法哲学の授業を覗く 第五回 | おくやま |
さて、短編小説である「ビリ−・バッド」Billy Budd によってモラルと法の関係についての問題が示されたわけであるが、もう一つの宿題であったマ−ティン ルーサー キング ジュニア牧師 Rev. Martin Luther King Jr. の「バーミンガム刑務所からの手紙」 "Letter from Birmingham Jail" では、自然法の有名な「不正な法は、法ではない」“an unjust law is not a law” というスローガンが含む哲学的な問題が提起された。 キング牧師というのは皆さんもご存知の通り、60年代に市民権運動を指揮した当時の黒人のリーダー格である。「私には夢がある」“I have a dream”などの名演説によって日本でもちょっと国際政治をかじった人なら誰でも知っている超有名人だ。 このキング牧師が、非暴力ながらも当時のアメリカの法律であった(人種隔離政策)を破ってデモを行い逮捕され、アラバマ州のバーミンガム刑務所に収容されている時に書いたのが「バーミンガム刑務所からの手紙」である。この論文の法哲学、もしくは政治哲学的に一番重要な部分を、ちょっと長くなるが以下に引用してみよう: ある人は私にこう尋ねるだろう。「あなたは他人が素直に従っている法をあえて破るようなことをしているが、これをどのように正当化するんだね?」この問いに対する答えは、「法には2つのタイプが存在する」という事実から見つけることができる: 法には一方で正義 just にのっとった法があり、もう一方には不正な法 unjust laws があるのだ。私は聖アウグスティヌスSaint Augustineの言った「不正な法は、法ではない」“an unjust law is not a law”という意見に同意するのである。 ではその二つの法の違いは何であろうか?どのように正・不正を区別するのであろうか?正しい法a just law というは、神の法the law of God.に調和・適合した、人間によって作られた法a man-made lawである。一方、不正な法 an unjust law というのは道徳法the moral lawとの調和(ハーモニー)から外れた、単なる規定a codeに過ぎないのだ。聖トマス・アクィナスの言わんとするところによれば、不正な法は「永遠法」eternal law や「自然法」 natural lawに基づいていない「人間法」a human law である。どのような法であれ人間の人格を向上させるものは正義であり、またどのような法であれ人間の人間の人格を降下させるものは不正である。よって全ての人種隔離政策法は、魂the soulを歪め、人格the personality を退化させるという点において不正なのである。 偉大なるユダヤ人哲学者であるマ−ティン・ブバー ?Martin Buber の言葉を借りると、人種隔離政策は「私−あなた」"I-thou" という関係を 「私−それ」"I-it" という関係に置き換えてしまい、結局は人々(黒人)を 「モノ」の状態に退けてしまう、ということなのである。 (試訳 byおくやま) さて、このキング牧師のいわんとすることは何であろうか?鋭い読者の方ならすでにおわかりだと思うが、これは人権 Human Rights はなぜ発生するのか?という哲学的議論と全く一緒である。これを具体的にキング牧師の議論からくわしく分析してみよう。 上の文においてキング牧師が最も忌み嫌っているとわかるのは、白人が黒人を一人の人間ではなく、ただの「モノ」として扱っている、ということである。これを彼はユダヤ哲学者の言葉を借りて「私−それ」 "I-it" という関係である、と行っている。言い換えれば白人の「私“I”」から見ると黒人は「それ“it”」という「モノ」でしかないということである。 これをキング牧師がなぜ嫌うのかというと、人間にとって最悪のことは「モノ」になること、言い換えればそれは「選択の余地がない」ということであり、それは全く死んでいるのと同じ、ということである。 そう言われれは確かにそうである。モノには自分で運命を選択する余地はなく、ただ「人間」に使われるのみで生殺与奪権を完全に握られているのである。よって「不正な法」である人種隔離政策とは、黒人をモノにしておく法である、と言ってもよい。キング牧師にとってはここが許せないのであり、公民権運動をした最大の動機でもある。 ここで先生は、「人格があるかないかで人はモノや動物と区別される」と最初に説いたのはドイツの大哲学者・カント Kantである、と説明した。要するに人権云々の議論はカントに始まる、ということである。私はこのことをたまたまナショナルインタレスト誌の最新号(2001年 夏季号)に載っていたフランシス・フクヤマの論文を読んでいたいたのでビックリした。