■ここは、主に副島隆彦の弟子から成る「ぼやき漫才・研究会」のメンバーが小論を掲示し、それに師や他のメンバーが講評を加えていくところです。

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(2000/11)

(評論)「属国・日本論、歴史編」について(7・完) かたせ
7.(補論)これまでの日本と「属国・日本論」との対比(その2)

 一応、6.で結論は出しました。この章では、日本の歴史と「属国・日本論」との対立について見方を深めるために、まったく毛色のちがう角度から考察し、補足します。
日本という国のかたち(司馬遼太郎のせりふ)を考えるために、人類の歴史上の論争点である「悪は実在するかどうか」という大問題に言及します。
そもそも、悪とは実在するのでしょうか。
この問題では、「善一元論」と「善悪二元論」とが対立しています。主流派は「善悪二元論」です。悪の存在をとりあえず認めて、それを正していこうとする考え方です。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、いわゆる「永遠の宗教」の系列はすべて「善悪二元論」ですし、イラン(ペルシャ)の歴史の基調を作った「ゾロアスター教」「マニ教」などは、その典型です。
これに対して、「善一元論」の系譜を引くのが、プロティノス率いる「新プラトン主義」学派です。プロティノスとは、西暦200年代に、エジプトやローマで活躍した哲学者です。「すべてのものは一者から流れ出る」という説を唱えた方です。その真意は、一者(=神)から流れ出るものが実在のすべてであり、悪とは、この流れ出たものの欠如した状態にすぎない、悪とは決して積極的に存在するものではないという考え方だと私は理解しております。少数派です。
 あとは、私の仮説ですが、日本という国はなぜか、「善一元論」という世界的に見れば少数派の考え方の系列に含まれると考えています。そうなっている理由は不明です。日本の八百万(やおよろず)の神々が「善一元論」で国づくりをしたからとでも言うほかありません。日本では都合の悪いものを見ようとしない、ということで、副島先生が激しく攻撃しておられますが、私の仮説がもし正しいのであれば、攻撃される側にもそれなりの根拠・見識はあるのです。
 「悪は本来存在しない(善一元論)。また、言葉には内容を実現する不思議な力がある(言霊(ことだま)思想)。だから、悪い言葉を口にして、それを実現させてはならない。それよりも、明るい未来を信じて、良い言葉を使って、言葉の持つ大きな力を使って、本来あるべき善い世の中を作ろう。そうすれば悪は消極的な存在であるから自然と消えてなくなる。」という未来指向の考え方が日本の根底に流れていると私は考えます。子育てなど例に考えれば説得力が増してくる考え方です。日本土着の思想の背後には、言葉の影響力を重視した思想(「言霊」(ことだま)思想)とともに、この「善一元論」が貫かれております。それが、言葉で、仲間内の人間の欠点を明確には指摘しない、日本の「お察しする文化」(河合隼雄)に連なっています。私たち日本人の素朴な実感は上記で尽きてしまいます。
 さて、ことばの取り扱いに話を絞れば、「悪いこともきっちり描写・指摘する」のが「善悪二元論」。
 これに対し、「善きことのみ述べて、本来はない悪いことにはできるだけ触れない・指摘しない」のが「善一元論」。
「善一元論」の系列に属する日本の伝統に対し、副島先生は「属国・日本論」を武器として、世界の主流派である「善悪二元論」の立場で改革を迫っているように私には思われます。副島先生を、単に個性の強烈な人であるとだけ思ってはなりません。今、この日本では副島先生を先頭にして「善悪二元論」と「善一元論」とが激しくぶつかりはじめているのです。日本史にとっての端境期です。副島先生の歴史的位置付けの大きさをわかってください。

8.評論文を終えるにあたっての感想
 これまで、属国であることを認めないまま属国としての道を歩んできた日本が、これからどのような歴史を踏んでいくか、まだ誰にもわかりません。しかしながら、その歴史の行方いかんにかかわらず、日本という国に影響を与える新たな歴史観の創造者である副島隆彦先生は、少なくとも司馬遼太郎と同じ程度の重みづけで日本史に名前を残せるはずです。司馬遼太郎は必ず名を残すでしょう。ですから、副島先生はやはり、200年後、300年後の日本史の教科書に必ず名前が載っていると思います。

 さて以下は、私の個人的な感想です。
 副島先生への歴史的評価が定まっていない現時点で、200年後、300年後の日本人の拍手喝采を浴びるのを信じて、あえて本音で、遠慮のない、ある意味おおげさな表現で評論しました。2000年10月12日の「今日のぼやき」で紹介された小林秀雄の表現を借りるなら、私はこの評論を通して、副島先生の文章を借りて、おのれの夢を語りました。とても楽しかったです。
 そして、論文「属国・日本論、歴史編」は、2000年10月21日の「今日のぼやき」の中で、

(引用開始)
私の「属国・日本論」の歴史編の完成は、自分の血筋が支えて見守ってくれているのだと、最近は思わずにはいられません。
(引用終わり)

と副島先生がおっしゃっているように、とても大切な位置付けの論文ですので、評論をする私の方も、推敲に推敲を重ねて、死力をつくして、書きました。ただし書いているうちに、論文の評論という枠を飛び出て、後半は「属国・日本論」そのものの評論となりました。
副島隆彦先生のご著書に出会えて、本当に感謝しております。
以上
(西暦2000年11月26日脱稿)

2000/11/26(Sun) No.07

(評論)「属国・日本論、歴史編」について(6) かたせ
6.日本史の試金石としての「属国・日本論」

 日本史の先端にある西暦2000年現在の日本について次のような見方を行って、日本史における「属国・日本論」の位置付けの大きさについて、私なりの補足を加えます。
「ハリウッドで政治思想を読む」(メディアワークス刊)83ページから引用します。

(引用開始)
本当のところは、どうも、今ようやく歴史上はじめて、日本人に「外側世界なるもの」が出現したようなのである。
(途中3行省略)
今や外側世界がはじめて日本に押し寄せてきたために、私のような妙な知識人が必然的に出現して、もがき苦しみながら世界標準の本当のことを、日本に翻訳者として簡潔に伝えようとしている。私は、アメリカ・グローバリスト(世界を今後も、アメリカ帝国の支配下に置きつづけようとする人々)と闘うために、日本民族が生み出した抗体ウィルス(anti-virus アンチ・ヴァイラス)なのである。
(引用終わり)

