商品番号 No.V-05

『属国日本史論 幕末・維新編』


[ 副題 ]
[ 講演者 ] 副島隆彦
[ 主催 ] 副島隆彦を囲む会
[ 会場 ] 東京都・立川市「女性総合センター・アイム」ホール
[ 媒体 ]

ビデオテープ(VHS)

[ 収録日付 ] 2003年12月13日
[ 収録時間 ] 171分

[ 内容紹介・頒布スタート当時のお知らせの文章 ]

昨年12月13日に行われた、「属国・日本史 講演会 幕末・維新編」のビデオ版の頒布開始を皆様にお知らせします。

そのあとで、最近発売された、日本史研究家・立花京子氏の『信長と十字架』(集英社新書)が、属国・日本史論の枠組みに近い考え方で書かれた本であると言うことを、属国・日本史論に興味をお持ちの方にお知らせします。1994年に出版された、副島隆彦著『政治を哲学する本』(現在は、『決然たる政治学への道』と言う名前に改題して弓立社から出版)の中から、戦国時代と鎖国に関する記述を引用し、読者の皆様にご紹介します。

1.「属国・日本史講演会 幕末・維新編」のビデオ化のお知らせ。

 皆様、お待たせ致しました。昨年12月13日に、副島隆彦の日本史講演会第 2弾として、東京・立川市で行われた、3時間に渡る、「属国・日本史講演会 幕末・維新編」のビデオ版がようやく完成致しました。2月8日から、頒布を開始いたします。

 今回のビデオ『属国・日本史論 幕末・維新編』は、現在進行している、『属国・日本史 政治劇画=思想マンガ』のかわきりの第一作です。「属国日本の近代史」の政治劇画(思想マンガ)化プロジェクトの第一作品のための補助作業という性格を持った講演会でした。「司馬遼太郎を砲撃する」というキャッチフレーズのもとに、日本の幕末維新期を、分かりやすいマンガという形で一冊の本(シリーズ化を予定しています)にまとめ上げるという意欲的な企画です。

小林よしのり氏が切り開いた、政治劇画(思想マンガ)のビジネス書入りという血路である、「ゴーマニズム宣言」や「戦争論」と似た体裁で作ろうという方向で話が進んでいます。

日本の歴史を語る際にも、その時々の世界覇権国との関わりを中心にみていかないと真実を見誤るという精神でこのシリーズは描かれていくでしょう。副島隆彦の言葉でいえば、「文明の周辺属国・日本」という世界的な視点からの日本歴史の全面的な通史です。『属国・日本論』(1997年、五月書房刊)の第3部を下敷きにして、さらに詳しく、幕末の主要人物の動向を、年表を示しながら、講演しております。

今回の講演ビデオで扱っているのは、ペリー来航(1853年)から明治元年(1868年)までの15年間です。その間の出来事を、副島隆彦独自の視点で、時系列にしたがって解説しています。日本の幕末維新で活躍した(後に維新の元勲となった)人たちが、当時のイギリス(大英帝国)から、東アジア管理戦略の一環として巧妙に育てられ、操(あやつ)られてきたことを、細かく事実関係に即して解説しています。

ここからが今までの私たちの販売ビデオとは違うところですが、今回は、なんと、映像に合わせて、スーパーインポーズ(字幕)を差し入れて、鑑賞・学習する側の理解を助けるという試みを行いました。(下の写真)事務所にマック・コンピューターが導入されて、簡単なビデオ編集ならば自分たちで出来るようになったためです。次回からは、人物の顔写真なども画面に挟み込めるようになるでしょう。

ビデオは、VHSテープ(180分)1巻で、収録時間が171分です。
これを機会にぜひとも、副島隆彦の講演ビデオ『属国日本史論 幕末・維新編』をお求め下さい。

以上でビデオ頒布のお知らせを終わります。

2.「ローマ・カトリックによる日本支配の野望」を転載します

再び、アルルの男・ヒロシです。1994年に出版された、副島隆彦の『政治を哲学する本』(綜合法令刊)の第8章「ローマ・カトリックによる日本支配の野望」という文章から一部を引用します。

