■ここは、主に副島隆彦の弟子から成る「ぼやき漫才・研究会」のメンバーが小論を掲示し、それに師や他のメンバーが講評を加えていくところです。

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(2002/03)

プロ野球を通した日本社会論 9  〜野茂とイチローが出ていった本当の理由〜 せいの介
 私は、野茂もイチローも(伊良部も吉井も新庄もみんな)、アメリカに行って良かったと思う。「ドジャースの野茂」「マリナーズのイチロー」であると同時に、ベースボール(アメリカ)の英雄・ヒーローとして認められているからだ。彼らは、あのまま日本でプレイし続けたとしても、野茂は、近鉄の英雄(ここでは「ひでお」でなく「えいゆう」と読む)でしかなく、イチローは、神戸のヒーローでしかなかっただろう。たとえ、奪三振や最多勝、打率や盗塁数で、どんなに素晴らしい記録を打ち立てたとしてもだ。

 野球選手にとって本当にうれしいこととは何か? 年棒の増額か? 五億くらいもらったら満足するのか? それでも足りないのか? 違う、金(ゼニ)でない。新庄や小宮山が、それを証明した。新庄は、阪神の引きとめを断って、最低年棒でメジャーへ行った。

 では、タイトルか? 奪三振王とか、首位打者とか、三冠王とか、そんなタイトルを獲得するのが一番うれしいのか? いや、そうではない。偉大なる記録を残した、野茂もイチローもローズも、自分の成績より、チームが勝つことの方が大事だと言明している。

 そうか! 分かった。野球選手にとって一番うれしい、至上の悦びとは、優勝することだ。みんな「ビールかけしたい」って言ってるもんな。来期の年棒も上がるし。そうだろ? それが答えだろ?まあまあいい線いっている。しかし、残念だが、それも違う。

 もう、いいだろう。答え。プロ野球選手にとって、本当にうれしいこととは、超満員のスタジアムでプレイすることである。その観客たちのレベルが高ければ、なおよろしい。中には、「いや、オレはゼニの方が大事や」という選手もいるだろうが。そして、この、超満員のスタジアム(球場でもいい)でプレイしたい、という願望は、超一流の選手ほど強いのだ。マズローを持ち出すまでもなく。野茂やイチローは、ホンモノの選手だから、当然に、この通りである。これは、他のスポーツのプロ選手にとっても同様だろう。

ここで、補足。私が使用する、「一流」と「超一流」の違いについて。一流とは、世界水準以上の選手である。超一流とは、世界水準以上であり、かつ、野球(ベースボール)に革新(イノベーション)をもたらす選手である。今回のタイトルに、野茂とイチローだけを使ったのは、彼らが超一流の選手だからである。エコヒイキしているのではない。他の、メジャーでプレイしている日本人選手は、一流であるが、超一流ではない。この「一流」と「超一流」の違いは、他の分野にも適用可能である。「副島隆彦=アインシュタイン論」では、学者や言論人に適用した。

(野茂英雄『僕のトルネード戦記』p69〜72より引用)
 サンフランシスコでのデビューの後、僕は2試合続けて不本意なピッチングをしてしまった。
<中略>
 だから5月17日、ドジャー・スタジアムでのパイレーツ戦では、やはり心に期すものがありました。もしかしたら、その気持ちが、7イニングで被安打2、14奪三振という結果につながったのかもしれません。
<中略>
でも全体としたら、この日は僕にとって、とても思い出不快1日でした。
 なぜなら僕が14個の三振を取って7回でマウンドを降りる時、ドジャー・スタジアムのお客さんがみんな立ち上がって、初めてのスタンディング・オベーションで祝福してくれたんですから。
 いや、それよりも前から、僕が2ストライクを取るたびに、あるいは三振を奪うたびに、スタジアムは大きな声援を上げてくれていた。
 僕は、メジャーに来て、初めてお客さんと一体になれたような気がしたんです。
 ちょうどそれは、プロ3年目にチームメイトと行った、佐野元春さんのコンサートのようでした。佐野元春さんが観客を乗せ、観客がスタンディング・オベーションで応える。
“カッコええなァ、これがプロなんやなァ……”と、僕は素直に感動してしまった。
 でも5月17日の主役は僕だったんです。とても信じられないような、ホントに素晴らしい瞬間でした。こんな気持ちは、日本では味わったことがありませんでした。
(引用おわり)

 日本国民は、野茂やイチローといった超一流のプロ野球選手を、満員のスタジアムでプレイさせてあげられなかった時点で、彼らに対してとやかく言う権利は失ったのだ。だから、アメリカにまで追いかけ回すのは、もう止めなさい。未練たらしいことも、もう口にするな。日本にいた時に、正当な評価をしていた極一部のマスコミ関係者だけが、アメリカにまで追跡する権利をもつ、と私は思う。野茂もイチローも、このことをよく分かっている。だから、二人とも、日本のマスコミが大嫌いなのだ。日本のマスコミ関係者は、今ごろになって、国民の知る権利だとかを振りかざして、プライバシーを侵害してまで、彼らを追いかけ回す。そもそも、日本に「個人」は成立していないのだから、「自由」「人権」「平等」などの基本的な概念を理解できない。プライバシーの概念も存在しない。

 私が、彼らを代弁する。彼らが、日本人に対して本当に言いたいのは、こういうことだ(ただし、発言内容や口調については、私が責任をもつ)。
「そうか。オレがどんなに素晴らしいプレイを演せてあげても、お前らはジャイアンツの監督の方がいいのか。それなら勝手にしてろ。この土人ども。こんなとこで野球をやっててもしょうがないから、オレはメジャーに行く。好きにさせてくれ。ついてくるなよ」
そして、アメリカに来てまで金魚の糞のようにつきまとうマスコミ関係者に、「お前ら来るなと言ってるだろ。鬱陶しいんだって。日本にいた時は、黄色と縦じまのユニフォームばっかり追いかけたくせに、今頃になって何様なんだ、お前ら」
と言いたいのだ。これが、私の辿りついた「メジャー流出論」の最終到達点だ。


(副島隆彦「今日のぼやき」[173]より引用)

 これからは欧米基準で日本の企業や商品、そして個人に対しても、格付けがどんどんなされていくことになる。さて、あなた自身は、自分を格付けしたことがあるだろうか?たとえばプロ野球で「格付け」を考えてみると?

 会社や人間の格付け(レイティング)というのは、客観的な世の中が行なう評価なのであって、政府やお上が行なうものではない。アメリカ人はテニスやバスケット、ゴルフといったプロのスポーツ選手などに対しても、公正な点数(ポイント)制にして、細かく成績表をつけている。これも格付けの一種である。

 野球選手やフットボール選手に対しても同様である。すばらしい球を投げたり打ったり、豪快なシュートを決めたとなると、4点とか6点といった具合に厳格に点数づけをする。それによって、その人物の業界における能力評価がランクづけられてはっきりと決められるのである。あるいは「獲得賞金ランキング」となって、その年1年間のその選手の能力の金額評価まで行なう。

<略>

 そうした格付け社会であるアメリカのプロ野球界に、野茂や佐々木、イチロー、新庄などの日本人選手が飛び込んでいった。イチローが在籍するシアトル・マリナーズには、昨年までアレックス・ロドリゲス遊撃手というスーパースターがいた。そのロドリゲスは、イチロー入団前にテキサス・レンジャーズに移籍した。年俸は、大リーグ史上最高の10年契約で約2億5000万ドル(1ドル120円換算で300億円)である。一方で、新庄は大リーグ最低保障のたったの20万ドル(2400万円)である。はじめはこんなに安い契約金でもいいからと、大リーグ行きを選んだのである。

 彼らはなぜアメリカに流れ出していったのか。それは日本の各球団が、まだまだ個人の能力を冷酷に正しく評価していないという不満が、彼らの気持ちの根底にあった。日本の野球は、プロといえどもチームワークが強調される。チームワークリーダーといって、チーム全体を率い、他の能力の劣る選手たちの面倒までそれとなく見ることを要求される。そんな日本野球を嫌い、自分の能力の全面開花を求め、そして最終的にはそれに対する正当なる金銭的評価を、つまり大きな報酬を期待してアメリカへ行ったのである。

 アメリカには人間関係のベタベタしたものを排除しようとする合理的な精神がある。そこには妙なしがらみがないし、感情的な個人的な好き嫌いではものごとを決めない世界である。その代わりに、個人の業績評価は冷酷なまでに数字で表わされる。イチローたちはそれを求めたのである。

(引用おわり)


これでは説明しきれていない。この「メジャー流出論」に関しては、私の方が、副島先生の数段先を行っているはずだ(「イスラム流出論」では、負けてるけど)。こう言うのも何だが、副島先生の「メジャー流出論」は、75点くらいだ。観客の質にまで言及していないからには、それ以上は出せない。

 この観客の質(観る目)という問題は、日本人の中にも気づいている人は、結構いる。ただし、このことは、スポーツジャーナリズムにおいて、決して表には出ない。匂わせるような記述もダメだ。「みんなメジャーに行きたがるのは、メジャーの観客の方が目が肥えているからではないだろうか」というような、素朴な問いかけもしてはならない。私が、スポーツジャーナリストだったら、絶対にこんなことは書かない。書けない。書いたとしても、デスクを通らない。下手すると首が飛ぶ。
新聞が、公務員批判や大衆批判を絶対にしない(出来ない)のと同じことだ。大切なお客様を批判して不快にさせてはならないのである。「メジャーへの憧れ」という説明でごまかそうとする。これだから、野球に興味のない人間にとっては、なぜ、みんなメジャーに行ってしまうのか、が解らないのだ。

 「大切なお客様を批判してはいけない」――これは、言論商売(特に大衆を相手とする場合)の鉄則である。この点、副島系サイトが特殊(異常?)なのである。だから、副島本は、真剣に「世の中」を考える上層国民にしか売れない。

 「メジャー流出問題」は、球団経営者(オーナー)、首脳陣(監督コーチ)、マスコミ、観客の、四方向すべてから観察すべきなのだ。しかし、ほとんど誰も観客の質という問題に真正面から向き合わない。このことを少しでも書いていない「流出・比較本」を私は認めない。だから、日本人の書いたやつは、みんな、ほとんど読むに値しない。

 野茂やイチローは、「世間」が嫌で、「社会」へ出ていったのだ。「世間」では、みな、まわりの目を気にする。このような社会(「世間」)では、野茂がトルネードを、イチローがレーザービームを、演せても見向きもされないのである。それよりも、みんなジャイアンツのベンチに座っている監督の方を見たいらしい。それじゃあ、ジャイアンツは磐石かというと、そうでもない。ジャイアンツの選手も満足していないだろう。このような「世間」で人気を集めても、本当は何の意味もないのだ。真に賢明ならば、ジャイアンツの選手も気づいているだろう。
日本の将来のためには、松井も「流出」しちゃったほうがいい。

(つづく)

次回は、ジャイアンツ論、です。

2002/03/30(Sat) No.01

プロ野球を通した日本社会論 番外編 〜「個人」と「社会」の補足 せいの介
「個人」と「社会」について、いろいろ書き漏れ等があったので、簡潔に書いておく。

まずは書き忘れ。欧米が中世を無視・暗黒視するのは、中世を否定して近代に入ったとしているから。だから、欧米における中世の評価は、公平で客観的とは言いがたいと思う。案外、われわれアジアの土人の方が、本当のところを暴けるのではないだろうか。実はイスラムから大きな影響を受けて近代学問が成立した、ということに、彼らは触れられたくないのだろう。

それから、なぜ欧米では、「個人」が成立しているのに、社会がバラバラにならないのか。

 

この世で最も偉大なことは、いかにすれば自分自身でありうるかを知ることである。人は誰しも自分の前方に目をやる。しかし私は私自身の内側を見る。私は自分以外のものに関心を持たない。絶えず自分自身を省みる。私が命じ意に従わせるのは私自身である。私は私自身を吟味する。――幾分かは社会に負うところもあるが、大部分は自分自身に負っているのである。他者に自分を貸すことも必要である。しかし自分を与えるのは自分自身のみであるべきだ。[Montaigne,Essais(1580)、邦訳はモンテーニュ『エセー』岩波文庫ほか]

こんな奴らばっかりだったら、集団生活なんて営めそうにない。最近いろいろ調べていて分かったのだが、「個人」と「社会」(欧米社会)を結ぶ絆は、どうやら「信仰」らしい。キリスト教は、もともと「集団の信仰」だったのが、「個人」の成立と平行して「個人の信仰」に移行していった。後のプロテスタントなど、その最終完成品だろう。「信仰」とは、もちろん、キリスト教の信仰である。これがあるから、バラバラにならず、社会を形成できる。だから、フランス革命やマルクス・レーニン主義というのは、「社会」(キリスト教社会)にとっては、死の宣告である。

これに簡単にひっかかった東方正教会社会は、もしかすると「個人」が成立していなかったのかもしれない。

(小室直樹『日本人のための宗教原論』p90〜91より引用)
東方のキリスト教(ギリシャ正教、ロシア正教)には「原罪」はない。中国に渡り景教となったネストリウス派などにもない。勿論、イスラム教には原罪思想はありえない。
 神は人間を善なる者として創造なさった――このことを東のキリスト教(ギリシャ正教、ロシア正教)は強調する。人間が堕落するのは、自分の意志で神に背をむける行為をするからである。罪は、人間が堕落をすることによって生ずる。
(引用おわり)

「内面」が生まれたから、「個人」が生まれた。「罪」意識が生まれたから、「内面」が生まれた。つまり、

罪 → 内面 → 「個人」

原罪(罪)思想のない東方キリスト教社会からは、西方キリスト教社会が生み出した「個人」は生まれない。東方キリスト教社会は「社会」なのか。もしかすると「世間」ではないのか。だから、もしかすると、東方正教会社会は、第二段階なのかもしれない。


(『プロ野球を通した日本社会論 4  〜近代の三段階進化論(仮説)〜』 より引用)

それでは、三段階進化論を用いて、現在の人類社会を四段階に分類してみよう。

1、多神教・「世間」・前近代  東アジア(日本も!)、東南アジア、インド、アフリカ
2、一神教・「世間」・前近代  イスラム
3、一神教・「社会」・前近代  カトリック(?)、東方正教会(?)、中南米(?)
4、一神教・「社会」・近代   プロテスタント

(引用おわり)


(日高敏隆・阿部謹也『「まなびや」の行方』 p162〜163より引用)
 ぼくがニュルンベルグで「日本の世間と社会」という講演をしたときに、シンガポールから来た学者は百パーセント理解してくれたんです。女性の研究者でしたけどね。ドイツ人はなかなか理解してくれなかったけど、チリから来た人もよく理解してくれた。「わかる、同じだ」というんですよ。中国人もね、けっこう近いと。ですから、われわれが、もしアジアや南米に目を向ければ、また違った世界が開けるんですけどね。ヨーロッパ的な個人なんていう非常に特殊なものを基準にして、日本社会が遅れているなんていう発想は間違っていると思いますね。
(引用おわり)