これは、日本語の壁をとっぱらって、世界標準である「アメリカ政治思想」を、副島先生が日本に直接流通させることの決意表明でもあります。もしそれが実現すれば、アメリカ政治思想での主張の中に含まれる、アメリカが現在の覇権国である事実を自動的に認めることになります。ということは、その反射的対応として、日本が属国であることも認めざるを得なくなるはずです。つまり副島先生の活動により、日本は世界標準のアメリカ政治思想、そして、その日本対応版としての「属国・日本論」を受け入れることになると主張されているのです。そして私は、そんな状況にある現時点の日本について、次のような見方を補足するのです。

「2000年の時を経た今、日本の国は『属国・日本論』を受け入れるほどの成長を遂げたのだ」と。

その意味を、以下の通り、説明します。
 人間の行動に、たとえてみます。本当のことをいえば、他人にできないことをできるようになるのより、目の前にある厳しい現実から目をそむけないことの方が実はずっと難しいのです。これが、人間の強さ・弱さを測定する本当の基準です。
 歴史観も同じです。司馬遼太郎史観と歴史観「属国・日本論」、どちらの歴史観が厳しいか明白です。
 そして、「属国・日本論」を受容できるかどうか判断を迫られている、まさにこの現時点こそ、じつは日本史にとっての正念場となります。
 これからの日本の知識人たちが、もしこの、歴史観「属国・日本論」を受け入れなければ、日本の歴史などしょせん、本当の現実を直視できない、本当の厳しさに耐えられない、その程度の弱々しいものでしかなかった、と判断せざるを得ません。
 日本史が本当に「強い」、尊敬のされる歴史であったかどうかが後世の人から判断されるのは、まさしく20世紀末、これからの21世紀前半の時代の日本人がどのように行動したかが基準となるでしょう。「属国・日本論」は日本史にとっての試金石です。
 日本という国はこれから、大変な時代になります。大きくとらえるならば、いまが「日本史にとっての正念場」だから当然の話です。読者のみなさま、それに見合うだけの誇りと責任感をもって、覚悟をなさってください。

2000/11/26(Sun) No.06

(評論)「属国・日本論、歴史編」について(5) かたせ
5.これまでの日本と「属国・日本論」との対比(その1)

 この章からは話を大きく広げて、論文「属国・日本論、歴史編」も含む副島先生の歴史観「属国・日本論」の、日本史における位置付けについて考えてみます。
私の考えによれば、「属国・日本論」は司馬遼太郎史観と対決するだけではありません。これまでの日本の歴史にも、対決を迫っています。
「英文法の謎を解く」(筑摩書房刊)11ページから引用します。

(引用開始)
日本は、本当はこの2000年の間、中国の歴代王朝・中華帝国の属国としての地位にあった。しかし、表面上は、絶対に中国に屈服しないで、少なくとも政治的には対等であるというフリをして、やせ我慢をしてきた国である。その具体例が、聖徳太子が610年に、隋(ずい)の煬帝(ようだい)に送った「日の昇るところの天子が、日の没するところの天子に書を送って尋ねます。お元気ですか。」という、例の対等外交の記録である。煬帝は激怒して、「東夷無礼なり」という返書を寄こしたが、使節(外務大臣)小野妹子が「紛失」してしまったことにした。この日本の態度は、その後もずっと続き、形だけでも虚勢を張った。幕末明治時代には、欧米列強(European Powers、ヨーロピアン・パワーズ)との対等外交を希望し、第2次大戦後は、アメリカ合衆国と「イークオル・パートナー」(対等な友人)であるフリをして対等外交を行ってきた。
 このようにして、日本は、列強に、無意識のうちに、「自分たちは特別であり、もしかすると特殊であり、他の国民よりも優れている国民である」という考え方、感じ方をしながら生きてきた。
(引用おわり)

また、「日本の秘密」(弓立社刊)249ページから引用します。

(引用開始)
王(おお)Kingとは、「漢の倭の奴の国王」(かんのわのなのこくおう)の金印のように、世界皇帝から、属国(同盟国とも言う)の首長としての地位を認められる存在である。従って、日本の天皇は、そもそも英語で皇帝emperorなどと名乗るべき存在ではなかった。この二千年来、漢王朝のころから、日本は中国の属国であるのに、日本の天皇は、この日本の属国であるという事実を認めないで、頑強に抵抗しつづけた、南方ポリネシア系の神聖体(ホウリー・ボディー)である。
(引用終わり)

 このように、属国である事実を2000年間、認めるのを拒否しつづてきました、それが日本史です。それでも属国としての道を歩めて来ることができたのですから、幸運な歴史でした。これに対して副島先生が「属国・日本論」を明確に主張されています。2000年にわたる日本の歴史上、初めての出来事です。私なりに、どれだけの衝撃かを想定してみます。
 鎖国していた日本に押し寄せたペリー提督艦隊の衝撃、「日本の歴史にもついに来るべきものが来たか」というくらいの「歴史的な」歴史観です。それまでの歴史観とはくらべものにならない重要な位置付けに本当はあるのです。ただし、日本人に、実感として理解できるようになるまでに、あと数百年はかかるでしょう。それぐらい巨大な出来事です。私がなぜ、これほど大きく評価するかの考察は、次に述べていきます。

