nativism VS behaviorism (partII) | 投稿者:崎谷博征 |
1.nativism VS behaviorism absolutism VS relativismと置き換える事ができるかも知れません。これを人間の脳で喩えると 脳幹、視床下部 VS 大脳皮質 に置き換えられると考えられます。理由を以下に挙げます。 脳幹とは、生命中枢そのものであり、そこに論理の入る余地はありません。そして、根源的な直感力というものの首座がここにあるものと考えられています。(この右側に首座があるという根拠で右脳教育といわれるが、これは必ずしも大脳半球の右脳を指している訳ではない。)丁度、生物でいうと蛇などの爬虫類はこの脳幹だけで大脳はありませんが、実に生命力が強い(蛇の様な執念とはよく本質を突いている。戸塚ヨットスクールなどはこの脳幹を鍛える教育であった。)我々大脳が発達した人類(中にはペットにする変わり種がいますが)が、蛇などの爬虫類を生理的に気味悪く感じるのは、このなにか根源的なものを先見的に感じるせいかも知れません。つまり、 脳幹、視床下部=先天的、生来的=直感的、主観的=absolutism これに対し、大脳を発達させてきた人類は物事を抽象化したり、相対化できる能力を獲得しました。特に欧米社会で、物事を分析するサイエンスを発達させることができました。しかし、その副作用として不安、恐怖などの妄想や相対主義に根ざす無規律(アノミー)なども産み出してきました。つまり、 大脳皮質=後天的=分析的、客観的=relativism 以上が論拠です。 後の議論のためにもかなり、以上に敢えて単純化してみました。 2.この二項対立の概念について この様な二項対立、二分法により、西洋の学問は発展を遂げてきたのでしょう。 しかし、この二項対立、二分法自体が西洋近代社会の弊害かも知れません。私達の主観における共通性とその持続性を客観(マルクスの疎外)と呼ぶなら、主観と客観のあいだの二分法は(概念的にクリアーカットであるが)過てるものではないでしょうか。いかなる観念も人間個人の脳で紡がれていることに喚起すれば、どんな観念も主観といえます。これは存在と意識、能力と役割の関係についてもどちらか一方が他方を決定するという様な単純な関係ではないことにも現れています。nativism VS behaviorismについてもその傾きとして 保守(持てる者。これは必ずしも財産、地位、責任、歴史といった顕在しているものを指す訳でなく、人間の奥深くに沈殿する潜在性<これは遺伝子まで遡れるかも知れない>を持つ者という意味で)=nativism それに抵抗する者=behaviorism となっているのではないでしょうか。なかなかまとまりがつきません。 崎谷博征 拝
2000/08/28(Mon) No.01
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日中問題は日米問題だ! | 投稿者:荒木章文 |
「日中問題は日米問題である。」 と喝破したのは小室直樹である。
結局、パソコンの世界で行われて成功しているITの事例とも言える。
2000/08/27(Sun) No.01
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nativism VS behaviorism | 投稿者:崎谷 博征 |
脳外科医として(というか一医師)としてこの観点は非常に重要な意味を持ちますので以下に私見を述べます。日本を含め世界では、御存知のように医学とは西洋医学のことを指します。これは、西洋の科学万能主義の派生です。古代ギリシャ時代、医師たちは“医神”アスクレピオスの庇護のもとで、健康の維持にはなんらかの外部からの介入が必要と頑信し、その任務を“病気”の治療としていました。一方、自然回帰派(健康とはものごとの自然な秩序のことであり、自然の法則に調和した生き方からこそ健康が得られる)はアスクレピオスの娘ヒュギエイアに仕え、人に“健全な身体に宿る健全な精神”を保証してくれる自然の法則 を発見し、それを人々に教えることを医学の重要な機能とみなしていました。 