はて、チリって、カトリックじゃなかったっけ? ということは、南米のカトリック社会は、第二段階か? それから、全体主義にひっかかったフランス・ドイツ・イタリア・スペインなどは、「個人」の成立が未熟だったのかもしれない。

最後に、副島先生の、「社会」「世間」に関する記述を引用しておく。

(山口宏・副島隆彦『法律学の正体』p177より引用)
 じゃ、社会を犯罪から防衛するという時の「社会」(society)とは何かという問題になります。「国家」(state)と「社会」はまったくちがうものです。日本では知識人層でさえ、いまだに国家と社会の区別がつかない人々が多くて困ったものです。社会というのは私たちの目に見える、実際の生活の場です。たとえば、自分の住んでいる町内(会)とか、〇〇市ということです。それに対して国家は目に見えません。手で触れることができません。これは統治機構としての幻想の共同体です。だから社会のためにつくすことと、国家のためにつくすことでは内容がまったくちがうのです。これを「国家社会のために」というコトバを使って故意にか無意識にか、この両者を混同するものだから日本の知識や学問はいっこうに欧米水準にならない。この国家と社会の峻別は、別にヘーゲルやマルクスの本を読まなくても、西欧やアメリカの社会思想や政治学の本を少し学べばごく当たり前のこととして書いてあるわけです。この両者を「世の中」とか「世間」という概念で混同させつづけるかぎり、日本人はいつまでたってもアジアの土民のままでしょう。
 アメリカやイギリス(アングロ・サクソン系の国家)は、この「国家」をなるべく「社会」の水準にまでおし下げます。
(引用おわり)

次回は、「野茂とイチローが出ていった本当の理由」です。

2002/03/28(Thr) No.01

プロ野球を通した日本社会論 8 〜近代の三面等価による『日出づる国の「奴隷野球」』分析〜 せいの介
では、『日出づる国の「奴隷野球」』の分析をしていく。

(ロバート・ホワイティング『日出づる国の「奴隷野球」』p9より引用)
 なにより、読者はこの本から、野球というスポーツばかりでなく、契約や、弁護士、裁判、人権、年齢、先輩などの概念についても、日米の姿勢がまったく対照的であることを、はっきりと読とれるはずだ。
 この本が示すように、両者はあまりにもかけ離れている。
 団野村の人生経験が、それを物語る絶好の例といえるはずだ。
(引用おわり)

(上掲 p12より引用)
 日本人は根っからの封建国家だ、と主張する人たちに言わせれば、その証拠はいくらでもある。――ただで残業するなど、やみくもに会社に忠誠を誓っているから、いまだに過労死が多い。いくら選挙制度を改革したといっても、裏工作だらけの”歌舞伎政治”はなくならない(小渕恵三が自民党総裁に選ばれたとき、支持率は二〇パーセント以下と、過去の総理大臣のなかでワーストスリーに入る不人気だった)。
(引用おわり)

(上掲 p13より引用)
 文化を形成するのはおもに歴史であり、人種や地理的環境ではない、という理論を信じているとしたら――すなわち、各民族の行動は、地理や気候のせいではなく、繰り返しによって学習するものだとしたら――、文化の”進歩”という概念は、完全に相対的なものであり、歴史が動くスピードも、同じく相対的なものだということになる。
 だとすれば、今の日本に個人主義が根づかないのも無理はないし、今後も根づくことはありそうもない。
 なぜなら、日本人は数百年ものあいだ、厳密な家父長制と、保護主義的システムのもとで生きてきたからだ。政治、商業、教育、家族関係……日本人はなにかにつけてさまざまな制約に縛られ、画一化を強いられてきた。
(引用おわり)

(上掲 p34〜35より引用)
 二十世紀の終わりを迎えた今、日本の弁護士の数は、アメリカと比べてはるかに少ない。世間一般もそれを歓迎しているフシがある。裁判にかかわったことは一度もない、と自慢する社長や重役も多い。
 それにひきかえアメリカという国は、法律のもとに全員が平等、という基盤に立っている。
 十八世紀から十九世紀にかけて、政治や宗教的弾圧から逃れるために、ヨーロッパ各地から人々がどっと押し寄せてきた。
環境や習慣が異なり、話す言葉もまったく違う多種多様の民族グループが、一つの国に同居すれば、必然的にさまざまなもめごとが起こる。それを解決するためには、個々の違いを理解したうえで仲裁できる弁護士が、どうしても必要だった。
 だからこそ訴訟が、善し悪しは別として、アメリカの生活の一部となったのだ(ささいなことがすぐ裁判沙汰になる傾向を指して、批評家のなかには「行きすぎ」の声もある。マクドナルドのドライブスルーでホットコーヒーを買い、車を急発進させたとき、こぼれたコーヒーでやけどをした女性が、マクドナルド社を訴えたケースもその一つだ。
(引用おわり)

 日本は、もちろん、前近代国家である。これは、散々説明してきた。そして、阿部謹也の「世間論」を用いれば、日本社会は、「社会」でなく「世間」である。だから、その中のプロ野球という社会も、当然に前近代であり、「世間」なのだ。

(『日出づる国の「奴隷野球」』p203より引用)
一九六六年には、ロサンジェルス・ドジャースのウォルター・アルストン監督が、長嶋茂雄を「ナ・リーグのどの三塁手にも劣らない」と絶賛している。実際、ドジャースのオマリー会長は、長嶋を獲得しようと、具体的な金額を提示した(長嶋は行く気満々だったが、正力松太郎が巨人のアイドルを、一年たりとも離そうとしなかったという)。
(引用おわり)

 長嶋や、後述する村上のように、「メジャーに行きたい、プレイしたい」という流れは昔からあった。しかし、それを抑えこんでいたのである。ところが、90年代に抑えきれなくなった。日本の農業・金融業と同じく、これまで保護されてきた産業が、突如として、外国との競争にさらされるようになった。人間の欲望に国境はない。こうして、ベースボールと野球の間に、摩擦が発生し始めたのだ。

 「社会」や近代社会と直接の競争にさらされない限り、自分たちの社会が「世間」であり前近代であることは、何も問題はない。もちろん、一部の変わり者(目的合理的な人、個人主義的な人)はストレスがたまるだろうが、社会全体としては、不都合はない。しかし、「社会」や近代社会を背景とした社会が競争相手として出現すると、そうはいかない。「社会」や近代社会の方が強いからだ。だから、「世間」前近代側は、「社会」近代側の諸制度を導入せざるをえない。しかし、それらは、西欧において、千年の歴史をかけて熟成されて来たものだ。それを、真似することなど、表面だけは出来ても、中身までは出来ないのだ。日本が明治以降に辿った歴史が見事に立証している。そして、ここ十年の、メジャーリーグと野球の関係も、まさに、その通りであった。プロ野球界が前近代であること、日本が前近代であることを証明してくれた。以下、このことを、『日出づる国の「奴隷野球」』を分析することにより、考察する。まずは、フリーエージェント制について。

(『日出づる国の「奴隷野球」』 p14より引用)
 フリーエージェント制がアメリカで成立した経緯と、日本に導入された過程とを比べてみれば、なるほど一目瞭然だ。
 まず、北米メジャーリーグにフリーエージェント制が誕生した経緯を検証してみよう。アメリカ裁判史上まれにみる、複雑で苦難に満ちた闘いを。
(引用おわり)

 メジャーリーグにおけるフリーエージェント獲得までの歴史は、1970年のカート・フラッドを嚆矢とする。訴えは最高裁判所で却下され、彼は二度と復活することはなかった。しかし、それに続く選手たちが出現し、ようやく、この制度を勝ち取っていったのだ。言ってみれば、これは、デモクラシーの要求である。

(『日出づる国の「奴隷野球」』 P29より引用)
 選手会がフリーエージェント制を要求したときのヤワな物腰も、権力者に対する日本人の姿勢を、はっきりと物語っている。
(引用おわり)

(上掲 P30〜p31より引用)
 一九九三年、中身は貧弱ながら、日本でもようやくフリーエージェント制が認められることになった。
 組合の成果ではない。読売ジャイアンツの強力なオーナー、渡辺恒雄が、自分の人気を維持するためには選手会の“不当な要求”を呑む必要がある、と判断したからだ。
 渡辺は、新生Jリーグの爆発的人気に不安を抱いていた。
<中略>
フリーエージェント制を導入すれば、いい選手がわがチームに転がり込んでくる。そう考えた渡辺は、自分の言うとおりにしなければセ・リーグからジャイアンツを引き上げ、独自の野球組織を結成する、と恫喝した。すると例によって、ほかのオーナーたちは身を低くして、読売側の要求にしたがった――に違いない。
 こうして誕生した日本のフリーエージェント制が、人権闘争の歴史からみて、大きな成果であろうはずがない。
(引用おわり)

(上掲 p93〜94より引用)
 王貞治、長嶋茂雄、金田正一、野村克也らは、じゅうぶんな影響力がありながら、球界の悪しき伝統を変えようとはしなかった。選手の権利を確立するために力を尽くすどころか、唯々諾々と球団側の言いなりになってきたのだ。多くの批評家が指摘するとおり、“協力”とひきかえに、何らかの”謝礼”がなされたのかもしれない。
<中略>
 江川や落合が率いる次世代も、その意味ではなんら変わりはなく、私利私欲におぼれるばかり。落合にいたっては、選手会をさっさとやめてしまった。
 ――人間が自分の権利のために闘うこと。次世代への布石という意味でも、敢然と前に進み出て、みずからの立場をはっきり主張すること。さもなければ、自分たちは永久に搾取から逃れられない――そんな発想は、日本の野球選手にはとうてい理解できないようだ。
 選手会は、オーナーを幸せにするための存在であるらしい。「野球とは、選手が働きに見合った報酬を受け取るビジネスでなければならない」という考え方を推進する存在ではないらしい。
(引用おわり)

日本プロ野球界において、フリーエージェント制は、93年に導入された。それまでは、ずっと、こういった動きを弾圧してきた渡辺氏が、実はジャイアンツにとって都合がいいことに気づき、導入したのである。マッカーサーによって、戦後日本に突如として出現したデモクラシーのようなものだ。私も、ホワイティングが言うように「人権闘争の歴史からみて、大きな成果であろうはずがない」と思う。人気と札束で誘惑し、他球団の主砲を集めに集めた。これで、プロ野球は、一段と、おもしろくなくなった。

 近代の三面等価とは、「近代(憲)法 = 資本主義 = (リベラル)デモクラシー」ということだ。これらの三つが成立している社会を近代社会という。これらを理解している人から上を近代人という。では次に、メジャーリーグとプロ野球の、法に対する認識の違いについて。

(『日出づる国の「奴隷野球」』p107〜109より引用)
北アメリカの球団スカウトたちが、第二の野茂を求めて、どっと日本に押しかけた。当然のことながらオーナーたちは、トラブルの発生源である近鉄に腹をたて、どうしたら裏切り第二弾をくい止めることができるかと、あれこれ頭を悩ませた。
 日本のコミッショナー事務局は、討論に討論を重ねたあげく、すばらしいアイデアを思いついた。
 一九六七年に日米が合意のうえで定めた労働協定の、<任意引退選手>に関する条項を、アメリカ側にひと言の断りもなく、一方的に修正することにしたのだ。
 前述のとおり、一九六七年の同協定のなかで、アメリカ側は任意引退選手を、国の内外を問わず、どのチームも手を出してはならないというカテゴリーに入れている。
 それに対して日本側の規則には、そのような制限は国内の球団にのみ適用される、と明記してある。「金井・マレー往復書簡」で明らかにされたとおり、任意引退を宣言した日本人選手が自由にアメリカでプレーできるようになったのは、この条項のおかげだった。
 この点を改正し、法の抜け道をふさごうと、日本のコミッショナー事務局は躍起になった。
<中略>
 日本側が、アメリカ側の許可を求めるどころか通知さえせずに、こうした勝手な修正を加えるのは、少なくともビジネスの常識を外れている。あとになって知った米国コミッショナー事務局が、気分を害したのも無理はない。
 日本人の性格をよく反映しているこうした行動が、いったい何を意味するかについては、さまざまな解釈があるだろう。しかし、二点が暗示されているのは間違いない。
 一点は、ホンネとタテマエという相反する発想が、日本人の心のなかでじつにしっくりと収まっていること。もう一点は、契約に対する日米のとらえ方が、相変わらず水と油であることだ。アメリカ人は協定を文字どおりに受けとめる。ところが日本人は、文面よりもその精神を重んじ、状況が変われば規則を曲げることも辞さない。
 そのいい例が、一九六四年に南海ホークスと日本の球界が示した、完全な”てのひら返し”だろう。
 南海ホークスは、新人を一時的にマイナーリーグで訓練してもらうために、サンフランシスコ・ジャイアンツと労働協定を結んだ。その選手が優秀であれば、大リーグでプレーさせてもかまわないちう条件付きだった。当時の日本野球はレベルが低く、ホークスの首脳陣は、そんなことが起こるわけがないと、タカを括っていたらしい。
 ところが、前述の左腕投手、村上雅則が大リーグに昇格し、しかもオールスター級の選手になった。サンフランシスコ・ジャイアンツが村上の所有権を主張したため、日米間で争奪戦が繰り広げられたのだ。
 ホークスのフロントは主張した。
 ――そもそもわれわれが協定にサインしたのは、まさか村上が大リーグに格上げされ、しかもオールスター戦に出場できるほどの選手になるとは、夢にも思わなかったからである――。
 これまでと事情が変わったとばかりに、日本側は自国のコミッショナーの助けを借り、マスコミを最大限に利用して、ギャーギャーとわめきたてた。ついに根負けしたアメリカのコミッショナーは、村上を日本に返還することに同意する。
(引用おわり)

 これでも近代国家と呼べるのか。万死に値する日本コミッショナー事務局・ホークスフロントの罪。(ん?どっかで見たぞ、そのセリフ)そして、説明するまでもないかもしれないが、メジャーリーグは、資本主義的である。

(野茂英雄『僕のトルネード戦記』p130〜131より引用)
 そして、そのミーティングの席でラソーダはこう言いました。
「我々にできるのはグラウンドで全力を尽くすことしかない。選手は一生懸命プレーしてくれれば、それでいい。後はお客さんが判断してくれるんだ」
 すると、フレッド・クレアーも、
「そうだ。トミーが言うように、選手はグラウンドの中で全力でプレーしてくれ。そのかわりフロントはフロントでグラウンドの外のことに関しては全力を尽くす。たとえホットドッグ1個にしても、ドジャースタジアムよりも××球場のほうがおいしいとは言わせない。我々はお客さんに全力を尽くす用意がある」と。
 正直言って驚きました。これがメジャーなのかって思いました。
<中略>
 せいぜい日本では、球団と選手が話をするといったら契約更改の日くらいでしょう。僕は、日本の球団がまったく努力をしていないとまでは言わないですが、クレアーのような話を聞いたのは初めてのことでした。
 監督は、選手の立場に立ってくれる。球団は、選手の理解を得ながら一緒にファンサービスを考える。つまり選手第一主義なんです。
(引用おわり)