2000/11/26(Sun) No.05

(評論)「属国・日本論、歴史編」について(4) かたせ
4.「幕末・明治時代人英雄論」と「属国・日本論、歴史編」との対比

 司馬遼太郎の「幕末・明治時代人英雄論」と副島先生の「属国・日本論、歴史編」とを、二つの観点、「歴史研究」と「歴史観」の観点から対比します。
 まず、「歴史研究」として見れば、圧倒的に副島先生の方が優れています。副島先生のすごさは、「事実を使ってみずからの論を進める」姿勢を長年維持しておられる点です。やはり、事実に勝てる相手はいません。
しかしながら、愛国心の置き所である「歴史観」としての受け入れやすさを考えると、「属国・日本論、歴史編」はとたんに旗色が悪くなります。
 司馬遼太郎史観は、「歴史研究」としては「属国・日本論、歴史編」より難がありますが、日本人に受け入れやすい「歴史観」を提供して戦後の日本国民を一体化させた意味で、大変すぐれたものであったと思います。「歴史観」とは、同時代に対してになった歴史的役割をも考慮に入れねばなりません。
 ひるがえって考えてみると、「属国・日本論、歴史編」は、そう簡単には歴史観として受け入れられません。私がそうであったように、この論文を読んで、なかなかいい顔をする人はいません。今後も、日本人全員1.2億人に受け入れられるかどうか、難しい。
そうであるならば、副島先生は今後どうされるのでしょうか。私が考えるに、副島先生は強い信念をお持ちです。読者には媚びを売りません。絶対に、媚びない。むしろ、読者に対して「おまえこそ、道を譲れ」とせまってきます。こういう対決姿勢の論者は他にいません。ですので、「歴史研究」のレベルで素直に負けを認めた読者から順番に、司馬遼太郎史観を捨てて新しく「歴史観」を作り直すという重たい課題を背負わされます。世界標準の考え方で言えば、「自分の国が属国であると気づいてしまった周辺属国部族民(日本人)は、自国の王(ナショナリスト)およびその周辺を尊敬できるのか、あるいは、自国の歴史(日本史)をどのように尊敬すればよいのか」と置き換えられます。
 この課題に対する直接の答えは、副島先生のご著書からは見出せません。しかしながら、、「属国・日本論、歴史編」を受け入れてこのような悩みを抱える人が増えていってはじめて、日本の歴史の流れが少しづつ変わっていくのだろう、私はそう思います。そうしなければ、現在の国難の時代を乗り切れないと考えます。日本の知識人(マスコミに頼ることなく自分自身で自分の意見を形づくろうとしている方たち、と定義します)に、「属国・日本論」が認められるのを願ってやみません。

2000/11/26(Sun) No.04

(評論)「属国・日本論、歴史編」について(3) かたせ
3.戦後の、愛国心の置き所としての「司馬遼太郎史観」(幕末・明治時代人英雄論)

 日本人の「歴史観」の最大派閥はおそらく「司馬遼太郎史観」です。その歴史的経緯について考察します。
 およそ半世紀前、日本はアメリカとの戦争に敗北しました。その後の国内政治は、保守(右翼)と革新(左翼)のおおまかな対立があり、日本人は、大きくはふたつに分裂しました。ただし、左右両翼ともに、第2次世界大戦に敗北した事実によって、戦前の「愛国心」の置き方をそのまま踏襲するのが難しくなりました。すなわち、日本人は、左右の立場を問わずある時期まで、自分の「愛国心」の置きどころに苦しみのたうちまわったのです。
 そこで、国民作家・司馬遼太郎が登場します。
彼は、次のようなやり方をとったのです。
「昭和の時代について触れると、その歴史的な評価で左右が鋭く対立し政治的な対立に巻き込まれるだけなので、ここには絶対に触れない。そこで、一歩下がって、「幕末」、「明治」の時代に、戦前の英雄とは異なる英雄群像をつくりだし、ここに左右の対立をこえた形での「愛国心」のよりどころを設定する」。
 坂本竜馬は今でこそ、有名人物ですが、1962年の産経新聞に司馬遼太郎の「竜馬がゆく」の連載が開始されるまでは、高知県民に知られている程度の存在だったのです。「竜馬がゆく」が人気を呼ぶにつれ、坂本竜馬は、それまで「(明治)維新の三傑」と呼ばれていた西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通と同等もしくはそれ以上の評価を得るようになりました。司馬遼太郎は、新聞の連載小説等を通じて、戦前のビーローであった楠木正成などの代わりに、坂本竜馬をはじめ、江戸時代末期の高田屋嘉兵衛(「菜の花の沖」)、幕末期の大村益次郎(「花神」)、日露戦争時の秋山好古・真之兄弟(「坂の上の雲」)のようなヒーローを自らの手でつくりあげていきました。
 これが、サラリーマンの心を捕らえたのです。キャリアウーマンが、自分の大切な子供を保育所に預けるような感じで、日本人は、自分の愛国心を司馬遼太郎の元にあずけて、これらのヒーローと自分の姿とを重ねあわせて、安心して仕事に邁進(まいしん)できたのです。
こうして、日本の経済成長は、司馬遼太郎の連載小説と手をたずさえるようにして、進んでいきました。
 幕末・明治時代に英雄群像を作るという、この、司馬遼太郎の作戦は大成功でした。たくさんある中から、証拠をひとつだけあげておきます。朝日新聞社(左翼)と文藝春秋社(右翼)との両方をまたにかけて長期間、活躍した人を私は司馬遼太郎のほかに知りません。この異様な光景の背後には何があるのでしょう。やはり、「愛国心」の置き所については、司馬遼太郎史観によって、左右の立場を超えて日本人の考え方がすでに統合されていた、それを物語っているのだと思います。司馬遼太郎は偉大な人物です。「歴史研究」だけでなく、愛国心の置き所である「歴史観」までも提供したからです。

 この歴史観に対し、副島先生の「属国・日本論、歴史編」は、完全に競合しています。
202ページから引用します。

(引用開始)
日本人はすぐに、たとえば江戸城の無血開城とかで、「外国の勢力につけ入らせるすきを与えずに、国内が団結した」などと説明するが、外国の勢力の方が、当時の世界覇権国イギリスという一段高いところから日本を管理指導していたのである。
(途中3行省略)
だから、司馬遼太郎氏の小説群のような、「明治の群像」というイメージに仕立てて、まるで、サラリーマン立身出世物語のようなストーリーの世界に閉じ込めて、あの時代をドラマ化するのはおかしいと言わなければならない。明治維新で本当の戦乱があったのは、六八年の戊辰戦争の半年間ぐらいのもので、あとは散発的な殺し合いがあっただけなのだ。一般民衆の生活にはハイパー・インフレと政情不安定という以外にはあまり関係のないことだった。
(引用終わり)

 司馬遼太郎史観の本質を一言(いちごん)のもとに、串刺しで表現し、軽蔑・罵倒し、なぎ倒しています。この「属国・日本論、歴史編」は現代の日本人に何を突きつけているのでしょう?この論文の、日本史の中での位置付けは、どのようになるのでしょうか?
それを次に考えなければなりません。

