだ。私も、ホワイティングが言うように「人権闘争の歴史からみて、大きな成果であろうはずがない」と思う。人気と札束で誘惑し、他球団の主砲を集めに集めた。これで、プロ野球は、一段と、おもしろくなくなった。 近代の三面等価とは、「近代(憲)法 = 資本主義 = (リベラル)デモクラシー」ということだ。これらの三つが成立している社会を近代社会という。これらを理解している人から上を近代人という。では次に、メジャーリーグとプロ野球の、法に対する認識の違いについて。 (『日出づる国の「奴隷野球」』p107〜109より引用) これでも近代国家と呼べるのか。万死に値する日本コミッショナー事務局・ホークスフロントの罪。(ん?どっかで見たぞ、そのセリフ)そして、説明するまでもないかもしれないが、メジャーリーグは、資本主義的である。 (野茂英雄『僕のトルネード戦記』p130〜131より引用) これが、メジャーだ。では、プロ野球はどうか。 (『日出づる国の「奴隷野球」』 p200〜201より引用) 実は、ジャイアンツ以外の球団のオーナーや選手が、大のジャイアンツ・ファンだったりするのである。だから、日本のプロ野球は、全く、おもしろみがない。 (『日出づる国の「奴隷野球」』 p24より引用) メジャーリーグは、それ自体がビジネスである。日本のプロ野球球団は、親会社の宣伝媒体にしか過ぎないから、あまり経営努力をしない。メジャーリーグにおける年棒の高騰問題は深刻で、数百億円という累積赤字を抱えている球団も存在する。なぜそれでやっていけるのか、というと、チームを売却すれば、それ以上の値段で売れるからだ。ドジャースなど、昨年だけで80億円もの赤字を出している。つまり、メジャーの球団は、それ自体がバブルなのである。バブルは、資本主義の申し子である。いい意味でも悪い意味でも資本主義的である。駄目押しにもうひとつ引用。 (『日出づる国の「奴隷野球」』p224より引用) 日本人は、ジャッジの何たるか、を分かっていない。当然、審判の何たるか、も分かっていない。こんなものでよかろう。これで、メジャーリーグが近代であり、プロ野球が前近代であることが、証明出来たと思う。この『日出づる国の「奴隷野球」』には、他にも例がたくさん出てくるので、本腰を入れて分析すると、もっと面白いと思う。 (つづく)
2002/03/22(Fri) No.01
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プロ野球を通した日本社会論 7 〜「近代人」野茂英雄の闘い(下)〜 | せいの介 |
(ロバート・ホワイティング『日出づる国の「奴隷野球」』p61より引用) しつこいようだが、何度でも言わせてもらおう。多人種で比較的オープンな国、アメリカは、個々の違いを大切にする。それに対して、”単一民族国家”を自認する日本は、”ほかのみんなと同じ”になるために、いまだに過剰なエネルギーを費やすようだ。 われわれはみな、それぞれ異なった才能を持って生まれてくる。どの国に生まれようと、そのことに変わりはない。 アメリカ人は、持って生まれた才能をできるだけ伸ばそうと努力するのが、個人の義務だと考える。それにひきかえ日本人は、能力の違いなど無視して全員を平等に扱うのが、社会の義務だと考える傾向がある。革新的な若い世代が、いくら激しく抗議しても無駄らしい。 <中略> ”厳密な順応性”が日本の特徴である以上、従来のやり方を変えるためには、よく言われるように、どうしてもガイアツ(外圧)が必要になってくる。 <中略> この風潮と闘うためには、たしかに筋金入りの外圧が必要だろう。 そこへ登場したのが、団野村である。 (引用おわり) こうして、野茂は、次第にプロ野球(日本社会)に見切りをつけ、メジャーに目を向け始め、団野村と会うようになる。近鉄球団とは、メジャー移籍問題でもめにもめ、野茂と団の二人は、世間からバッシングを受けるようになる。 (『日出づる国の「奴隷野球」』p46〜47より引用) (上掲 p48〜p50より引用) 驚くほどの豹変ぶりである。日本社会が「世間」だから、このような興味深い現象が起こるのだ。日本はアメリカの属国だから、アメリカでの評価に弱いのである。だから、日本人たちは、メジャーで活躍して大きな評価を受けた野茂やイチローに、一撃でKOされたのである。もうひとつ興味深い類例を挙げておこう。これは笑えた。 (『日出づる国の「奴隷野球」』 p95〜96より引用) 野村沙知代氏の口から「世間体」という言葉が出たとは、ありがたい。これで説明が省ける。これが「世間」というものだ。では、野茂自身は、これら一連の騒動を、どのように受け止めていたのだろうか。 (『僕のトルネード戦記』p156より引用) よく言った。よくぞ言ってくださった。だから、 団野村 = 野茂 = イチロー = 副島隆彦(=弟子の私) なのである。私は、団野村らの闘いを支持する。当然だろう。そして、野茂は日本に凱旋する。 (『日出づる国の「奴隷野球」』 p52〜53より引用) 彼らは近代人であった。団野村は、市場原理を理解しているから、当然にこのような行動を取る。しかし、土人には嫌がられるのである。 (つづく)