これが、メジャーだ。では、プロ野球はどうか。

(『日出づる国の「奴隷野球」』 p200〜201より引用)
 現行のシステムのもとでは、ジャイアンツ以外のあらゆる球団が、経済的な苦境を訴えている。ところがおかしなことに、同じくジャイアンツ以外は、どの球団も真剣にその問題に取り組もうとしていない。ジャイアンツは、優勝すれば読売本社の懐が潤うことを承知している。新聞の全国的売り上げも、テレビ視聴率も伸びるし、広告収入もぐんと増える。だから彼らは勝とうと努力している。
 それにひきかえ、たとえばヤクルト・スワローズは、自分たちが優勝したら親会社の経済状況が悪化しかねないとでも思っているらしい。感情的なジャイアンツファンが、腹いせにヤクルト製品をボイコットすれば、売り上げは全国的に落ち込むだろう。そればかりでなく、活躍した選手たちから、必然的に給料アップの要求が高まるはずだ(自称「ジャイアンツファン」の松園元ヤクルトオーナーが、一九七九年に優勝したあと、「来年は二位でいい」と言った背景には、そんな事情があったのだろう)。
(引用おわり)

実は、ジャイアンツ以外の球団のオーナーや選手が、大のジャイアンツ・ファンだったりするのである。だから、日本のプロ野球は、全く、おもしろみがない。

(『日出づる国の「奴隷野球」』 p24より引用)
 カブスタインのおかげで、ジーン・テナスやダン・ベイラーといったスタープレイヤーの年棒は、フリーエージェント制が発足する以前の十倍にはね上がった。やがて球界のゼネラルマネージャーたちが、彼らとの交渉を恐れるようになったのも無理はない。
(引用おわり)

 メジャーリーグは、それ自体がビジネスである。日本のプロ野球球団は、親会社の宣伝媒体にしか過ぎないから、あまり経営努力をしない。メジャーリーグにおける年棒の高騰問題は深刻で、数百億円という累積赤字を抱えている球団も存在する。なぜそれでやっていけるのか、というと、チームを売却すれば、それ以上の値段で売れるからだ。ドジャースなど、昨年だけで80億円もの赤字を出している。つまり、メジャーの球団は、それ自体がバブルなのである。バブルは、資本主義の申し子である。いい意味でも悪い意味でも資本主義的である。駄目押しにもうひとつ引用。

(『日出づる国の「奴隷野球」』p224より引用)
 日本野球とアメリカ野球の違いの最たる例は、審判の質である。しかも日本では、アンパイアたちにまったく敬意が払われていない。
 彼らは監督やコーチ、選手からしょっちゅう小突かれている。少しくらい小突いても、罰は受けないからだ。仮に受けたとしてもごく軽い懲罰で、せいぜい罰金五万円とか、三日間の出場停止。もっとも多いのは、ただの”厳重注意”だ。フロントが封建領主のように全権を握っていて、アンパイアの地位はぐんと低い。判定をくつがえせ、と上から脅されることさえあるという。
(引用おわり)

日本人は、ジャッジの何たるか、を分かっていない。当然、審判の何たるか、も分かっていない。こんなものでよかろう。これで、メジャーリーグが近代であり、プロ野球が前近代であることが、証明出来たと思う。この『日出づる国の「奴隷野球」』には、他にも例がたくさん出てくるので、本腰を入れて分析すると、もっと面白いと思う。

(つづく)

2002/03/22(Fri) No.01

プロ野球を通した日本社会論 7  〜「近代人」野茂英雄の闘い(下)〜 せいの介
(ロバート・ホワイティング『日出づる国の「奴隷野球」』p61より引用)
 しつこいようだが、何度でも言わせてもらおう。多人種で比較的オープンな国、アメリカは、個々の違いを大切にする。それに対して、”単一民族国家”を自認する日本は、”ほかのみんなと同じ”になるために、いまだに過剰なエネルギーを費やすようだ。
 われわれはみな、それぞれ異なった才能を持って生まれてくる。どの国に生まれようと、そのことに変わりはない。
 アメリカ人は、持って生まれた才能をできるだけ伸ばそうと努力するのが、個人の義務だと考える。それにひきかえ日本人は、能力の違いなど無視して全員を平等に扱うのが、社会の義務だと考える傾向がある。革新的な若い世代が、いくら激しく抗議しても無駄らしい。
<中略>
”厳密な順応性”が日本の特徴である以上、従来のやり方を変えるためには、よく言われるように、どうしてもガイアツ(外圧)が必要になってくる。
<中略>
 この風潮と闘うためには、たしかに筋金入りの外圧が必要だろう。
 そこへ登場したのが、団野村である。
(引用おわり)

こうして、野茂は、次第にプロ野球(日本社会)に見切りをつけ、メジャーに目を向け始め、団野村と会うようになる。近鉄球団とは、メジャー移籍問題でもめにもめ、野茂と団の二人は、世間からバッシングを受けるようになる。

(『日出づる国の「奴隷野球」』p46〜47より引用)
 日本のスポーツ紙はとくに過激で、彼を「恩知らず」だの、「わがまま」、「トラブルメーカー」、「裏切り者」だのと、さんざんこき下ろした。
<中略>
 リーグの首脳陣やファンからも非難が殺到した。野茂の父親でさえ、息子の軽挙妄動に腹をたて、アメリカ行きを断念するよう説得するしまつだ。
 団は団で、彼がのちに語ったところでは、母親の沙知代から電話がかかってきて、野茂をアメリカへ行かせてはいけない、と説得されたという。
「お国のためにも、野村家の名誉のためにも、ぜったい行かせちゃだめ」
(引用おわり)

(上掲 p48〜p50より引用)
「これからもっと大変なことになる。大丈夫か」団は野茂にそう言った。
 すると野茂は、団の肩をポンと叩いて答えた。
「もちろんですよ、野村さん。だいじょうぶ。ぼくたちは正しいことをやっているんです」
 高度に発達した日本のマスコミは、アメリカで早々とトレーニングを始めた野茂を、さっそく追いかけ回し、どんな発言もそんな挙動も逃すまいと目の色を変えた。あらゆる瞬間をヴィデオにおさめ、衛星を通じて祖国に急送。彼らのあまりの厚かましさにたまりかね、野茂は地面に境界線を引いた。
「お願いですから、この線から入ってこないでください」そう警告した。「入ってきたら、ぜったい口をききませんよ」
 これもたいした脅しにはならなかった。もともと無口な野茂は、いずれにせよマスコミに、あまり多くを語らない。それでも、NHKのクルーがあえて境界線を越えたとき、野茂は本気で彼らをボイコットした。まる三年間も。
 誰もが彼の失敗を望んでいるかのようだった。
<中略>
 ところが野茂は勝ちはじめた。
<中略>
これが大リーグ人気に、ますます拍車をかけたことは言うまでもない。周知のとおり、大リーグは前年、ワールドシリーズが中止されるほどの大規模なストライキによって、人気が低迷していた。そこへ登場した野茂を、「アメリカ野球の救世主」と呼んだファンもいた。
 わずか三ヶ月で、”野茂マニア”が南カリフォルニアに蔓延した。
<中略>
野茂マニアは、都い祖国にも伝播した。彼の登板する試合はすべてライブで中継され、今までさんざん悪口をいっていた連中も、急に健忘症になったかと思うほどの”てのひら返し”。彼の勇姿は、連日スポーツ紙の一面をにぎわした。老いも若きも、野茂の投げっぷりを一目見ようと、わざわざ飛行機で太平洋を越えた。その数があまりにも多いので、
ドジャース経営陣は日本人客向けに、球場内に和食のレストラン・チェーンをオープンしたほどだ。
<中略>
 野茂は日本にいるときよりもはるかに偉大な英雄となり、マスコミのプレッシャーもずっと激しくなった。皮肉なことに、近鉄バッファローズでの最盛期には、ほとんどだれも彼の投球を観たことがない。日本のファンはあいかわらず、最愛のジャイアンツを追いかけ回すことに熱中したからだ。一九九〇から九四年にかけて、バッファローズはテレビの全国ネットに、たったの五回しか登場していない。
 ほんの数ヶ月前まで、「卑怯」だの「わがまま」だのと中傷していたライターもファンも、彼の勇気と独立心を絶賛した。「ふっれっ面」は「落ち着いている」という評価に変わった。かつて「国辱」と呼ばれた男は、国民栄誉賞の対象となるほどに持ち上げられ、村山富市首相から、激励のファックスが届くほどの出世ぶり。「やり方が自己中心的」とけなしまくっていたパ・リーグのコミッショナーでさえ、今や「彼のおかげで、日本人として鼻が高い」と豹変するありさまだ。
(引用おわり)

 驚くほどの豹変ぶりである。日本社会が「世間」だから、このような興味深い現象が起こるのだ。日本はアメリカの属国だから、アメリカでの評価に弱いのである。だから、日本人たちは、メジャーで活躍して大きな評価を受けた野茂やイチローに、一撃でKOされたのである。もうひとつ興味深い類例を挙げておこう。これは笑えた。

(『日出づる国の「奴隷野球」』 p95〜96より引用)
 一九九四年の終盤、近鉄バッファローズのふくれっ顔をした選手が、団の目にとまった。野茂英雄(当時二十六歳)である。
<中略>
 野茂騒動による精神的な苦痛は、おそらく野茂自身よりも、団野村のほうが大きかった。
<おまえは頭が狂っている!><金の亡者!><選手たちをたぶらかすな!>
 脅迫めいた不快な電話や手紙が、連日のように団の元へ届いたものだ。
<マフィアのボスがおまえをねらっている。いつかぶっ殺してやる!>
 そんな物騒なものまであった。
 波風と金銭欲をことさら嫌う、陽気なジャイアンツ・オーナー渡辺恒雄も、団を目の敵にした。
「エージェントなんてものを断固として認めない。とくに団野村はいかん。あの男はワルだ」
 両親までがそっぽを向いた。少年野球の多摩川の練習場で顔をあわせた野村克也が、義理の息子を公然と叱りつけた話は、あまりにも有名だ。
「おまえの考え方には賛成だが、やり方には感心できん」
 母親の沙知代も電話をかけてきて、野茂と契約しようなんて考えは捨てろ、と説得した。
 ――日本の野球を台なしにする気?おまえがどれだけ野村家のイメージを損なっているか、そろそろ気がついたらどう? 世間体を考えなさい、世間体を――。
 野村沙知代はくどくどと説教した。
 ――この件を白紙撤回するのは、日本人としての義務よ――。
 野茂がアメリカで大成功したとき、彼女が態度を一八〇度変え、自分の手柄にしはじめたことを、団はけっして忘れない。
 ――野茂がアメリカに渡ったのは、あたしが息子にそうしろと説得したからよ――。
(引用おわり)

 野村沙知代氏の口から「世間体」という言葉が出たとは、ありがたい。これで説明が省ける。これが「世間」というものだ。では、野茂自身は、これら一連の騒動を、どのように受け止めていたのだろうか。

(『僕のトルネード戦記』p156より引用)
 人間、足を踏んだほうはそのことを忘れても、踏まれたほうはその痛みを、決して忘れないものなんですよ。
 わずか数ヶ月前、ほとんどのマスコミの人たちは、僕をどう扱いました?
 僕が大リーグ行きを表明した時、それこそ「永久追放」だとか「協約破り」だとか言って、バッシングをしていたでしょう。それなのに、今になって急に手のひらを返して「いや、野茂の活躍は日本人に勇気を与えた」なんて平気で言う。
 言論でメシを食っている人は、自分の言論に対して責任を持ってもらいたいです。
(引用おわり)

よく言った。よくぞ言ってくださった。だから、

団野村 = 野茂 = イチロー = 副島隆彦(=弟子の私)

なのである。私は、団野村らの闘いを支持する。当然だろう。そして、野茂は日本に凱旋する。

(『日出づる国の「奴隷野球」』 p52〜53より引用)
 その年の秋、13勝6敗というすばらしい成績をあげて帰国した野茂は、さらに多くの分析材料を提供することになった。マスコミから殺到したインタビューの依頼に、最低五十万円。これは平均的有名人の二倍である。新聞、雑誌のインタビューをホテルで受けるときは、三十分につき五万円。ルームチャージは当然、出版社持ち。TBSは放映権のために、一千万円支払ったと噂される。
 ほかにも、キリンビバレッジ、トヨタ、ナイキ、住友生命、IDCなど、さまざまなコマーシャルの出演契約によって、野茂の懐にさらに四億八千万円が転がり込んだ。
(引用おわり)

彼らは近代人であった。団野村は、市場原理を理解しているから、当然にこのような行動を取る。しかし、土人には嫌がられるのである。

(つづく)

2002/03/20(Wed) No.01

プロ野球を通した日本社会論 6  〜「近代人」野茂英雄の闘い(上)〜 せいの介
まず、野茂についての記述。

(ロバート・ホワイティング『日出づる国の「奴隷野球」』 p37〜40より引用)
 野茂英雄は、一九六八年、大阪に生まれた。早くから異才を発揮し、すでに中学時代に、例の風変わりなトルネード投法を身につけている。投球に威力をもたせるために、意識的にそうしていた、と彼は言う。
「体をねじると、その反動で球が加速されるんだ」
 フォームにやたらにこだわる日本では、型破りの投げ方は、最初は注目されても、いずれはけなされる運命にある。少年時代につちかわれたフォームであれば、なおさらだ。ところが幸運なことに、野茂は好きなように投げさせてくれるコーチのもとで、のびのびとプレーすることができた。
<中略>
プロ入り後も、幸運は続いた。バッファローズの当時のコーチ陣は、誰一人、彼のフォームにケチをつけようとはしなかったのだ。日本のプロ野球界で、これは異例中の異例といえる。
<中略>
 一九九〇年から九三年にかけては、毎年、シャットアウトと勝ち星の数でパ・リーグのトップに輝いた。
<中略>
 一九九四年、野茂は肩を傷めた。当然のことながら登板回数が減り、勝ち星はわずか8に落ちた。バッファローズの新監督、鈴木啓示と衝突したのは、まさにその年のことだった。
 鈴木啓示といえば、長年にわたってすばらしい実績を残した、天下の300勝投手である(シーズン終了後の日米親善試合で、鈴木の投げっぷりを目にしたセントルイス・カーディナルスのテッド・シモンズ捕手が、あんなすばらしいピッチャーは見たことがない、と絶賛したほどだ)。
 しかし、鈴木の野球哲学は、基本的にはひと言に集約されていた。
 ――死ぬまで投げろ――。
 いくら練習熱心な野茂でも、こんな哲学に従う気は失せていた。すでに独自の練習メニューを開発していたからだ。”奪三振王”ノーラン・ライアンの哲学を、野茂は心から信奉していた。
 ――休養はしかっりとって、肩の負担を減らせ。そのためには、意味のないトレーニングはするな――。
 こうした現代的なトレーニング方法に、鈴木監督は我慢がならず、野茂の強情なやり方に、侮辱の色を隠そうとしなかった。
 七月の初め、西武スタジアムでの試合のあと、二人はとうとう火花を散らした。この試合で、16個もフォアボールを出すほどコントロールに苦しんでいた野茂を、鈴木監督は最終回まで投げさせたのだ。野茂の投球数はとうとう191に達し、傷めた肩はますます悪化した。その後の先発に支障をきたしたことは、言うまでもない。
<中略>
 野茂はこのころから、ある男と頻繁に会うようになっていた。
(引用おわり)

