商品番号 No.V-19

心豊かになる金融・経済講演会


[ 講演者 ] 副島隆彦
[ 主催 ] 株式会社ラインジャパン
[ 会場 ] アジア太平洋トレードセンター(大阪)
[ 媒体 ]

DVD(デジタル・ビデオ・ディスク)

[ 収録日付 ] 2006年9月23日(土)
[ 収録時間 ] 114分

[ 内容紹介・頒布スタート当時のお知らせの文章 ] このDVD『心豊かになる金融・経済講演会』は、昨年の2006年9月23日、「和心屋(わごころや)」主催で大阪で開かれた講演会を完全収録したものです。

「和心屋(わごころや)」では、この講演会に際して、プロに依頼して撮影・編集を行ったそうですが、さすがの高い技術力で実に立派な映像作品になっています。

 約120分間の長丁場の講演会を、飽きさせないように2台のカメラを使用して、視点をよく切り替えた編集になっています。しかも画面は終始安定していて、テレビ酔いするようなこともありません。またその2台のカメラも、ずっと固定しているわけではなく、幾度か配置やアングルも変えて変化をつけて撮影されていたようです。

 映像の組み立て方も、講演会当日の会場施設の様子を映すところから始まるきちんとした構成ですし、講演の最中には、特殊な単語についての説明書き(字幕)を要所々々で綺麗に入れてくれる凝った作りになっていることに驚きました。

「学問道場」でいつも頒布している、私たち素人の手による、中堅クラスのDVカメラ1台で何とか最後まで撮影したような映像に比べると、全く羨ましい限りです。もちろん、私たちは、雑誌やテレビでは忌避(きひ)されている副島隆彦のコントロバーシャルな言論を、ノーカットで全部表に出してお届けしている、という点には自負心を持っています。しかし、映像商品という観点からすれば今回の「和心屋(わごころや)」DVDのほうが遥かに上です。自信を持ってオススメできますので、是非ご注文下さい。

 講演内容は、最初に江戸中期に大阪で活躍した学者、富永仲基(とみながなかもと、正徳5年(1715年)- 延享3年8月28日(1746年10月12日))の業績に焦点をあてた話、次にこの時期(昨年9月)に首相になることが決まっていた安倍晋三政権についての近未来予測、最後に金融投資家向けの具体的なアドバイス、という流れになっています。

富永仲基(とみながなかもと)については過去既に「学問道場」でも幾度か紹介されてきましたが、日本人として初めて、仏教・儒教・神道の、日本における在り様を痛烈に批判した、商人身分で学問を修めた大阪の人物です。

 明治期の京大の、彼も大変優れた東洋学者だった内藤湖南(ないとうこなん)は、講演録「大阪の町人學者富永仲基」の中で、次のように述べています。 「眞に大阪で生れて、而も大阪の町人の家に生れて、さうして日本で第一流の天才と云つてよい人は富永仲基である」、「大阪が生み出したといふより日本が生み出した天才」、「日本で天才の學者といふものを五人擧げれば、必ず富永がその一人にはいる」と、内藤湖南は、富永仲基を極めて高く評価しています。

参照・内藤湖南「大阪の町人學者富永仲基」大阪毎日新聞社主催講演会講演、1925(大正14)年4月5日
http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1735_21416.html

内藤湖南の公開中の作品一覧
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person284.html

以下、この内藤湖南の講演録がコンパクトにまとまっていますので、これを引用しつつ富永仲基の学説をご紹介します。

富永はまず一般に広く浸透している大乗仏教を、開祖の釈迦の教えではないことを指摘しました。

(引用はじめ:内藤湖南(ないとうこなん)講演録「大阪の町人學者富永仲基」から)

 此人は詰り日本で大乘非佛説――大乘が佛説でないといふ、釋迦の説いたものでないといふ説の第一の主張者であります。さういふことで坊さん達が躍起となつて此人を攻撃したのであります。

(引用おわり:内藤湖南講演録「大阪の町人學者富永仲基」から)

須藤です。
また仏教では、最初に「如是我聞」という言葉があるそうですが、従来の説ではこの「如是我聞」は釈迦の教えを直接聞いたものである、ということになっていたようです。

