(評論)「属国・日本論、歴史編」について(7・完) | かたせ |
7.(補論)これまでの日本と「属国・日本論」との対比(その2) 一応、6.で結論は出しました。この章では、日本の歴史と「属国・日本論」との対立について見方を深めるために、まったく毛色のちがう角度から考察し、補足します。 8.評論文を終えるにあたっての感想 さて以下は、私の個人的な感想です。 (引用開始) と副島先生がおっしゃっているように、とても大切な位置付けの論文ですので、評論をする私の方も、推敲に推敲を重ねて、死力をつくして、書きました。ただし書いているうちに、論文の評論という枠を飛び出て、後半は「属国・日本論」そのものの評論となりました。
2000/11/26(Sun) No.07
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(評論)「属国・日本論、歴史編」について(6) | かたせ |
6.日本史の試金石としての「属国・日本論」 日本史の先端にある西暦2000年現在の日本について次のような見方を行って、日本史における「属国・日本論」の位置付けの大きさについて、私なりの補足を加えます。 (引用開始) これは、日本語の壁をとっぱらって、世界標準である「アメリカ政治思想」を、副島先生が日本に直接流通させることの決意表明でもあります。もしそれが実現すれば、アメリカ政治思想での主張の中に含まれる、アメリカが現在の覇権国である事実を自動的に認めることになります。ということは、その反射的対応として、日本が属国であることも認めざるを得なくなるはずです。つまり副島先生の活動により、日本は世界標準のアメリカ政治思想、そして、その日本対応版としての「属国・日本論」を受け入れることになると主張されているのです。そして私は、そんな状況にある現時点の日本について、次のような見方を補足するのです。 「2000年の時を経た今、日本の国は『属国・日本論』を受け入れるほどの成長を遂げたのだ」と。 その意味を、以下の通り、説明します。
2000/11/26(Sun) No.06
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(評論)「属国・日本論、歴史編」について(5) | かたせ |
5.これまでの日本と「属国・日本論」との対比(その1) この章からは話を大きく広げて、論文「属国・日本論、歴史編」も含む副島先生の歴史観「属国・日本論」の、日本史における位置付けについて考えてみます。 (引用開始) また、「日本の秘密」(弓立社刊)249ページから引用します。 (引用開始) このように、属国である事実を2000年間、認めるのを拒否しつづてきました、それが日本史です。それでも属国としての道を歩めて来ることができたのですから、幸運な歴史でした。これに対して副島先生が「属国・日本論」を明確に主張されています。2000年にわたる日本の歴史上、初めての出来事です。私なりに、どれだけの衝撃かを想定してみます。
2000/11/26(Sun) No.05
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(評論)「属国・日本論、歴史編」について(4) | かたせ |
4.「幕末・明治時代人英雄論」と「属国・日本論、歴史編」との対比 司馬遼太郎の「幕末・明治時代人英雄論」と副島先生の「属国・日本論、歴史編」とを、二つの観点、「歴史研究」と「歴史観」の観点から対比します。
2000/11/26(Sun) No.04
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(評論)「属国・日本論、歴史編」について(3) | かたせ |
3.戦後の、愛国心の置き所としての「司馬遼太郎史観」(幕末・明治時代人英雄論) 日本人の「歴史観」の最大派閥はおそらく「司馬遼太郎史観」です。その歴史的経緯について考察します。 この歴史観に対し、副島先生の「属国・日本論、歴史編」は、完全に競合しています。 (引用開始) 司馬遼太郎史観の本質を一言(いちごん)のもとに、串刺しで表現し、軽蔑・罵倒し、なぎ倒しています。この「属国・日本論、歴史編」は現代の日本人に何を突きつけているのでしょう?この論文の、日本史の中での位置付けは、どのようになるのでしょうか?