この文章は、「属国・日本史論」の戦国時代編の一部・土台になる文章だと私は思います。突然、この「政治を哲学する本」の記述を引用しようと思ったのは、最近、出版されて話題を呼んでいる、歴史研究家の立花京子氏の『信長と十字架』(集英社新書)の内容が、この第8章の内容を裏書きするような内容であったためです。また、この内容は、後述する、1967年に刊行された、小説家・歴史家の八切止夫(やぎりとめお)氏の一連の著作の内容とも重なる部分があります。

それはどういうことかというと、「織田信長は、イエズス会と対立するにいたり、謀殺された」ということに他なりません。立花氏の著作を紹介する前に、『政治を哲学する本』(現在は、『決然たる政治学への道』と改題して出版中)から一部を引用します。私は、以前にこの文章を読んでいたはずなのですが、副島隆彦が、重掲(おもけい)で最近、そのことを書いていたのを読んで、「アレ、そんなこと書いてあったっけ」と思いながら確認するまでは、すっかり忘れていました。まだ、この『決然たる政治学への道』(弓立社 刊)をお読みでない方は、是非お読みください。

「ローマ・カトリックによる日本支配の野望」「シーボルトとは何者か」「オランダ論−ヨーロッパとは何か」という様々な歴史論考は、「金融・政治ものだけではなく、「属国・日本論」および「世界普遍価値(ワールド・バリューズ)VS民族固有価値(ナショナリスティック・バリューズ)のせめぎ合い」論 が副島隆彦の思想のバックボーンになっていることがおわかりいただけるでしょう。
4冊本頒布でもお求め頂けます。ビデオと合わせて是非お読みください。

(引用開始)

副島隆彦著『決然たる政治学への道』第8章(186ページ〜)

 キリシタン弾圧と鎖国をした理由−イエズス会の野望

 もう一つ、日本が国際社会で置かれていた位置が、如実に観察される歴史上の場面がある。それは、キリシタン伝来である。1543年に、種子島にポルトガル船が漂着して鉄砲を隻た、ということは日本人なら習って知っている。

しかし、この「鉄砲伝来」とは、実は、ヨーロッパ(当時は、「キリスト教圏」と言った)から見るならば、ヨーロッパによる「日本発見一ということであったのだ。このポルトガル船(実は、中国のジャンク船であったという最近の新説もあるが)によって、このとき、日本は「発見された」のであった。

この「日本発見」というコトバを甘く考えてはいけない。日本が「発見された」ということは、日本がその時、誰か(どこかの国)の所有物になったということだ。ローマ法以来のヨーロッパ法学の原理に従うならば、「先取特権」に依り、「誰の所有物でもないものは、初めに見つけた者の物になる(無主物先占という)」という法原理のひとつに従う。

だからこの時、日本を初めて見つけたヨーロッパ人が、それをヨーロッパの国王に献上したら、その国のものになる。ということに国際法理論上なっていたのだ。ジェノバ人であったコロンブスが、スペイン国王のためにアメリカ(西インド諸島)を「発見」したように。

しかしアジア諸国の場合は、すでに存在そのものは知られていたから、誰かが、実際にその地に上陸して、探査して実効支配してからでないと、その地の領有を主張できなかった。だから、その六年後の1549年に、フランシスコ・ザビエル(あるいはシャビエル)が九州、鹿児島に上陸して来たのだ。彼はスペイン人(カタルニヤ人)で、イエズス会( Jesuit ジェズーイット)という鉄の規律を持つ修道士会の、創設メンバーの重要人物である。

彼は、当時のヨーロッパにおける最強のプロパガンディスト(伝道者)の一人であった。彼が日本(鹿児島)に上陸したとき、彼は、日本をこの時期以降、「神の国にする」、すなわち、「ローマン・カソリックの教皇(法皇)に献上する」という重要な役目をもっていたのである。

何と、日本という国は、ローマ教会に献上された国だったのである。その献上の文書がローマのヴァチカン(法皇庁、教皇庁)に今でも残っているという。イエズス会は、日本という国を、キリスト教国に変えて、民衆を改宗していく作業に敢然と取り掛かったのである。「イエズス会」というのはローマ・カトリック教会内部では、少し独立した立場にある。フランスのモンマルトルの丘で結成され隆盛していったイエズス会は、宗教改革の嵐に対して反撃するための鉄の軍団である。