 次に、野茂自身に、自分と、日米の社会の違い(つまり「世間」と「社会」の違い)を語ってもらおう。

(野茂英雄『僕のトルネード戦記』 p55より引用)
 ただ日本と大きく違うのは、日本ではやらされる練習が中心なのに対して、こちらはそれぞれのトレーニングを各自が自覚を持ってやっている。自己管理が徹底しているということ。
 だから彼らは、たとえシーズンが始まっても、深酒することはしないし、自己管理を任されている以上、調子を崩した場合は、それは自分の責任だと考えている。
 このへんが日本との大きな違いだと思います。
 もちろん僕は、日本的にみんなで酒を飲んでワーッと騒ぐことのすべてが悪いといっているわけではありません。実際、近鉄に入ってすぐの時、阿波野さんなんかに飲み屋に連れていってもらい、先輩たちと騒ぐことによって、僕はチームに早く溶け込むことができた。
(引用おわり)

(上掲 p124より引用)
 近鉄時代の鈴木監督は「ワシはこういう練習方法で現役時代いい思いをしてきたから、オマエらもこうやれ」という考え方でした。だけど、選手の顔が違うように、トレーニングについての考え方も、ひとりひとり違うんです。また、それだからこそプロなんです。選手の意志を無視したところに、プロ意識なんて芽生えないと思います。
 メジャーには、トレーニング方法まで押しつける監督やコーチなんて、ひとりもいません。
(引用おわり)

(上掲 p142より引用)
 僕ははっきり言いました。責任は自分で取るから好きなようにやらしてくれって。するとコーチは「頼むから問題だけは起こさないでくれ」と言う。
(引用おわり)

 ここで、鈴木啓示氏の名誉のために言っておくが、私は彼の人格を傷つけようとして、ここで引用したのではない。鈴木啓示といえば、引用でも書いてある通り、近鉄バファローズが生んだ大投手だ。70年代の弱小だったチームを支え続けたエースで、被本塁打の日本記録か世界記録かを持っている。そのことを、「眉間の傷」とか何とか誇らしげに語るあたりも立派だ。私は、牛党(近鉄ファン)として、鈴木啓示を尊敬している。ここで、鈴木氏に登場していただいたのは、彼こそが典型的な日本人だからだ。「世間論」を用いてプロ野球を分析するに当り、野茂英雄と鈴木啓示の対立ほど絶好なサンプルはないのである。だから、ここでは鈴木氏が悪役のように見えてしまうが、そうではないのだということを理解しておいていただきたい。

 さて、上で、野茂と団野村が実際に体験した、日米のトレーニングに対する認識の違いを紹介した。この通りなのである。最近は変わったのかどうか知らないが、本質は変わっていないだろう。これは、「社会」と「世間」の違いによるものでなく、「近代」と「前近代」の違いによるものである。つまり、プロ野球界は伝統主義的行動。野茂や団野村がとったのは、目的合理的行動。水と油ほどに違う。合い入れないのだ。

(『日出づる国の「奴隷野球」』p35より引用)
 異種の文化や社会的特徴に対応するためのさまざまなシステムは、数年来、学者たちいの研究対象になってきた。
 たとえば一九九二年、「ナショナル・ストレンスク・アンド・コンディショニング・アソシエーション・ジャーナル(NSCA)」の研究チームは、スポーツにおける日米の文化的違いについて研究し、次のような結論に達している。
 ――アメリカ人は”しぶしぶ協調する”が、日本人は”率先して協調し合う”――すなわち、自分の意思を抑えてまで、グループ内んお総意をはかろうとする傾向がある。”和”を大切にするか、”個人の責任”
を大切にするかの違いだ――。
 執筆を担当したNSCAの日本支部長、ビル・シャングは、こう書いている。
<日本人の大半は、グループの外に個人の居場所はないと思い込んでいる。チームは一種の”家族”なのだ。階級意識の強い、固く団結したコミュニティであり、一年生選手、二年生選手といった各小グループにも、それぞれボスがいる。日本のリーダーは、こんなふうに部下を鼓舞する。「自分の栄光や成績のために勝つのではなく、コーチのため、キャプテンのために勝て」と>
<日本では、コーチは親方であり、選手は弟子なのだ>
 シャングは続ける。
<先生と生徒(コーチと選手)の関係はきわめて重要であり、これは日本人の集団意識全般にあてはまる。・・・アメリカのスポーツ選手も、ときには長時間の激しい練習に励む。しかしその目的は、あくまで技術を磨くことである。
 それにひきかえ日本では、練習にゼン(禅)的なアプローチが盛り込まれる。何かを修得するには、合理的なプロセスよりも直感のほうが効果的という発想だ。日本のスポーツ選手は練習を、筋肉の増強よりも精神力を鍛えるためとみなしている。したがって、精神力の限界まで練習しないと気が済まない。それはたいていの場合、肉体の限界をはるかに超えている>
(引用おわり)

 それから、二つ前の引用にある、コーチの「問題だけは起こさないでくれ」発言は実に興味深い。これは、「世間論」で説明がつくだろう。

(『僕のトルネード戦記』p33より引用)
 僕たち野球選手にだって、球団と対等な立場に立ってモノを言える権利があるはずです。そこで契約交渉を専門とする代理人を立て、球団と話し合ってもらう。この制度のいったいどこが悪いのでしょう。
(引用おわり)

 野茂は、目的合理的行動を取れるのである。つまり近代人なのだ(厳密には近代人的と言うべきだが)。そして、もちろん、個人主義を理解している。こういった人間は、日本社会(「世間」)では浮くのである。私も、この一種だから、よく分かる。特に、典型的日本人とは、対立せざるをえないのだ。

(『僕のトルネード戦記』p76〜77より引用)
 大リーグにはこうした選手と首脳陣との一体感があるんです。それを裏づけているのは、監督もコーチも選手あってのものという考え方。だから絶対に選手をクサらせるような真似はしない。これはやはり日本のプロ野球も見習うべきことじゃないかと思います。
(引用おわり)

(上掲 p123〜126より引用)
 日本の野球では、監督やコーチの発言は絶対的な力を持ちます。近鉄のあるコーチで「監督は社長、コーチは部課長クラス、選手は平社員」と言った人がいましたが、まさにそのとおり。日本では、首脳陣と選手は上司と部下の関係なのです。
<中略>
 日本では監督が目立ちすぎです。だから、そのあおりをくって選手に光が当たらなくなってしまうんです。実際に野球をやるのは選手なのに……。
 メジャーでは、監督が目立っているチームなんて聞いたことないですよ。もちろん、それぞれに個性はありますが、グラウンドの中に入ればもちろん選手を立てている。だって、ファンが身にきているのは、監督じゃなくて選手なんですから。
 また、日本は監督の地位が高すぎます。少なくとも“選手は監督の命令に背くべきではない”とか“選手は監督の持ち物である”とか、誤解している人が多すぎます。だからトレーニング方法まで、選手に命令するようになるんです。
 近鉄時代の鈴木監督は「ワシはこういう練習方法で現役時代いい思いをしてきたから、オマエらもこうやれ」という考え方でした。だけど、選手の顔が違うように、トレーニングについての考え方も、ひとりひとり違うんです。また、それだからこそプロなんです。選手の意志を無視したところに、プロ意識なんて芽生えないと思います。
 メジャーには、トレーニング方法まで押しつける監督やコーチなんて、ひとりもいません。
<中略>
 もちろん日本のすべての監督・コーチが、選手を自分の持ち物と勘違いしているわけではありません。選手の自主性を尊重してっくれる監督も、なかにはちゃんといます。僕が知っている監督で言えば、近鉄で僕を育ててくれた仰木監督(現オリックス監督)がそうでした。
(引用おわり)

(上掲 p25〜29より引用)
 僕のメジャーへの憧れは、近鉄に入ってから日増しに強くなっていきました。
 当時の近鉄の投手陣は、吉井理人さん(現ヤクルト)にしても小野和義さん(現西武)にしても加藤哲郎さん(現福岡ダイエー)にしても、皆、メジャーが大好きで、「オレたちも行きたいよな」と口を揃えて言っていました。
 だから、近鉄のロッカールームは、まるでメジャー・リーグの鑑賞会のようでした。
<中略>
 それを見て内野手はオジー・スミスの真似をしたり、バッターはカンセコになってみたり……そういう伸び伸びとしたムードが近鉄にはあったんです。
 そして僕には、プロに入って二度、大リーガーたちと対決するチャンスがありました。1990年と92年オフに行われた日米野球です。
<中略>
 そう、僕には力と力の勝負が肌に合っているんです。フォアボールをじっくり選んだり、バント、バントで来たり、サインを盗み合ったりという、チマチマした野球はハッキリ言って性に合わない。極端に言えば、三振かホームランか。フィルダーとの勝負がそうであったように、思いきって投げて、思いきって振る。そんな野球が好きなんです。
<中略>
 日本のピッチャーも皆そう望んでいるとは思います。でも実際には、それが体現できていない。ベンチに力対力の対決を望まない空気が漂っているからです。だから僕は、日本を出て、メジャーに挑戦する道を選んだんです。
(引用おわり)

 野茂が入団した当時の近鉄の監督は仰木彬氏である。私は、日本球界史上最高の名将は仰木監督だと思う。ただし、私がライブ(生)で知る範囲のことだが。昨年、仰木監督が勇退したが、世間は「長嶋」やら「ミスター」やら騒いでいる。一体、監督としての長嶋氏が、どれほどの能力を発揮したというのか。引退するだけで、あれほど世間を大騒ぎ
させるのだから、さぞや功労があったのだろう。決して強いとは言えなかった近鉄・オリックスをリーグ優勝(オリックスは日本一)に導き、野茂・イチローを育て上げた、そんな往年の名将・仰木監督の引退をベタ記事にするほどなのだから、長嶋茂雄氏とやらは、さぞや偉大な監督だったのだろう。仰木監督の偉大さを知っているのか。この土人どもめ。ああ、また言っちゃった。国民の半分を敵に廻しそう。誰か、きちっと、野球選手を実力で格付け(ランキング)してほしい。ついでに、監督の格付けも。こんな失礼な扱いをするから、仰木監督の弟子である野茂とイチローは、出ていったのだ(ん? 時系列がおかしいか)。私は、仰木監督こそ日本一の監督だと思っているから、勇退試合である、神戸グリーンスタジアムでのオリックス・近鉄戦を観に行った。長嶋監督の勇退試合とは違い、テレビでの中継もない。すべての座席が埋まるわけでもない。しかし、素晴らしい試合(セレモニー)だった。ローズが56号を打ってくれたら、本当にジャイアンツに対する「勝手にやってろ」宣言になって小気味よかったのだが、残念だ。仰木監督は、どこかの監督とは違って、きちんとローズと勝負した(間接的に、勝負を避けさせるようなセコイ真似はしなかった)。

 閑話休題。仰木監督のように、目的合理的行動とは何たるかを理解して、個人を尊重する監督も中にはいる。野茂は幸運だった。しかし、交代した、伝統主義的な鈴木監督とは合わなかったのである。

(つづく)

2002/03/17(Sun) No.01

プロ野球を通した日本社会論 5  〜「社会」のベースボール と「世間」の野球 〜  せいの介
(ロバート・ホワイティング著 松井みどり訳『ニッポン野球は永久に不滅です』p15 より引用)
有名な歴史家のジャック・バーンズは、いみじくもこう言った。
「アメリカの心を知りたいと思ったら、野球を研究してみることだ」
ああ!彼が日本に来てくれればよかったのに。
(引用おわり)

日本は、もちろん、前近代国家であるから、日本社会に属するプロ野球界も当然に前近代である。そして、米国は近代国家であるから、メジャーリーグは近代である。さらに、日本は「世間」である。


ベースボール  野球
アメリカ    日本
近代      前近代
目的合理的   伝統主義的
「社会」    「世間」


以前の書きこみで、プロ野球崩壊の責任は国民にも(というよりも日本社会にも)ある、と書いた。もっと言ってしまうと、「責任は国民にもある」でなく「責任は国民にある」のだ。

日本の野球選手が、メジャーに行こうとすると、マスコミは騒ぐ。
「このままでは、日本のプロ野球は、ダメになってしまう、空洞化する、マイナー化する・・・」
私は、なぜ、喚くのかが分からない(本当は分かっているけど)。メジャーリーグの方がレベルが高いと認める人は、野茂やイチローが出ていくのを否定するべきではない。よりレベルの高いところでプレイしたいというのは、人間として当然の願望である。彼らのような超一流の選手ほど、その願望は強いであろう。ちなみに、野茂自身は、こう語っている。

(野茂英雄『僕のトルネード戦記』p25より引用)
メジャーへの憧れは、プロに入るか入らぬかのうちからあった。というより、野球をやっている以上、一番レベルの高いところでやりたいと考えるのは当然のことでしょう。
(引用おわり)

 逆にプロ野球がメジャーリーグに劣っていないと考えている人は、野茂やイチローのような、メジャーでスーパースターになるような選手が日本でプレイしていた時に、きちんと評価し、相応の待遇をするべきだった。私は、当時の日本のマスコミや国民の、彼らに対する扱いは、極めて失礼だったと思う。野茂もイチローも、メジャーに行ってから、突然に魅力的なプレイをするようになったわけではなかろうに。日本にいたときから、彼らは既に、世界水準だったのである。しかし、世間はほとんど見向きもしなかった。

(ロバート・ホワイティング著 松井みどり訳『日出づる国の「奴隷野球」』p50より引用)
 野茂は日本にいるときよりもはるかに偉大な英雄となり、マスコミのプレッシャーもずっと激しくなった。皮肉なことに、近鉄バッファローズでの最盛期には、ほとんどだれも彼の投球を観たことがない。日本のファンはあいかわらず、最愛のジャイアンツを追いかけ回すことに熱中したからだ。一九九〇から九四年にかけて、バッファローズはテレビの全国ネットに、たったの五回しか登場していない。
(引用おわり)

(上掲 p201より引用)
 パ・リーグの球団の現状は、輪をかけてひどい。パ・リーグの試合など、ほとんど見向きもされない。悲しいことに、世間はジャイアンツの試合しか観たがらないのだ(偶然かどうかは知らないが、独自のネットワークをもっているプロ野球チームは、ジャイアンツしかない)。
(引用おわり)

 これだけは、先に言っておくが、近鉄バッファローズなどという球団は存在しない。近鉄バファローズなら、私は知っているが。翻訳者の松井みどりという人は、あまり野球を観ない人なのだろう。この本を、バッファローズで通しきっている。しかし、文藝春秋には、校正をする人がいないのだろうか。校正をも逃れて、本当に誰もこの間違いに気づかなかったのだとしたら、私は、こう言ってやろうと思う。
「そんなんだから、野茂もイチローも、プロ野球を捨てたんですよ」と。