2000/11/26(Sun) No.03
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(評論)「属国・日本論、歴史編」について(2) | かたせ |
1.私の体の拒否反応 私は、この論文を2000年10月に読みました。実は、1年ほど前に、本屋でご著書「属国・日本論」(五月書房刊)を見つけていました。しかし、これまで副島先生のご著書を見つけると必ずすぐに購入していた私が、この本だけは買わなかったのです。パラパラと本をめくって、幕末の時代から日本は、イギリスに上から操られていたのだと、後半の「属国・日本論、歴史編」で書かれているらしい、それがわかった時、理性的な判断の前に、体が拒絶反応を起こしました。第2次大戦後の日本史を、「属国・日本論」で述べてもらうのには何の抵抗もなかったのに、とても不思議でした。 2.(話の前提)「愛国心」存在仮説 論を進めていくにあたり、ひとつの仮説を立てます。右だとか左だとかに関係なく、どんな政治的な信条を持つ人であろうと、「自分のうまれ育った国の『歴史』を愛そうとする心」をもっている、これが「愛国心」であると定義します。愛国心なんて単語をこれまで考えたことのない私にもあるのですから、たぶん、どの人にもあります。副島先生のいう「素朴な愛国感情」(「日本の秘密」弓立社刊 248ページ)とほぼ対応するものと考えます。
2000/11/26(Sun) No.02
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(評論)「属国・日本論、歴史編」について(1) | かたせ |
いまから私が述べる内容は、副島先生の論文「属国・日本論、第三部 属国日本の近代史」(五月書房刊「属国・日本論」の後半に掲載)の評論文です。評論文ですが、論文からの直接の引用がほとんどありません。主に、日本史の中でこの論文が占めるであろう位置付けについて考えていきます。以後、2000年10月21日の「今日のぼやき」での副島先生の呼び方をお借りして、「属国・日本論、歴史編」と略称します。 この論文は、本当に厳しく、またすばらしい内容です。まだお読みでない方にも、ぜひお勧めします。 なお私の評論文では最初に、自分の行動記録を軸にして、論を展開しています。日本での「タコツボ型」(丸山真男:副島先生が唯一誉めておられる表現)の学問の土壌では、論を述べる自分自身がその考えに至った経緯をある程度述べなければ、他の人たちと共通の話のやりとりができない、と考えます。阿部謹也という、私の尊敬する歴史学者が同様のことを述べておられます。話の展開そのものは読者のみなさまのお考えとずれていることが十分に予想されます。申し訳ないですが、ずれはご了解いただいて、私なりの論理展開を冷静にたどって、ご理解をいただければ幸いです。 さて、最初に宣言しておきます。副島先生は、200年後、300年後の日本史の教科書に必ず名前が載っていると思います。2000年10月8日に、私は本サイトの「掲示板」に投稿した際、自分の確信からだけですが、このことをすでに主張しております。今回は、論文の分析を通して同じ結論に至りました。 目次;
2000/11/26(Sun) No.01
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Geopolitics(地政学) の授業を覗く 35 | おくやま |
さて70年代半ばに入ると、ベトナム戦争介入の泥沼によって「ドミノ理論」の限界が明らかになり、アメリカ主導の「冷戦の地政学」は新たなステージを迎えた。 デタント detente (緊張緩和政策)の登場である。 ベトナム戦争による長引く軍事費の出費と、国内からの海外軍事介入に対する批判によってアメリカはソ連との "平和的共存" peaceful co-existence と共産党中国との "調和" accomodation を目指す方向に外交政策変更を迫られたのである。 (Extra!のHPより) ここで登場したのがニクソン政権で国務長官を務めたヘンリー・キッシンジャー Henry A. Kissinger (写真上)である。1923年生れで現在77歳のハーバードの政治科学学博士は、1930年代にドイツよりナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人の移民である。 アイゼンハウアー、ケネディ、そしてリンドン・ジョンソン政権下で外交エージェントを務めるかたわら、「核兵器と外交政策」Nuclear Weapons and Foreign Policy (1957)という本でアメリカ外交政策について鮮やかに語ったことが注目され、外交政策における知識人としての地位を確立した。 なぜ彼が地政学で重要になってくるのかというと、まず一つは彼が当時二つの肩書きを持っていたことである。要するに彼は影で政策を練る知識人という立場と、表に立って実際に実行する国務長官という政治官僚の、二つの肩書きを持つという極めて特殊な立場にあったということである。 