イエズス会 Jesuit には、当時のヨーロッパの秀れた頭脳を持った知識人層が俗世の欲望を捨てて、修道士として結集した。彼らはヨーロッパ以外の野蛮世界の布教活動のために、命を賭けた人々であり、まさしく鉄の規律を持った、「反宗教改革」(カウンター・リフォーメイション the Counter Reformation )の集団であった。

だから、イギリス、オランダ、ドイツで起こったルター派、カルヴァン派(=ピューリタン、清教徒)ら、プロテスタントの叛乱に対して、心底から復古主義の闘いを挑んだ人々だ。『清貧と貞潔( 財産を持たず、性欲を棄てた)の誓い』をした鉄の思想的戦闘隊の、思想的な強さは、当時世界最強クラスであった。一六世紀の日本での布教活動は、このイエズス会宣教師(ジェズーイット・プリースト)たちによって、以後数十年の間押し進められた。そして当時の日本はまさに戦国時代の末期であった。

 織田信長はイエズス会の宣教師たちの布教活動を大いに認めた。彼は、当時すでに腐敗しきっていた仏教各派の僧侶集団(戒律に違反して、陰にかくれて妻帯、子持ちが比叡山の僧侶にもたくさんいた)や、当時日本国内で最も激しい民衆叛乱を引き起こしていた浄土宗(本願寺)の坊主たちとの思想闘争上も、イエズス会の宣教師の意見すなわち、(A)世界普遍価値を聞いた。

 信長は、宣教師(バテレン)たちに拝謁を許して、世界の実情をたくさん知ったはずだ。地球儀ももらっている。当時の日本人のうち、信長だけは、世界の大きさということが分かっただろう。信長は、宣教師が献上したズボンをはき、トラの皮をまとい、マントをひるがえしていたという。

この織田信長が共謀(コンスピラシー)によって打倒され、豊臣秀吉の時代になると、そろそろイエズス会の本性が少しずつ日本人に分かるようになってきた。豊臣秀吉自身も、この頃は朝鮮侵略を行い、やがては明の国にまで攻め入ろうとするくらいの旺盛な軍事力を築き上げた時期の日本の権力者であった。例えば、フイリピン(マニラ)侵寇計画を、豊臣秀吉は企てていた。

このとき、攻撃されるべき相手として秀吉からの「降伏要求」の手紙をもらった相手は、ルソン(マニラ)にいたスペイン人の現地最高司令官(総督)であった。この時代に、フィリピンは、すでに、完全に、スペイン帝国の植民地になっていたということだ。

以後、四百年間、一八九八年の米西(アメリカ・スペイン)戦争まで、ずっとフイリピンの支配階級はスペイン人である。実は、今日でも、フィリピンの支配階級は、この時のスペイン人たちの子孫である。現地人と混血しないように今でも若妻をスペインから迎えるという。

ところがなんと、秀吉からのこの手紙を持っていった人物が、スペイン人総督に日本の内情を伝えており、秀吉の意図は、十分に向うに見抜かれていたのである。遅れた国の王は、簡単に構造的にだまされるのだ。

やがてキリシタン弾圧が少しずつ始まるようになった。キリシタンは一六四〇年までに、日本国内から最終的に駆逐され、殺されるか、追放されていった。ここに至る過程に、興味深い話がある。
徳川家康が、一六〇〇年に関ヶ原の合戦で、国内の支配権をほぼ握った。

ちょうどその同じ年、一六〇〇年に、豊後(今の大分県)水道の沖に漂着した一隻の船があった。リーフデ号である。これに乗っていたウィリアム・アダムズ(イギリス人)とヤン・ヨーステン(オランダ人)の二人が、やがて徳川家康に仕えるようになった。彼らは、直参か旗本の武士待遇を与えられた。ウィリアム・アダムズは神奈川県の三浦半島に住んで、二百五十石の領地をもらって徳川家康の外交顧問(通訳、解説者)のような任務を勤めた。ヤン・ヨーステンは、今の東京駅の八重洲(ヤエス)口のあたりに住んだ。