 一九八九年に近鉄バファローズは、プロ野球史に残る激闘を突破してパリーグを制覇した。前年にも野球史に刻み込まれる、あのダブルヘッダーを演せている。その近鉄バファローズが、野茂を加えても、全国ネットでは五回しか登場しなかったのだ。90年初期の近鉄は、野茂、阿波野、吉井、ブライアント、石井、その他、魅力的な選手で溢れかえっており、いつでも優勝できる戦力が整っていた。それにもかかわらずである。当時、大阪に住んでいた私は、よく知っているが、大阪でも近鉄の試合中継など、土日曜の昼ぐらいなもんだった。近鉄バファローズが、どんなに素晴らしい、メジャーリーグに比肩する野球をしても、あいもかわらず、世間(関西の世間)は、やれ、阪神がどうの、タイガースがどうの、だ。あのチマチマした野球のどこがおもしろいのか。誰か教えてほしい(でも、今年は強そう)。

 イチローに対する待遇も同様である。私は、日本国民の取っている行動は、矛盾していると思う。メジャーリーグの方がレベルが高いと思うなら、野茂やイチローにも、好きにさせてやれ。止める権利はないだろう。メジャーとプロ野球が同等と思うなら、日本にいた時と、アメリカに行った後の待遇を同様にせよ。野茂とイチローは、日本にいた時に冷遇されていたのだから、わざわざアメリカまで大挙して押しかけるな。同等と思うなら、そのような結論しか出ないだろう。

 前置はこれくらいにして、阿部謹也「世間論」を用いて、『日出づる国の「奴隷野球」』を分析していこう。この本は、数多く出版されている、プロ野球とメジャーリーグの比較・流出本の中でも、私のお気に入りで、お薦めでもある。大部分の比較・流出本は、私の採点によれば、落第である。及第点に達しているのは、2割くらいだろう。個人主義や近代という問題にまで行きついていない比較・流出本は、私に言わせれば駄作である。だから、日本人の書いた本は、駄作か、せいぜい凡作である。こんなこと書いていいのかなあ。この『日出づる国の「奴隷野球」』は、ロバート・ホワイティングというアメリカ人が書いた本だ。
だから、さすがに、その辺にまで踏み込んでいる。


(副島隆彦「今日のぼやき」[146-2]より引用)

ロバート・ホワイティングの書いた『東京アンダーワールド』(角川書店)と言う本が去年ベストセラーになった。あの程度の内容で、どうしてそんなに驚くのか。何も秘密暴露などまったく書かれていないではないか。どこが衝撃的なのか。日本の読書知識人層は、文学評論崩れが大半だから、ああいう文学を気取った本が、政治的なにおいを発すると、
とたんに、持ち上げる。

一体何があの本のどこの記述が危ない、というのか。全くきれいさっぱり除菌されたふざけた本だ。主人公のニコラという退役イタリア系アメリカ人のキャバレーとピザ屋経営の実業家を実際に知っている日本人はたくさんいる。私の友人にもいる。彼がマフイア系統の人間だと言う事は誰でも知っている。それが日本のやくざ者の悪口を散々書いている。
著者のホワイティング自身が、元CIAの派遣職員か何かだったはずなのだ。何をみんなでやらせっぽい驚き方をしているのか。角川書店と言うのも、裏のあるふざけた出版社だ。

軽度の情報開示を日本人向けにやれ、ということだ。何十年もたったから、ワシントンで外交機密文書が次々に公開されて、売りに出されるから、それらを使って、一番危ない非公開情報以外は、馬鹿な日本人記者どもに、手なずけ料としてくれてやれ、ということで、日本国内で、それとなく公開される。みんな除菌し尽くした果ての無害なものばかりだ。力道山が殺される現場にいたニコラのそばに、CIAの職員がいた、と書いただけで、あとは、やくざ者同士の争い、ということで、ちゃんと、隠蔽して書いているではないか。ロバート・ホワイティングと言うのは本当に、ふざけた野郎だ。どうせこいつの書いている日本野球論や相撲論を読んで何かを理解できる近代日本人はいないから、構わないのだが。

(引用おわり)


この人の奥さんは、当然、日本人である。他にも、たくさんの「野球とベースボールの比較本」を書いている。『ニッポン野球は永久に不滅です』『日米野球摩擦』『和をもって日本となす』『菊とバット』など。
しかし、野茂以降の、メジャー流出問題を描いた(イチローは入っていないが)『日出づる国の「奴隷野球」』が、一番のお薦めである。日本人の書いたプロ野球本で、ホワイティングが25年も前に書いた『菊とバット』を越えたものを、私は知らない。向こう(近代国家)から見れば、すべてを見透かされている。それから、ここでは、もう一冊、『僕のトルネード戦記』をテキストに使う。これは、野茂自身が書いた本(もちろんゴーストライターが書いているのだろうが)で、言いにくいことも、きちんと書いているあたりも気に入っている。

副島先生には申し訳ないが、こいつの書いている日本野球論を読んで何かを理解できる近代日本人は、ここにいた。私が、こいつの書いた本を徹底的に分析して、日本社会を解体する。ついでに、逆に、奴らの社会を分析・解体する。

『日出づる国の「奴隷野球」』は、サブタイトルが「憎まれた代理人・団野村の闘い」となっているように、主人公は、団野村である。まず、団野村についての記述を引用しよう。

(『日出づる国の「奴隷野球」』p5より引用)
日本の野球界で、ぼくよりも激しく嫌われている人物に、ぜひ会ってみたかった。ぼく自身、読売ジャイアンツの連中を不愉快にさせる記事を書いたせいで、東京ドームへの出入りを二回禁じられている。
(引用おわり)

(上掲 p6より引用)
ぼくの目の前にいる団野村は、ソフトな口調で話し、感情をあまり表に出さず、無駄口をきかない、物静かな人物だ。よく考えてから、正確にものを言う。欲張りどころか、驚いたことに、初めて野球選手のエージェントをつとめるずっと以前から、すでに独力で億万長者になっていた。
 国際労働法を独学で学んだ彼は、日本のスポーツ界を二十一世紀に向けて改革する必要性を、理路整然と語ってくれた。さらに、自分が代理人をつとめた野茂や伊良部、吉井らについて、畏敬の念を込めて語った。
「彼らはアーティストです」と団。「しかも天才的なね。ヴァン・ゴッホや、モネや、ヒロシゲみたいに。だから彼らは、特別扱いを受けて当然なんだ」
(引用おわり)

(上掲 p8より引用)
 やがてぼくは、彼の心の奥に、激しい怒りが潜んでいることに気がついた。
 怒りの源は、どうやら数十年にさかのぼる。”純血”をモットーとする日本人社会にも、北米の白人社会にも受け入れられない、いわゆる”ハーフ”として生を受けた少年の、不幸な子供時代と大いに関係があるに違いない(団の父親はニューヨーク出身のユダヤ人、母親は周知のように日本人である)。
(引用おわり)

(上掲 p62〜66より引用)
 アメリカ人と日本人のあいだに生まれた彼は、ハーフゆえに、はらわたが煮えくりかえるような思いをしながら日本で育った。プロ野球の硬直したシステムに正面から体当たりするのに、これほどふさわしい素地を持った人間はいない。
 団野村は、一九九五年五月十七日、東京、築地の聖路加病院で、「ドナルド・エンゲル」として産声をあげた。父親は、米軍映画協会の行政事務官、アルヴィン・ジョージ・エンゲル、四十歳。母親は、伊東芳枝(のちに野村沙知代)、二十四歳。二人のあいだでの初めての子供である(二年後には、次男ケニーが誕生)。
<中略>
ハイスクールを卒業するとすぐに渡米した彼は、カリフォルニアのポリー大学で、ジョン・スコリナスというコーチの指導のもとに、野球を続けることになった。
<中略>
 その後、日本に帰国して「伊藤克晃」に戻り、読売ジャイアンツの球団テストを受け、三次試験のうち二次試験まで合格した。
 母親と野村克也のスキャンダルが、連日、新聞の一面をにぎわすようになるのは、このころだ。
<中略>
 ほぼ同じくして、団野村も読売ジャイアンツに切り捨てられた。なにしろ、このチームは”イメージ”にこだわることで有名だ。
<中略>
 ヤクルトに入団すると、さっそく冷徹で知られる広岡達朗監督のもとでプレーすることになった。
 広岡は選手たちに、マニアックなまでに”全力を尽くせ”と命じる監督だ。ときには丸一日トレーニング漬けにするばかりか、絶対服従を要求し、グランド外の生活にも口を出す。肉食、アルコール、タバコを禁じるのもその一環だ。勝ってにバントしたレギュラーの遊撃手が、永久にベンチをあたためさせられたこともある。
 そんな広岡采配による選手生活が、しばしば旧大日本帝国の軍隊生活にたとえられるのも無理はない。一九七八年にヤクルトが優勝したときには、巷にこんな噂が広まった。
 ――選手たちが広岡におびえだしたからだ。優勝しなければ、どんな目にあわされるかわからない――。
(引用おわり)

(つづく)

次回は、「近代人」野茂英雄の闘い、です。

2002/03/16(Sat) No.01

プロ野球を通した日本社会論 4  〜近代の三段階進化論(仮説)〜 せいの介
(小室直樹『日本国民に告ぐ ー 誇りなき国家は、必ず滅亡する』P145、第四章の副題より引用)
――近代国家の成立には、絶対神との契約が不可欠
(引用おわり)

(上掲 P150〜152より引用)
 はじめに、なぜ、立憲政治(憲法政治)は、機軸としてキリスト教的神を必要とするのか。このことから、考えはじめたい。
 立憲政治すなわち憲法政治とは、憲法をもって根本規範とする政治のことである。この際、憲法(根本規範)は、主権者と人民との間の統治契約である。この統治契約が根本規範であるためには、それは絶対でなければならない。
 絶対契約という考え方は、啓典宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)に由来する。啓典宗教における契約は、本来、神と人間との契約である。ゆえに、その契約(命令)は絶対である。
 神との契約が宗教の根本にある。ユダヤ教、イスラム教においては、神との契約が(宗教の)戒律であり、(社会の)規範であり、(国の)法律でもある。戒律、規範、法律は同一である。
<中略>
 憲法が成立しうるためには、タテの絶対契約(神との契約)が、ヨコの絶対契約(人と人との間の契約)に転換されなければならない。西方キリスト教諸国においては、資本主義発生期に、この転換が行なわれた。資本主義における契約は、対等な両当事者(two parties)の間の合意に基づくヨコの契約(人と人との間の契約)であるが絶対である。
統治契約たる憲法もこれと同じ。
(引用おわり)

ここから先は、私の見解。ヨーロッパ近代というのは、三段階に発展してきたのだと思う。

絶対神 →「個人」→ 近代

最初の絶対神は、普通の日本人は「神」と訳している(私は、これでは日本人は絶対に理解できないと思うから、必ず「絶対神」と書くようにしている)。神、個人、近代。この三つの言葉は、今日(こんにち)の日本では、珍しいものでもない。一般人が日常会話でも使用している。だから、日本人は、これらが当たり前のように存在していると思い込んでいる。しかし! これらは、小室博士が喩えによく用いる優曇華の花(3000年に一度しか咲かない)のようなものである。普通なら、人類社会に存在しないものばかりなのである。

(小室直樹『「天皇」の原理』p33〜34より引用)
 当時、エジプトとメソポタミア地方とは、世界文明の中心。絢爛豪華の極みであった。イスラエル人なんか足元にも及ばない。及びっこない。
 古代においては、宗教こそ文明・文化のエッセンス。エジプトの宗教、メソポタミアの宗教は、それぞれ世界最高。辺境の民にすぎないイスラエル人は、エジプトの影響、メソポタミアの影響を受けないことにした。ここが、イスラエルの民が宗教的天才たる所以。
<中略>
 エジプトの宗教のエッセンスは何か。人間の死後はどうなるのか。この問題に答えることにある。
 そこで、イスラエルの宗教は、「死後」の問題には、一切、、沈黙することにした。
 論より証拠、あの浩瀚な旧約聖書のどこにも、「死後」は論じられていない。
<中略>
 次に、神の偶像を厳禁した。神像を作ったり、神の姿をえがいたり……これらを、偶像崇拝なりとして厳禁した。
<中略>
 偶像崇拝の禁止は、マクルーハン理論を、三千年以前に先取りしていたという意味で、刮目に値する。
 マクルーハン理論は、先刻ご存じの方も多いであろう。要約するとこうなる。テレビで、ある学者が、ある学説について説明したとしよう。効果の大きさは。そのほとんどは、この学者の態度、物腰、人相、服装、口調、背景……などによって決定される。語った内容が占める割合は極めてすくない。
<中略>
 ところで、宗教活動の効果のほとんども、その背後の「道具立て」によって決定されるとなると、イスラエル人のような後進民族にとってはコトだ。
 神像にしても、エジプト宗教の道具立て、桁外れに卓絶している。
 イスラエル人が競争したら惨敗するに決まっている。
 イスラエル人は、神を絶対に具象化しないことにした。
 これも、イスラエル人が、宗教的天才であるもうひとつの理由。
 神は姿も見えず、手に触れることも出来ない。神の声は、預言者を通じてのみ聞えてくる。
 かかる「神」の発明がいかに偉大なものであるか。
 縷説を要しないであろう。
 エジプトの宗教も、メソポタミアの宗教も……古代宗教のほとんどは――それがいかに高度なものであっても――跡形もなく
消え去ってしまった。
(引用おわり)

一神教は、多神教に比べて、あまりにも強すぎるので、世界中を席捲している(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)。だから、なんだか、一神教の方が当たり前であるかのような印象を受けてしまうが、そうではない。一神教は、例外中の例外で、ほとんど圧倒的多数の宗教は、多神教だったのである。絶対神とは、今から三千年以上前のメソポタミアで、奇蹟的に誕生した概念である。この地域でのみ、たった一度だけ誕生したのである。

そして、一二世紀。キリスト教の修道院の中で、「個人」が誕生した。これも、奇蹟である。普通ならば、人類社会は、すべて「世間」であり、「社会」は存在しないのである。これは、既に説明した。

更に時代は進んで……。

(副島隆彦『政治を哲学する本』p188より引用)
 今から、五百年前、すなわち、一六世紀に西ヨーロッパで「科学=学問(Science)」というものの考え方が興ったのだ。一二,三世紀頃には、修道院の僧侶(モンク)たちが、神への祈り中心の信仰生活をしていたのだが、そのうち「合理的精神(ラショナル・マインド)」に目覚めて、「考える」とか「知る、喜び」(ちなみにphilo-sophy フィロ「愛する」、ソフィア「知を」の意味から、「哲学」が生まれた)とかいう考え方を、手に入れるようになった。彼らは、キリスト教の聖典である『聖書』だけでなく、古く、ギリシャ古典哲学の、とりわけアリストテレスの学問体系に巨大な秘密が隠されていることに気づくようになった。このようにして、僧侶たちの中から、初期の「科学者=学者」が
誕生するようになった。
 この当時、西欧の僧侶(=初期の学者)たちは、アラビア語(イスラム教)経由で、アリストテレス哲学を学んだのだという。
 マイモニデスという、一四世紀のスペインにいたアラビア人イスラム学者が、アリストテレス哲学の注釈学者(ザ・コメンテイター)として、ヨーロッパ世界に、合理的精神=学問=科学というものを教えたのだ。
(引用おわり)