もう一つは彼の「地政学」"Geopolitics" という言葉の、あやふや loose な使いかたであった。メディアのインタビューなどで、彼はGeopoliticsという言葉を連発して、アメリカの知識人階級を煙に巻いたのである。 まずニクソン政権下でベトナム戦争を終結させたキッシンジャーは MAD = "Mutually Assured Destruction"、いわゆる 「核の脅威の相互理解による破壊抑止力」をことさら強調して外交に望んだ。要するに「俺達は行き着く所まで来てしまったんだからしょうがない。お互いの危険性を認識してとりあえず冷戦の緊張を少し解こうぜ」とソ連側に持ち掛けたのである。 フランス語で「緊張緩和」を意味するこのデタント detente と呼ばれる彼の政策は、表むきは冷戦停止政策だったのだが、実はものすごい策略が秘められていた。キッシンジャーの本当の狙いは、当時の共産党のもう一方の雄、共産党中国を懐柔させてアメリカ側に近づけることにより、ソ連と中国との共産圏の連帯を突き崩して孤立させようということだったのである。 ようするに「停戦だ、平和だ」といいながら実は裏ではローマ帝国の「分割して統治せよ」divide and rule を忠実に実行して、確実にソ連を追いつめて、最終的には崩壊させることを企んでいたのである。デタントは単なるその過程にいたる「前振り」だったにすぎない。 こういうアメリカの地政学的魂胆がわからなかった日本は嬉々として、「じゃあ俺達も中国と手を結んでもいいのかな?」と勘違いして72年に中国との国交正常化を、アメリカの承認なしに勝手に行ってしまった。その中心人物はもちろん、あの田中角栄である。 ところがアメリカにとって極東の重要な従属国である日本が勝手に外交政策を独自に決めることは絶対に許せないことであった。特にソ連との最前線という、地政学的に微妙な極東地域であればなおさらである。 どのような時代でも覇権国に反抗したものはつぶされるのが常である。よってアメリカ発のロッキード事件をきっかけに、角栄は追いつめられて失脚させられた。 そしてそのアメリカの「角栄つぶし」の手先となって大活躍したのが、立花隆である。 (AMAZON.COMより) 余談だが、今回の選挙で極右扱いされて散々だった改革党の大統領候補のパット・ブキャナン Patrick J.Buchanan (写真上)はニクソン大統領のスピーチライター(演説文章のゴーストライター)をやっていて有名になった人物である。 この当時のニクソン大統領の周辺スタッフおよびそれを攻撃した批評家・ジャーナリストには、現在でも一線で活躍している有名知識人が多い。 以下、次号へつづく
2000/11/17(Fri) No.01
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Geopolitics(地政学) の授業を覗く 34 | おくやま |
「プラハの春」におけるソ連軍の侵攻の正当化 Justification の役割を果たしたのは、後に「ブレジネフ・ドクトリン」“Brezhnev Doctorine"と呼ばれるようになった、地政学に関する有名な宣言であった。 この「ブレジネフ・ドクトリン」の初出は、ソ連共産党が発行していて当時世界最高の発行数を誇っていたプラウダ紙 Pravdaで、著者はもちろん時の最高有力者、レオニド・ブレジネフ Leonid Brezhnev である。 ただし、この論文には「コバレフ」“Kovalev” という匿名 pseudonymが使われていて、著者の名前を伏せられていた。まるでケナンの「X論文」と同じである。 この論文の内容を説明すると、要するにソ連は東側諸国という地理的に多様な国々を「地政学的秩序」 geopolitical orderにおいて従属国として扱い、効果的に統治・管理して行かなければならない、ということであった。 これは東側諸国は決して周囲の共産・社会主義国にダメージを与えるような政策決定を勝手に行ってはならない、という「プラハの春」の失敗における強烈な反省でもある。 ブレジネフによると、チェコスロバキアのように同胞国に疑惑を生じさせるような行為を行うということは、共産主義発達の歴史における修正主義 revisionism であり、一方的 one-sidenessである点でその革命原理に反する重大な罪である、ということであった。 またこの論文で、ブレジネフは地政学の常套句、"Us" と "Them"、そして西側諸国を示す「世界帝国主義」world Imperialismなどの言葉を巧みに使い、西ドイツはいまだにファシスト fascistで拡大主義 expansionistである、と強気に論じている。両大国に属さない中立的立場でさえも反社会主義 anti-socialist で反革命主義 counter-revolutionary であるとした。 「プラハの春」に対する武力侵攻については、「ソ連軍はチェコスロバキアの内政には興味がなく、ただチェコ人民の自己の運命を自由に選択する権利を助けたかっただけである」という、正に「インド人もビックリ」的な理論で正当化したのである。 