2000/11/26(Sun) No.03

(評論)「属国・日本論、歴史編」について(2) かたせ
1.私の体の拒否反応

 私は、この論文を2000年10月に読みました。実は、1年ほど前に、本屋でご著書「属国・日本論」(五月書房刊)を見つけていました。しかし、これまで副島先生のご著書を見つけると必ずすぐに購入していた私が、この本だけは買わなかったのです。パラパラと本をめくって、幕末の時代から日本は、イギリスに上から操られていたのだと、後半の「属国・日本論、歴史編」で書かれているらしい、それがわかった時、理性的な判断の前に、体が拒絶反応を起こしました。第2次大戦後の日本史を、「属国・日本論」で述べてもらうのには何の抵抗もなかったのに、とても不思議でした。
 今回も、読んでいて、体の拒絶感と戦うのがものすごく大変でしたが、なんとか読み終えています。自分の体の拒絶感が何か説明がつきます。
 「この論文を読んだ後に、日本の国の歴史を本当に尊敬できるのだろうか」という恐怖です。そして、この恐怖感の根っこにあるのが、私にとっての「愛国心」なのだと思いいたりました。「自分の国の歴史を愛する心」です。もともと、大学時代から社会党左派あたりにシンパシーを感じて生きてきたので、そんなものを自分がもっているのかどうか、これまで考えたことがありませんでした。しかし、あったのです。「属国・日本論、歴史編」を突きつけられるにあたり、私の内なる愛国心が攻撃にさらされていたのです。びっくりしました。そして、あとで冷静になってみて、その愛国心が、知らず知らずのうちに身につけてきた司馬遼太郎史観だったこともわかりました。

2.(話の前提)「愛国心」存在仮説

 論を進めていくにあたり、ひとつの仮説を立てます。右だとか左だとかに関係なく、どんな政治的な信条を持つ人であろうと、「自分のうまれ育った国の『歴史』を愛そうとする心」をもっている、これが「愛国心」であると定義します。愛国心なんて単語をこれまで考えたことのない私にもあるのですから、たぶん、どの人にもあります。副島先生のいう「素朴な愛国感情」(「日本の秘密」弓立社刊 248ページ)とほぼ対応するものと考えます。
 そして、どんなにねじけた形であろうと、「愛国心」の置きどころをどこかに持っていないと人間は生きていけない。これは、人間という動物だけが歴史の中にくるまれて育っていく事実が原因するのだろうと思います。その置きどころが「歴史観」であると定義します。

2000/11/26(Sun) No.02

(評論)「属国・日本論、歴史編」について(1) かたせ
 いまから私が述べる内容は、副島先生の論文「属国・日本論、第三部 属国日本の近代史」(五月書房刊「属国・日本論」の後半に掲載)の評論文です。評論文ですが、論文からの直接の引用がほとんどありません。主に、日本史の中でこの論文が占めるであろう位置付けについて考えていきます。以後、2000年10月21日の「今日のぼやき」での副島先生の呼び方をお借りして、「属国・日本論、歴史編」と略称します。
この論文は、本当に厳しく、またすばらしい内容です。まだお読みでない方にも、ぜひお勧めします。
 なお私の評論文では最初に、自分の行動記録を軸にして、論を展開しています。日本での「タコツボ型」(丸山真男:副島先生が唯一誉めておられる表現)の学問の土壌では、論を述べる自分自身がその考えに至った経緯をある程度述べなければ、他の人たちと共通の話のやりとりができない、と考えます。阿部謹也という、私の尊敬する歴史学者が同様のことを述べておられます。話の展開そのものは読者のみなさまのお考えとずれていることが十分に予想されます。申し訳ないですが、ずれはご了解いただいて、私なりの論理展開を冷静にたどって、ご理解をいただければ幸いです。
 さて、最初に宣言しておきます。副島先生は、200年後、300年後の日本史の教科書に必ず名前が載っていると思います。2000年10月8日に、私は本サイトの「掲示板」に投稿した際、自分の確信からだけですが、このことをすでに主張しております。今回は、論文の分析を通して同じ結論に至りました。

目次;
1. 私の体の拒否反応
2. (話の前提)「愛国心」存在仮説
3. 戦後の、愛国心の置き所としての「司馬遼太郎史観」(幕末・明治時代人英雄論)
4. 「幕末・明治時代人英雄論」と「属国・日本論、歴史編」との対比
5. これまでの日本と「属国・日本論」との対比(その1)
6. 日本史の試金石としての「属国・日本論」
7. (補論)これまでの日本と「属国・日本論」との対比(その2)
8. 評論文を終えるにあたって

2000/11/26(Sun) No.01

Geopolitics(地政学) の授業を覗く 35 おくやま
さて70年代半ばに入ると、ベトナム戦争介入の泥沼によって「ドミノ理論」の限界が明らかになり、アメリカ主導の「冷戦の地政学」は新たなステージを迎えた。

デタント detente (緊張緩和政策)の登場である。

ベトナム戦争による長引く軍事費の出費と、国内からの海外軍事介入に対する批判によってアメリカはソ連との "平和的共存" peaceful co-existence と共産党中国との "調和" accomodation を目指す方向に外交政策変更を迫られたのである。

(Extra!のHPより)

ここで登場したのがニクソン政権で国務長官を務めたヘンリー・キッシンジャー Henry A. Kissinger (写真上)である。1923年生れで現在77歳のハーバードの政治科学学博士は、1930年代にドイツよりナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人の移民である。

アイゼンハウアー、ケネディ、そしてリンドン・ジョンソン政権下で外交エージェントを務めるかたわら、「核兵器と外交政策」Nuclear Weapons and Foreign Policy (1957)という本でアメリカ外交政策について鮮やかに語ったことが注目され、外交政策における知識人としての地位を確立した。

なぜ彼が地政学で重要になってくるのかというと、まず一つは彼が当時二つの肩書きを持っていたことである。要するに彼は影で政策を練る知識人という立場と、表に立って実際に実行する国務長官という政治官僚の、二つの肩書きを持つという極めて特殊な立場にあったということである。

もう一つは彼の「地政学」"Geopolitics" という言葉の、あやふや loose な使いかたであった。メディアのインタビューなどで、彼はGeopoliticsという言葉を連発して、アメリカの知識人階級を煙に巻いたのである。

まずニクソン政権下でベトナム戦争を終結させたキッシンジャーは MAD = "Mutually Assured Destruction"、いわゆる 「核の脅威の相互理解による破壊抑止力」をことさら強調して外交に望んだ。要するに「俺達は行き着く所まで来てしまったんだからしょうがない。お互いの危険性を認識してとりあえず冷戦の緊張を少し解こうぜ」とソ連側に持ち掛けたのである。

フランス語で「緊張緩和」を意味するこのデタント detente と呼ばれる彼の政策は、表むきは冷戦停止政策だったのだが、実はものすごい策略が秘められていた。キッシンジャーの本当の狙いは、当時の共産党のもう一方の雄、共産党中国を懐柔させてアメリカ側に近づけることにより、ソ連と中国との共産圏の連帯を突き崩して孤立させようということだったのである。

