[4779] 慰安婦問題のNHK番組について 投稿者:アルルの男・ヒロシ 投稿日:2005/01/14(Fri) 11:05:44
まず、最初に言うと、これはエビ・ジョンイルつぶしの一環であろう。
安倍・中川たたきのように見えるが、これはエビジョンイルつぶしの一環であると私は思う。なぜなら、編集を命じたのは、海老沢氏本人であるからだ。

このETV−特集「女性国際戦犯法廷」は私は当時、放送されたのを見たが、とんでもない構成であった。まず、この番組自体が放送法に違反している。

朝日の記事は、次のように述べている。

(貼り付け開始)

 
NHK番組に中川昭・安倍氏「内容偏り」 幹部呼び指摘
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 01年1月、旧日本軍慰安婦制度の責任者を裁く民衆法廷を扱ったNHKの特集番組で、中川昭一・現経産相、安倍晋三・現自民党幹事長代理が放送前日にNHK幹部を呼んで「偏った内容だ」などと指摘していたことが分かった。NHKはその後、番組内容を変えて放送していた。番組制作にあたった現場責任者が昨年末、NHKの内部告発窓口である「コンプライアンス(法令順守)推進委員会」に「政治介入を許した」と訴え、調査を求めている。

 今回の事態は、番組編集についての外部からの干渉を排した放送法上、問題となる可能性がある。

 この番組は「戦争をどう裁くか」4回シリーズの第2回として、01年1月30日夜に教育テレビで放送された「問われる戦時性暴力」。00年12月に東京で市民団体が開いた「女性国際戦犯法廷」を素材に企画された。

 ところが01年1月半ば以降、番組内容の一部を知った右翼団体などがNHKに放送中止を求め始めた。番組関係者によると、局内では「より客観的な内容にする作業」が進められた。放送2日前の1月28日夜には44分の番組が完成、教養番組部長が承認したという。

 翌29日午後、当時の松尾武・放送総局長(現NHK出版社長)、国会対策担当の野島直樹・担当局長(現理事)らNHK幹部が、中川、安倍両氏に呼ばれ、議員会館などでそれぞれ面会した。

 中川氏は当時、慰安婦問題などの教科書記述を調べる研究会「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」代表、官房副長官でもあった安倍氏は同会元事務局長だった。

 関係者によると、番組内容の一部を事前に知った両議員は「一方的な放送はするな」「公平で客観的な番組にするように」と求め、中川氏はやりとりの中で「それができないならやめてしまえ」などと放送中止を求める発言もしたという。NHK幹部の一人は「教養番組で事前に呼び出されたのは初めて。圧力と感じた」と話す。

 同日夕、NHKの番組制作局長(当時)が「(国会でNHK予算が審議される)この時期に政治とは闘えない。番組が短くなったらミニ番組で埋めるように」などと伝えて番組内容の変更を指示したと関係者は証言。松尾、野島両氏も参加して「異例の局長試写」が行われた。

 試写後、松尾氏らは(1)民衆法廷に批判的立場の専門家のインタビュー部分を増やす(2)「日本兵による強姦や慰安婦制度は『人道に対する罪』にあたり、天皇に責任がある」とした民衆法廷の結論部分などを大幅にカットすることを求めた。さらに放送当日夕には中国人元慰安婦の証言などのカットを指示。番組は40分の短縮版が放送された。

 このいきさつを巡り、NHKで内部告発をしたのは、当時、同番組の担当デスクだった番組制作局のチーフ・プロデューサー。番組改変指示は、中川、安倍両議員の意向を受けたものだったと当時の上司から聞き、「放送内容への政治介入だ」と訴えている。

 一方、中川氏は朝日新聞社の取材に対し、NHK幹部と面談したことを認めた上で「疑似裁判をやるのは勝手だが、それを公共放送がやるのは放送法上公正ではなく、当然のことを言った」と説明。「やめてしまえ」という言葉も「NHK側があれこれ直すと説明し、それでもやるというから『だめだ』と言った。まあそういう(放送中止の)意味だ」と語った。

 安倍氏は「偏った報道と知り、NHKから話を聞いた。中立的な立場で報道されねばならず、反対側の意見も紹介しなければならないし、時間的配分も中立性が必要だと言った。国会議員として言うべき意見を言った。政治的圧力をかけたこととは違う」としている。