前者のアスクレピオス派がニュートンの機械論、デカルトの二元論という科学概念に連なり、現在の要素還元主義(全体の特性は全体を構成する各要素の作用に還元できるとする信念)が西洋の科学と医学に至ったのだと解釈しています。(数学での集合論もこの流れでしょう。)<したがって、これからの議論を展開する上で、デカルトがnativism学派の創始者とすると少し齟齬が生じてきますが。> このアスクレピオス派がモanti-sthモという概念を医学に植え付け、我々が日常使用する武器の開発に至りますが、御承知の様に、多様な抗生物質使用がさらなる耐性菌を発生せしめるという端的な例にも観られます様に、いわゆる医原病が大きな問題になっています。実際、私が日常外来、入院患者の治療にあたり、どこまでがこの医原病か判断がつかなくなっています。(作用の異なる薬剤を複数服用していれば、新たの起こる事態は予測不可能です) 一方のヒュギエイア派とは古代ではヒーラーと呼ばれていましたが(アマゾンの原住民やアボリジニの中には連綿と存在している)、医学界では片隅に追いやられ、中国医学、アーユルヴエーダ医学を代表としてしぶとく残ってきました。しかし、アーユルヴエーダ発祥のインドでさえも、アーユルヴエーダ医学は西洋医学の下に位置づけられています。(現地のアーユルヴエーダ医学医に聞いたところ、日本でいうと一般の医者と鍼灸師ぐらいの差があるらしい。要するに医学部に入ることができず、やむを得ずアーユルヴエーダ医になるらしい。麻原もこの類。)このヒュギエイア派の戦略とは端的に申し上げると“病気に対する抵抗力をたかめる方法”つまり、“病気”でなく“健康を観る”ということです。 簡単にまとめると以下のようになります。 アスクレピオス派(西洋医学) 実は西洋医学の覇権国アメリカで、アスクレピオス派の治療の限界を認知し始め、医療費という純経済学的観念からもprevention(癌の治療でいうとchemoprevention<化学予防>、実は私はこのテーマで学位を取りました)に力を入れ始め、この方面の研究にかなりのグラントが下りています。NIHにも代替医学局が設置されていますが、今後このヒュギエイア派の思想を取り入れ大幅に改局されていくでしょう。(この先駆者がアリゾナ大学医学部教授アンドリューワイル博士であり、皮肉な事にこの様な動きも元来ヒュギエイア派であるはずの東洋人ではなく西洋人からである。)
behaviorism=アスクレピオス派(西洋医学)=world values=globalism=causality となるのでしょうか。(間違いがあれば訂正してください。) 副島先生が著書のなかでも展開、卓見されていた通り、医者のできる事は究極的には“できもの”を外科的に除去すること以外にはないという事を学生時代に強く思ったいましたのでこの道を選びました。したがって私は、精神科や老人内科さらに皮膚科まで本当にその存在の意義があるのか疑っています。(外科を捨ててホリステイック医学を志そうとしましたが、家族を養うために現在は据え置いています。)ところで、“ぼやき”に登場したローレンツの社会生物学は、リチャ−ドド−キンズに連なっていると考えているのですが、彼の利己的遺伝子論は論理の枠組みはnativismのものでしょうが、どこか還元主義的要素が強いと感じました。(ここら辺の矛盾点はまで詰め切れていません。)
2000/08/25(Fri) No.01
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佐藤俊樹 著 『不平等社会日本』を読む。 | 投稿者:府川 |