このウィリアム・アダムズが、徳川家康に真実をちくったのである。その内容は、「今の状態で、日本がイエズス会の宣教師たちの布教活動を許しているならば、やがて日本は、完全にローマン・カソリックとスペイン帝国の属国にされてしまうであろう」というものであった。

すでに、この頃にはイエズス会だけでなくフランチェスコ会やドミニコ会の宣教師たちも、京都や堺や長崎で、教会を建てて布教を行いキリスト教の信者が激増していた。信者は、豪商たちや大名たちにまで及んだ。彼らキリシタン大名が結集してその資金力と、ヨーロッパの先端技術を導入した武力を動かせば、徳川将軍家だって打倒されるであろうと、アダムズは家康に進言したのだ。

彼らの背後には、マニラに駐屯していたスペイン艦隊(ガリオン船、重武装商船隊)がいる。あれが、内乱に乗じて、日本まで侵略してきたら、大変なことになる。事実。豪商や戦国大名の多くがキリシタンになっており、徳川家康の息子の一人や、なんと有力大名の伊達政宗までキリシタンであったと言われる。これらの「鎖国」に至る、歴史の事実は、中公文庫『日本の歴史』(一四巻「鎖国」岩生成一著)を読むとよく分かる。

家康は、このアダムズの意見を聞き入れて徐々に鎖国を断行するに至った。初めのうちは、家康は、南蛮貿易を独占することによって得られる巨利を捨てがたかったのだが、やがてそれどころではなくなった。いくら禁止しても、宣教師たちがどんどん密入国して来て、いよいよ危険な情勢になってきたからだ。

『決然たる政治学への道』第8章(186ページ〜)

(引用終わり)

アルルの男・ヒロシです。
 以上引用したように、当時の世界情勢は、世界覇権をスペインとポルトガルが争って、結局スペインがポルトガルを合併すると言う形でスペイン帝国が世界覇権国になっているという状況だった。

その中で、日本は「ローマ・カトリック」(反宗教改革派)の先兵である、イエズス会の宣教師(と、火薬などを扱った、南蛮商人)の帝国主義的な野心のターゲットとなっていた。表向きは、ローマ・カトリックという宗教を布教して、日本を「神の国」にしようという大義名分を掲げながら、事実上は、これらの当時の「南欧グローバリスト」たちは、日本を自らの属国としようと野望を抱いていたのである。

このことを立花氏は暴いている。立花氏は、信長の全国制覇自体が、イエズス会の後押しが無ければ達成できなかったものであるという風に論じている。アメリカの強力な後ろ盾を得て、小泉純一郎が、日本で「抵抗勢力」との戦いに勝ったのと同様に、信長も、当時のグローバリストであったイエズス会の後ろ盾を得て、仏教勢力や室町幕府や朝廷を押さえ、天下を取ったという。要は、信長は、「イエズス会のために立ち上がった武将」だった。

(引用開始)

立花京子 著『信長と十字架』(190ページ)

▼イエズス会からの期待

フロイスは、「<信長は>毛利を平定し、日本六十六力国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武カで征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった」と記している(『日本史』5)。

後に、秀吉が朝鮮侵略を実行し、中国大陸の明国征服も宣言し、実際的な占領計画まで公言していたことは、史料も残存し確かな事実として認められている。しかし、信長の明国征服計画は、日本側史料にあらわれていない。
このフロイスの記事を根拠にして、堀新氏は、信長が「中華皇帝」になろうとしていたという見解を示すが、信長の意思表示を示す史料が出されないかぎり、信長の意思と断定してよいか疑問である。
ただし、この記事がある以上、イエズス会側では信長に中国の武功征服を期待し、信長に滞した目標として設定していたのは確かである。

一方、イエズス会はザビエル以来、中国大陸での布教を最終的目標として、日本での活動はそれへの拠点建設としての意味が大きかったことが、高瀬弘一郎氏の研究において指摘されている。高瀬氏は前掲書で、霊的救済をめざすべき布教事業が、航海、征服、植民、および貿易といった事業の一環として行われたことと、当時の布教事業は、本質的にイベリア両国(スペイン・ポルトガル国)王室による武力征服事業と並行して進められてゆく性格のものであり、事実日本や中国に対して武力による征服で手っ取りばやいカトリック信仰の宣布が、一部宣教師の間で主張されていたことを、バテレン側の文書の紹介により実証している。