 番組内容を事前に知った経緯について両議員は「仲間から伝わってきた」などとし、具体的には明らかにしていない。

 NHK広報局は「(内部告発に関しては)守秘義務がありコメントできない。番組は、NHKの編集責任者が自主的な判断に基づいて編集したものだ」としている。

 〈憲法21条〉 (1)集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。(2)検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

 〈放送法3条〉 放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、または規律されることがない。 (01/12 08:52)

(貼り付け終わり)

アルルです。
朝日新聞は放送法の第3条の一部だけを取り上げている。以下にこの放送法第三条はつづく。

(引用開始)

(放送番組編成の自由)第3条 放送番組は、法律に定める権限に基く場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

(国内放送の放送番組の編集等)第3条の2 放送事業者は、国内放送の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
1.公安及び善良な風俗を害しないこと。
2.政治的に公平であること。
3.報道は事実をまげないですること。
4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

http://www.houko.com/00/01/S25/132.HTM
(引用終わり)


アルルです。とくに4番目の項目、「4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」が重要である。この観点からはこの番組は違反している。これはどうしても言っておかなければならないことである。

このNHK番組は、当初は徹頭徹尾、糾弾者の左翼側(具体的には、内海愛子女史、高橋哲弥東大教授、米山リサ・カリフォルニア大学サンディエゴ校教授)の側にたった構成をしていたようだ。編集によって、出演者の発言の一部が画像とあっていない、いわゆる「口パク」の状態になっていたことからも、これはうかがえる。

それで、海老沢勝二NHK会長が民間団体(たぶん、三輪和雄氏の正論の会だろう)とおそらくは国会議員の抗議を受けた上で、番組の編集前素材を見たらしい。これでエビジョンイルが激怒して再編集を命じたのだ、と言うことをどこかの雑誌(たぶん、正論)で読んだ記憶がある。

それで急遽とってつけたように、秦郁彦氏の談話が二分程度収録されて、全体としては極めてごく僅かではあるが放送されたというわけである。どうも、この法廷の主催団体や米山氏に言わせると、これでも十分な介入であるというのである。

(引用開始)

http://postx.at.infoseek.co.jp/NHK-kaizan/yoneyama.html

(2)削除と隠蔽は、責任者処罰への言及、法廷の詳細についてだけでなく、法廷の主催者への言及についてもなされていた。表象文化論者北原恵氏は、「沈黙させられたのは誰か──NHK番組改編問題・テレビ映像における捏造」と題する論考で、法廷の運営委員でもあった内海愛子氏のインタヴューが、一・二四「完成納品版」で急速加えられた秦郁彦氏のインタヴューによって映像的にも従属化させられたものとなっていたことを指摘している(『インバクション』一二四号、一三〇頁)。同様の周縁化は、筆者の発言に対して以下のような削除と切断が加えられていたことにも示されている。改憲があったことを知らずに番組を見た人たちでさえ奇異な印象を抱いたという、「放送版」にきわめて不自然に残された「私」の一言は、「完成納品版」に含まれていたつぎのような文脈から抜き出されていた。(緑の部分が「放送版」では残されて二つに切り離された個所。)

http://postx.at.infoseek.co.jp/NHK-kaizan/yoneyama.html

(引用終わり)

アルルです。あの番組を観た人は一体どういう感想を抱くだろうか。はっきり言って、あの秦インタビューよりも数倍の時間、女性国際戦犯法廷側の一方的な主張の垂れ流しになってしまっている。おそらくこれの団体の人たちは、アメリカのホロコースト産業と結託して、南京事件や慰安婦問題を日本の戦争犯罪として糾弾することによって、日中分断に加担している勢力であろう。無自覚的にホロコースト産業のユダヤ人たちと連携ししている人たちである。

別にNHKが国債戦犯法廷をニュースとして取り上げるべきであるというのではない。どうせ取り上げるのであれば、秦郁彦氏をスタジオに呼んで、左翼側の高橋哲弥氏らと徹底的に議論をたたかわせるべきではなかったのか。いましむべきは左右双方の過激な立場である。

これとは別に、政治家の言論界介入問題は残る。小室直樹氏は『田中角栄の呪い』(光文社)において、「ロッキードの角栄は無罪だが、創価学会問題の角栄は大罪」と述べている。その伝で言えば、二人の中川・安倍氏は積みがあると言うことになるだろう。