府川です。 中公新書より6月末に、『不平等社会日本』が発刊されました。著者は佐藤俊樹という昭和38年生まれの社会学者(東大総合文化研究科助教授)です。この著書は一部では話題になっております。 社会調査の分析をもとにして、日本人の階層意識の変化を論じたものです。知識エリートの階級化が現在、非常に強くなっているという論旨を展開しています。これは日本の知識層に十分インパクトを与えるものなのでしょうがその是非は別にして、私はこの著作から、日本の現時点の社会学者の水準の低さを痛感しました。そのことを副島グループの皆さんなら理解してもらえると思い、書きます。 私がこの本について何か語れる資格があるとすれば、かつて*******という企業で、リサーチで飯を食っていた経験があるということです。ちなみに小室直樹先生がこの会社で講演をしました。 社会学や政治学のような科学的に低級な学問分野をいかに向上させるかという課題の克服から、統計論の意義を述べました。 専門的な事を割愛すれば、要は自然科学では実験と数量化が可能なために進歩したが、それ以外の『科学』分野は経済学、心理(この訳語に反対する副島さんを僕は支持します)学を除いては、遅れているということでした。 さて本題に戻って、『不平等社会日本』については、その内容に関心のある方には読んでもらうことにして、私はここでは社会調査という視点から、分析の方法論で感じたことを申し上げたいと思います。 まず第一にこの著者は調査分析の専門家ではあるのでしょうが、調査自体については素人なのかもしれない?とさえ錯覚します。なぜなら、分析に使用した調査の手法(電話調査なのか郵送調査なのか訪問調査なのかといったことです)を明記していないからです。 これは決して些末なことではありません。結果に信頼性を求められる調査はすべて科学的数理論に従っています。もちろん、調査の過程でさまざまなバイアスが生じ、誤差が出てくるので、完全な証明が要求されません。ここが自然科学と較べて、怪しいところなのですが。そして各々の調査手法に応じて、各々のスケールが存在しますから、この記述が書き落とされているのは驚きです。 調査のプロが中心読者でもなく、専門書でもない『中公新書』に書くのだからという考えで、著者が意図的に割愛した可能性が高い。私がこの著書全般を通じて感じる読みにくさは、著者のこのような曖昧で雑駁で不親切な態度から来ています。 しかし、私は一方的に著者を批判したいのではありません。こういう著作を許してしまう日本人全般の知的レベルこそが問題なのだと思っています。調査結果を無批判に受け入れてしまう思考習慣や、調査の科学性(非科学性)に対する無理解(というよりも科学とは何かという事に対する根本的な無知)が、読者の側にあります。これは教育の問題になるのでしょう。その羊の読者に向けて、分析の体裁をまとって、自説を展開するために調査結果(事実)を利用するような輩がうようよしているのが、この日本の文系学問の世界なのかもしれない。 私が著者に強く求めたいのは、調査の数字の読み方について、読者にきちんと説明してほしいということです。著者が分析に使った調査は大規模なもので、巻末資料で見る限り、良質のものです。金もかかっているでしょう。他の国にも類がないと思います(少なくもアメリカでは危険すぎて不可能です)。これを無駄にしないためにも、また啓蒙のために(この分野は啓蒙が絶対的に必要です。その意味で、この著書は注目に値します)、村上泰亮の80年代における日本の中間層(いわゆる中流)の分析を破る新しい見解の主張で注目を集まることにあまり目を奪われないでほしい。いや無理か。佐藤俊樹はこうして日本の東大教授になるのでしょう。 とりとめなくなりましたが、日本の学者界も変わらざるをえないと思います。このままではどうしようもない。私のような人間ですら、こんな実感を持ってしまうのですから。
2000/08/23(Wed) No.01
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日本にもいたイギリス人家庭教師 | 投稿者:嶋津 貴彦 |
『ハリウッドで政治思想を読む』の読者は、この本のどの部分に刺激を受けただろうか。前作の『アメリカの秘密』も刺激的な作品だったが、今回は更に刺激的である。更に政治的な作品になっていると言った方がいいかもしれない。 私は、この作品から受けた刺激の一つとして、『アンナと王様』(Anna and the King)の分析を挙げる。タイ王国が、イギリス帝国に属国化されたのと同様に、幕末期に、実は、日本もイギリス帝国に属国化されたのだという分析が重要だ。自分たちだけは、欧米列強と対等に渡り合うことができる優秀な国民だと思い込んでいる土人が、日本人だけではないことを知ることができる点においても意義深い。