全く同じようなことをフクヤマも論文の中で論じていたからだ。 カントが論じたのは、人間同士が「私−あなた」"I-thou" という関係として認識されるのはなぜかということであり、彼はそこで相手に対して選択能力 capacity of choice に基づく人格 personality が 認められるか否かである、と論じたらしい。要するに人格とは選択する自由があることなのである。これをまとめて見ると、 1)選択ができない = 人格が認められない (カント ) この議論からわかる通り、究極的に言えば黒人公民権運動は黒人の「選択の自由」を求めていたといえる。西洋哲学の見解では、人間は自分で選べるからこそ人間である、と認識されるのだ。選べない人間は「モノ」と同じである。 ここまで説明したところで第二回目のクラスが終了した。次回はいよいよ自然法と人定法のくわしい定義の説明に入る。
2001/07/20(Fri) No.01
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法哲学の授業を覗く第四回 | おくやま |
「宝塚J」の言い分はこうである。 とにかく軍の規律は立派な「法」である、よってビリ−が法を犯したという事実は決定的である。しかしその法はこういう特別な状況を考えられて作られたわけではない。だからビリ−が死刑にされるというのも納得いかない。よって法をいきなり作り替えるというのではなしに、その法に対して新しい解釈を組み込むことによってビリーを助けよう。と、こういうことである。 要するに、すでにそこにある法律そのものを変えることなく、都合の良いように法を解釈して現実に対応させて行こうということである。 前にも説明した通り「宝塚J」はロースクールに通っているという。よって法を現実的に解釈する、という訓練をそれなりにつんでいる。そういう意味で彼女の法律に対する考えかたは「法そのものの正義や倫理を考慮に入れる、しかし法そのものを変えるのではなく、解釈して正義・倫理に合わせていくのだ」ということである。これはまさにロック主義者、もしくはロッキアンの立場を象徴するものである。 ロッキアンについて簡単に説明する。副島隆彦氏の主著である「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」の第4章を参照にしていただくとよくおわかりいただけると思うのだが、ロック主義者というのは「自然権・ナチュラルライツ派」のことを指す。 具体的にどういう思想の人々のことを示すかというと「法律の善悪云々を論じるよりも、とにかくそこにある法律を現実的に解釈することによって対処していこう」とする立場のことである。アラン・ブルーム Alan Bloomの「アメリカンマインドの終焉」The Closing of The American Mind (88年:みすず書房)という本にもその定義が触れられているが(p.178)、どちらかといえば保守的な考えであり、法律解釈に命をかける、という立場である。言うなれば役人的な考えというか、官僚的な思想であるといえる。 このロッキアンというのは、何もアメリカにだけ存在するのではない。奇形的ではあるが日本にも確実に存在する。その典型的な証拠は日本憲法の第九条に関する政府官僚の解釈である。 実際に憲法九条には「いかなる軍事力をも保持しない」と書かれているのに、現実的には国家安全保障上の現実から自衛隊という立派な軍事力を日本は持っている。歴代日本政府は「自衛隊は(攻撃的な)軍事力ではない」とい「法の解釈」によって正当化してきたのである。そういう意味でこのやりかたはまさにロッキアン的である。日本に法哲学というものが存在するとしたらロック主義の思想に染まっている、といってよいのかもしれない。日本の官僚はロッキアンである。 話を授業に戻す。大まかな思想で分けると、上記のロースクールに通うプロの法律家の卵である「宝塚J」は、ロッキアン(自然権・ナチュラルライツ派)であり、一方、前回でも話したとおり、「ビリ−を助けるために法そのものを変えるのよ、だっておかしいじゃない」と主張したフェロモンたっぷりの「金髪S」は「人権・ヒューマンライツ派」であるということがうかがえる。彼女の主張は「ビリ−の人間としての尊厳(人権)のほうが法より優先する」という立場だったのであるから当然といえよう。 この2人の意見が出されると、それぞれの立場を応援する形で他の生徒からも意見が出され、見る見る間にクラス内の思想の分裂状況ハッキリと二つに分かれて来た。まさに自然権と人権派の闘いである。 さて、ここで注意していただきたいのは、宝塚Jの立場である「自然権」も、「人権」も大きくわければ「自然法」という立場に属している、ということである。簡単にいえば、ある法について「道徳・正義・倫理が100%その法に反映されていなければ法ではない」と考える人はとにかく「自然法派」に属すると考えて間違いない。副島氏の「世界覇権国アメリカ〜」の276ページの図を参考にしてあらわしてみると以下のように大柄な対立構造がわかる。