だが、このNHK番組の場合、NHKが極めて一方的な構成をした番組を放送したという放送法違反の問題は残る。
こういう問題を裁判所はどう判断するのか興味はある。


[4778] 日本の戦国時代について考える   [アルルの男・ヒロシさんが「ぼやき」で書いた内容を転載する。] 投稿者:よしかわ邦弘 投稿日:2005/01/12(Wed) 18:06:02
今日のぼやき 「530」 昨年末の「属国・日本史講演会 幕末・維新編」が、長時間収録のビデオになりました。現在進行中の企画、政治劇画(=思想マンガ)『属国・日本史論』の序章となるべき企画です。それと、最近出た、信長研究本について、「決然たる政治学への道」から関連する部分を載せます。2004.2.7

から転載します。

[[転載開始]]
アルルの男・ヒロシです。
 以上引用したように、当時の世界情勢は、世界覇権をスペインとポルトガルが争って、結局スペインがポルトガルを合併すると言う形でスペイン帝国が世界覇権国になっているという状況だった。

アメリカの強力な後ろ盾を得て、小泉純一郎が、日本で「抵抗勢力」との戦いに勝ったのと同様に、信長も、当時のグローバリストであったイエズス会の後ろ盾を得て、仏教勢力や室町幕府や朝廷を押さえ、天下を取ったという。要は、信長は、「イエズス会のために立ち上がった武将」だった。

(引用開始)
立花京子 著『信長と十字架』(190ページ)

▼イエズス会からの期待

フロイスは、「<信長は>毛利を平定し、日本六十六力国の絶対君主となった暁には、一大艦隊を編成してシナを武カで征服し、諸国を自らの子息たちに分ち与える考えであった」と記している(『日本史』5)。

後に、秀吉が朝鮮侵略を実行し、中国大陸の明国征服も宣言し、実際的な占領計画まで公言していたことは、史料も残存し確かな事実として認められている。しかし、信長の明国征服計画は、日本側史料にあらわれていない。
このフロイスの記事を根拠にして、堀新氏は、信長が「中華皇帝」になろうとしていたという見解を示すが、信長の意思表示を示す史料が出されないかぎり、信長の意思と断定してよいか疑問である。
ただし、この記事がある以上、イエズス会側では信長に中国の武功征服を期待し、信長に滞した目標として設定していたのは確かである。

一方、イエズス会はザビエル以来、中国大陸での布教を最終的目標として、日本での活動はそれへの拠点建設としての意味が大きかったことが、高瀬弘一郎氏の研究において指摘されている。高瀬氏は前掲書で、霊的救済をめざすべき布教事業が、航海、征服、植民、および貿易といった事業の一環として行われたことと、当時の布教事業は、本質的にイベリア両国(スペイン・ポルトガル国)王室による武力征服事業と並行して進められてゆく性格のものであり、事実日本や中国に対して武力による征服で手っ取りばやいカトリック信仰の宣布が、一部宣教師の間で主張されていたことを、バテレン側の文書の紹介により実証している。

ただし、高瀬氏の研究では、天正七年(一五七九)七月のヴァリニャーノの第一回来日以降の事例が挙げられるだけで、それ以前における南欧勢力の日本への進入には言及されていない。しかし、一四九二年のコロンブスの「新夫陸発見」以後、十六世紀に入ってからのイベリア両国が中南米、インド、フィリピンにおいて展開した大植民地化政策は、カトリック布教を先兵として展開されていた。

この事実からみれば、ザビエルの来日から始まる日本と南欧勢力の交渉において、ヴァリニヤーノ来日以前だけが、布教と貿易、植民地化政策とが無縁であったはずはないであろう。彼らによって突き動かされた、グローバリゼーションの大きなうねりが、安土にまで押しよせていたのは明らかであった。ここにに、信長の全国制覇を、世界的規模で進展していた大植民地化時代の流れの、極東での一つの成果として、確かな位置を与えるべきである。

立花京子 著『信長と十字架』(190ページ)
(引用終わり)

アルルの男・ヒロシです。更に、信長が天下統一を行うための軍資金は、南蛮商人とつながった、堺の豪商たちから流れていたらしい。この堺の豪商は、津田宗及であったと言われている。信長と堺の豪商の間をつなぐ人脈には、キリシタン大名であった、大友宗麟(おおともそうりん)がいた。