伊藤博文と井上馨が、親イギリス派の人材として育てられた事実は重たい。明治政府の中心人物が、イギリスの手先なのである。日本史の教科書に登場した幕末維新期の偉人たちが、属国化されていく過程で果たした本当の役割が、『属国・日本論』(五月書房)第3部「属国日本の近代史」の中で鋭く展開されている。帝国に属国化を強要された後進国には、五代友厚、坂本龍馬、大村益次郎、伊藤博文、井上馨、山県有朋といった、日本人にとって特別な思い入れのある偉人たちが果たした役割と同様の役割を演じた人たちが必ずいる。これは特別なことでもなければ、後進国の人たちにとって恥ずべきことでもない。事実を隠すことなく、素直に受け止めればいいのだ。遅れた国が、国際政治の舞台に割り込んでいくには、この過程をたどるほかないだろう。他に割り込む方法などありはしない。四国艦隊下関砲撃事件において、実際には、長州藩とイギリス軍艦は交戦していないという事実(『属国・日本論』P191)にぶち当たったならば、素直に驚き、かつ、その事実を謙虚に受け止め、以後日本の政治を考えていく上での判断材料として役立てればいいのだ。それにしても、他国に自国の敵(攘夷派)を潰させ、自国の手先(親イギリス派)にはしっかりと勝利をもたらす帝国イギリスの懐の深さには感心するばかりだ。 以下においては、日本も当然のごとく、世界帝国が織り成す覇権争いという世界政治の中に登場する小国の一つであるという事実を一冊の本を中心に紹介する。 『明治日本見聞録』(講談社学術文庫)という本がある。イギリス人女性エセル・ハワードが、明治34年(1901年)から7年間にわたって、元薩摩藩主島津家の五兄弟(長男忠重、二男富次郎、三男諄之介、四男韶之進、五男陽之助)の家庭教師をつとめたときの回想録である。この本を、当時の日本がイギリス人にとってどんな国に映ったか、当時の日本人の風俗習慣はどのようなものであったかを知ることができる資料であるとするのは、読み方の一つかもしれないし、実際、この本はそのように作られている。 「この先見性のある吉田(松陰)が、自分の弟子を西洋に送り出そうとした努力は徒労に終わったが、後にある英国の船会社の尽力で、若い伊藤と友人の井上(馨)〔後の大蔵大臣として著名な人物〕の二人が英国に渡ることができた。そこで彼らは死に物狂いに勉強したが、それは愛国心に駆り立てられた日本人学生のみが何をなすべきかを知っていたからであろう。」(『明治日本見聞録』 P227) 帝国から派遣された著者は、意図的に事実をぼかして書いているが、要は、伊藤博文と井上馨をイギリス派として育てるためにイギリスに連れて行ったということなのである。この記述は、『ハリウッドで政治思想を読む』のP145の分析に繋がっていく。 「島津公爵とその弟たちは、ドイツと名がつけば何にでも、また誰にでもひどく反感を抱いていたことが、私には大変興味深く思えた。公爵は、ドイツ人はまるで蟻のようによその国土を侵略し、行く先々でなんでも食べ尽くしてしまうと断言した。私がこの比喩の真実性に初めて眼を開かれたのは、この意見のせいであると思う。今や世界じゅうを五回ほど旅行してみて、私はこの比喩がいかに正鵠を射ていたかはっきりわかったのである。彼らはどこにでも群がり、その食い荒らす力は目に見えるだけでなく、悲しいかな、音まで聞こえるような気がした。」(『明治日本見聞録』 P284) この記述だけを読むと、島津五兄弟のドイツ(人)嫌いは、エセル・ハワードの影響とは無関係のようだが、彼女が家庭教師として赴任してきたのが明治34年(1901年)であることからすれば、彼女が直接的又は間接的にドイツ人嫌いを島津五兄弟に植え付けていったと考える方が素直であろう。エセル・ハワードは、イギリス派の育成任務を見事果たしたのだ。 この本の訳者島津久大は、島津忠済の三男として生まれ、この本に登場する本家五兄弟の長男忠重の長女経子と結婚をする。訳者である久大にとって忠重は義父ということになる。 それでは、姻戚関係についてもう一つ。先日亡くなられた皇太后さまは、久邇宮邦彦王と俔子妃の長女として生まれているが、皇太后さまの母俔子妃が旧薩摩藩主島津忠義公爵の七女であることは、皇太后さまが亡くなられた際に新聞で報道さていたのでご存知の方も多いだろう。