2002/03/20(Wed) No.01
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プロ野球を通した日本社会論 6 〜「近代人」野茂英雄の闘い(上)〜 | せいの介 |
まず、野茂についての記述。 (ロバート・ホワイティング『日出づる国の「奴隷野球」』 p37〜40より引用) 次に、野茂自身に、自分と、日米の社会の違い(つまり「世間」と「社会」の違い)を語ってもらおう。 (野茂英雄『僕のトルネード戦記』 p55より引用) (上掲 p124より引用) (上掲 p142より引用) ここで、鈴木啓示氏の名誉のために言っておくが、私は彼の人格を傷つけようとして、ここで引用したのではない。鈴木啓示といえば、引用でも書いてある通り、近鉄バファローズが生んだ大投手だ。70年代の弱小だったチームを支え続けたエースで、被本塁打の日本記録か世界記録かを持っている。そのことを、「眉間の傷」とか何とか誇らしげに語るあたりも立派だ。私は、牛党(近鉄ファン)として、鈴木啓示を尊敬している。ここで、鈴木氏に登場していただいたのは、彼こそが典型的な日本人だからだ。「世間論」を用いてプロ野球を分析するに当り、野茂英雄と鈴木啓示の対立ほど絶好なサンプルはないのである。だから、ここでは鈴木氏が悪役のように見えてしまうが、そうではないのだということを理解しておいていただきたい。 さて、上で、野茂と団野村が実際に体験した、日米のトレーニングに対する認識の違いを紹介した。この通りなのである。最近は変わったのかどうか知らないが、本質は変わっていないだろう。これは、「社会」と「世間」の違いによるものでなく、「近代」と「前近代」の違いによるものである。つまり、プロ野球界は伝統主義的行動。野茂や団野村がとったのは、目的合理的行動。水と油ほどに違う。合い入れないのだ。 (『日出づる国の「奴隷野球」』p35より引用) それから、二つ前の引用にある、コーチの「問題だけは起こさないでくれ」発言は実に興味深い。これは、「世間論」で説明がつくだろう。 (『僕のトルネード戦記』p33より引用) 野茂は、目的合理的行動を取れるのである。つまり近代人なのだ(厳密には近代人的と言うべきだが)。そして、もちろん、個人主義を理解している。こういった人間は、日本社会(「世間」)では浮くのである。私も、この一種だから、よく分かる。特に、典型的日本人とは、対立せざるをえないのだ。 (『僕のトルネード戦記』p76〜77より引用) (上掲 p123〜126より引用) (上掲 p25〜29より引用) 野茂が入団した当時の近鉄の監督は仰木彬氏である。私は、日本球界史上最高の名将は仰木監督だと思う。ただし、私がライブ(生)で知る範囲のことだが。昨年、仰木監督が勇退したが、世間は「長嶋」やら「ミスター」やら騒いでいる。一体、監督としての長嶋氏が、どれほどの能力を発揮したというのか。引退するだけで、あれほど世間を大騒ぎ 閑話休題。仰木監督のように、目的合理的行動とは何たるかを理解して、個人を尊重する監督も中にはいる。野茂は幸運だった。しかし、交代した、伝統主義的な鈴木監督とは合わなかったのである。 (つづく)
2002/03/17(Sun) No.01
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プロ野球を通した日本社会論 5 〜「社会」のベースボール と「世間」の野球 〜 | せいの介 |
(ロバート・ホワイティング著 松井みどり訳『ニッポン野球は永久に不滅です』p15 より引用) 有名な歴史家のジャック・バーンズは、いみじくもこう言った。 「アメリカの心を知りたいと思ったら、野球を研究してみることだ」 ああ!彼が日本に来てくれればよかったのに。 (引用おわり) 日本は、もちろん、前近代国家であるから、日本社会に属するプロ野球界も当然に前近代である。そして、米国は近代国家であるから、メジャーリーグは近代である。さらに、日本は「世間」である。