ようするに「停戦だ、平和だ」といいながら実は裏ではローマ帝国の「分割して統治せよ」divide and rule を忠実に実行して、確実にソ連を追いつめて、最終的には崩壊させることを企んでいたのである。デタントは単なるその過程にいたる「前振り」だったにすぎない。

こういうアメリカの地政学的魂胆がわからなかった日本は嬉々として、「じゃあ俺達も中国と手を結んでもいいのかな?」と勘違いして72年に中国との国交正常化を、アメリカの承認なしに勝手に行ってしまった。その中心人物はもちろん、あの田中角栄である。

ところがアメリカにとって極東の重要な従属国である日本が勝手に外交政策を独自に決めることは絶対に許せないことであった。特にソ連との最前線という、地政学的に微妙な極東地域であればなおさらである。

どのような時代でも覇権国に反抗したものはつぶされるのが常である。よってアメリカ発のロッキード事件をきっかけに、角栄は追いつめられて失脚させられた。

そしてそのアメリカの「角栄つぶし」の手先となって大活躍したのが、立花隆である。

(AMAZON.COMより)

余談だが、今回の選挙で極右扱いされて散々だった改革党の大統領候補のパット・ブキャナン Patrick J.Buchanan (写真上)はニクソン大統領のスピーチライター(演説文章のゴーストライター)をやっていて有名になった人物である。

この当時のニクソン大統領の周辺スタッフおよびそれを攻撃した批評家・ジャーナリストには、現在でも一線で活躍している有名知識人が多い。

以下、次号へつづく

2000/11/17(Fri) No.01

Geopolitics(地政学) の授業を覗く 34 おくやま
「プラハの春」におけるソ連軍の侵攻の正当化 Justification の役割を果たしたのは、後に「ブレジネフ・ドクトリン」“Brezhnev Doctorine"と呼ばれるようになった、地政学に関する有名な宣言であった。

この「ブレジネフ・ドクトリン」の初出は、ソ連共産党が発行していて当時世界最高の発行数を誇っていたプラウダ紙 Pravdaで、著者はもちろん時の最高有力者、レオニド・ブレジネフ Leonid Brezhnev である。

ただし、この論文には「コバレフ」“Kovalev” という匿名 pseudonymが使われていて、著者の名前を伏せられていた。まるでケナンの「X論文」と同じである。

この論文の内容を説明すると、要するにソ連は東側諸国という地理的に多様な国々を「地政学的秩序」 geopolitical orderにおいて従属国として扱い、効果的に統治・管理して行かなければならない、ということであった。

これは東側諸国は決して周囲の共産・社会主義国にダメージを与えるような政策決定を勝手に行ってはならない、という「プラハの春」の失敗における強烈な反省でもある。

ブレジネフによると、チェコスロバキアのように同胞国に疑惑を生じさせるような行為を行うということは、共産主義発達の歴史における修正主義 revisionism であり、一方的 one-sidenessである点でその革命原理に反する重大な罪である、ということであった。

またこの論文で、ブレジネフは地政学の常套句、"Us" と "Them"、そして西側諸国を示す「世界帝国主義」world Imperialismなどの言葉を巧みに使い、西ドイツはいまだにファシスト fascistで拡大主義 expansionistである、と強気に論じている。両大国に属さない中立的立場でさえも反社会主義 anti-socialist で反革命主義 counter-revolutionary であるとした。

「プラハの春」に対する武力侵攻については、「ソ連軍はチェコスロバキアの内政には興味がなく、ただチェコ人民の自己の運命を自由に選択する権利を助けたかっただけである」という、正に「インド人もビックリ」的な理論で正当化したのである。

それは裏を返せば「(ソビエト軍の侵攻が)チェコスロバキアの人民の自主性を助ける」という看板のもとに、ソ連の独自のイデオロジー的、地政学的判断を押しつけただけ、とも言える。

彼らのこういう外交理論を良い悪いという倫理基準で判断するのは、本来厳密に地政学をやる上ではタブーなのかもしれないが、それにしてもスゴイ正当化のしかたである。これと同じような理論で外交を行っているのは、現在では中国や北朝鮮などの共産圏の国だけだろう。

しかしながら、現在の日本もある意味こういった共産圏の国々の「面の皮の厚さ」的要素を、少しくらいお借りして外交政策に持ち込んで使ってもいいのでは?と思うのは私だけであろうか。

以下、次号へつづく

2000/11/14(Tue) No.02

地政学 Geopolitics の授業を覗く 33 復活篇 おくやま
だいぶ日が開いてしまったが、少し時間的余裕ができたので、久しぶりに「地政学の授業を覗く」を再開したい。

前回まで冷戦の地政学の「ドミノ理論」からハルバースタムのベトナム戦争批判、そして立花隆の正体を見てしまった、というところまで書いた。

さて、ではその「ドミノ理論」の続きから話を進めていきたい。

泥沼におちいったアメリカのベトナム戦争介入によって、この「ドミノ理論」は、特定地域の人々や文化、そして地理状況などの性格を完全に無視した、一種の権力知識 power/knowledge である、ということが明らかになってしまった。

言いかたを変えれば、それはアメリカの「冷戦の地政学」の神格化 apotheosisを象徴することになった、ともいえる。

アメリカ・ソビエト両大国にとってベトナムのような複雑で分かりづらい国は、ただ単に地球儀上で行われるパワーゲームの中の曖昧な将棋の「駒」(この場合ドミノ)のような物である、という認識しかなかったのである。

これについて、現在主流の地政学では「ベトナムの悲劇」の一端は50年代にアメリカ国内に吹き荒れた反共マッカーシズム、いわゆる「赤狩り」に相当部分の責任がある、という研究もあるという。

共産シンパを徹底的に社会から締め出すことによって、中国やベトナムなどの「地域専門学者」regional experts も一緒に締め出してしまった、というのがその大きな理由である。この時期のアメリカ首脳部のむやみな戦争介入を考えれば、たしかにこの説には説得力がある。

さて一方、ソ連率いる東側諸国のほうにもこの時期に「ドミノ理論」による反作用があった。1968年の、いわゆる「プラハの春」"the Prague Spring"である。

この時期、ソ連側にとっての「駒」(ドミノ)は、地理的にもソ連に近い、「衛星国」satellite statesと呼ばれた東側諸国そのものを意味した。

そのソ連側の「駒」の一つである、当時のチェコスロバキアが、60年代末になるとどうも経済的にうまくいかなくなった。それを受けて、チェコ政権首脳部はさっそく東側社会主義国のボスであるソ連に助けを求め始めたのである。