皇太后さまの母俔子妃と島津忠重公爵は兄妹の関係である。皇太后様の長男である皇太子継宮明仁親王、すなわち現在の天皇陛下の家庭教師はクェーカーのエリザベス・グレイ・バイニング夫人である。エリザベス・グレイ・バイニング夫人については、日本人クェーカー新渡戸稲造の系統の人間が気になる。昭和天皇の「人間宣言」の草案を書いたのは、新渡戸稲造の弟子前田多門である。そして才媛雅子妃のハーバード大学時代の指導教授が、アメリカ経済学三神童の一人ジェフリー・サックスであるという『ハリウッドで政治思想を読む』の記述に再び繋がっていく。
2000/08/20(Sun) No.01
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高級官僚・現役派遣制 | 投稿者:荒木章文 |
「省益」と「国益」が衝突した時は、政治家が判断しなければならないことである。 しかし実際には、「省益」しか存在しない。 それは、以前の石油代替燃料のところでも明確に現れている。 それでは何故、「省益」が優先されるのであろうか? それは小室直樹が指摘しつづけてきた「日本の組織は、ゲマインシャフトに化する」という原則が働くからである。 つまり共同社会になってしまうからである。 そこではどんな問題が発生するか、まず公務員ということで失業の危機意識などとうていなくなる。 共同社会だから、“生え抜き”という概念が存在する。 戦後は、武官はなくなったが文官は生き残った。 この「陸軍大臣現役武官制」をもじった「高級官僚・現役派遣制」, これによって政治家側にも、サボタージュする官僚に対するオルタネティブができるのである。 以上
2000/08/19(Sat) No.01
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日本部族民新聞2 | 投稿者:荒木章文 |
日本部族の間では、東京では銀座、大阪では北新地ここで夜な夜な酒を飲めることがステイタスである。 たいして美人な訳でもなく、どうしようもない状況なのにサラリーマン種族は街に消えていく訳である。 それがサラリーマン種族の現実である。 それはどんな日本の組織に行っても同じである。 それが、ボスザルを中心とする日本種族の習性なのである。 ミエをはる若いサルや、その上に座るボスザルそれが現実の日本社会なのである。 まったく、近代なんてそこには存在しない。 しかし、それではもうすまないのである。 仕方がないということで、サル達は若い時に疑問に思っていても結局、その社会構造の中で、うまく立ち回れるサルが評価されてきたのである。 しかし、もうそれではすまない時代になったのである。 もういいかげんに、a Modern Man or Woman にならなければならいのである。 それだけ、経済が肥大化しすぎて、覇権国家としても対日本管理戦略を策定して実行する時代なのである。 我々の生活実感だけは、日本部族民のそれであっても、もうそれは許されないのである。 それが現実である。 完全に市場競争の中で、個人の価値を提示できなければならないのである。 その個人の価値を社会に評価されるまでに、人間関係を個人の能力で調整しなければ、企業組織は機能的に作動しない。 そうしないと、村八分にあって能力云々のまえに身動きできない。 それが、日本社会の現実である。 故に、転職してすぐにはモノにならないのである。 しばらくは、徒弟制度のもとボスザルのもとで修行しなければならない。 しかし、それでも、もういごごちのいいぬるま湯の社会は崩壊しているのである。 そっから出発しなければならない。 もう、そういう時代なのである。 以上 A.ARAKI
2000/08/18(Fri) No.01
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新・エネルギー政策案 | 投稿者:荒木章文 |
