■ここは、主に副島隆彦の弟子から成る「ぼやき漫才・研究会」のメンバーが小論を掲示し、それに師や他のメンバーが講評を加えていくところです。

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(2001/03)

マスコミと妬みと今後の日本の行く末 かたせ
 現在、2001年3月である。

1.マスコミの真の実力

 日本のマスコミが田中角栄をたたいて国民的な政治指導者を出さないよう指導して以来、この国では強力なリーダシップを発揮できない状況にある。日本がここまで追い詰められた最近になって、いまさらながらに「政治家に強いリーダーシップが望まれます」などとテレビで有名人が言ってくるようになった。

 もっと具体的に「もう一度、田中角栄さんのようなリーダーに出てきてほしい」と言いかえれば、自分たちの今いっていることが、これまでの言動といかに矛盾したものかわかるだろう。よく、そんなことが言えたものだ、恥ずかしくないのだろうか。その場その場の、発行部数が増えればいいという判断だけで、政治家の業界をたたき(ロッキード事件)、経済人の業界をたたいた(バブルたたき)。そして最後に、新興宗教の業界に完全勝利し(オウム事件)、すべてのライバルの影響力をそぎ落とし、国民への影響力を最大化できた現在、日本のこの現状の責任をとれるのはマスコミしかいない。私はそのように、マスコミの本当の実力を認めてあげたい。

2.マスコミと新興宗教との関係

 ところでオウム事件を上記のように、「マスコミが新興宗教をたたく絶好のタイミング」ととらえる点について、補足説明する。以下、日本国民を愚弄する説明である。

まず、前提として言いたいのは、「国民の意見に圧倒的な影響を及ぼし、その見返りとして金銭的対価を得る」という市場において、マスコミと新興宗教とは競合している、マスコミも新興宗教も、やっていることは大して変わらない、ということである。

反論が予想される。
「マスコミは事実を元に公正な報道活動をしている。それに基づいて国民が自立的に判断・行動しているのだから、新興宗教のような信仰の世界で動くのとは違って、国民がマスコミに操られるということはないのではないか」と思える方。
副島隆彦先生の著書をお読みいただきたい。マスコミの報道の実態がいかに公正さからかけ離れた恣意的なものかについて、ご理解いただけるはずである。それに、国民のみなさま一人一人が、本当に自分の意見を形づくっているだろうか。自分たちの生活を守っていくのに精一杯なのに、そんな余裕・時間が本当にあるだろうか?私自身、「ある」と言いきれる自信がない。知り合いに馬鹿にされない程度に意見を持っていれば、それが自分で形づくったものでなくてもかまわないのが実態ではないか。そういう実態から考えて日本国民がマスコミに操られるのは当然の事態である。見栄を張ることなく、正直にものごとを考えていくべきである。

次に、新興宗教とマスコミの関係を考える。新興宗教の教祖のことを信じれば、マスコミの言うことを聞かなくてよい。その分、マスコミの側の売上は落ちる。完全な商売敵(しょうばいがたき)である。マスコミは誌面に絶対に書かないが、新興宗教を「脅威」として認識していたはずである。次に起きるのは、「自分の言うことを信用してくれる信者の争奪戦」である。オウム事件によって、マスコミの業界が新興宗教の業界に大きくは勝利したのだと私は見ている。オウム事件のひどさから考えて当然の結果ではあるが。
 今後、マスコミとしては、ある有名な大宗教団体を弱体化させれば、700万人の信者が自分たちの業界の新聞・雑誌の購読者になる、長期的にはそのように展望しているであろう。ここに大きな最後の戦いが残っている。しかし、これとて、結局のところ、いろんな業界・いろんな市場で起きているシェア争いの一つに過ぎない。わかりやすい話である。

3.マスコミと日本国民の妬みと

 さてしかし、なぜ、こういう簡単な分析をする人がいないのだろう。
おそらく、国民を愚弄することになる分析だから、マスコミを通過する段階で、きれいに消えてなくなるのだろう。
マスコミは「国民とは間違いを犯さない存在である」という教義のもと、この教義を防壁として、すべての業界に攻撃をしかけていく。この「国民無謬説」ともいうべきものの根っこにあるのは、おそらく国民の妬みだから、すぐさま消えたりはしない。それに、この国では妬む側に正義が託される。どの国でもそうかもしれないが、この国では特にそうである。
だから、マスコミには誰も歯向かえない。こうして日本は、輝かしい21世紀を迎えた。

4.日本の今後の行く末

副島隆彦先生の今日のぼやき「[137] 田原総一朗氏を批判する 2001.3.14」から引用する。

(引用開始)
ぼろぼろの限界が来るまで、あと2年ぐらいやらせた方がいいのかも知れない。そうすれば国民の方が、もっと生活に追い詰められて、それで本当に怒り出すだろう。私はこの国民がもつ「和をもって尊しとす」という性質が大嫌いだ。だから、個人の個性を殺して大勢に強制順応させる考えである「和」を大事にしている間に、もっと追い詰められてそんなことは言ってられない、個人の能力を徹底的に高めよ、という考えが出てくるまで、ずっと見物し続けるつもりだ。どこで民衆叛乱が起き、アメリカの手先たちに対する激しい怒りが満ち溢れるだろうか。
(引用終わり)

「個人の能力を徹底的に高めよ」という考えは「優秀な人の能力を妬むな」という意味も含まれているはずである。日本国民がここにたどり着くためには、これまでのような、マスコミを通じて優秀な人を妬むのをやめる必要がある。それがいつできるかが、今後の日本の運命を決めることになるだろう。
 ただしマスコミも含めて、妬むのを放棄するところまで追い詰められるのにはまだまだ時間がかかりそうである。妬みとは本人が一番気づきたくない感情だから。それに、妬むのには何ら努力が必要ないのに対して、妬むのをやめるには莫大な労力がかかるから。

以上

2001/03/20(Tue) No.01

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