日本の野球選手が、メジャーに行こうとすると、マスコミは騒ぐ。 (野茂英雄『僕のトルネード戦記』p25より引用) 逆にプロ野球がメジャーリーグに劣っていないと考えている人は、野茂やイチローのような、メジャーでスーパースターになるような選手が日本でプレイしていた時に、きちんと評価し、相応の待遇をするべきだった。私は、当時の日本のマスコミや国民の、彼らに対する扱いは、極めて失礼だったと思う。野茂もイチローも、メジャーに行ってから、突然に魅力的なプレイをするようになったわけではなかろうに。日本にいたときから、彼らは既に、世界水準だったのである。しかし、世間はほとんど見向きもしなかった。 (ロバート・ホワイティング著 松井みどり訳『日出づる国の「奴隷野球」』p50より引用) (上掲 p201より引用) これだけは、先に言っておくが、近鉄バッファローズなどという球団は存在しない。近鉄バファローズなら、私は知っているが。翻訳者の松井みどりという人は、あまり野球を観ない人なのだろう。この本を、バッファローズで通しきっている。しかし、文藝春秋には、校正をする人がいないのだろうか。校正をも逃れて、本当に誰もこの間違いに気づかなかったのだとしたら、私は、こう言ってやろうと思う。 一九八九年に近鉄バファローズは、プロ野球史に残る激闘を突破してパリーグを制覇した。前年にも野球史に刻み込まれる、あのダブルヘッダーを演せている。その近鉄バファローズが、野茂を加えても、全国ネットでは五回しか登場しなかったのだ。90年初期の近鉄は、野茂、阿波野、吉井、ブライアント、石井、その他、魅力的な選手で溢れかえっており、いつでも優勝できる戦力が整っていた。それにもかかわらずである。当時、大阪に住んでいた私は、よく知っているが、大阪でも近鉄の試合中継など、土日曜の昼ぐらいなもんだった。近鉄バファローズが、どんなに素晴らしい、メジャーリーグに比肩する野球をしても、あいもかわらず、世間(関西の世間)は、やれ、阪神がどうの、タイガースがどうの、だ。あのチマチマした野球のどこがおもしろいのか。誰か教えてほしい(でも、今年は強そう)。 イチローに対する待遇も同様である。私は、日本国民の取っている行動は、矛盾していると思う。メジャーリーグの方がレベルが高いと思うなら、野茂やイチローにも、好きにさせてやれ。止める権利はないだろう。メジャーとプロ野球が同等と思うなら、日本にいた時と、アメリカに行った後の待遇を同様にせよ。野茂とイチローは、日本にいた時に冷遇されていたのだから、わざわざアメリカまで大挙して押しかけるな。同等と思うなら、そのような結論しか出ないだろう。 前置はこれくらいにして、阿部謹也「世間論」を用いて、『日出づる国の「奴隷野球」』を分析していこう。この本は、数多く出版されている、プロ野球とメジャーリーグの比較・流出本の中でも、私のお気に入りで、お薦めでもある。大部分の比較・流出本は、私の採点によれば、落第である。及第点に達しているのは、2割くらいだろう。個人主義や近代という問題にまで行きついていない比較・流出本は、私に言わせれば駄作である。だから、日本人の書いた本は、駄作か、せいぜい凡作である。こんなこと書いていいのかなあ。この『日出づる国の「奴隷野球」』は、ロバート・ホワイティングというアメリカ人が書いた本だ。
ロバート・ホワイティングの書いた『東京アンダーワールド』(角川書店)と言う本が去年ベストセラーになった。あの程度の内容で、どうしてそんなに驚くのか。何も秘密暴露などまったく書かれていないではないか。どこが衝撃的なのか。日本の読書知識人層は、文学評論崩れが大半だから、ああいう文学を気取った本が、政治的なにおいを発すると、 一体何があの本のどこの記述が危ない、というのか。全くきれいさっぱり除菌されたふざけた本だ。主人公のニコラという退役イタリア系アメリカ人のキャバレーとピザ屋経営の実業家を実際に知っている日本人はたくさんいる。私の友人にもいる。彼がマフイア系統の人間だと言う事は誰でも知っている。それが日本のやくざ者の悪口を散々書いている。 軽度の情報開示を日本人向けにやれ、ということだ。何十年もたったから、ワシントンで外交機密文書が次々に公開されて、売りに出されるから、それらを使って、一番危ない非公開情報以外は、馬鹿な日本人記者どもに、手なずけ料としてくれてやれ、ということで、日本国内で、それとなく公開される。みんな除菌し尽くした果ての無害なものばかりだ。力道山が殺される現場にいたニコラのそばに、CIAの職員がいた、と書いただけで、あとは、やくざ者同士の争い、ということで、ちゃんと、隠蔽して書いているではないか。ロバート・ホワイティングと言うのは本当に、ふざけた野郎だ。どうせこいつの書いている日本野球論や相撲論を読んで何かを理解できる近代日本人はいないから、構わないのだが。 (引用おわり)