ただし、高瀬氏の研究では、天正七年(一五七九)七月のヴァリニャーノの第一回来日以降の事例が挙げられるだけで、それ以前における南欧勢力の日本への進入には言及されていない。しかし、一四九二年のコロンブスの「新夫陸発見」以後、十六世紀に入ってからのイベリア両国が中南米、インド、フィリピンにおいて展開した大植民地化政策は、カトリック布教を先兵として展開されていた。

この事実からみれば、ザビエルの来日から始まる日本と南欧勢力の交渉において、ヴァリニヤーノ来日以前だけが、布教と貿易、植民地化政策とが無縁であったはずはないであろう。彼らによって突き動かされた、グローバリゼーションの大きなうねりが、安土にまで押しよせていたのは明らかであった。ここにに、信長の全国制覇を、世界的規模で進展していた大植民地化時代の流れの、極東での一つの成果として、確かな位置を与えるべきである。

立花京子 著『信長と十字架』(190ページ)
(引用終わり)

アルルの男・ヒロシです。更に、信長が天下統一を行うための軍資金は、南蛮商人とつながった、堺の豪商たちから流れていたらしい。この堺の豪商は、津田宗及であったと言われている。信長と堺の豪商の間をつなぐ人脈には、キリシタン大名であった、大友宗麟(おおともそうりん)がいた。

(引用開始)

『信長と十字架』(192ページ)

堺の豪商、津田宗及が、天正六年(一五七八)正月、安土城に信長を訪問したとき、ある一室で黄金一万枚を見たという話(『天王寺屋会記』六)がある。秀吉以前には、金山の採掘はそれほど進んでいなかったにもかかわらず、信長は家臣、使者などに再々黄金を与え、総計すれば、千四百枚を超えていた(『信長公記』)。
フロイスは、信長を日本でもっとも富んでいた人物と評した。その理由として、「多量に所有する金銀以外に、……インドの高価な品、シナの珍品、朝鮮および遠隔の地方からの美しい品々は、殆ど彼の掌中に帰したから」と述べている。この言葉は、輸入品の独占により、信長が経済的に突出していたことを指摘している。せいぜい年貢米と賦課役銭を収入源とする通常の戦国大名では、全国制覇戦を支える軍事費は到底賄えないであろう。
その他、信長にとって、禁裏修理、義昭邸新築、安土城築城など大普請事業の費用も莫大であったはずである。しかし、『信長公記』には、バテレンからの黄金はおろか、援助らしきことは一切記述されていなかった。
それは、秘中の秘であったからと考えられる。『日本史』でも、前述のようにそれをほのめかす記事はあっても、明白に述べた箇所はみあたらない。しかし、信長の全国制覇戦の成功は、黄金の力がなければ達成しなかったし、南欧勢力も援助なしには、信長の協力を期待できないはずである。
確かな史料的証拠が得られていないが、以上の考察から、信長は南欧勢力から援助を受けて全国制覇を遂行していた、との新大命題はほぼ傍証できるのではないかと私は確信している。

『信長と十字架』(192ページ)
(引用終わり)

アルルの男・ヒロシです。
織田信長はイエズス会によって暗殺されたのであるとする根拠は信長が、自分の後ろ盾であった、イエズス会の権威に逆らって、自らの神格化を図ろうとしたことによって、イエズス会から、手先として使うのは不都合だと判断されたためであろう、と立花氏は分析している。その後を追う形で、手先になったのが、豊臣秀吉であり、秀吉はイエズス会の希望通りに、朝鮮出兵を行っている。そして、秀吉の後、天下を統一し、江戸幕府を開いた徳川氏は、前述の『決然たる政治学への道』の引用部分にあったように、アダムズからイエズス会=覇権国スペインの野望を知らされた結果、オランダ側に荷担する形で、鎖国を行ったのだろう。立花氏は、ルイス・フロイスの「日本史」の記述をひきながら、イエズス会が信長暗殺の真の黒幕であったことの証拠として示している。