このチェコの経済の行き詰まりと救援要請は、結果として東側諸国の間で大問題となった。チェコが経済的な理由で西側に落ちるかもしれない、という恐怖が東側諸国の首脳部の人間の脳裏をよぎったからだ。これが68年のことである。

救援を求めてもらちのあかないチェコ側は、アレクサンダー・ドゥブチェク Alexander Dubcek という人物を擁して独自に経済改革解放路線を進めることにした。

その結果は「文化の自由化」 cultural liberalization という部分に顕著に現れることになった。コーラや音楽、ファッションなどの西側文化が急激に流れ込んだのだ。これが「プラハの春」と呼ばれた、チェコスロバキア国内の社会現象である。

しかし東ドイツ、ポーランド、そしてソ連の官僚たちはこれを「チェコスロバキア病」Czechoslovakian disease として非難。この「病気」が他の東側諸国に伝染するのを恐れて、ついにこの年の8月20日、ソ連軍 the Red Army はチェコスロバキアの首都、プラハへの侵攻を開始した。これにはポーランド、東ドイツ、ハンガリー、そしてブルガリアからの小部隊も参加している。

ベトナム戦争やプラハの春の例をみてもわかる通り、両大国首脳が意識的・無意識的にもかかわらず採用していた「ドミノ理論」の底に共通してあったのは、「味方が相手国へ落ちてしまうかも知れない」という、どうしようもないほどの恐怖感であった。

以下、次号へつづく

2000/11/13(Mon) No.04

「アメリカの世論」と「日本の空気」 荒木章文 荒木章文
アメリカが分裂している。
大統領選挙における混乱が、泥沼化していくというのである。
以下は「片岡鉄哉のアメリカ通信」からの記事である。

(引用はじめ)
【アメリカ真っ二つに分裂
平和の疾患ついに勝者を襲う
真珠湾を求める心理が台頭か】

ゴア副大統領が、選挙の結果を拒絶し、法廷闘争に持ちこむ用意があると発表した
ことで、アメリカ政治は分裂した。
・・・(中略)・・・
かねてから私は、冷戦後アメリカ社会の原動力は、共和・民主両党の党派的あらそいだと繰り返してきた。しかし遂に来るべきものが来たという感じである。外敵がない
ことが国家をどれだけ腐敗させるか。大恐慌で割れたアメリカを団結させるために、真珠湾攻撃を求めたルーズベルトから六十年たって、振りだしに戻るかもしれないのだ。
・・・(中略)・・・
冷戦時代の伝統である超党派外交、つまり米軍が出兵したら「水際で政争を止める」儀礼は捨てられる。戦争が政争の道具になる。そうなったら超大国はお終いである。国力のもっとも大事な要素は、世論の統一である。日本の外交が去勢されたのは、保守・革新の亀裂があったからだ。
私にはその先も見える。それは再び真珠湾攻撃を求める動きが生まれる出るだろうことである。
(引用おわり)
片岡鉄哉のアメリカ通信 2000年11月11日号 NO.34

 片岡教授はアメリカは世論の統一(団結)の為に、真珠湾攻撃を求める動きにでるかもしれないというのである。
 いずれにしても、民主党・共和党(ネオ・コン派)勢力のグローバリストは、世論の統一の為には、真珠湾攻撃をしむけることは十分考えられる。
 それは、「為替」と「金利」での攻撃であるロー・ポリティクス(経済問題)ではなくて純粋にハイ・ポリティクス(軍事問題)になるのであろう。
 ただ60年前のアメリカとの違いは、現在アメリカは「大恐慌」では無いということである。
 しかしアメリカの好況がどこまで続くかは疑問である。
 またドイツと日本が同盟関係にあり、ヨーロッパにおいてイギリスがおいつめられているという状況でもない。
 当時、ルーズベルトがヨーロッパに参戦したくて仕方が無かった状況とは違う。

 では仮に真珠湾攻撃をしむけられたらどう対応したらいいのか?
 その時は歴史から学ぶべきである。

(引用はじめ)
大統領の発言にせよ、いわんや彼の部下にすぎない国務長官の発言にせよ、その内容が実効性を有するかどうか。
 かかって世論の動向によって決っせられるのである。
 大統領が、こうだとかたく思い定めたからとて、それがアメリカの最終意志決定となるともかぎらない。
 アメリカ大統領の権限は大きい。が、その権限は、世論の基礎のうえで行使される。
 これが、アメリカの政治である。国家の意思決定である。
(引用おわり)
日米の悲劇 小室直樹著 光文社 1991年 P.26

交渉相手である、大統領や国務長官ダケを見ていても問題は解決しない。
その意志決定に、世論の支持が有るのか無いのか?
また、1940年の大統領選挙でルーズベルトがどんな公約をしていたかの分析を当時の日本側交渉官は行っていたのか?

(引用はじめ)
「米大統領は、選挙の公約をことのほか重視する」選挙の公約に反することはできない。
(引用おわり)
日米の悲劇 小室直樹著 光文社 1991年 P.29

日本と違って、アメリカにおいてはどんなに選挙公約が重要であるのか、その意味が根本的に違うのである。
 そのことを当時の日本側交渉官は知っていたのだろうか?
 
 仮にグローバリストに第二の真珠湾攻撃を仕向られたとした時、まず日本側交渉官が行わなければならないことは何か?
 冷静にアメリカ世論を分析することである。
 その政策が実効性(世論の支持)が得られる政策なのかどうなのかの分析である。
 反米感情が日本側に醸成されることを防ぐためにも、その冷静な分析をもとにした情報を公開しなければならない。
 何故なら、日本は故山本七平氏が指摘したように「空気」によって支配される社会だからである。

2000/11/13(Mon) No.03

日本のこの20年-6 荒木章文 荒木章文
日本のこの20年の動きを1979年〜1996年まで副島氏の著作と、片岡氏の著作から年表風にまとめてみた。

1979年:1979年の暮れにソ連によるアフガニスタン侵略が起きると、強
いアメリカを標榜するロナルド・レーガンが共和党の大統領候
補として立ち、日本のただ乗りはもはや許されない政治環境が
生まれた。
     大平内閣の「総合安全保障」の下、「ヒトを出さずに金を出
す」という政策をとることとなる。
    (日本永久占領 片岡鉄哉著 講談社α文庫 P.509-510)