(アラン・ド・リベラ『中世知識人の肖像』p138 より引用)
ラテン人たちは彼を、ラビ・モーセ、エジプトのモーセ、時にはマイモニデスと呼んだ。彼は、アルベルトゥス・マグヌスが証言するところによると、ユダヤ人の神学者だった。
 『イエメンへの手紙』の中で、自らを「スペインで最も謙虚な賢人のうちの一人」と評しているマイモーニデスは、アンダルシアのユダヤ人として、三つの一神教(ユダヤ教、イスラム教、キリスト教)の神学的伝統にじかに触れていた。そして彼は、それらの宗教と、ギリシャ、シリア、アラブの哲学との複雑な関係の歴史についても注意を払っていた。
<中略>
ラテン人たちがイスラム神学の断片を知ることになったのは、彼のおかげである。しかし彼は、ラテン人たちにそれ以上のことを明らかにした。ラテン人たちに、哲学、信仰、神学、を区別することを教えたのは、アヴェロニスではなくて彼であったし、ラテン人たちに、彼が自分自身体験したわけではなかった歴史の大筋を教え、そこから間接的に教訓を得ることができるようにしたのも彼である。そしてのちに彼は或る知的戦略を実行に移すのであるが、それは「二重真理」〔騒動〕のおかげで完全に陰にまわってしまった。
 マイモニデスの立てた問題は、世界の永遠性ではなく、神の存在である。神の存在を証明することができるかという問題である。
<中略>
それに対して哲学者たちは、神の存在証明を宇宙の永遠性の証明に基づかせていた。
<中略>
というのもこの方法は、世界の永遠性という、いかなる証明もそれを反証しええず、それゆえ科学的意味で仮説として役立ちうるような言表から出発するからである。したがってマイモニデスによると、神学者はこの仮説からこそ出発しなければならないのであって、「神の存在、神の唯一性、神の無形性」という、啓示宗教にかなうあらゆる神学の三つの
根本的原理を合理的かつ論証的に、したがって哲学的に証明するためには、信者はこの仮定をこそ信じなければならないのである。
(引用おわり)

(副島隆彦「今日のぼやき」[120] より引用)
この ratio ラチオ は、通常、 サイエンス(近代学問)の方に属する。だから、神の秩序、神学 (セオロジー)の方には所属しない。
(引用おわり)

レイシオは、神学の側でなく、サイエンスの側に帰属する(神学とサイエンスが巨大な対立軸)。恐らく、絶対神からではなく、古代ギリシャの哲学(知の学)から、誕生したのではないか。この時代のギリシャは、多神教だから、神学とは関係ない。だから、絶対神 →「個人」→ 近代、とは別の系譜だろう。その後、長らく、哲学は神学の下女の地位に甘んじていた。だから、レイシオも、一二、三世紀まで、封印されていたのである。この辺も、神学とサイエンスという人類の巨大な対立と関係しているのではないか(この辺は、私は、まだ解明できていない。予想で書いている。副島先生の解説待ち)。

ヨーロッパ、特に、近代が誕生したヨーロッパ北部は、ずっと辺境だったのである。ゲルマンという土人が、魔術と共に、伝統主義的な毎日を送っていた。キリスト教が、この地域に入ってくるのは、六世紀のことだ。この時代は、イスラムの方が文明や学問の水準は高かった。パワーバランスが崩れるのは、一五世紀だった。レコンキスタによって、イベリア半島からイスラム勢力が駆逐されている。


(副島隆彦「今日のぼやき」2000.5.1 No2 より引用)

ですからね。大思想家にして人類最高峰のソシアル・サイエンティストであるマックス・ウェーバー(このことについては日本人学者たちの間にも異論なし)が、あれほど、「近代資本主義は、この地域でのみ成立したのである」と、書きつづけたのです。日本は当然、「この地域」には、入りません。

「この地域」とは、オランダを中心にして北ドイツと、北フランスと、イギリスです。。

(引用おわり)


この近代というのも、優曇華の花で、本来なら、滅多に咲かないものだ。一二世紀に修道院内で生まれた「個人」と、イスラム学者によってもたらされた「レイシオ」と、宗教改革(プロテスタンティズム)と
が融合することによって、一六世紀に、奇蹟的に近代が誕生した、というのが、私の仮説。つまり、「個人」(個人概念)がなければ、近代は誕生しえなかった。「個人」が成立したから、宗教改革が起こった。現に、イスラム社会は、近代へ進化を遂げることはできなかった。

三度咲いた優曇華の花は、人類社会における三度の突然変異である。それが、なぜ、世界を支配するに至ったのか。私は、ダーウィンの進化論は支持しないが、この場合は、これを使うと見事に説明できる。ダーウィン進化論とは、生物の進化を、突然変異と自然淘汰(適者生存)とで説明する、考え方である。つまり、突然変異で生まれた、周りの仲間よりも首の長い個体は、他の個体よりも食べ物が得やすいので、この個体の子孫が増加し、キリンになっていった、という考え方である。19世紀に、ヨーロッパによる植民地拡大の正当化にも使われた。

私は、それぐらいに、「個人」の誕生を重要視している。だからこそ、「個人」の位置付けが低いことに不満をもっている。欧米知識人が書いた、西洋史、思想史などを読んでいても、「個人」の誕生の評価が低すぎると思う。近代を支える、諸要件の一つとして挙げられている程度だ。日本の学者による評価などは、どうでもよい。「個人」の誕生は、絶対神と近代の誕生にも匹敵している、とまでは言えない。しかし、ここまでは、見えている。日本や他のアジア諸国が、真の近代国家を目指すのであれば、その前に、「個人」(個人概念・観念)が浸透して、「世間」が解体されてなければならない。だから、私は、アンチテーゼとして、ここまで、「個人」を重要視する。

それでは、三段階進化論を用いて、現在の人類社会を四段階に分類してみよう。

1、多神教・「世間」・前近代  東アジア(日本も!)、東南アジア、インド、アフリカ
2、一神教・「世間」・前近代  イスラム
3、一神教・「社会」・前近代  カトリック(?)、東方正教会(?)、中南米(?)
4、一神教・「社会」・近代   プロテスタント

中南米もカトリックといえば、それまでだが、ヨーロッパのカトリック社会と一緒に扱うわけにもいかない。それから、一神教の生み親、ユダヤ教徒は、どうなるのか。微妙だな。

昔は、すべての人類社会は、第一段階だった。あの日、あの時、あの場所で、ユダヤ人が絶対神を生み出すまでは。この、近代までの三段階は、関門を順番に突破していかなければ、先には進めない。「風雲たけし城」のようなものだ。だから、多神教の「社会」とか、近代の「世間」などは存在しない。日本社会は、もちろん、第一段階である。日本人は、絶対神を理解していないから、次に進みようがないのである。

現在の人類社会においては、第四段階が、最終進化形態である。どうして、そう言えるんだ。アジア社会よりヨーロッパ社会の方が先行しているなんてお前は、西洋礼賛主義者か? そのような、相対主義を背景とした質問・反論が飛んでくるかもしれない。

お答えしよう。何を以って、そう言うのか。それは、戦争の強弱である。負けたら終わりなのだ。土人は、アメリカ大陸やオーストラリアやアジアにおいて、ハンティングの標的でしかなかったのだ、ここ500年間。日本の土人も、広島・長崎で、最新式のハンティングの標的になっている。くれぐれも言っておくが、この第四段階の国家(近代国家)に、第三段階より前の国家(前近代国家)が勝ったことはない。かつてのフン族やモンゴル軍のように、アジアがヨーロッパを蹂躙することなど、遠い夢物語なのである。悔しければ、第四段階を乗り越えるしかない。欧米が、イスラムを乗り越えて、人類史上最強の社会を築いていったように。

ちなみに、副島隆彦が、よく使用する「土人」とは、どこまでが含まれるのであろうか。まさか、「個人」に向かって、土人と呼ぶわけにはいかないだろう。イスラムも、土人ではないかもしれないなあ。いずれにせよ、第一段階の日本人は、間違いなく、土人に分類されるであろう。

最後に、「個人」と関連して、阿部謹也氏は、非常に興味深い指摘をしているので、触れておく。

(阿部謹也『「まなびや」の行方』p72より引用)
いまのお話もそうですが、アメリカやヨーロッパの場合は、個人が確立しているというけれど、それは他との、社会との関係ができているという意味なんです。個人が一人で確立することはありえないわけです。
<中略>
 他との関係の中で、どういうことが「個人の確立」といえるかというと、「個人の生き方と社会との関係がわかっている」ということ。つまり、「他と調整をしながら生きている」ということです。「これ以上やれば、社会からなんらかの処罰がくる。だからここまではやらない」、あるいは「ここまではやる」と考えられることなんです。その場合、たとえばここまでやる価値があると思えば、突出しても頑張ってやるわけです。社会とぶつかっても、そこまで頑張る人もたまにはいる。優れた人の場合もあるし、だめな人の場合もある。だから犯罪が起こるわけです。
(引用おわり)

(阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p73より引用)
 個人観念というものは、ヨーロッパで一二世紀に生まれたものです。それが徐々に広がって近代に至った。これがヨーロッパの民主主義や議会政治の根底にあるのです。
 日本は急速に国家を近代化しなければならなかったので、鉄道や軍隊、教育制度もヨーロッパを真似てつくりました。
 しかし、「個人」の観念だけはつくれなかった。
(引用おわり)

(『日本人はいかに生きるべきか』p75より引用)
 日本も、戦前はずっと個人を抑えこもうとしたのです。ところが戦後は個人を抑えこまないようにしたために、個人が個人でなくなって、エゴになりつつある。個人というのは社会との関係の中で成り立つものですから、それがなくなると、エゴになるのです。しかも日本にはエゴを規制する社会がまだ十分に成立してはいないのです。
(引用おわり)

そういうこと。私が、とやかく口をはさむ必要もない。

(『日本人はいかに生きるべきか』p149より引用)
 個人がエゴになりつつある現在、個人の将来を考えてもあまり実り多い将来を描けないんじゃないかと私は考えています。といいますのは、さっき言いましたように、日本の個人、特にインテリは、自分たちがヨーロッパの個人とは全然違うんだということに気づいていない。その一番の理由は何かというと、学問なんですね。日本の学問はヨーロッパ、
アメリカから輸入することはしょうがないことなので、そこから始まるしかないんですが、ヨーロッパ、アメリカの学問自体が、本来問題を抱えていたわけです。
 どういう問題かというと、近代的な学問は、ガリレオ、デカルト以後始まったわけです。言い換えれば、主観というものが確立されて以来のことなのです。デカルトが「自分は考えている。したがって自分は存在している」と言えたということは、やはり近代学問の出発点なのです。しかし、そのままの形で、だから客観があるんだというふうにはならないにもかかわらず、そこから客観が指定されて、客観的世界が実在するということになり、客観的世界の測定術とか技術が進んで近代自然科学が生まれた。
 近代自然科学は、そういう意味ではこれまでのところは成功を収めたんですが、しかし、その近代自然科学の成功の果てに何があるかというと、言うまでもなく戦争があり、災害があり、食品汚染があったわけです。そういう状況の中で今私たちが生きているわけで、そういう状況の中で近代的学問というものは何であったかということを、もう一度考え直す必要があるわけです。
(引用おわり)

近代学問500年の歴史は重い。重たすぎる。我々日本人は、大学や研究機関という空間の中で、本当に学問をやっているのだろうか。あの、大学教授などという肩書きをもつ人々とは、一体何者なのだろうか。

(つづく)

さて、前置は終わり。長かったなあ。これから本題です。本題よりも前座のほうが、濃いかも。次回から、やっと、プロ野球の話へ。

2002/03/13(Wed) No.01

プロ野球を通した日本社会論 3 〜「個人」から近代へ〜 せいの介

 今回と次回で、「近代の起こり」と、日本社会の位置について書く。
要点を先に書いておくと、絶対神 →「個人」→ 近代、こんなところ。この系譜は、西洋近代(学問)の根幹・真髄なので、私ごときが触れてはいけない部分である。 だから、この先の、プロ野球界と日本社会の分析に必要不可欠な事柄のみ、不承不承ながら書いておく。

(阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p73より引用)
 個人観念というものは、ヨーロッパで一二世紀に生まれたものです。それが徐々に広がって近代に至った。これがヨーロッパの民主主義や議会政治の根底にあるのです。
(引用おわり)

(『日本人はいかに生きるべきか』p75より引用)
ヨーロッパでは個人が生まれたので、各国政府は個人をなんとか抑え込もうとしたわけです。しかし抑え込めなくて妥協に妥協を重ねてきた。それが近代史です。ヨーロッパの近代史というのは、生まれてきた個人をどうやって押さえ込むかということの、成功と失敗の例に過ぎないのです。
(引用おわり)

(色摩力夫・小室直樹『国家権力の解剖』p7より引用)
 軍隊と警察こそ、近代国家の爪牙である。
 近代主権国家の権力は、キングコングよりもゴジラよりもおそろしい怪獣リヴァイアサン(Leviathan―旧約聖書『ヨブ記』に出てくる怪獣)である。
 その怪獣の爪牙が、すなわち軍隊と警察。
 このことを理解することが、近代デモクラシーを理解するためにも、山海関のごとき第一関であるので、若干、敷衍しておきたい。

(副島隆彦『政治を哲学する本』p278より引用)
 このように「財産権」と「自由権」は、そもそも誕生のときから合体しているものなのである。
<中略>
さらに私たちは、この「個人財産の所有権」という考えと「国家主権(国家の所有)」という考え方もまた、ヨーロッパ史上、同時に発生したのだ、ということを、知らなければならない。それも一三世紀という近代直前(プレ・モダン)のときにであった。
(引用おわり)

(アラン・ド・リベラ著 阿部一智・永野潤訳『中世知識人の肖像』新評論 p159 より引用)
 一三世紀における知識人の出現は、西欧の歴史にとって決定的な契機であった。
(引用おわり)


私のイメージとしては、こんな感じ。どんな社会でも、ピラミッド型をしていますわな。12世紀以前のヨーロッパは、他の社会と同じく、頂点には、皇帝とか王とか法王(主権)がいた。底辺には、個人がいた(まだ「個人」には成っていない)。そして、一二世紀に、底辺の個人が「個人」になって、これが、ピラミッドの上の方に圧力を加え始めた。三部会が成立したのは、この頃。財産権が、自由を、つまり「個人」を保証するから、「個人財産の所有権」という考え方が発生する(所有権という概念は聖書の時代から存在する)。貴族や僧侶が、税を巡って議会に参加し始める。恐らく、坊主たちが貴族や裕福な商人らに入れ智恵したのだろう。こうして、だんだんと、「世間」が解体して、「社会」が出来てくる。時を同じくして、ピラミッドの頂点では、王や法王が力をつけ、ピラミッドの下に圧力が加わる。両者が、その中間あたりで、16世紀に衝突し、ここに近代が始まった。