このように法哲学では大まかに言えば「自然法」と「人定(実証)法」という二つの思想の対立があるのである。そして、このクラスの中の意見の対立は、「自然法」思想の中の「自然権」と「人権」との争いである、ということがいえよう。 法哲学の議論は、今も昔も自然法と人定法の二大思想の争いの中で行なわれているのである。
2001/07/18(Wed) No.01
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自治体のIT戦略案 | 荒木 章文 |
私ば資本主義者である。 ITを国家戦略として位置づけた時、パソコン教室に補助金を出すという仕組みも一つの方法である。 しかし、中・長期的に考えた時それが本当に効果があるのかどうか、国家が介入して促進する事業なのかどうか? それには疑問が残る。 今私が考えるには、「インターネットマンション」というキーワードを挙げたい。 「インターネットマンション」というと「単なるインフラじゃないか?」という返事が帰ってきそうである。 将に、その通りである。 「インターネットマンション」とは「インフラ」である。 「インフラ」であるからこそ国家プロジェクトとしなければならないのである。 夜警国家と福祉国家の間には様々なバリエーションが存在する。 その中では「インフラ」の構築は福祉国家的な思想である。 公共事業とは将にそれである。 これらが今、機能不全を起こして副島隆彦が指摘してきたようにハイパーインフレの可能性を秘めている。 一説によれば、600兆円だとか700兆円だとかの国の債務である。 やっとその天下りと資源の非効率の中心であった、半官半民会社にメスが入りはじめたのである。 時代の流れとしては、自助努力で生きていくしかないのである。 こういう意味では今までの、公共事業の中での一つの利権に過ぎないのかもしれない。 しかし、他の公共事業と異なる点が2つある。 1つは教育的な効果である。 もう1つは、地域コミュニティ形成の手段としてである。 一番目の教育の効果については、家庭の中に生まれた時からインターネットを使える環境が存在しているという事。 自然に使っている。 感覚で身につけている。 スポーツと同じように、左脳ではなく右脳で使えるようになる。 体で覚える。 という環境である。 そこにはパソコン教育を受ける以前での、非常に重要な教育がなされているのである。 二番目の地域コミュニティの形成。 これはフランスの社会学者デュルケムのアノミー理論を日本社会分析に活用して分析した小室直樹の業績に負うことになる。 戦前存在した、天皇を中心とする農村共同体、それが戦後天皇の人間宣言と、高度経済成長期の農村から都市への人口の移動によって、日本の村落共同体は実質的に崩壊したのである。 その替わりに新興宗教と会社共同体がそれらを吸収していたのである。 しかしその吸引力も失われつつある。 日本は小室直樹が預言してきたように現在アノミー状況にあるのである。 これに対する1つの処方箋としてネットによる地域コミュニティの形成というのがある。 ネットのメリット・デメリットは様々に存在する。 そのメリットとしては、知らない者どうしが好きな時に自分の判断(自己責任)で出会える。 物理的な制約や、コミュニケーション方法が物理的に制約されていた時代と比較すると格段に出会える機会は増えた。 しかも内面の問題を「キーワード」にして趣向の似通った人間の発見も以外と簡単につながったりする。 その反面、犯罪に結びつく場合もある。 それは、使い方次第の問題である。 また、ネットである以上嫌なことはやらなくていい。 嫌になればコミュニケーションを一方的に閉じれる。 インターネットマーケティングの世界では、(それに限らずとも言えることではある が・・・)CRM(カスタマー・リレーションシップ・マネジメント)やクリック・アンド・モルタルという言葉が注目されている。 CRM(カスタマー・リレーションシップ・マネジメント)とは、簡単に言うと、昔の魚屋や八百屋が近所の人々とかわしていたコミュニケーションを費用対効果がもっとも大きい 形で形成しようという考え方である。 クリック・アンド・モルタルは、ネットの世界と現実の世界をミックスしてビジネスを行うことである。 インターネットで本を注文して、コンビニで本を受け取るというのがそれである。 これらの「ネットのメリット」と「現実」の結合、その1つの例が「インターネットマンション」である。 日本全国全て都市化していく中で、地域コミュニティの形成が「公園デビュー」という言葉に象徴されるように子供を通してやっと親同士が知り合う。 