(引用開始)

『信長と十字架』(245ページ)

彼は狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に価する者は誰もいないと言うにいたった。
信長は戦争に順調に成果を収め、坂東地方の諸国までが支配下に入ることを申し出たほどであったが、それらすべてが造物主からの恩恵と賜物であると謙虚に認めないでいよいよ傲慢となり、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。

その実現のために、信長は安土山に総見寺と称する寺院を建立し、寺院の一番高い所に盆山という石を神体として安置し、彼の誕生日に同寺と神体を礼拝しに来るように命じた。天正十年五月の信長の誕生日には、遠方の諸国から甚大な数の人々が集合して礼拝した。同寺を礼拝すれば諸々の現世利益が得られるのであった。

しかるに信長は、デウスにのみ捧げられるべき祭祀と礼拝を横領するほどの途方もなく狂気じみた言行と暴挙に及んだので、われらの主なるデウスは、彼があの群衆と衆人の参拝を見て味わっていた歓喜が十九日以上継続することを許し給うことがなかった。

(フロイス「日本史」5 の要約)
『信長と十字架』(245ページ)
(引用終わり)

アルルの男・ヒロシです。
実は、この立花氏の結論とほぼ同じ結論に達していたのが、小説家の八切止夫(やぎりとめお)氏である。八切氏は1967年に、歴史小説の『信長殺し、光秀ではない』(作品社)という著作の中で、信長を殺害したのはイエズス会のキリスト教徒たちで、しかも、信長が滞在する本能寺に南蛮渡来の新式火薬で作った爆弾を、本能寺から90メートルという至近距離にあった、「南蛮寺(サンタ・マリア寺)」の展望台から、打ち込んで本能寺を跡形もなく焼失させた、という説を示している。当時の、信長がイエズス会を裏切った事実と、信長の焼死体が全く見つからなかったことを根拠に立論しているのである。この八切氏の説は、古くからトンデモ説として一蹴されてきたが、「属国・日本」の枠組みと、歴史研究家の立花氏の史料を読み解いたところから来る分析と合わせて考えるとあながち的はずれとも思えない。立花氏の本にしても、八切氏の本にしてもそうだが、大きな枠組で真実をグッと掴むということが重要なのだろう。要するに、「当時も、日本は覇権国に対する周辺属国であった」ということである。この一言で足りてしまうでしょう。

(引用開始)

八切止夫 著『信長殺し、光秀ではない』(1967年 作品社)
(52ページ)

いくら神の光栄が偉大であっても、その国自体を占領するとしないとでは、布教活動がまるで違うはずである。それに当時、ポルトガル国王セバスチャン一世が死ねば、まるまると、その国が統治できたスペインである。その三年後に、また野心を起し、当時の日本の主権者の信長を倒せば、否応なく日本列島に君臨できると考えたとしても、これは少しもおかしくない。
 なおワリニヤノ(ヴァリニャーノ)は、スペインのカスチリヤ人の中国本土征服の野心しか、書き残していないが、あの広大な中国より、どう考えたって、こじんまりとした日本列島の方が、占領する足場としては手頃ではあるまいか。
 そして「安土か京にいる織田信長一人さえ亡きものにすれば、この国は手軽く奪えるもの」
 とでも考えたのでなかろうか、と想える。
 また、このワリニヤノ書簡を裏返しに判読すれば、「先んずれば人を制す」のたとえで、「スペイン人に奪取されるくらいなら、まずポルトガル人がやろう」とも受けとれるし、当時、印度を東西に分けて、その勢力を二分していたポルトガルとしては、ローマ法皇に対し、「スペインが中国本土を狙うのなら、我々は対抗上、まず日本列島をいただかねばなりません」と献言していたのかもしれない。