(引用はじめ:同上)

ところが富永はそんなことはない、如是我聞(にょぜがもん)といふのは、お釋迦さんが死んでから何百年かたつて、お釋迦さんが昔かういふことを言うたげな、昔こんな話があつたさうな、それで如是我聞といふので、直接聞いたものを如是我聞といふ筈はないと言つて居ります。

(引用おわり:同上)

須藤です。
 仏教の経典は全て韻を踏んでいるが、それは内容を記憶しやすく伝えやすくするためである。そういう美しい形になるには、多くの人の手を経て時間を重ね、改訂を重ねて出来上がっていくものであり、日本でも中国でもそうなのだからインドの書物でも事情は変わらないだろう、という非常に実際的な考証の方法からくる主張です。

 内藤湖南は「その結論に感服するのではございませぬ。此人の考へた研究法に我々感服したのであります」と、特に富永の研究方法について賞賛しておりますが、こうした論理的に考えてゆく方法論は、副島隆彦の「属国・日本史論」で展開されている「実感で歴史を捉えてゆく方法論」にも通底するものでしょう。

 儒教に関しても、この富永独特の研究法から、荻生徂徠(おぎゅうそらい)らの日本儒学者に対する批判がなされています。儒教の教えを、その文言ばかり見て解釈するのではなく、儒教の各説が成立した歴史的背景を考えるべきだ、という批判です。

(引用はじめ:同上)

 孔子の生れた當時、その當時は五覇(ごは)の盛んな時である。齊(せい)の桓公、晉(しん)の文公といふのは當時の覇者であります。その覇者の盛んな時であつて、孔子はその時一般の人々が覇を尊んで居つたので、その上に加上して、文武といふことを言つて居ります、周の文王・武王といふことを言ひ出した。
<中略>
 その説の起る由來を辨ぜずして末節に拘泥し是非の論をなすもので、説の起る由來を考へると、段々思想上の加上から來る。

(引用おわり:同上)

須藤です。神道についての批判は、以下のようなものです。
神道とは日本に一番古くからあった宗教であるように思われているが、実は仏教と儒教のほうが先である、と富永は論じます。

(引用はじめ:同上)

 大體(だいたい)神道といふものは昔からあつたのではございませぬ。これは皆中古から起つたものである。先づ起つたのは兩部習合(りょうぶしゅうごう)――佛教と神道とを一つにしたものである。

(引用おわり:同上)

須藤です。
歴史から見ると、現在のような神社や祝詞(のりと)などの形式は、仏教と儒教から加工して出来たものである、という以下の説明が真実なのでしょう。それを「富永仲基の加上(かじょう)説」と言います。

(引用はじめ:同上)

 佛教・神道の兩方を一緒にする説が行はれ、更に唯一宗源といふ、これは神道だけで解釋して行かうといふ風に加上(かじょう)したのであります。これらは中古の神道で、平安朝から鎌倉・足利時代までの間に出來た神道であります。

 その後、徳川時代に王道神道といふものが起つた。これは神道を儒教で解釋したといつてある。これは富永は明白に申しては居りませぬが、易で神道を解釋した伊勢の神主等、又はその後に起つた山崎闇齋(やまざきあんさい)が儒教で神道を解釋したことを指すのでありませうと思ひます。

 これは表に神道を説いたけれども、内面は儒教である。斯ういふ風に段々加上によつて神道も發達して來たのであつて、神道が古い時から傳へられたと云ひますけれども、實は古い事をその儘傳へて居るものでもなく、又古い事が良いからと云つて、今日の生活を昔の質樸(しつぼく)な生活、原始的生活に返して、今日の我々の生活に入れられるものでないと云つて居ります。

(引用おわり:同上)

須藤です。
 つまり現在の神道なるものは、日本人に受け入れ易く加工された、中身は外来の宗教であった、ということです。これは十分に過激な、暴露の性格を持った研究といえます。
 余談ながらこの論考をもう一歩押し進めるならば、外来の宗教は儒教だけでなく、道教の影響が更に強いのですが、これは私達「学問道場」での(特によしかわ研究員による)研究成果です。