ここではその「キー」になるのが「子供」である。 高度経済成長期以降、村落共同体の崩壊と都市化それによって人が都会の孤独を感じるようになっていった。 連帯感の喪失である。 その1つの処方箋がネットであり、実際にそこに人がいるという意味での信頼・信用という意味で「その場に居る」、つまり「住民」である。 このことによって、村の人間、共同体の構成員は犯罪を犯せなくなる。 昔の日本の村落共同体の「恥じの文化」が復活するのである。 このメカニズムによってモラルが維持されるのである。 私は提案したい。 この地域コミュニティ形成の実証実験を行うことを・・・ これは戦後SCAP(GHQ)が日本におこなった、ソーシャル・エンジニヤリングと同様のことをすることになるのかもしれない。 (それは意図的に、人間関係をこねくりまわすという意味で) しかしそれと違うことは、民間主導で行うことである。 上からの圧力によって押し付けられたこととは違う、下からの活動である。 また強制力はもたない。 そこが重要である。 まず隗よりはじめよ。 私は「資本主義者」である。
2001/07/15(Sun) No.01
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法哲学の授業を覗く 第三回 | おくやま |
まずざっと見た感じのクラスの人種構成であるが、私を含めて東洋系は6人くらい、そしてインド系2人、白人7人、中東系、もしくはユダヤが2人ほどの、計20名弱のメンバーである。相変わらず私のような日本人留学生は全く見当たらない。留学生が多少いる地理学のクラスなどから比べると、哲学のクラスは全くカナダ生れの地元の人間に限られているといえよう。 クラスでまず目についたのは、今回はめずらしく女性が多い、ということである。 哲学をやる女性は少ない、というのはどうも世界でも一般的(?)な感覚であるらしいが、こちらの大学でもたしかに少ない。しかし今回の授業はいちおう法律にも関係した「法哲学」であるので、ロースクールに所属していたり、司法試験を目指している女性も何人かいたのでそれが影響しているのだろう。 今回の授業ではこの哲学専門ではなくて、これらロースクールに所属している女性たちをめぐって面白いこと起こっているので、これについてまず書いてみたい。 以前に「地政学」のほうでも書いたが、こちらの大学で授業をのぞくと必ずクラスにはやたらと先生に質問する生徒が一人か二人いて授業をハイジャックしてしまう、ということはすでに述べた。この例にもれず、このクラスにもそういう「目立つ生徒」がいた。 しかしいつもと違う点は、今回のこのクラスでは授業開始早々からなんと二人の女性がクラスの議論をリードする形となり、その意見から発せられる思想から、なんとクラスが二派にわかれて授業中に議論を争うことになったのだ。こういう点では哲学というのはまったく政治的である。 その2人であるが、まず一方の女性は髪をすごく短く刈り込んでいて一見して宝塚の男役っぽい感じの、スラッとして背の高い黒髪の白人である。この女性を仮に「宝塚Jさん」としておこう。もう一方は典型的な金髪の若いネーちゃんという感じの、フェロモンをプンプン発散している白人女性である。この人を仮に「金髪Sさん」としておく。 この「宝塚J」と「金髪S」の二人が、二回目のクラス開始早々から、自ら信じる法思想にのっとって意見を交わし始めて激論状態になったのだ。もちろん彼女らを背後でバックアップする勢力も現われ、クラス内が見る間に大きくわけて二派に分裂していったのである。これにはいいかげんに哲学のクラスで議論を見慣れている私も少々おどろいた。 授業の内容に戻ろう。最初の授業で読んでこいと言われたのがハーマン・メルビル Herman Melville の「ビリ-・バッド」 Billy Budd とマーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師 Martin Luther King の「バーミンガム刑務所からの手紙」 "Letter from Birmingham Jail" であることはすでに述べた。 まず最初の「ビリ-・バッド」のストーリーを簡単に説明すると、(多分)南北戦争の真っ只中、水兵のビリ-がある日海軍の船の上で自分の上官にいきなりなんの前触れもなく散々辱めをうけるようなことを言われた。しかし口下手のビリ−は上手く反論できなかったため、思わず手が出て上官を軽く殴ってしまった。ところが何とも運の悪いことに、その上官は船の床に倒れた瞬間に打ちどころが悪かったらしく、なんとポックリ死んでしまったのである。もちろん戦時中のことである上、海軍の規律は厳しい。この当時の軍の規律では、上官殺しは理由がなんであれ即刻首吊り死刑である。 