 と、疑惑が持てるのは、ウイジ・タードル(印度派密使)の資格をもって、天正七年七月にマカオから日本へ来朝したアレッサンドロ・ワリニヤノは、翌天正八年十月に、豊後府内の教会堂において、天主教の神父達を集め、スド・コンスルタ(九州協議会)を開き、続いて安土の天主堂でスエ・コンスルタ(中央協議会)。そして天正九年十二月には、長崎のトドス・サントス会堂で密議がもたれた。そして、これを最後にして正式の会合は姿を消し、翌天正十年の六月二日に、京都四条の三階建の天主堂から一町もない至近距離の本能寺で、いきなり突如として信長殺しは起きたのである。
 もし、当時の十字軍遠征用に考案されていた折畳み分解式のイサベラ砲を、この天主堂の三階へ運び上げていて、一階建の眼下の本能寺の客殿へ撃ち込むか、もし、それでは人目を引くものならば、その火薬を本能寺の境内へ持ち込んで導火させてしまえば、ドカンと一発。それで、容易にかたのつく事である。
 詳しい状況は後述するが、本能寺は午前4時に包囲されたのに、突然、火を発したのが午前7時過ぎという、時間的ギャップと、前日までの大雨で湿度が高かったのに、火勢が強くて、まだびしょ濡れの筈の本能寺の森の生木まで燃えつくし、民家にまで類焼した。
 そして、信長の焼死体が行方不明になってしまったぐらいのの強度の高熱状況からみても、木材や建具の燃焼温度では、火力の熱度が不審である。つまり、今日の消防法規でいうA火災ではなく、これは化学出火のB火災の疑いがある。
 当時の化学発火物といえば、文字どおり「火薬」であるが、小銃などによって発射された程度のものでは、これは炸薬だから、たいした事はない。性能の強い火薬による本能寺焼討ちとなれば、コムンバンド(火裂弾)しかない。
 もちろん、これは皆目、日本側の史料にはない。だが考えられることである。
 さて、当時のワリニヤノ協議会草稿というのは、<Cousulita>の名目で、ローマのバチカン法王庁に<Japsin1-34・40-69>の註がついてスペイン語とポルトガル語で現存している。
 しかし、まさか神の書庫に納められているものに、今となっては殺人計画書など附記されている筈もあるまいと考えられる。(‥‥念の為に七月末に私はローマへ見に行く)

 さて、ここに、もう一つ訝しな事実がある。
 ワリニヤノは天正九年十二月の長崎会議の後、翌年二月二十日。つまり本能寺事件の起きる百日前に、九州の大友、大村、有馬の三候の子息を伴って、秘かに日本脱出をしている。
 これは、信長を倒したあとの、日本列島のロボット君主に、この三人の中の一人を、ローマ法皇グレゴリオ十三世に選ばせるためではなかろうか。昔から「三つに一つ」とか、「三位一体」というように、カトリックでは、ものを選ぶときに同じ様なものを三個並べてその一つを神の啓示にもとづいて採決する古教義が伝わっているからである。

 ところがである。マカオへ彼が渡った時、
「ポルトガル王統断絶によって、従来は委任統治形式であったスペイン国王フィリッペ二世が、新たにポルトガル国王フィリッペ一世を名乗って、ここに改めて、二つの王を正式に継承した」
 つまり二国が完全に合併した、という知らせが届いたのである。
 だから、ポルトガルの勢力を一挙にもり返そうとしたワリニヤノの計画は挫折した。しかし、当時は無線も航空便もない。そして、季節風をつかまえないと船も進めないから、日本列島へ指令を出して計画変更を訓令する暇がなかったのではあるまいか。

八切止夫 著『信長殺し、光秀ではない』(1967年 作品社)
(52ページ)
(引用終わり) 

アルルの男・ヒロシです。
八切説によれば、イエズス会勢力が、信長を殺害しようとしたことの背景には、信長艦隊の四国出兵が、マカオ占領のための出兵であるという風に誤解されたことも背景にある、。信長が相互依存関係を一方的に断ち切って、彼らの手先たるの役割を拒否したことから、双方は相互不信にあったということだろう。
いずれにしても、戦国武将の真実の姿には、当時の世界覇権国・イスパニアとその受け皿となった大名や商人達の姿を赤裸々に描かないと、迫れないということだろう、と思う。

すでに刊行している、副島隆彦の本からテーマ別に引用してデータベースを作ることが必要かも知れません。『属国・日本史論』の展開を期待してください。

アルルの男・ヒロシ 拝


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