こうした研究を可能にした要因の一つとして、内藤湖南は「この天才は大阪が生んだ人だといふことを簡單に附け加へたいと思ひます。」と、大阪の合理的な精神が研究の土壌になっていたことを指摘しています。

 富永仲基が学んだのは、懐徳堂(かいとくどう)という、幕府の命令に従い、大阪の豪商たちが進んで出資してつくられた、民間の学問所でした。富永自身が彼ら豪商のひとりの息子です。私塾であることと、中央の江戸から遠く離れていたことも、学問の自由に幸いしていたようです。

 徳川幕府は、江戸時代の中期に、全国300諸藩に命じて、それぞれ藩校(はんこう)を作って藩士の師弟を儒学(朱子学)で教育するようにと指示を出しました。それが、今も各地に名前が残る、毛利藩の萩の明倫館、とか、水戸の講道館とか、福岡黒田藩のシュウユウ館とか、薩摩の造士館とかです。

 ところが、商都・大坂(おおざか)には大阪城代をはじめとして武士(侍=さむらい=階級、与力から上、同心=どうしん=は、足軽=あしがる=階級であり、武士に入らない)は全部で何と、二百人もはいなかったと言われています。

 それで幕府としては仕方がないので、豪商たちに命じて
彼らに自主的な私塾を作らせ運営させたのです。これが懐徳堂(かいとくどう)です。今は大阪大学に遺品がたくさん保存されているそうです。

 創設された懐徳堂で学んだ富永は、この江戸中期(1720年代、8代将軍吉宗の時代)に、すでに、ひとり深く、倒幕(とうばく)の思想を育(はぐぐ)んだのです。「同じ人間として生まれて、どうして、私たち勉学を志す人間が、武士階級に蔑(さげす)まれなければならないのだ」という、強烈な倒幕の思想、四民平等の思想を生み出していたのです。これが大阪人の気骨の根底にあるものです。副島隆彦はそのことに気づいたようです。

 ですから、このあと、百年後に、富永仲基(とみながなかもと)の思想は、国学者の本居宣長(もとおりのりなが)や平田篤胤(ひらたあつたね)らに継承されています。

 とりわけ矯激(きょうげき)な幕末期の国学・神道思想を唱えて一世を風靡して、全国の武士層から富農・豪商層にまで影響を与えた平田篤胤の復古神道は、富永仲基の思想の改作、変造です。

 平田の思想から幕末期の尊王攘夷(そんのうじょうい)が沸き起こったのだと言っても過言ではない。水戸(みと)の国学(尊王学)よりも広く深く全国の農民層、商人層にまで広がっていた。

そこに、1853年(嘉永6年)のペリーの浦賀来航が、突如、襲い掛かったのです。

 この大阪の町人たちの重要な学問所である「懐徳堂」の記念碑が、今は大阪府中央区今橋三丁目の日本生命ビル南側壁面にあります。この講演の後で私達も実際に訪れて記念写真を撮影してきました。

懐徳堂(かいとくどう)記念碑前にて(2006年9月24日に撮影)

副島隆彦が講演会の公の場で、この富永仲基(とみながなかもと)に注目すべきだ、と説きはじめたのは、この2006年9月の大阪講演会が初出(しょしゅつ)です。それゆえか、この商人階級の重要な学者を発見したことの驚きと喜びが、言葉の端々に見て取れます。

他にも安部政権についての昨年9月時点での見解は、現在、靖国神社の参拝で、中国や韓国ではなく、よりによってアメリカにまで責められている現状を考えると、恐ろしいほど当たっています。世界基準での今回の安倍晋三政権の位置づけが判りますので、今年一年のスタートに際して仕入れる情報として大変有益であると思います。

最後のほうで投資家の方向けにもお話をされていますが、こちらは購入された方だけで確認して下さい。あまり表には出せない話です。

今回の「和心屋」DVDは本当に立派な商品です。是非お買い上げ下さい。
私達「副島隆彦の学問道場」でも、このようなレベルのものを作っていけるよう、今後も努力して参りますので、どうか宜しくお願い致します。

須藤よしなお拝


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