そして、双方が更に力を増す。やがて、主権(ピラミッドの頂点)は、
絶対君主(絶対王政)を経て国家主権(リヴァイアサン)へ。「個人」は個人主義の確立へ、と、それぞれが進化する。これが、近代の進展と平行している。そして、ピラミッド全体が、前近代から近代へ進化していった。こんなイメージなんですけど。どうですかね。


(ノーマン・デイヴィス著、別宮貞徳訳『ヨーロッパ』p331〜332 より引用)

 個人主義は西洋文明固有の特質のひとつと喧伝されているが、ミシェル・ド・モンテーニュは個人主義のパイオニアのひとりといってよい。

 

この世で最も偉大なことは、いかにすれば自分自身でありうるかを知ることである。人は誰しも自分の前方に目をやる。しかし私は私自身の内側を見る。私は自分以外のものに関心を持たない。絶えず自分自身を省みる。私が命じ意に従わせるのは私自身である。私は私自身を吟味する。――幾分かは社会に負うところもあるが、大部分は自分自身に負っているのである。他者に自分を貸すことも必要である。しかし自分を与えるのは自分自身のみであるべきだ。
[Montaigne,Essais(1580)、邦訳はモンテーニュ『エセー』岩波文庫ほか]

 個人主義の源はプラトン哲学、キリスト教神学の霊魂に関する部分、および中世哲学の唯名論にもとめられる。しかしその格段の高まりはルネサンスとともに訪れた。ブルクハルトが、この時代の特徴として絢爛たる個人群像をあげているとおりである。人間存在に対する文化的関心、良心に対する宗教的関心、資本家の企業に対する経済的関心などが、すべて、個人を舞台の中央に押し出した。ロックやスピノザをはじめとする啓蒙運動が」このテーマを練りあげた成果、「個人の自由」と「人権」がヨーロッパの議論によく表われる話題として加わった。
 十九世紀になると個人主義の理論は多様な流れに分岐発展する。カントは抑制のない個の利益の追求は倫理に反すると述べ、個の利益と社会的利益の矛盾の解消はステュアート・ミルの『自由論』(1850)の登場を待つことになる。
<中略>
 二十世紀には、社会主義とファシズムの双方が個人主義に侮蔑の目を向ける。民主主義国家においてすら、増長慢心した官僚政治が、本来ならその仕えるべき主である個人を抑圧することたびたびだった。これに対するネオリベラルの反応は、一九二〇年代の「ウィーン派」となって力を増す。ウィーン派のリーダー、カール・ポッパー(1902−94)、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス(1881-1973)、フリードリヒ・フォン・ハイエク(1899-1992)は全員国外へ移住する。ハイエクの『隷従への道』(1944)と『個人主義と経済秩序』(1949)は戦後の新保守主義者を教育するものだった。ハイエクの熱烈な信奉者は憤然として次のように公言している。「社会なるものは存在しない」

(引用おわり)


(副島隆彦「今日のぼやき」[120] より引用)

私が、実感としてわかる、西欧近代・個人主義の態度とは、ごく最近の体験で言えば次のようなものだ。私は、奥さんに内緒で、アメリカ人の友人とお酒を飲んでいた。携帯電話がなって、「パパ。今、どこにいるの」と妻から聞かれた。そのとき、私は、咄嗟に嘘をついて、奥さんに別の場所を言った。そのことの証明として、私は、自分の友人のアメリカ人に、電話口に出てもらって、奥さんに、「そのとおり」と言ってもらおうと思った。しかし、この「友達がいのない」アメリカ人は、私の為に、すすんで口裏を合わせてくれなかった。

これが、個人主義だろう。日本人の友人同士のように、咄嗟の判断で、自分の嘘の輪のなかに、友人だからと思って、勝手に入れられることを彼らは、拒絶する。自分の意思で決めなければならない事態であるかどうかを、一瞬のうちに俊敏に見抜いて、判断する。「水臭いなあ。友達だろ。俺の利益になるように行動してくれよ。融通を利かして」というのが、欧米近代人には、通用しない。私の肩を無前提に持って、友達だから、の馴れ合いで、嘘吐きの輪の中にはいらないのだ。それが個人主義なるもののひとつの現われだ。

(引用おわり)


(副島隆彦「今日のぼやき」2000.5.1 No1より引用)

さて、ヨーロッパ近代は、1574年のオランダの「ライデン市の(スペイン帝国からの)解放」を、始まりとします。この年が、「近代市民社会の成立の日」と呼ばれています。そのあと、オランダ独立運動とプロテスタント革命の血なまぐさい嵐が、吹き荒れ、1648年に、ウエストファリア条約が結ばれました。これは、オランダにとっては、ミュンスター条約です。これは、「(王への)忠誠破棄宣言」とも呼ばれます。これが、(1)近代憲法典の原型ともされます。(法学)

細かくは、省きます。高校の世界史のお勉強をしているのではありませんから。じつは、この、1648年前後に、その他に、オランダで人類史上で重要な、4つの事柄が、起きています。

(2)政治体制としての「民主政体」 democracy がうまれました。デモクラシーと republic 「リパブリック、共和政体」のちがいについては、ここでは、教えません。 (政治学)

(3)経済システムとしての「近代資本主義」 a modern capitalism が、このとき成立しました。「市場経済」の成立と言っても同じです。この年に、「コーヒー・ハウス」という、大商人たちの溜まり場が出来て、ここで、「株式会社」(コルポラツィオーン)ができました。共同で出資して、制限責任(リミッテド・コンパニー)の船を、東洋貿易に送り出しました。(経済学)

(4)活版印刷技術も、ほんとうは、グーテンゲルグよりもはやく、オランダで始まっていました。いまでいうハイテク・エンジニーアたちであるレンズ磨き職人たちも。

(5) スピノザと、解析学の祖ライプニッツが出会っています。ホッブスが逃げてきています。ロックもルソーもデカrトも後世、ほとんどの自由思想家が、マルクスまでふくめて、オランダに逃げてきています。(近代政治思想)

そのほか、いっぱいありますが、このように、(1)法学としての近代憲法体制。(2)政治学としての民主政体。(3)経済学としての近代資本主義。この3つは、じつは、同じ事の、3方向からの観察に過ぎないのです。このおおきな事実を、日本の法学者・政治学者・経済学者たち自身が知らない。

彼らが、知らないということを、私は、知っています。なぜなら、私は、『アメリカの秘密 』で書いたとおり、「私は、ここが、『猿の惑星』であると、気付いてしまった、若い猿」だからです。

(1)(2)(3)が、同じものの3方向からの観察であり、言葉がちがうだけのことだ、と知っている人から上を、「近代人」 moern man と言います。

(引用おわり)


近代(憲)法 = 資本主義 = (リベラル)デモクラシー
これを知っている人から上を近代人というのだ。これを、近代の三面等価(三位一体)という。

(小室直樹『日本国民に告ぐ ー 誇りなき国家は、必ず滅亡する』p111より引用)
 経済における資本主義と、法律における(形式合理的な)近代法と、リベラル・デモクラシーの政治とは、いわば三位一体である。それらのうちの一つが欠けても他の二者は必ずうまくゆかないことは、最近、ますます明らかにされてきたが、これぞ、古今東西を問わず不滅の真理である。
(引用おわり)

それから、どうしても、目的合理的行動(思考)について触れておかねばならない。

(『これでも国家と呼べるのかー万死に値する大蔵・外務官僚の罪』p164より引用)
 伝統主義に呪縛されているかぎり目的合理的行動はできない。
 目的合理的行動とは、目的が与えられるとき、この目的を最適に達成できるように、自由に組織し自由に行動することを言う。たとえば、完全競争市場における企業の利潤最大行動、消費者の効用最大行動などがそれである。
(引用おわり)

これでは、なんだか、あまり分からない。伝統主義的行動と対比させれば、よく分かる。

(『日本国民に告ぐ ー 誇りなき国家は、必ず滅亡する』P126〜128より引用)
「伝統主義」――ヴェーバー社会学における最も大切な分析法の一つである。
 伝統主義とは何か。それは、「伝統を重んじる主義」という意味ではない。一概に“伝統”と言っても、よい伝統も悪い伝統もあるであろう。「よい伝統は守り、悪い伝統は棄てる」というふうに合理的(目的合理的、あるいは価値合理的)に伝統の取捨選択を行なうこと、これをヴェーバーは「伝統主義」とは呼ばない。よい伝統をいくら重んじたからとて、それは「伝統主義」とは呼ばない。
 では、伝統主義とは何か。過去に行なわれてきたというだけで、それを正しいとすることである。
<中略>
 しかし、永遠の過去(過去にやってきたことは正しい)が支配しているとき、「これを変える」こと、すなわち「革新」は、ありえないのである。資本主義だけではない。近代法もリベラル・デモクラシーも、伝統主義を打破しないところにありえないのである。
(引用おわり)

ちなみに、阿部謹也氏は、『日本人はいかに生きるべきか』p98 で、「合理主義的近代 伝統主義的世間」というように対照させている。

目的合理的行動(思考=脳=言葉)というのは、「レイシオ」と関係しているから、もうムチャクチャ重要なのだ。どれくらい重大なのか、というと、目的合理的行動をとれる近代国家に、前近代国家は一度として戦争に勝ったことがないくらい重大なのだ。いまだ、たったの一度もない。負けなかった(撃退した)ことならある。しかし、勝ったことは、一度もない。近代がヨーロッパで起こってから、他の国々(前近代諸国)は、負けっぱなしの500年を送ってきたのだ。

(つづく)

次回は、「近代の三段階進化論(仮説)」です。

2002/03/12(Tue) No.03

プロ野球を通した日本社会論 2 〜「個人」について〜 せいの介
前回、書き漏れがあった。『「世間」とは何か』の著者は阿部謹也、講談社現代新書 。
今回は、「個人」について書こう。江戸時代、オランダ語の名手・高野長英は、インディヴィデュームを、このように訳した。

(阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』朝日新聞社 2001年 p88より引用)
それを彼は「不可分」、分けられないものとして訳している。訳としては正解なんですね。インディヴィデュームというのは、「これ以上分けられない」という意味で、そこから「個人」という言葉が生まれている。つまりヨーロッパでindividualというのは、「それ以上は分けられない」という意味でつけられたんですね。
 そしてヨーロッパで「個人」というものが生まれたのはいつか。これはかつての西洋史では、ルネッサンスのころだと言われていたんですね。しかし今では一二世紀だということがほぼ判っている。一二世紀に「個人」が生まれたと同時に、「恋愛」も一二世紀から生まれたということがほぼ定説になっています。
(引用おわり)

日本人のやっている一連の行為は、厳密には「恋愛」でない。若い頃は、なんとか「恋愛」らしきことをやっている。しかし、結婚して子供が出来てしまえば、状況は一変する。子供の誕生と同時に、家族という「世間」が誕生してしまうからだ。上に書いてきたように、日本では、個人は「世間」との関係の中で生まれる。だから、子供が誕生すれば、その瞬間に、「ダーリン→パパ」「ハニー→ママ」になってしまうのである。すべては、日本では「個人」が確立していないからである。

本論文の、私の文においては、
「括弧」で括った「個人」は、狭義の個人。これは、基本的に、キリスト教社会でのみ成立。
「括弧」で括っていない個人は、広義の個人。日本にも、この個人は1億数千万人、存在している。

では、「個人」が、いつ、どこで、どのようにして生まれたのか、を観ていこう。

(阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p91より引用)
 なぜ生まれたかということにもちょっと触れておきますと、一二世紀に「個人」が生まれたといえる根拠は何かと言いますと、それは一つは「内面」が生まれたということなんですね。「内面」のない「個人」というのはないんですね。人間は生まれたときには「内面」はない、赤ん坊のころには「内面」はない。そして現在私たちは、自分の「内面」を持っている。
<中略>
 「内面」がなぜ一二世紀に生まれたかというと、これはキリスト教によるものであります。「罪」という概念をヨーロッパでキリスト教が広げていった結果、一二、三世紀に罪の意識が広がっていったということです。キリスト教徒には少なくとも二世紀のあたりから徐々に広まっていって、地中海世界でキリスト教的な生き方を実践し始めたわけですが、それが徐々にガリア地方、今のフランスあたりまで広まっていき、中世のスタイルが決まるわけですね。 一二世紀になると、ヨーロッパ各地の村に教会が建って、キリスト教の影響力が強まってくる。そしてそのなかで人生の目的、あるいは人類の目的などが初めて議論されるようになる。そのなかで「罪」という意識が生まれてくる。
 おもしろいことに日本人には「罪」という意識はあまりないんですね。皆さんも「罪」という言葉は聞いたことがあるでしょうけれど、それはおそらくドフトエフスキイの『罪と罰』とかそういう作品からで、あるいは犯罪との関係で知っているにすぎない。日本社会では「罪」という概念は非常に薄いんですね。もちろん「悪」とか「善」とかいう言葉はありますが、「罪」という概念は希薄なんですね。
 ところがヨーロッパでは、一二世紀、一三世紀ころから、「罪」という意識が非常にはっきり出てくる。この罪意識のありようをここでは詳しくお話しませんが、今の私たちから見て決して不思議なものではありません。「人を殺してはいけない」とか「人に危害を加えてはいけない」とかそういったことも含めて、「罪」という概念がはっきりしてきて、それに背いた行動をしたときに、その行動を司祭の前で告白して、そして罪の許しを乞う、という道がついたんですね。罪を許さずに生きようとしているうちに、自分の行動をあえて告白して罪の許しを得るという道がついた。これが「告白」という――コンフェシオンですね。
 フランスにフーコーという哲学者がいます。彼はヨーロッパの歴史のなかでいちばん重大な転換期は何かということを問われれば、おそらく一二一五年の「ラテラノ公会議」と答えるだろうと言っています。私は十年以上前から、ラテラノ公会議について、とくにそれがヨーロッパの個人形成史のなかで重要だということを言ってきたのですが、ようやくそれが一部の教科書や参考書に載るようになったのですね。このラテラノ公会議では、「告解」が義務化されただけでなく、ユダヤ人には黄色のバッジをつけることが義務化されたことを含めて重要な会議だったのです。ラテラノというのは、ローマのある教会のことを言うんですが、ここでこの会議が行われた。ついでに言いますと、ローマ教皇が出した「勅令」その他はみな教会が出したことになっている。本当は教皇庁という事務局が出すんですが、それを教会が出したことにしているから、ラテラノという場所をとってラテラノ公会議と言ったりしているんです。
 いずれにしても、「内面」というものが発見されるのは教会が告解を義務化したからですが、個人の成立にはもう一つ条件があって、それは都市がそのころ生まれてきたことです。それまでは農村社会だったんですが、都市が発生して人は都市で暮らすようになる。それまでは農村ですから子どもは父親の職業を継いで、父親が農民であれば子どもはみんな農民。しかし農業は兄弟全員では継げませんから、一人が継いで、あとの二、三人の息子はそれを継げないまま一生を暮らすことになる。ところが都市ができますと、都市で職人になったり司祭になったりする道がひらける。つまり職業選択の幅が広がったわけですね。そういうなかで、自分の将来をどう過ごすかということを考えることができるようになったということも、「個人」が生まれる背景の一つとしてある。
 つまり、告解の教会による義務化と、それから都市の成立とによって「個人」が生まれたと言ってもいい。そして「恋愛」というもののそのなかで生まれてきた――こう言ってもいいでしょう。
(引用おわり)

(阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p123より引用)
 私は、教養には、「個人の教養」と「集団の教養」があると考えています。
 個人の教養とは、個人が「いかに生きるか」という問いを自分自身に対して発することです。
 この「いかに生きるか」という問いが実質的な意味をもつようになったのは、一二世紀以降の西欧社会にあってのことです。その頃、西欧では都市が成立し、そこで新たな職業選択の可能性が開かれました。農村出身の子弟は都市でギルドやツンフト(手工業組合)の職人になる可能性があったし、大学に進学し、法律家や官僚、司祭になる可能性も生まれていました。
 このような可能性が開かれた時はじめて、人は「いかに生きるか」という問いに直面したのです。それまでは父親の職業を継ぐことが当然のこととされていましたが、いまや、何を職業とすべきかを考える中で「いかに生きるか」という問いが重要な意味をもったのです。
 これが、「個人の教養」のはじまりです。同時にそれは、「個人」の確立でもあったのです。
 一方、「集団の教養」とは、一般の生活の中に根付いている知恵とか、人間同士の絆のようなものです。
(引用おわり)

(阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p209より引用)
 個人が西欧において成立して以来、個人はあらゆる分野で自己主張をはじめた。最初は大学や聖職者の間で活躍していた個人はやがて農民の中にも広がっていった。国家や社会は新たに成立してきた個人に対して何らかの制約を課したり、抑えこもうとしたが、最終的には成功しなかった。個人の前で自己を確認し、聖ベルナルドゥスによれば、神に対する愛の中で自己を神と対等な関係にまで高めていった。聖ベルナルドゥスによれば、愛し合う関係が神との間で生まれた時、両者は対等な関係に立つという。こうして個人は神と対等な関係にまで自己を高めていったのである。
 一三、四世紀以降に大学が設立された。大学は個人が学ぶ場所として位置づけられ、主として文字や書物を通した学習が営まれたのである。それ以前の知のあり方はこのときから文字と書物にとって代わられた。都市の成立と大学の設立以前においては知は何よりも集団の営みの中で働いていたのであって、修道院たちは一人になることすら出来なかった。読書も食事も寝る時ですら集団の中で行われたのである。手工業者も同様であった。手工業者の世界においては仕事は常に協同で行われ、個々の手工業者の仕事は常に全体の中で評価されていた。しかしそこでもやがて個人の手工業者の名が石に刻まれるようになり、個人が現れてくるのである。大学も最初は集団の単位で組織されていた。
出身地を単位とした地域団体がつくられ、その単位で学生達は行動していたのである。
 しかし大学における学習は原則として個人単位で行われ、学位も個人に対して与えられた。大学は最初から個人の場として生まれたのである。大学における研究と教育は個人を対象として営まれ、教養も個人の生き方について考察するものとなった。大学の外にあった手工業や農業、漁業などにおいては従来どおり、集団としての営みが続けられていたが、動作や身振りなどが学問研究の場すなわち大学においてかつてのような位置を失ってゆくに及んで、集団としての行動もかつてのような地位を失っていった。知識や知のあり方は主として文字と書物に求められるようになっていったのである。
 このような状況の中で手工業者達や農民の協同性に基づく知のあり方は無視され、もっぱら文字や読書に基づく知のみが主要なものとされていった。協同性に基づく知のあり方は現在でもほとんど無視されている。教養が個人の営みとされていったのはこのような事情によっている。では今後の教養についてはどうだろうか。
 以上のように論じてくれば当然予想されるように、教養は決して文字や書物、大学などの独占物ではありえない。
(引用おわり)

(阿部謹也『日本人はいかに生きるべきか』p9より引用)
ヨーロッパにおいて世間は一二世紀ぐらいに解体したのです。
(引用おわり)

(副島隆彦「今日のぼやき」2000.8.23 より引用)
アメリカ、ヨーロッパの近代学問の基礎のひとつは、この書き方の授業があることである。西欧近代の学者の始まりは、修道院の坊主(僧侶、monks)である。彼らが、大修道院の門前町で、金持ちの息子たちを相手にお金を集めて、授業を始めたのだ。リベラルアーツ(教養学、生活に必要な知恵)とよばれる「7科の学」のうちのひとつが、この「文章の書き方指導」( writing,修辞学)である。
(引用おわり)

この「個人」(個人概念)とは、一二世紀に、キリスト教との関係で、中世ヨーロッパの修道院(僧院、初期の大学)の中で生まれたのだ。それを、都市の成立が、あと押ししたのである。そして、修道院の坊主(僧侶、monks、初期の学者)から、金持ちの息子たちに始めた授業を通して、「個人」(個人概念)も伝えられた。その後、「個人」は、金持ちの息子たちによって、手工業者、農民、漁民にまで(つまり社会全体に)広まっていき、「世間」は、解体していった。こういうことではないだろうか。

私は、今、しのび(情報工作員)を、中世ヨーロッパの修道院に送りこんでいる。この辺は、いろいろとおもしろいのだが、それこそ脱線では済まない重大な部分なので、また改めて書くことにする。それから、最後に、一般教養に関しての、副島隆彦の文章を引用しておく。

(副島隆彦『政治を哲学する本』p198〜199より引用)
「一般教養」とは、Liberal Arts(リベラル・アーツ)のことである。これは、簡単に言えば、「生活の知恵」というぐらいの意味で、「人間が、日常生活をおくる上で、知っておいた方がいい簡単な知識・教養」というぐらいのことだ。
(引用おわり)

(副島隆彦『政治を哲学する本』p202〜203より引用)
 リベラル・アーツ(一般教養)について少し補足する。
 リベラル・アーツは、西欧の中世(一二世紀以降)の僧院(=初期の大学)で、教えられた「七科の学」のことである。一四世紀以降のヨーロッパ各地に成立した総合大学(ケルン大学が模範)では、大学は、神学、法学、医学、哲学(フィロソフィ)の四つの学部から出来ていて、このうちの哲学(と訳したのがそもそも大間違いなのだ! 今からでも遅くないから「知の学」と訂正すべきだ)部で習うのだが、「算術、幾何学、天文学、音楽、文法、修辞学、弁証法」の「七科の学」だったのだ。この他に、弁論術という技芸学問があった。これ以上の細かいことについては、ここでは述べない。
(引用おわり)

(つづく)

これで、「個人」の解説は終わりです。次回は、「個人」から近代へ、です。

2002/03/12(Tue) No.02

プロ野球を通した日本社会論 1 〜「社会」と「世間」〜 せいの介
 これを読んでいただく前に、以下の、二つの書きこみを読んでおいていただけると、話が早いです。

[1031] プロ野球を通した日本社会論+ナベツネ少々(こさじ1杯程度) 投稿者:せいの介 投稿日:2002/01/19(Sat)
[1275] 阿部謹也著『「世間」とは何か』(講談社現代新書 1995)を読む かたせさんの[1248]の書きこみへのレスも兼ねて(下)- 投稿者:せいの介 投稿日:2002/02/21(Thu)

もちろん、読んでない人でも分かるようには書きますが。それから、本論文では、基本的に敬称は省略させていただきますので。この「プロ野球を通した日本社会論」の、引用文中の<中略>は、すべて、私・せいの介による中略です。


<ここから、本論>

 まずは、阿部謹也氏の「世間論」について書いておかねばならない。この「世間論」は、なかなか素晴らしい研究だ、と、私は思う。これを土台にして、他の、日本社会論そのものを、体系的に分析・研究していきたいと思っているくらいだ。山本七平『「空気」の研究』とか、浜口恵俊「間人主義」とか、こういった諸研究そのものを。この「世間論」を用いて、まず、日本のプロ野球界を分析する。その後に、日本社会を分析する。

 では、「世間論」の解説から。

(『「世間」とは何か』p13〜14より引用)
 西欧では社会というとき、個人が前提となる。個人は譲り渡すことのできない尊厳をもっているとされており、その個人が集まって社会をつくるとみなされている。したがって個人の意思に基づいてその社会のあり方も決まるのであって、社会をつくりあげている最終的な単位として個人があると理解されている。日本ではいまだ個人に尊厳があるということは十分にみとめられているわけではない。しかも世間は個人の意思によってつくられ、個人の意思でそのあり方も決まるとは考えられていない。世間は所与とみなされているのである。
(引用おわり)

(上掲 p16〜17より引用)
 本書の中で世間については歴史的に説明することになるが、作業仮説としてあらかじめ次のように世間を定義しておこう。世間とは個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結び付けている。しかし、個人が自分からすすんで世間をつくるわけではない。何となく、自分の位置がそこにあるものとして生きている。
(引用おわり)

(上掲 p22より引用)
 「自由からの逃走」という本があるが、もし今突然世間がなくなってしまったとしたら、私達の多くは行動の指針を失って困惑してしまうだろう。日本人は長い間世間を基準として生きてきたからであり、世間もそれなりに個人の位置に気を配ってきたからである。世間の内部では競争はできるだけ排除されている。したがってあまり有能とはいえない人でも、その世間の掟を守っている限りそこから排除されることはない。これを裏からみれば、有能な人がそれなりの位置をうるというわけではないということもできる。いずれにしても窓際族といわれる人の存在は世間が認めるところなのである。
(引用おわり)

(上掲 p27〜p28より引用)
 明治十年(1877)頃に society の訳語として社会という言葉がつくられた。そして同十七年頃に individual の訳語として個人という言葉が定着した。それ以前にはわが国には社会という言葉も個人という言葉もなかったのである。ということは、わが国にはそれ以前には、現在のような意味の社会という概念も個人という概念もなかったことを意味している。では現在の社会に当たる言葉がなかったのかと問えばそうではない。世の中、世、世間という言葉があり、時代によって意味は異なるが、時には現在の社会に近い意味で用いられることもあったのである。
 明治以降社会という言葉が通用するようになってから、私達は本来欧米でつくられたこの言葉を使ってわが国の現象を説明するようになり、そのためにその概念が本来もっていた意味とわが国の実状との間の乖離が無視される傾向が出てきたのである。
 欧米の社会という言葉は本来個人がつくる社会を意味しており、個人が前提であった。しかしわが国では個人という概念は訳語としてできたものの、その内容は欧米の個人とは似ても似つかないものであった。欧米の意味での個人が生まれていないのに社会という言葉が流通するようになってから、少なくとも文章のうえではあたかも欧米流の社会があるかのような幻想が生まれたのである。
(引用おわり)

(p30より引用)
 日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。いわば個人は、世間との関係の中で生まれているのである。世間は人間関係の世界である限りでかなり曖昧なものであり、その曖昧なものとの関係で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえるのである。ここに絶対的な神との関係で自己を形成することからはじまったヨーロッパの個人との違いがある。わが国には人権という言葉はあるが、その実は言葉だけであって、個々人の真の意味の人権が守られているとは到底いえない状況である。こうした状況も世間という枠の中で許容されてきたのである。
(引用おわり)

(上掲 p175より引用)
 斎藤毅氏の研究によると「社会」という言葉は明治十年(1877)に西周が society の訳語として作り、その後定着したものという。日本でこの言葉の初見は文政九年(1826)の青地林宗訳の「輿地誌略」であるが、それは「修道院」Kloofter の訳語としてであった。この「社会」という訳語に定着するまでには実に四十以上の訳語が考えられていた。その中にはいうまでもなく世間という言葉も入っていたのだが、それが訳語として定着することにはならなかった。何故なら久米邦武が述べているように society という言葉は個人の尊厳と不可分であり、その意味を込める必要があったためにこの訳語を採用することができなかったのである。彼らの苦労のおかげで私達は、社会という言葉を伝統的な日本の人間関係から離れた新しい人間関係の場として思い描くことができるようになったのである。
(引用おわり)

(上掲 p175〜176より引用)
 society という言葉は、それぞれの個人の尊厳が少なくとも原則として認められているところでしか本来の意味を持たない。わが国でindividual という言葉の訳語として個人という言葉が定着したのは、斎藤氏によれば明治十七年(1884)頃であり、社会という訳語に訳七年遅れていた。それ以前にはわが国には個人という言葉がなかっただけでなく、個人の尊厳という考え方もわずかな例外を除いて存在しなかったから、この訳語の成立は決定的な意味をもっていた。しかし現実にはいまだ西欧的な意味での個人が成立していないところに西欧の法・社会制度が受け容れられ、同時に資本主義体制がつくられ、こうして成立した新しい状態が社会と呼ばれたのである。その社会はそれまでの人間関係と区別され、それまで古代以来多くの人が用いてきた世間という言葉は、この頃から公文書からは姿を消していった。
(引用おわり)

要約してしまえば、以下の通り。

日本 世間→個人 世間は所与。個人は、すべて世間の中に位置を持っている、世間との関係の中で生まれている。
欧米 社会←個人 個人が集まって社会をつくる。

 ここで、当然、「他の社会(中国、ロシア、南米、イスラムなどなど)はどうなんだ」という疑問が出てくると思う。ロシアや南米は、欧米に入るのか。私もそんな疑問をもった。阿部氏の他の著書でも、これらに関する記述がある。例えば、阿部氏によれば、中国には「個人」に相当する言葉さえも存在しないという。しかし、どうも体系的な研究はなされていないらしい。小室直樹氏の仕事(著書)などを分析すれば、だいたいは分類できるが、私は、まだ途中。自分の脳の中で整理のついていない事柄は、あまり書きたくないので、書かないでおく。

でも、基本的には、個人が確立していない社会が「世間」であり、キリスト教社会以外は、「世間」と判断してよいと思う。

 それから、以下、本論文の私の文においては、「社会」という概念を、次のように二通りに使用するので、留意されたい。
「括弧」で括った「社会」は、狭義の社会。これは「世間」の対立概念。
「括弧」で括っていない社会は、広義の社会。例えば、日本社会やイスラム社会と言う場合は後者。

小室・副島読者には、常識かもしれないが、

神の見えざる手 = 市場 = 疎外 = 構造 = 物神化 = 社会的事実

である。「世間」も、この一種と考えていいだろう。人間活動が生み出したにもかかわらず、人間の意志では如何ともしがたい。ただし、キリスト教社会だけは、この「疎外」(「世間」)を止揚(克服)した。

 では、欧米では確立していて、日本では確立していない、「個人」とは何なのであろうか。次回は、これを考察していこう。

(つづく)

2002/03/12(Tue) No.01

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