副島先生には申し訳ないが、こいつの書いている日本野球論を読んで何かを理解できる近代日本人は、ここにいた。私が、こいつの書いた本を徹底的に分析して、日本社会を解体する。ついでに、逆に、奴らの社会を分析・解体する。 『日出づる国の「奴隷野球」』は、サブタイトルが「憎まれた代理人・団野村の闘い」となっているように、主人公は、団野村である。まず、団野村についての記述を引用しよう。 (『日出づる国の「奴隷野球」』p5より引用) (上掲 p6より引用) (上掲 p8より引用) (上掲 p62〜66より引用) (つづく) 次回は、「近代人」野茂英雄の闘い、です。
2002/03/16(Sat) No.01
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プロ野球を通した日本社会論 4 〜近代の三段階進化論(仮説)〜 | せいの介 |
(小室直樹『日本国民に告ぐ ー 誇りなき国家は、必ず滅亡する』P145、第四章の副題より引用) ――近代国家の成立には、絶対神との契約が不可欠 (引用おわり) (上掲 P150〜152より引用) ここから先は、私の見解。ヨーロッパ近代というのは、三段階に発展してきたのだと思う。 絶対神 →「個人」→ 近代 最初の絶対神は、普通の日本人は「神」と訳している(私は、これでは日本人は絶対に理解できないと思うから、必ず「絶対神」と書くようにしている)。神、個人、近代。この三つの言葉は、今日(こんにち)の日本では、珍しいものでもない。一般人が日常会話でも使用している。だから、日本人は、これらが当たり前のように存在していると思い込んでいる。しかし! これらは、小室博士が喩えによく用いる優曇華の花(3000年に一度しか咲かない)のようなものである。普通なら、人類社会に存在しないものばかりなのである。 (小室直樹『「天皇」の原理』p33〜34より引用) 一神教は、多神教に比べて、あまりにも強すぎるので、世界中を席捲している(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)。だから、なんだか、一神教の方が当たり前であるかのような印象を受けてしまうが、そうではない。一神教は、例外中の例外で、ほとんど圧倒的多数の宗教は、多神教だったのである。絶対神とは、今から三千年以上前のメソポタミアで、奇蹟的に誕生した概念である。この地域でのみ、たった一度だけ誕生したのである。 そして、一二世紀。キリスト教の修道院の中で、「個人」が誕生した。これも、奇蹟である。普通ならば、人類社会は、すべて「世間」であり、「社会」は存在しないのである。これは、既に説明した。 更に時代は進んで……。 (副島隆彦『政治を哲学する本』p188より引用) (アラン・ド・リベラ『中世知識人の肖像』p138 より引用) (副島隆彦「今日のぼやき」[120] より引用) レイシオは、神学の側でなく、サイエンスの側に帰属する(神学とサイエンスが巨大な対立軸)。恐らく、絶対神からではなく、古代ギリシャの哲学(知の学)から、誕生したのではないか。この時代のギリシャは、多神教だから、神学とは関係ない。だから、絶対神 →「個人」→ 近代、とは別の系譜だろう。その後、長らく、哲学は神学の下女の地位に甘んじていた。だから、レイシオも、一二、三世紀まで、封印されていたのである。この辺も、神学とサイエンスという人類の巨大な対立と関係しているのではないか(この辺は、私は、まだ解明できていない。予想で書いている。副島先生の解説待ち)。 ヨーロッパ、特に、近代が誕生したヨーロッパ北部は、ずっと辺境だったのである。ゲルマンという土人が、魔術と共に、伝統主義的な毎日を送っていた。キリスト教が、この地域に入ってくるのは、六世紀のことだ。この時代は、イスラムの方が文明や学問の水準は高かった。パワーバランスが崩れるのは、一五世紀だった。レコンキスタによって、イベリア半島からイスラム勢力が駆逐されている。