前回、ガイアックスなる石油代替燃料のついて書いた。 別段私は、このガイアエナジー社との関係もないし、利害関係もない。 しかし、日本の国益を考えた時には非常に有効な戦略商品であることは間違いない。 サンデープロジェクトの特集の中では、自治省への批判で終わっていた。 戦後のマスメディアがとってきたスタンスである、反体制のステレオタイプ化した報道であった。 しかし、国益よりも省益を優先するあたりは、旧大日本帝国の陸軍となんら変わっていないのである。 国益からすれば、満州での戦線拡大はあわない。 「何故なら、中国問題はアメリカ問題だからである。」 それにもかかわらず、陸軍の軍益を優先させたのである。 戦後、武官は無くなったが文官は残った。(と誰かが言ってた.) それが、官僚の限界である。 これは小室直樹が「危機の構造」以来主張し続けてきたことである。 さて実際に、この戦略商品をどのように使えば有効なのかシュミレーションしてみることにする。 これを日本国内で考えてみよう。
2000/08/16(Wed) No.05
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グローバリストの危機管理 | 投稿者:荒木章文 |
グローバリストには国家という思考枠組は関係ない。 彼らが如何に、リスク管理しているのか? 自分の財産を、分散して所有する。 エネルギー資源をどうするのか? ところで、ペーパー・マネーは信用できないからと言って、常に貴金属をもって財産の保全を図っていたら、まともな経済活動はできない。 何故、グローバリストという考え方が有効か? それでは、「日本国家としての対応策」と「日本人個人の対応策」については今後考えていくことにする。 以上
2000/08/16(Wed) No.03
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日本部族民新聞 | 投稿者:荒木章文 |
日本部族民の自由研究(2000年夏) 日本部族民の間では、この2000年を迎えた夏、様々な文化が混在して、伝統回帰の方向へむかいつつある。 彼女達以前の日本部族民には、ヤンキー(Yankee)という世代が存在した。 「ディスコは、日本の昔からある“盆踊り”の現代版である。」 と最初に言ったのは、私の記憶が正しければ飛岡健氏である。 またガングロ・ゴングロ(Ganguro・Gonguro)という種族の化粧法が存在する。 このアフロ・アメリカン(Afro-American)に対抗する形で発生してきたのが“ビハク・メイク”と呼ばれる種族の化粧法である。 このように日本部族民は、様々な文明に影響を受けながら、文化・文明が交錯した中で、敗戦後55年の夏を迎えたのである。 (今回は部族民調査という、スタンスで現在の日本を描いてみました。) 以上
2000/08/16(Wed) No.02
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Anglo-American and Afro-American Music | 投稿者:荒木章文 |
「日本人に規範は存在しない。」 と最初に言ったのは、小室直樹である。 つまり、欧米諸国のように唯一絶対神が存在して、彼との上下契約を結ぶ。 それと、 最初から規範が存在しない。 のとは天と地ほどの差がある。 マックス・ヴェーバーの比較宗教社会学の方法論は、社会を冷徹に観察するツ道具(Tool)としては非常に優れている。 さて文章倉庫の中にある「R&Bとゴスペル」を書きはじめたのであるが、それに対してアメリカ在住のおくやま氏より次のような反応を頂いた。 > 僕が見ている限りでは白人音楽(カントリー・ロック・パンク・アルタネティブ)VS 黒人音楽(ゴスペル・R&B・ラップ) > 90年代に入ってからのニルバーナを始めとするシアトル発のアルタネティブバンドなんかは80年代末の黒人音楽の独走に対する反抗として出てきたような気がして面白かったです。 私は、現地での生の情報については日本国内での作業になるので入手困難な部分も多いです。 まずはこのおくやま氏が提示して頂いた対立構造から考えていきたい。 以上
2000/08/16(Wed) No.01
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日本知識人のマスターベーション | 投稿者:荒木章文 |