すぐにその現場でドラムヘッドコートdrumhead court という簡易軍事法廷が開かれ、上官を殴って殺したビリ−に対する処分について議論が交わされることになった。ことの一部始終を見ていた目撃者はその軍艦の船長だけであり、船長はたしかにビリ−は上官にヒドイ言葉を言われていて手を出してもしかたない状況だったことは認めており、その上ビリ−のパンチが上官の直接の死因になったとは考えていない。むしろ非はビリ−を怒鳴り続けた上官にある、という見解であり、モラル的・倫理的にはビリ−に罪があるとは船長自身も思っていないのである。 ところが船長はいざ裁判がはじまると「ビリ−は軍の規律違反で有罪である」としてゆずらず、モラル的には無罪と認められているにも関わらず、かわいそうなビリ−は最終的に首吊り死刑にされてしまう、というのがその内容である。 一方キング牧師の「バーミンガム刑務所からの手紙」は、黒人市民権運動で法をやぶり投獄され、その獄中からメディアや支援者に対してキング牧師が「なぜ法律をやぶってまで私は運動を続けるのか」という理由をとうとうと書き綴ったものである。この手紙はなかなか哲学的な問題を論じており、その核心的なところで「悪い法律は法律ではない」”an unjust law is not a law” という自然法のスローガンを引き合いに出して自分の行動の正義を説明している。この論文のこの部分は極めて重要であり、法哲学以外では、政治哲学の入門コースでも必読部分である。 さて宿題で読まされた上記の二つの論文において「法律をどのようにとらえるのか?」という重大な問題が提出された。これは簡単に言えば、法人定(実証)主義 Legal Positivism の見解が「ビリ−・バッド」における船長の立場であり、キング牧師の見解が 自然法 Natural Lawの立場である。これについては後にくわしく説明する。 まずクラスでは「ビリ−・バッド」について話すことになったのだが、さっそく「金髪S」が手を挙げ「船長はヒドイ!私だったら軍の規律がオカシイと抗議して、とりあえずビリ−を助けるわ」と色気たっぷりの声で発言した。ビリ−死刑の不条理を問う、という立場である。しかしここですかさずこれに異を唱えたのが「宝塚J」である。 この瞬間、法哲学のクラス内で思想の闘いが始まった。 以下次号に続く
2001/07/13(Fri) No.01
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法哲学の授業を覗く 第二回 | おくやま |
最初の授業であるが、実はほとんど何もしなかった。 まず始めにコースアウトラインという授業の全体スケジュールや使用されるテキストや読まされる本の説明などが書かれたプリントが配られ、あとは授業のおおまかな内容を説明して終わってしまったのだ。このようにこっちの大学では、最初の授業はこういうアッサリしたものがが多い。とは言ってもコースに関する情報は得られたので、とりあえずここに記しておきたい。 授業は全体で四部構成になっており、これらを週2回の授業で六週間以内にこなす、というものである。けっこうスケジュール的にはきつい感じである。 以下にその構成を引用しておく。 I. Introduction to Philosophy of Law and Moral Theory 法哲学と道徳理論(モラルセオリー)への序説 II. Natural Law, Legal Positivism, and the Concept of Law: What is a law? What is the relationship between law and morality? 自然法、法人定主義と法のコンセプト:法とは何か?法とモラルの関係は? III. Theories of Judicial Interpretation.司法解釈の諸理論 IV. Liberal Political Theory and Contemporary Legal Institutions リベラル政治理論と現代の法制度 こういった大まかな構成で授業は成り立っており、それそれの分野ごとに代表的な論文を読んできて授業を行う、という形になる。 最終成績の評価は中間テスト・期末テストがそれぞれが25%ずつ、最後の授業で提出するエッセイが50%で、合計100%の評価が下される。これは夏に提供されているコースとしてはだいたいお決まりのパターンであろう。前回紹介した地政学の授業もこれと全く同じだった。 次に、授業で使われるテキストであるが、普段の秋・冬学期に使われるものと全く一緒である。以下にその写真と名前を紹介しておく。 Readings in the Philosophy of Law (third edition) edited by John Arthur and William H. Shaw, Prentice Hall: Upper Saddle River, 2001 これはカナダドルで100ドル弱。