(引用開始)
『信長と十字架』(192ページ)

堺の豪商、津田宗及が、天正六年(一五七八)正月、安土城に信長を訪問したとき、ある一室で黄金一万枚を見たという話(『天王寺屋会記』六)がある。秀吉以前には、金山の採掘はそれほど進んでいなかったにもかかわらず、信長は家臣、使者などに再々黄金を与え、総計すれば、千四百枚を超えていた(『信長公記』)。
フロイスは、信長を日本でもっとも富んでいた人物と評した。その理由として、「多量に所有する金銀以外に、……インドの高価な品、シナの珍品、朝鮮および遠隔の地方からの美しい品々は、殆ど彼の掌中に帰したから」と述べている。この言葉は、輸入品の独占により、信長が経済的に突出していたことを指摘している。せいぜい年貢米と賦課役銭を収入源とする通常の戦国大名では、全国制覇戦を支える軍事費は到底賄えないであろう。
その他、信長にとって、禁裏修理、義昭邸新築、安土城築城など大普請事業の費用も莫大であったはずである。しかし、『信長公記』には、バテレンからの黄金はおろか、援助らしきことは一切記述されていなかった。
それは、秘中の秘であったからと考えられる。『日本史』でも、前述のようにそれをほのめかす記事はあっても、明白に述べた箇所はみあたらない。しかし、信長の全国制覇戦の成功は、黄金の力がなければ達成しなかったし、南欧勢力も援助なしには、信長の協力を期待できないはずである。
確かな史料的証拠が得られていないが、以上の考察から、信長は南欧勢力から援助を受けて全国制覇を遂行していた、との新大命題はほぼ傍証できるのではないかと私は確信している。

『信長と十字架』(192ページ)
(引用終わり)

アルルの男・ヒロシです。
織田信長はイエズス会によって暗殺されたのであるとする根拠は信長が、自分の後ろ盾であった、イエズス会の権威に逆らって、自らの神格化を図ろうとしたことによって、イエズス会から、手先として使うのは不都合だと判断されたためであろう、と立花氏は分析している。その後を追う形で、手先になったのが、豊臣秀吉であり、秀吉はイエズス会の希望通りに、朝鮮出兵を行っている。そして、秀吉の後、天下を統一し、江戸幕府を開いた徳川氏は、前述の『決然たる政治学への道』の引用部分にあったように、アダムズからイエズス会=覇権国スペインの野望を知らされた結果、オランダ側に荷担する形で、鎖国を行ったのだろう。立花氏は、ルイス・フロイスの「日本史」の記述をひきながら、イエズス会が信長暗殺の真の黒幕であったことの証拠として示している。


(引用開始)
『信長と十字架』(245ページ)

彼は狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に価する者は誰もいないと言うにいたった。
信長は戦争に順調に成果を収め、坂東地方の諸国までが支配下に入ることを申し出たほどであったが、それらすべてが造物主からの恩恵と賜物であると謙虚に認めないでいよいよ傲慢となり、不滅の主であるかのように万人から礼拝されることを希望した。

その実現のために、信長は安土山に総見寺と称する寺院を建立し、寺院の一番高い所に盆山という石を神体として安置し、彼の誕生日に同寺と神体を礼拝しに来るように命じた。天正十年五月の信長の誕生日には、遠方の諸国から甚大な数の人々が集合して礼拝した。同寺を礼拝すれば諸々の現世利益が得られるのであった。

しかるに信長は、デウスにのみ捧げられるべき祭祀と礼拝を横領するほどの途方もなく狂気じみた言行と暴挙に及んだので、われらの主なるデウスは、彼があの群衆と衆人の参拝を見て味わっていた歓喜が十九日以上継続することを許し給うことがなかった。

(フロイス「日本史」5 の要約)
『信長と十字架』(245ページ)
(引用終わり)