それは裏を返せば「(ソビエト軍の侵攻が)チェコスロバキアの人民の自主性を助ける」という看板のもとに、ソ連の独自のイデオロジー的、地政学的判断を押しつけただけ、とも言える。 彼らのこういう外交理論を良い悪いという倫理基準で判断するのは、本来厳密に地政学をやる上ではタブーなのかもしれないが、それにしてもスゴイ正当化のしかたである。これと同じような理論で外交を行っているのは、現在では中国や北朝鮮などの共産圏の国だけだろう。 しかしながら、現在の日本もある意味こういった共産圏の国々の「面の皮の厚さ」的要素を、少しくらいお借りして外交政策に持ち込んで使ってもいいのでは?と思うのは私だけであろうか。 以下、次号へつづく
2000/11/14(Tue) No.02
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地政学 Geopolitics の授業を覗く 33 復活篇 | おくやま |
だいぶ日が開いてしまったが、少し時間的余裕ができたので、久しぶりに「地政学の授業を覗く」を再開したい。 前回まで冷戦の地政学の「ドミノ理論」からハルバースタムのベトナム戦争批判、そして立花隆の正体を見てしまった、というところまで書いた。 さて、ではその「ドミノ理論」の続きから話を進めていきたい。 泥沼におちいったアメリカのベトナム戦争介入によって、この「ドミノ理論」は、特定地域の人々や文化、そして地理状況などの性格を完全に無視した、一種の権力知識 power/knowledge である、ということが明らかになってしまった。 言いかたを変えれば、それはアメリカの「冷戦の地政学」の神格化 apotheosisを象徴することになった、ともいえる。 アメリカ・ソビエト両大国にとってベトナムのような複雑で分かりづらい国は、ただ単に地球儀上で行われるパワーゲームの中の曖昧な将棋の「駒」(この場合ドミノ)のような物である、という認識しかなかったのである。 これについて、現在主流の地政学では「ベトナムの悲劇」の一端は50年代にアメリカ国内に吹き荒れた反共マッカーシズム、いわゆる「赤狩り」に相当部分の責任がある、という研究もあるという。 共産シンパを徹底的に社会から締め出すことによって、中国やベトナムなどの「地域専門学者」regional experts も一緒に締め出してしまった、というのがその大きな理由である。この時期のアメリカ首脳部のむやみな戦争介入を考えれば、たしかにこの説には説得力がある。 さて一方、ソ連率いる東側諸国のほうにもこの時期に「ドミノ理論」による反作用があった。1968年の、いわゆる「プラハの春」"the Prague Spring"である。 この時期、ソ連側にとっての「駒」(ドミノ)は、地理的にもソ連に近い、「衛星国」satellite statesと呼ばれた東側諸国そのものを意味した。 そのソ連側の「駒」の一つである、当時のチェコスロバキアが、60年代末になるとどうも経済的にうまくいかなくなった。それを受けて、チェコ政権首脳部はさっそく東側社会主義国のボスであるソ連に助けを求め始めたのである。 このチェコの経済の行き詰まりと救援要請は、結果として東側諸国の間で大問題となった。チェコが経済的な理由で西側に落ちるかもしれない、という恐怖が東側諸国の首脳部の人間の脳裏をよぎったからだ。これが68年のことである。 救援を求めてもらちのあかないチェコ側は、アレクサンダー・ドゥブチェク Alexander Dubcek という人物を擁して独自に経済改革解放路線を進めることにした。 その結果は「文化の自由化」 cultural liberalization という部分に顕著に現れることになった。コーラや音楽、ファッションなどの西側文化が急激に流れ込んだのだ。これが「プラハの春」と呼ばれた、チェコスロバキア国内の社会現象である。 しかし東ドイツ、ポーランド、そしてソ連の官僚たちはこれを「チェコスロバキア病」Czechoslovakian disease として非難。この「病気」が他の東側諸国に伝染するのを恐れて、ついにこの年の8月20日、ソ連軍 the Red Army はチェコスロバキアの首都、プラハへの侵攻を開始した。これにはポーランド、東ドイツ、ハンガリー、そしてブルガリアからの小部隊も参加している。 ベトナム戦争やプラハの春の例をみてもわかる通り、両大国首脳が意識的・無意識的にもかかわらず採用していた「ドミノ理論」の底に共通してあったのは、「味方が相手国へ落ちてしまうかも知れない」という、どうしようもないほどの恐怖感であった。 以下、次号へつづく
2000/11/13(Mon) No.04
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「アメリカの世論」と「日本の空気」 荒木章文 | 荒木章文 |