1979年:1979年に「第二次石油ショック」が起きて、この表からわかる
とおり、それまで年率3パーセントだった日銀の公定歩合が、
80年には9パーセントまで急騰する。
     この高金利は、アメリカで80年と81年には、公定歩合が
なんと12パーセント台という高さを示したことにつられた
動きである。
     これはレーガン共和党政権が81年に登場する直前のアメリ
カ経済が、ベトナム戦争の出費の後遺症で、ものすごいイ
ンフレ状態だったことを示している。
     1979年の第二次オイルショックは、当時勃発したイラン・イ
ラン戦争の煽りを受けたもので、原油価格は1バレル30ド
ルまで上がって、高騰した石油代金が先進諸国を直撃した。
    (日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 1998年6月P.131)

1982年:中曽根内閣政権の誕生「不沈空母」発言で問題となる。
    実は「日本はアメリカを支援して経済・金融問題で譲歩する」
ということだったのでる。
   (日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 1998年6月 P.85)

1985年:プラザ合意
    G5(先進国蔵相・中央銀行総裁会議)の共同声明が出され、
「ドイツ・マルクと日本・円に対してだけは、、米ドルに対する
為替レートを市場の実勢に任せて放置する」という内容が宣言さ
れた。
  (日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 1998年6月 P.134)

1987年:ブラック・マンデー
    1987年10月にウォール街でブラック・マンデーと呼ばれる株の
大暴落がおきた。流動性の危機となり資金繰りがつかない。そ
こでアメリカ政府は日本に資金の注入を求めた。竹下内閣はこ
れに応じて日銀の公定歩合を、就任時の2.5パーセントに据え
置き、89年5月末まで続けた。ジャパン・マネーが高金利を求
めてウォール街に還流するように仕向けたのである。これがバ
ブルとなった。
   (日本永久占領 片岡鉄哉著 講談社α文庫 P.3-4)

1990年:アメリカの日本に対する「為替」と「金利」の第二次攻撃は
1990年1月の東証の株価の大暴落に端的に表れている。それま
で日本の株式を「外人買い」の形で買い集め、株価を異様な高
さにまで高めておいてから、自分たちだけ売り逃げて、その直
後の大暴落で日本人投資家のほとんどに大損害を与えた。
  (日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 1998年6月 P.138)

1990年〜1993年:アメリカによる「為替」と「金利」の第二次攻撃は、
このように日本の株価が大きく崩れ、地価が暴落す
る事態をさらに促進させるべく、1990年から1993
年にかけて、着実に実行に移されたのである。この
時期に、1ドル160円から125円にまで円高が進む。
金利(公定歩合)も。6パーセントにまで持ち直し
ていたのに、急激に2.5パーセントにまで下がり
つづける。
         アメリカ政府内の日本攻撃の主役が、除々にUSTR
(米国対外通商代表部)から、アメリカ財務省(トレ
ジャリー・デパートメント)に移ってゆく。しか
し、日本攻撃の真の黒幕であり、司令部である財務
省はまだその姿を正面に表さない。
  (日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 1998年6月 P.142)

1991年:湾岸戦争
    アメリカの不況(景気後退)はこのあともズルズルと続いてゆ
き、レーガンの後を引き継いだ共和党のジョージ・ブッシュ政
権時代の89年から92年の4年間にもほとんど対策はたたなかっ
た。
    アメリカは、1991年1月の湾岸戦争(ザ・ガルフ・ウォー)の
ときにイラクに凄まじい攻撃をかけて一気に大勝利を収めた。
  (日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 1998年6月 P.137)

1991年:ソ連邦崩壊(1991年12月21日)
(日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 1998年6月 P.132-133)

1993年:F・バーグステン京都講演
     第三次攻撃は、1993年2月にフレッド・バーグステンという
国際為替市場を分析することを専門にするグローバリストの民
主党系戦略学者の発言から始まる。このフレッド・バーグステ
ンが93年2月の京都講演で、「1ドルは100円を割る。」と発言
した。すると本当にこの直後から、ドルが下落、円が高騰を
始めた。
  (日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 1998年6月 P.143)

1995年:日米自動車協議
    95年6月に合意した「日米自動車協議」までは、アメリカは、
ずっと表面上は日本に貿易摩擦(トレイド・フリクション)に
よる個別品目の外交交渉をやり続けた。
  (日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 1998年6月 P.138)

1995年:95年4月19日には、遂に1ドル79円75銭という「超円高」まで
達する。日本人は、このとき一様に青ざめた。製品輸出で食べ
ている輸出関連大企業は「これでは、製造原価さえ割る。とて
も輸出などできなくなる」と政府に泣きついた。これが第三次
攻撃に続く第四次攻撃である。金利の方は、このあと95年9
月8日には、0.5パーセントという異常な低さに達し、3年
以上も地面をはうような恥ずべき低さのまま続いて現在に至
る。
 (日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 1998年6月 P.144)

1995年:この95年8月に、日米自動車交渉と同時進行した「アメリカか
らの第四次攻撃」を終了してもらうために、日本政府側が頭を
下げて「逆プラザ合意」とも言うべき「円安もどし」の大蔵省
とアメリカ財務省の秘密協定が結ばれた。この95年8月の「逆
プラザ合意」の仕上げとも言べき首脳会談が翌年の2月のクリン
トン・橋本会談だったのである。
  (日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 1998年6月 P.144)


1996年:96年2月に、橋本首相は、首相になると急遽、カリフォルニア
州ロサンゼルスに飛んでクリントンと慌ただしく、たった2時
間のとんぼ返りの首脳会談を行った。橋本首相は、このときク
リントンと「密約」を結んでいる。
    「日本との各品目別の通商交渉はもう終わりにする。今後は、
金融部門の調整だけが日米間の課題である。アメリカは日本い
じめをひとまず停止する。
    これには、アメリカが日本を軍事的に防衛している経費の、日
本側による更なる負担が前提となる。日本が各種の安全保障代
金をアメリカに積極的に支払うならば、アメリカは日本をこれ
以上叩きのめすことはしない。日本は金融市場を公開せよ。そ
うすれば、アメリカは日本の金融制度改革にも手を貸す」
    このような秘密協定が結ばれた。
  (日本の危機の本質 副島隆彦著 講談社 1998年6月 P.142)