日本円だと9千円ぐらいであろうか。こっちの生活感覚としては鼻血が出るほど高かったので、とにかく参ってしまった。もちろんこの教科書をすべて読むというわけではなく、この中から先生が適当に選んだものに加えて、リーディングパッケージとして色々な小論文のコピーが授業中に配られる。この最初の授業でも次回の授業までに読んでくるものとして、3つほどの論文のコピーをまとめたものが配られた。 まず最初に読んでくるように言われたのはハーマン・メルビル Herman Melville の「ビリ-バッド」 Billy Budd という聞いたこともない昔の短編小説からの抜粋と、ご存知マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師 Martin Luther King の「バーミンガム刑務所からの手紙」 "Letter from Birmingham Jail" であった。 次回はこの二つの論文の説明や、クラス内の様子について書きます。
2001/07/06(Fri) No.01
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法哲学の授業を覗く 第一回 | おくやま |
「日本人は物事を表層的にしか捉えないことが多い」というのは小室直樹氏の口癖である(i.e. 日本人のための宗教原理 p.20)。その一例、というか典型的な例は哲学 Philosophy である。これほど日本人に勘違いされている学問はないのではないか。私がこれから書く連載は、この「哲学」に関するものである。 私事になるが、カナダの大学へ入学した私は、専攻(メジャー Major)を地理学 Geography に選んだ。理由は単純で、編入前にとっていた学科に地理学のものが多かった、というだけである。しかし以前からなぜか哲学への関心は消えず、専攻の地理学を集中的に取りながらも、いつかは哲学を授業でとってやる、と考えていた。哲学に何か西洋の秘密が隠されているような気がしたからである。 そんなときに出会った本が副島隆彦氏の主著である「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人」であった。この本はアメリカに流れる西洋哲学思想をわかりやすく説いている。とくに第四章の「『法』をめぐる思想闘争と政治対立の構造」は、哲学に関心のあった私にとっては圧巻の内容であった。私の哲学理解はこの本で一気に深まったと言っても過言ではない。アメリカ政治の本にもかかわらず、である。 この本に影響され、前回の連載である「地政学の授業を覗く」でもお伝えしたとおり、地理学の中でも「地政学 Geopolitics」という、どちらかというと政治よりな授業ばかりとっていた私は、意を決してすぐあとの秋の新学期からさっそく哲学の授業をとることにした。 プラトン、アリストテレス、17世紀、18世紀の哲学という、それぞれ四つのクラスを取った私は、おぼろげながら西洋における哲学という学問の位置づけがわかったような気がした。もちろん完全に理解した、とは言えない。しかし西洋人がどういう風に哲学を捉えているのか、というのは最低でもわかったつもりである。そして気が付いたのは、やはり日本人は哲学を何もわかっていない、ということであった。 副島氏の最近の著作で「ハリウッドで政治思想を読む」という、ただの映画評論にみせかけてはあるが実は政治思想解説本という、なんともゲリラ的な内容の面白い本があるが、この本の45ページの図でもわかるとおり、氏は西洋学問のなかでの哲学の位置づけを神学の一部(神学の下女)であるとしている。この認識はデカルトも同様であり、全く正しい。 しかしこれに加えてもう一つ、私は日本人の知らない哲学の秘密を発見した。哲学というのは、実は法学 jurisprudence と深い関係にあるのである。これは私が直接友人から聞いた話であるが、西洋人の場合、哲学科を卒業したらどういう進路に向かうかというと、行き先は圧倒的に弁護士とか法律家なのである。たしかに私の以前のクラスメートでも卒業後には大学院で法律を専攻する、という人ばかりだった。 こういう事実を、日本人は知らされていない。 今回のこの「法哲学の授業を覗く」では、哲学と法学のちょうど交差点にある「法哲学」 philosophy of law の授業を通じて、以上のような日本人が知らない哲学における基本的な認識の違い、ということに焦点を当てながら論じてみたい。 次回はさっそく最初の授業の紹介である。
2001/07/04(Wed) No.01
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