アメリカが分裂している。 大統領選挙における混乱が、泥沼化していくというのである。 以下は「片岡鉄哉のアメリカ通信」からの記事である。 (引用はじめ) ゴア副大統領が、選挙の結果を拒絶し、法廷闘争に持ちこむ用意があると発表した 片岡教授はアメリカは世論の統一(団結)の為に、真珠湾攻撃を求める動きにでるかもしれないというのである。 では仮に真珠湾攻撃をしむけられたらどう対応したらいいのか? (引用はじめ) 交渉相手である、大統領や国務長官ダケを見ていても問題は解決しない。 (引用はじめ) 日本と違って、アメリカにおいてはどんなに選挙公約が重要であるのか、その意味が根本的に違うのである。
2000/11/13(Mon) No.03
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日本のこの20年-6 荒木章文 | 荒木章文 |
日本のこの20年の動きを1979年〜1996年まで副島氏の著作と、片岡氏の著作から年表風にまとめてみた。 1979年:1979年の暮れにソ連によるアフガニスタン侵略が起きると、強 1979年:1979年に「第二次石油ショック」が起きて、この表からわかる 1982年:中曽根内閣政権の誕生「不沈空母」発言で問題となる。 1985年:プラザ合意 1987年:ブラック・マンデー 1990年:アメリカの日本に対する「為替」と「金利」の第二次攻撃は 1990年〜1993年:アメリカによる「為替」と「金利」の第二次攻撃は、 1991年:湾岸戦争 1991年:ソ連邦崩壊(1991年12月21日) 1993年:F・バーグステン京都講演 1995年:日米自動車協議 1995年:95年4月19日には、遂に1ドル79円75銭という「超円高」まで 1995年:この95年8月に、日米自動車交渉と同時進行した「アメリカか
2000/11/12(Sun) No.02
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日本のこの20年-5 荒木章文 | 荒木章文 |
日本の金融封じ込め戦略はアメリカ政府のどこで決定されたのか? このことを考える時、NEC(国家経済会議)のことを述べなければならない。 この国家経済会議とは何なのかそのことを副島氏の著作から引用することにする。 (引用はじめ) 「日米(あるいは東アジア諸国との)貿易赤字を、外交交渉で政治的に圧力をかけて減らす、という外交戦略である。これも「産業政策論」である。それを制度化したもの」これが国家経済会議である。 http://www.interq.or.jp/world/soejima/souko/visual_data/img20001111203227.jpg ↑図の中の、ホワイトハウス内に存在する。 (引用はじめ) 「外交・安全保障政策の最高諮問機関」なのである。 http://www.interq.or.jp/world/soejima/souko/visual_data/img20001111145618.jpg ↑図の省庁の中で財務省は、国務省、国防総省、司法省と並んで重要 (引用はじめ)
2000/11/12(Sun) No.01
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日本部族民新聞-4 | 荒木章文 |
私企業官僚制の整った、古い体質の企業がいまでもがんばっている。 インフレ基調時代の、売り手市場での行動様式をもった人間が今でも企業のトップや上層部に存在する。 デフレ基調下の、買い手市場の営業経験のない上司が多く生息している。 しかし、その会社を変えいることはできない。 何故なら、そこには変化を許さない空気が存在するからである。 売り手市場しか経験したことのない上層部だから、当然戦略も方針も考えたことは無い。 権限と責任のカウンターバランスが崩れているのも特徴である。 上司としての権限は主張するが責任は部下に押し付ける。 それでも従来の日本の組織は許してきたのである。 しかし、機能集団としての組織ではそれは許されない。 事務処理という本来、顧客への財やサービスを提供する従属的な存在がいつしか物象化して、変えることのできないものと化していく。 その流れで間接部門は肥大化していく。 当然、一般管理費というものが増えていくことになる。 やがてそんな会社は、顧客ではなく会議を見て行動するようになる。 現場の営業に、その会議用の資料作成等どんどん負担させて、マスターベーションの回数を増やしていく。 本来、後方支援をしなければならない存在が、足を引っ張る形となる。 そして、顧客を見て仕事をする営業はそんな会社では絶対、評価されることは無い。 だから、日本の会社は堕ちるところまで堕ちたほうがいいのである。 しかし、個人は常に危機管理意識をもっておかなければならない。 小室直樹氏が常に指摘するように、下級武士のエトスを持たなければならない。 市場原理にさらされても、強く生き抜く思想・哲学を持たなければならない。 そうしなければ、その会社組織と心中しなければならないはめにおちいるからである。
2000/11/06(Mon) No.01
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