ですからね。大思想家にして人類最高峰のソシアル・サイエンティストであるマックス・ウェーバー(このことについては日本人学者たちの間にも異論なし)が、あれほど、「近代資本主義は、この地域でのみ成立したのである」と、書きつづけたのです。日本は当然、「この地域」には、入りません。 「この地域」とは、オランダを中心にして北ドイツと、北フランスと、イギリスです。。 (引用おわり)
三度咲いた優曇華の花は、人類社会における三度の突然変異である。それが、なぜ、世界を支配するに至ったのか。私は、ダーウィンの進化論は支持しないが、この場合は、これを使うと見事に説明できる。ダーウィン進化論とは、生物の進化を、突然変異と自然淘汰(適者生存)とで説明する、考え方である。つまり、突然変異で生まれた、周りの仲間よりも首の長い個体は、他の個体よりも食べ物が得やすいので、この個体の子孫が増加し、キリンになっていった、という考え方である。19世紀に、ヨーロッパによる植民地拡大の正当化にも使われた。 私は、それぐらいに、「個人」の誕生を重要視している。だからこそ、「個人」の位置付けが低いことに不満をもっている。欧米知識人が書いた、西洋史、思想史などを読んでいても、「個人」の誕生の評価が低すぎると思う。近代を支える、諸要件の一つとして挙げられている程度だ。日本の学者による評価などは、どうでもよい。「個人」の誕生は、絶対神と近代の誕生にも匹敵している、とまでは言えない。しかし、ここまでは、見えている。日本や他のアジア諸国が、真の近代国家を目指すのであれば、その前に、「個人」(個人概念・観念)が浸透して、「世間」が解体されてなければならない。だから、私は、アンチテーゼとして、ここまで、「個人」を重要視する。 それでは、三段階進化論を用いて、現在の人類社会を四段階に分類してみよう。 1、多神教・「世間」・前近代 東アジア(日本も!)、東南アジア、インド、アフリカ 中南米もカトリックといえば、それまでだが、ヨーロッパのカトリック社会と一緒に扱うわけにもいかない。それから、一神教の生み親、ユダヤ教徒は、どうなるのか。微妙だな。 昔は、すべての人類社会は、第一段階だった。あの日、あの時、あの場所で、ユダヤ人が絶対神を生み出すまでは。この、近代までの三段階は、関門を順番に突破していかなければ、先には進めない。「風雲たけし城」のようなものだ。だから、多神教の「社会」とか、近代の「世間」などは存在しない。日本社会は、もちろん、第一段階である。日本人は、絶対神を理解していないから、次に進みようがないのである。 現在の人類社会においては、第四段階が、最終進化形態である。どうして、そう言えるんだ。アジア社会よりヨーロッパ社会の方が先行しているなんてお前は、西洋礼賛主義者か? そのような、相対主義を背景とした質問・反論が飛んでくるかもしれない。 お答えしよう。何を以って、そう言うのか。それは、戦争の強弱である。負けたら終わりなのだ。土人は、アメリカ大陸やオーストラリアやアジアにおいて、ハンティングの標的でしかなかったのだ、ここ500年間。日本の土人も、広島・長崎で、最新式のハンティングの標的になっている。くれぐれも言っておくが、この第四段階の国家(近代国家)に、第三段階より前の国家(前近代国家)が勝ったことはない。かつてのフン族やモンゴル軍のように、アジアがヨーロッパを蹂躙することなど、遠い夢物語なのである。悔しければ、第四段階を乗り越えるしかない。欧米が、イスラムを乗り越えて、人類史上最強の社会を築いていったように。 ちなみに、副島隆彦が、よく使用する「土人」とは、どこまでが含まれるのであろうか。まさか、「個人」に向かって、土人と呼ぶわけにはいかないだろう。イスラムも、土人ではないかもしれないなあ。いずれにせよ、第一段階の日本人は、間違いなく、土人に分類されるであろう。 最後に、「個人」と関連して、阿部謹也氏は、非常に興味深い指摘をしているので、触れておく。 (阿部謹也『「まなびや」の行方』p72より引用) (阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p73より引用) (『日本人はいかに生きるべきか』p75より引用) そういうこと。私が、とやかく口をはさむ必要もない。 (『日本人はいかに生きるべきか』p149より引用) 近代学問500年の歴史は重い。重たすぎる。我々日本人は、大学や研究機関という空間の中で、本当に学問をやっているのだろうか。あの、大学教授などという肩書きをもつ人々とは、一体何者なのだろうか。 (つづく) さて、前置は終わり。長かったなあ。これから本題です。本題よりも前座のほうが、濃いかも。次回から、やっと、プロ野球の話へ。