アルルの男・ヒロシです。
実は、この立花氏の結論とほぼ同じ結論に達していたのが、小説家の八切止夫(やぎりとめお)氏である。八切氏は1967年に、歴史小説の『信長殺し、光秀ではない』(作品社)という著作の中で、信長を殺害したのはイエズス会のキリスト教徒たちで、しかも、信長が滞在する本能寺に南蛮渡来の新式火薬で作った爆弾を、本能寺から90メートルという至近距離にあった、「南蛮寺(サンタ・マリア寺)」の展望台から、打ち込んで本能寺を跡形もなく焼失させた、という説を示している。当時の、信長がイエズス会を裏切った事実と、信長の焼死体が全く見つからなかったことを根拠に立論しているのである。この八切氏の説は、古くからトンデモ説として一蹴されてきたが、「属国・日本」の枠組みと、歴史研究家の立花氏の史料を読み解いたところから来る分析と合わせて考えるとあながち的はずれとも思えない。立花氏の本にしても、八切氏の本にしてもそうだが、大きな枠組で真実をグッと掴むということが重要なのだろう。要するに、「当時も、日本は覇権国に対する周辺属国であった」ということである。この一言で足りてしまうでしょう。


(引用開始)
八切止夫 著『信長殺し、光秀ではない』(1967年 作品社)
(52ページ)

いくら神の光栄が偉大であっても、その国自体を占領するとしないとでは、布教活動がまるで違うはずである。それに当時、ポルトガル国王セバスチャン一世が死ねば、まるまると、その国が統治できたスペインである。その三年後に、また野心を起し、当時の日本の主権者の信長を倒せば、否応なく日本列島に君臨できると考えたとしても、これは少しもおかしくない。
 なおワリニヤノ(ヴァリニャーノ)は、スペインのカスチリヤ人の中国本土征服の野心しか、書き残していないが、あの広大な中国より、どう考えたって、こじんまりとした日本列島の方が、占領する足場としては手頃ではあるまいか。
 そして「安土か京にいる織田信長一人さえ亡きものにすれば、この国は手軽く奪えるもの」
 とでも考えたのでなかろうか、と想える。
 また、このワリニヤノ書簡を裏返しに判読すれば、「先んずれば人を制す」のたとえで、「スペイン人に奪取されるくらいなら、まずポルトガル人がやろう」とも受けとれるし、当時、印度を東西に分けて、その勢力を二分していたポルトガルとしては、ローマ法皇に対し、「スペインが中国本土を狙うのなら、我々は対抗上、まず日本列島をいただかねばなりません」と献言していたのかもしれない。

 と、疑惑が持てるのは、ウイジ・タードル(印度派密使)の資格をもって、天正七年七月にマカオから日本へ来朝したアレッサンドロ・ワリニヤノは、翌天正八年十月に、豊後府内の教会堂において、天主教の神父達を集め、スド・コンスルタ(九州協議会)を開き、続いて安土の天主堂でスエ・コンスルタ(中央協議会)。そして天正九年十二月には、長崎のトドス・サントス会堂で密議がもたれた。そして、これを最後にして正式の会合は姿を消し、翌天正十年の六月二日に、京都四条の三階建の天主堂から一町もない至近距離の本能寺で、いきなり突如として信長殺しは起きたのである。
 もし、当時の十字軍遠征用に考案されていた折畳み分解式のイサベラ砲を、この天主堂の三階へ運び上げていて、一階建の眼下の本能寺の客殿へ撃ち込むか、もし、それでは人目を引くものならば、その火薬を本能寺の境内へ持ち込んで導火させてしまえば、ドカンと一発。それで、容易にかたのつく事である。
 詳しい状況は後述するが、本能寺は午前4時に包囲されたのに、突然、火を発したのが午前7時過ぎという、時間的ギャップと、前日までの大雨で湿度が高かったのに、火勢が強くて、まだびしょ濡れの筈の本能寺の森の生木まで燃えつくし、民家にまで類焼した。
 そして、信長の焼死体が行方不明になってしまったぐらいのの強度の高熱状況からみても、木材や建具の燃焼温度では、火力の熱度が不審である。つまり、今日の消防法規でいうA火災ではなく、これは化学出火のB火災の疑いがある。
 当時の化学発火物といえば、文字どおり「火薬」であるが、小銃などによって発射された程度のものでは、これは炸薬だから、たいした事はない。性能の強い火薬による本能寺焼討ちとなれば、コムンバンド(火裂弾)しかない。
 もちろん、これは皆目、日本側の史料にはない。だが考えられることである。
 さて、当時のワリニヤノ協議会草稿というのは、<Cousulita>の名目で、ローマのバチカン法王庁に<Japsin1-34・40-69>の註がついてスペイン語とポルトガル語で現存している。
 しかし、まさか神の書庫に納められているものに、今となっては殺人計画書など附記されている筈もあるまいと考えられる。(‥‥念の為に七月末に私はローマへ見に行く)