2000/11/12(Sun) No.02

日本のこの20年-5 荒木章文 荒木章文
日本の金融封じ込め戦略はアメリカ政府のどこで決定されたのか?
このことを考える時、NEC(国家経済会議)のことを述べなければならない。
この国家経済会議とは何なのかそのことを副島氏の著作から引用することにする。

(引用はじめ)
クリントン政権に入っているネオ・リベラル派官僚たちのうちの通商問題担当だった、た
とえば後述するミッキー・カンターなどが何をやったかというと、「日本ぶったくり」である。「日本はずっとアメリカにタダ乗りしてきた」「これまでタダで日本を守ってやった分を、報酬請求しようではないか」ということである。
 すなわち、日米(あるいは東アジア諸国との)貿易赤字を、外交交渉で政治的に圧力をかけて減らす、という外交戦略である。これも「産業政策論」である。それを制度化したものが、クリントン政権の目玉、「経済安全保障会議」(ESC=Economic SecurityCouncil)であり、それが実際に実現したときにNEC(国家経済会議National Economic Council)となった。クリントンはこのNECを、大ゲサにも、従来からある「国家安全保障会議」(NSC=National Security Council)、わかりやすく言えば「最高国防会議」と同格のところまで持ってきて、このNSCと並んで大統領直属のものにした。
(引用おわり)
世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫 p.140

「日米(あるいは東アジア諸国との)貿易赤字を、外交交渉で政治的に圧力をかけて減らす、という外交戦略である。これも「産業政策論」である。それを制度化したもの」これが国家経済会議である。
 ではこのNEC(国家経済会議)とはどんな位置ずけの機関なのか?
 それは、ここで表現されている。NSC(国家安全保障会議)と同格のところまで・・・という位置ずけである。
 ではこの、NSC(国家安全保障会議)とはそもそも、アメリカ行政府においてどのような位置付けの機関で、どんな構成メンバーになっているのだろうか?

http://www.interq.or.jp/world/soejima/souko/visual_data/img20001111203227.jpg

↑図の中の、ホワイトハウス内に存在する。

(引用はじめ)
ホワイトハウスに設置された国家安全保障会議(NSC)は、外交・安全保障政策の最高諮問機関として、大統領を筆頭に、副大統領、国務長官、国防長官のほか、安全保障担当補佐官、統合参謀本部議長を始めとする専門化アドバイザーで構成されています。
(引用おわり)
アメリカのしくみ 柳沢賢一郎編著 中経出版 P.138

「外交・安全保障政策の最高諮問機関」なのである。
それと同格のところまでもってきたのである。
そしてこの会議で日本の金融封じ込め戦略話あわれ、財務省が前面にでてきたのである。

http://www.interq.or.jp/world/soejima/souko/visual_data/img20001111145618.jpg

↑図の省庁の中で財務省は、国務省、国防総省、司法省と並んで重要
な位置づけにある省庁である。

(引用はじめ)
ミッキー・カンターはロバート・ルービンRobert Rubin財務長官Treasury Secretary、ローラ・タイソン女史らと共に、クリントン大統領も出席するこのNECのメンバーであり、この会議で、「日本がどうしても言うことを聞かないときは、次はどうするか」ということを
話し合っている。ルービン財務長官は、ニューヨークのユダヤ系大金融法人のゴールドマン・サックスのCEO(最高経営責任者、わかりやすく言えば雇われ社長)からクリントン政権入りした人である。
 経済諮問委員会(CEA)委員長(大統領経済顧問)だった経済学者のローラ・タイソンLaura Tyson女史やロバート・ライシュ教授は、「あまり正面から日本に圧力をかけるだけでは、うまく行かないのではないか」という消極意見だった。ウォーレン・クリストファーWarren Christopher前国務長官は、「あの国は何を言ってもどうせ言うことを聞かないんだ」と日本を完全無視した。さらに前の国務長官のジム・ベイカーに至っては、「あの国は誰と交渉してよいのかわからないし、出てきた奴と交渉してたとえ合意に達したとしても、そいつが本当に権力を握っているかどうかわからない。どうせ約束を守らないから、あんな国に行くだけ無駄だ」と言って、初めから日本を無視した。日本に再三来て交渉したクリストファー国務長官は少しも成果があがらず、その他の失敗もあって辞任した。
 このあと、USTRなんかに任せていても仕方がないということで、アメリカ財務省が前面に出て、日本と東アジア諸国の金融部門に、直接攻撃を仕掛ける戦略に転換した。
日本はアメリカの「金融封鎖戦略」にあって、金融危機に陥った。本当のところは、日本はアメリカからはこの程度に扱われている属国(朝貢国、トリビュータリ・ステイト)である。
(引用おわり)
世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち 副島隆彦著 講談社α文庫 p.142-143


2000/11/12(Sun) No.01

日本部族民新聞-4 荒木章文
私企業官僚制の整った、古い体質の企業がいまでもがんばっている。
インフレ基調時代の、売り手市場での行動様式をもった人間が今でも企業のトップや上層部に存在する。
 デフレ基調下の、買い手市場の営業経験のない上司が多く生息している。
 しかし、その会社を変えいることはできない。
 何故なら、そこには変化を許さない空気が存在するからである。
 売り手市場しか経験したことのない上層部だから、当然戦略も方針も考えたことは無い。
 権限と責任のカウンターバランスが崩れているのも特徴である。
 上司としての権限は主張するが責任は部下に押し付ける。
 それでも従来の日本の組織は許してきたのである。
 しかし、機能集団としての組織ではそれは許されない。
 事務処理という本来、顧客への財やサービスを提供する従属的な存在がいつしか物象化して、変えることのできないものと化していく。
 その流れで間接部門は肥大化していく。
 当然、一般管理費というものが増えていくことになる。
 やがてそんな会社は、顧客ではなく会議を見て行動するようになる。
 現場の営業に、その会議用の資料作成等どんどん負担させて、マスターベーションの回数を増やしていく。
 本来、後方支援をしなければならない存在が、足を引っ張る形となる。
 そして、顧客を見て仕事をする営業はそんな会社では絶対、評価されることは無い。
 だから、日本の会社は堕ちるところまで堕ちたほうがいいのである。
 しかし、個人は常に危機管理意識をもっておかなければならない。
 小室直樹氏が常に指摘するように、下級武士のエトスを持たなければならない。
 市場原理にさらされても、強く生き抜く思想・哲学を持たなければならない。
 そうしなければ、その会社組織と心中しなければならないはめにおちいるからである。
2000/11/06(Mon) No.01

My Diary Version 1.21改
[管理者:システム担当 著作:じゃわ]




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