2002/03/13(Wed) No.01
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プロ野球を通した日本社会論 3 〜「個人」から近代へ〜 | せいの介 |
今回と次回で、「近代の起こり」と、日本社会の位置について書く。 要点を先に書いておくと、絶対神 →「個人」→ 近代、こんなところ。この系譜は、西洋近代(学問)の根幹・真髄なので、私ごときが触れてはいけない部分である。 だから、この先の、プロ野球界と日本社会の分析に必要不可欠な事柄のみ、不承不承ながら書いておく。 (阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p73より引用) (『日本人はいかに生きるべきか』p75より引用) (色摩力夫・小室直樹『国家権力の解剖』p7より引用) (副島隆彦『政治を哲学する本』p278より引用) (アラン・ド・リベラ著 阿部一智・永野潤訳『中世知識人の肖像』新評論 p159 より引用)
そして、双方が更に力を増す。やがて、主権(ピラミッドの頂点)は、
個人主義は西洋文明固有の特質のひとつと喧伝されているが、ミシェル・ド・モンテーニュは個人主義のパイオニアのひとりといってよい。
この世で最も偉大なことは、いかにすれば自分自身でありうるかを知ることである。人は誰しも自分の前方に目をやる。しかし私は私自身の内側を見る。私は自分以外のものに関心を持たない。絶えず自分自身を省みる。私が命じ意に従わせるのは私自身である。私は私自身を吟味する。――幾分かは社会に負うところもあるが、大部分は自分自身に負っているのである。他者に自分を貸すことも必要である。しかし自分を与えるのは自分自身のみであるべきだ。 個人主義の源はプラトン哲学、キリスト教神学の霊魂に関する部分、および中世哲学の唯名論にもとめられる。しかしその格段の高まりはルネサンスとともに訪れた。ブルクハルトが、この時代の特徴として絢爛たる個人群像をあげているとおりである。人間存在に対する文化的関心、良心に対する宗教的関心、資本家の企業に対する経済的関心などが、すべて、個人を舞台の中央に押し出した。ロックやスピノザをはじめとする啓蒙運動が」このテーマを練りあげた成果、「個人の自由」と「人権」がヨーロッパの議論によく表われる話題として加わった。 (引用おわり)
私が、実感としてわかる、西欧近代・個人主義の態度とは、ごく最近の体験で言えば次のようなものだ。私は、奥さんに内緒で、アメリカ人の友人とお酒を飲んでいた。携帯電話がなって、「パパ。今、どこにいるの」と妻から聞かれた。そのとき、私は、咄嗟に嘘をついて、奥さんに別の場所を言った。そのことの証明として、私は、自分の友人のアメリカ人に、電話口に出てもらって、奥さんに、「そのとおり」と言ってもらおうと思った。しかし、この「友達がいのない」アメリカ人は、私の為に、すすんで口裏を合わせてくれなかった。 これが、個人主義だろう。日本人の友人同士のように、咄嗟の判断で、自分の嘘の輪のなかに、友人だからと思って、勝手に入れられることを彼らは、拒絶する。自分の意思で決めなければならない事態であるかどうかを、一瞬のうちに俊敏に見抜いて、判断する。「水臭いなあ。友達だろ。俺の利益になるように行動してくれよ。融通を利かして」というのが、欧米近代人には、通用しない。私の肩を無前提に持って、友達だから、の馴れ合いで、嘘吐きの輪の中にはいらないのだ。それが個人主義なるもののひとつの現われだ。 (引用おわり)
さて、ヨーロッパ近代は、1574年のオランダの「ライデン市の(スペイン帝国からの)解放」を、始まりとします。この年が、「近代市民社会の成立の日」と呼ばれています。そのあと、オランダ独立運動とプロテスタント革命の血なまぐさい嵐が、吹き荒れ、1648年に、ウエストファリア条約が結ばれました。これは、オランダにとっては、ミュンスター条約です。これは、「(王への)忠誠破棄宣言」とも呼ばれます。これが、(1)近代憲法典の原型ともされます。(法学) 細かくは、省きます。高校の世界史のお勉強をしているのではありませんから。じつは、この、1648年前後に、その他に、オランダで人類史上で重要な、4つの事柄が、起きています。 (2)政治体制としての「民主政体」 democracy がうまれました。デモクラシーと republic 「リパブリック、共和政体」のちがいについては、ここでは、教えません。 (政治学) (3)経済システムとしての「近代資本主義」 a modern capitalism が、このとき成立しました。「市場経済」の成立と言っても同じです。この年に、「コーヒー・ハウス」という、大商人たちの溜まり場が出来て、ここで、「株式会社」(コルポラツィオーン)ができました。共同で出資して、制限責任(リミッテド・コンパニー)の船を、東洋貿易に送り出しました。(経済学) (4)活版印刷技術も、ほんとうは、グーテンゲルグよりもはやく、オランダで始まっていました。いまでいうハイテク・エンジニーアたちであるレンズ磨き職人たちも。 (5) スピノザと、解析学の祖ライプニッツが出会っています。ホッブスが逃げてきています。ロックもルソーもデカrトも後世、ほとんどの自由思想家が、マルクスまでふくめて、オランダに逃げてきています。(近代政治思想) そのほか、いっぱいありますが、このように、(1)法学としての近代憲法体制。(2)政治学としての民主政体。(3)経済学としての近代資本主義。この3つは、じつは、同じ事の、3方向からの観察に過ぎないのです。このおおきな事実を、日本の法学者・政治学者・経済学者たち自身が知らない。 彼らが、知らないということを、私は、知っています。なぜなら、私は、『アメリカの秘密 』で書いたとおり、「私は、ここが、『猿の惑星』であると、気付いてしまった、若い猿」だからです。 (1)(2)(3)が、同じものの3方向からの観察であり、言葉がちがうだけのことだ、と知っている人から上を、「近代人」 moern man と言います。 (引用おわり)
(小室直樹『日本国民に告ぐ ー 誇りなき国家は、必ず滅亡する』p111より引用) それから、どうしても、目的合理的行動(思考)について触れておかねばならない。 (『これでも国家と呼べるのかー万死に値する大蔵・外務官僚の罪』p164より引用) これでは、なんだか、あまり分からない。伝統主義的行動と対比させれば、よく分かる。 (『日本国民に告ぐ ー 誇りなき国家は、必ず滅亡する』P126〜128より引用) ちなみに、阿部謹也氏は、『日本人はいかに生きるべきか』p98 で、「合理主義的近代 伝統主義的世間」というように対照させている。 目的合理的行動(思考=脳=言葉)というのは、「レイシオ」と関係しているから、もうムチャクチャ重要なのだ。どれくらい重大なのか、というと、目的合理的行動をとれる近代国家に、前近代国家は一度として戦争に勝ったことがないくらい重大なのだ。いまだ、たったの一度もない。負けなかった(撃退した)ことならある。しかし、勝ったことは、一度もない。近代がヨーロッパで起こってから、他の国々(前近代諸国)は、負けっぱなしの500年を送ってきたのだ。 (つづく) 次回は、「近代の三段階進化論(仮説)」です。
2002/03/12(Tue) No.03
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プロ野球を通した日本社会論 2 〜「個人」について〜 | せいの介 |
前回、書き漏れがあった。『「世間」とは何か』の著者は阿部謹也、講談社現代新書 。 今回は、「個人」について書こう。江戸時代、オランダ語の名手・高野長英は、インディヴィデュームを、このように訳した。 (阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』朝日新聞社 2001年 p88より引用) 日本人のやっている一連の行為は、厳密には「恋愛」でない。若い頃は、なんとか「恋愛」らしきことをやっている。しかし、結婚して子供が出来てしまえば、状況は一変する。子供の誕生と同時に、家族という「世間」が誕生してしまうからだ。上に書いてきたように、日本では、個人は「世間」との関係の中で生まれる。だから、子供が誕生すれば、その瞬間に、「ダーリン→パパ」「ハニー→ママ」になってしまうのである。すべては、日本では「個人」が確立していないからである。 本論文の、私の文においては、 では、「個人」が、いつ、どこで、どのようにして生まれたのか、を観ていこう。 (阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p91より引用) (阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p123より引用) (阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p209より引用) (阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p9より引用) (副島隆彦「今日のぼやき」2000.8.23 より引用) この「個人」(個人概念)とは、一二世紀に、キリスト教との関係で、中世ヨーロッパの修道院(僧院、初期の大学)の中で生まれたのだ。