−日本知識人のマスターベーション− 荒木章文 讃岐地方には、ラーメン屋が無い。 日本人の知識として決定的に欠けているのは、 もうひとつ学んだことは、フィリピン現地には独自の宗教が存在するらしい。という事である。 以上
2000/08/14(Mon) No.01
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老後の海外移住(最悪のシナリオ) | 投稿者:荒木章文 |
−退職後住みたい国・地域− 荒木章文 本日8月12日(土)の日経プラス1の中に「50代が老後に住みたい国・地域」という記事があった。 1. オーストラリア これらの国家を選んだ理由については、「気候や環境のよさ」、「治安のよさ」、「物価が安い」、「税金が安い」、「預金金利が安い」などというものであった。 しかしここで良く考えてみなければならないことがある。 上記の地域を選んだ理由の大前提が、このまま「日本国とその国家との関係が永続する。」というものである。 まず、High Politics(軍事的側面)を考えた時、ペルーのフジモリ大統領の事件を思い起こすことは簡単である。 もう一つの問題はLow Politics(経済的側面)の問題である。 また、「日本人のアイデンティティ」という問題も別の問題といして存在する。 以上
2000/08/12(Sat) No.01
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日本の新エネルギー国家戦略商品について〜日本における新・国家戦略商品についての一考察〜 | 投稿者:荒木章文 |
本日2000年8月6日(日)のテレビ朝日の、サンデープロジェクトの特集において「GAIAX」なる石油代替燃料の特集がくまれていた。 この特徴は、簡単に言うとアルコール系の石油代替燃料である。 このサンデープロジェクトの視点では、国内の石油元売り業界の既得権益者が課税という手段を通してこの新規参入を阻止する形で圧力をかけているというレポートでした。 日本のエネルギー政策上、この2点をクリアすれば1980年代を再現できるのでは? まず、@のリベラリズム思想の問題ですが、ここでは環境問題が論点になると言えます。 また、アメリカ国内における反・グローバリストにとっても、この戦略商品は重要な意味を持つ可能性がある。 以上の記述においては、「自動車」という視点からの展開でした。 冷・暖房及び電気について考えた時現在、コジェネレーションという考え方が存在します。
またこのエネルギー政策については、ヨーロッパ及びアメリカを睨んだ形の戦略を具体的に立てていくべきであると考えます。 アメリカ軍が沖縄に存在する。 この構造を、ヨーロッパ、アメリカに真の友人として、その内部に存在してもらう。 本日は、サンデープロジェクトからこのような石油代替商品について、日本のエネルギー政策の観点から考えました。
2000/08/06(Sun) No.01
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衆院選挙区制度について | 投稿者:古市 |
まもなく総選挙となりますが、私が以前から気にかけていたことに、衆院の選挙区制度のことがあります。 1:代議士は言うまでもなく国民全体の代表でありますが、選挙区が設定されている場合はその選挙区の代表でもある、という性格があります。 2:よく「官僚主導から政治家主導へ」といわれますが、官僚と政治家とどちらのほうが権力があるかといえば、じつは確実に、まちがいなく政治家のほうにあります。 なぜなら、旧国鉄時代、国鉄は大赤字だというのに各選挙区選出の代議士たちの「路線を建設してくれ」という要求を断りきれず、採算はまず採れないというのにじっさいに建設してしまい けっきょく国鉄は自滅したことからも明らかです。 では、なぜわが政府は政治家主導ではなく官僚主導なのでしょうか? それは、政治家に国家運営の情報が少なく官僚に多いということと、政治家に政策立案能力・立法能力が少なく官僚に多い、ということが原因であるということが考えられます。 3:では、この原因のそのまた原因はなんなのか? ここで所長の文章の一部を引用いたします。 >日本の政治家(国会議員)は、衆院議員500(今度、480)人と、参議院議員252人です。 >しかし、このうちで、格付けの必要なのは、おそらく、100人です。衆議院80人、参議院20人です。 >その根拠は、大半の議員は、70歳ぐらいのおじいさんです。その人たちは、個別の業界団体の利益代表か、良くて、地元代表です。 >この人たちには、国政を語り考える能力も意志も始めから無い人たちです。 それが、現実の政治です。 とくに、 >大半の議員は、70歳ぐらいのおじいさんです。 その人たちは、個別の業界団体の利益代表か、良くて、地元代表です。 >この人たちには、国政を語り考える能力も意志も始めから無い人たちです。 それが、現実の政治です。 ここです。 つまり、その選挙区の代表でしかない連中が国会議事堂の議席の過半数を占めている、という恐るべき状態だということが示されています。 彼らは官僚と違って厳しい選挙を何度も勝ち抜いてきた海千山千の猛者ではあります。 しかし、海千山千とはいってもその選挙区への利益誘導とかその選挙区内での争いの調停とかに才能を発揮しているに過ぎず、国家運営に才能を発揮する代議士は一部です。 つまり、そういう代議士はその選挙区の職域共同体&地域共同体の太守でしかなく、そういう代議士が過半数を占める永田町は あたかも大小諸侯の合議によって運営されているに過ぎないが如し、なのです。 4:わが日本の場合、選挙区への利益誘導が第一となるという悪しき風土が、特に農村部にあります。 かつての中選挙区制から今の小選挙区制となり、各党の代表が一人となることで政策論争が期待されると言われたものですが、政策論争なんて都市部じゃともかく、農村部には、まず、ない。「天に二つの太陽はいらない」とばかりに代議士はその選挙区の領主として君臨するようになってしまいました。 視点を変えてみれば、これは下部規範として起こっています。 つまり、利益誘導を排して天下国家を語る候補には有権者が投票してくれない。 もしその候補が当選したとすると、他の選挙区には利益誘導がなされてその選挙区には何も利益がこないということになりかねないからです。 この「選挙区への利益誘導が第一となる」という悪しき風土は、大選挙区制(一都道府県を一選挙区とする)であろうと無くならないでしょう。 結:おそらく抜本的な選挙区制度の改革が必要でしょう。たしかにこんな青二才が戯れ言を吐いている、というのはお笑いかもしれませんが、しかしそうしないと永田町は正常化しません。永田町が政策立案能力・立法能力のある代議士で占められる正常な状態にならないと、わが国は衰退していくことでしょう。 この元凶が下部規範と現選挙区制度との織りなしによって生じていることから鑑みて、「一地域への利益誘導」ということが生じる恐れのあるいっさいの選挙区制度を一時的に排する必要があると考えます。 わたし自身はほんとうは小選挙区制がベストだと思うのですが、悪しき下部規範を矯正すべく時限的に全国区比例代表制を導入するべきであると考えます。 「人でなく党で選ぶなんて」というのはわたし自身が悩んでしまうことがらですけど、利益誘導癖というものを全国から払拭するためにも多少の荒療治が必要であります。 悪しき癖を全国から抜けきらせて初めて再び小選挙区制に戻すべきた、と考えます。 突飛だったやかも知れませんが、皆さまはこれについていかがお考えでしょうか? 意見を伺いたいと存じます。 追加:それにしてもなぜ自民党は比例制にああまで反対するのでしょう? みんな一緒に利益誘導から離れるなら全国の人々も納得するのになあ、と素朴に考えてしまいます。 また、とりあえずは小選挙区制のままであり、また自民党が与党のままでしょうから、若手の方々であってもコンサルトのさいに国家利益と選挙区利益との折り合いをいかに折半するか、も考える必要があるかと思います。 現制度下の汚い現実として、選挙区利益にも考えるための時間を大幅に割かないと、代議士は肝心の政治生命じたいを失ってしまうからです。
2000/08/04(Fri) No.01
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