それを、都市の成立が、あと押ししたのである。そして、修道院の坊主(僧侶、monks、初期の学者)から、金持ちの息子たちに始めた授業を通して、「個人」(個人概念)も伝えられた。その後、「個人」は、金持ちの息子たちによって、手工業者、農民、漁民にまで(つまり社会全体に)広まっていき、「世間」は、解体していった。こういうことではないだろうか。 私は、今、しのび(情報工作員)を、中世ヨーロッパの修道院に送りこんでいる。この辺は、いろいろとおもしろいのだが、それこそ脱線では済まない重大な部分なので、また改めて書くことにする。それから、最後に、一般教養に関しての、副島隆彦の文章を引用しておく。 (副島隆彦『政治を哲学する本』p198〜199より引用) (副島隆彦『政治を哲学する本』p202〜203より引用) (つづく) これで、「個人」の解説は終わりです。次回は、「個人」から近代へ、です。
2002/03/12(Tue) No.02
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プロ野球を通した日本社会論 1 〜「社会」と「世間」〜 | せいの介 |
これを読んでいただく前に、以下の、二つの書きこみを読んでおいていただけると、話が早いです。 [1031] プロ野球を通した日本社会論+ナベツネ少々(こさじ1杯程度) 投稿者:せいの介 投稿日:2002/01/19(Sat) もちろん、読んでない人でも分かるようには書きますが。それから、本論文では、基本的に敬称は省略させていただきますので。この「プロ野球を通した日本社会論」の、引用文中の<中略>は、すべて、私・せいの介による中略です。
まずは、阿部謹也氏の「世間論」について書いておかねばならない。この「世間論」は、なかなか素晴らしい研究だ、と、私は思う。これを土台にして、他の、日本社会論そのものを、体系的に分析・研究していきたいと思っているくらいだ。山本七平『「空気」の研究』とか、浜口恵俊「間人主義」とか、こういった諸研究そのものを。この「世間論」を用いて、まず、日本のプロ野球界を分析する。その後に、日本社会を分析する。 では、「世間論」の解説から。 (『「世間」とは何か』p13〜14より引用) (上掲 p16〜17より引用) (上掲 p22より引用) (上掲 p27〜p28より引用) (p30より引用) (上掲 p175より引用) (上掲 p175〜176より引用) 要約してしまえば、以下の通り。 日本 世間→個人 世間は所与。個人は、すべて世間の中に位置を持っている、世間との関係の中で生まれている。 ここで、当然、「他の社会(中国、ロシア、南米、イスラムなどなど)はどうなんだ」という疑問が出てくると思う。ロシアや南米は、欧米に入るのか。私もそんな疑問をもった。阿部氏の他の著書でも、これらに関する記述がある。例えば、阿部氏によれば、中国には「個人」に相当する言葉さえも存在しないという。しかし、どうも体系的な研究はなされていないらしい。小室直樹氏の仕事(著書)などを分析すれば、だいたいは分類できるが、私は、まだ途中。自分の脳の中で整理のついていない事柄は、あまり書きたくないので、書かないでおく。 でも、基本的には、個人が確立していない社会が「世間」であり、キリスト教社会以外は、「世間」と判断してよいと思う。 それから、以下、本論文の私の文においては、「社会」という概念を、次のように二通りに使用するので、留意されたい。 小室・副島読者には、常識かもしれないが、 神の見えざる手 = 市場 = 疎外 = 構造 = 物神化 = 社会的事実 である。「世間」も、この一種と考えていいだろう。人間活動が生み出したにもかかわらず、人間の意志では如何ともしがたい。ただし、キリスト教社会だけは、この「疎外」(「世間」)を止揚(克服)した。 では、欧米では確立していて、日本では確立していない、「個人」とは何なのであろうか。次回は、これを考察していこう。 (つづく)
2002/03/12(Tue) No.01
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