 さて、ここに、もう一つ訝しな事実がある。
 ワリニヤノは天正九年十二月の長崎会議の後、翌年二月二十日。つまり本能寺事件の起きる百日前に、九州の大友、大村、有馬の三候の子息を伴って、秘かに日本脱出をしている。
 これは、信長を倒したあとの、日本列島のロボット君主に、この三人の中の一人を、ローマ法皇グレゴリオ十三世に選ばせるためではなかろうか。昔から「三つに一つ」とか、「三位一体」というように、カトリックでは、ものを選ぶときに同じ様なものを三個並べてその一つを神の啓示にもとづいて採決する古教義が伝わっているからである。

 ところがである。マカオへ彼が渡った時、
「ポルトガル王統断絶によって、従来は委任統治形式であったスペイン国王フィリッペ二世が、新たにポルトガル国王フィリッペ一世を名乗って、ここに改めて、二つの王を正式に継承した」
 つまり二国が完全に合併した、という知らせが届いたのである。
 だから、ポルトガルの勢力を一挙にもり返そうとしたワリニヤノの計画は挫折した。しかし、当時は無線も航空便もない。そして、季節風をつかまえないと船も進めないから、日本列島へ指令を出して計画変更を訓令する暇がなかったのではあるまいか。

八切止夫 著『信長殺し、光秀ではない』(1967年 作品社)
(52ページ)
(引用終わり) 

アルルの男・ヒロシです。
八切説によれば、イエズス会勢力が、信長を殺害しようとしたことの背景には、信長艦隊の四国出兵が、マカオ占領のための出兵であるという風に誤解されたことも背景にある、。信長が相互依存関係を一方的に断ち切って、彼らの手先たるの役割を拒否したことから、双方は相互不信にあったということだろう。
いずれにしても、戦国武将の真実の姿には、当時の世界覇権国・イスパニアとその受け皿となった大名や商人達の姿を赤裸々に描かないと、迫れないということだろう、と思う。

[[転載終わり]]


[4777] 日本の戦国時代について考える[アルルの男・ヒロシさんが「ぼやき」で書いた内容について、わたしが仮説を提示する] 投稿者:よしかわ邦弘 投稿日:2005/01/12(Wed) 18:05:11
上記投稿[4778]の転載内容に関するわたしからのコメント(仮説提示含む)を書きます。以下の3点です。(なお、わたしからは、根拠となる事実提示は特になく、仮説の提示にとどまります。)

その1.
転載内容後半にある、「当時のワリニヤノ協議会草稿」。「<Cousulita>の名目で、ローマのバチカン法王庁に<Japsin1-34・40-69>の註がついてスペイン語とポルトガル語で現存している。」そうですが、どんな草稿なのか知りたいところです。こういう資料って、どういうつて(伝手)をたどっていけば閲覧できるんでしょうか? 内容確認したいですね。

その2.
「織田信長=小泉純一郎」と日本国で一番早く指摘したのは、アルルの男・ヒロシさんでした。わたしではなかった、残念。

その3.
転載内容にあるアルルの男・ヒロシさんのコメントを引用します。

「八切説によれば、イエズス会勢力が、信長を殺害しようとしたことの背景には、信長艦隊の四国出兵が、マカオ占領のための出兵であるという風に誤解されたことも背景にある、。信長が相互依存関係を一方的に断ち切って、彼らの手先たるの役割を拒否したことから、双方は相互不信にあったということだろう。」

よしかわ邦弘です。
織田信長が「彼らの手先たるの役割を拒否した」原因を、傲慢になった(自身を神と同一視したというフロイスの説明)という説明で満足するのではなく、別の仮説をたててみるという八切氏の視点は大切だと思います。そして、四国出兵をその原因の一つと考えてみる視点も大切だと思います。

わたしは、マカオ(八切説)では場所が遠いと思います。ポルトガル・イエズス会勢力の根拠地の最前線は、あくまで大友宗麟勢力の領地です。

まず私は、
「ポルトガル・イエズス会勢力が織田信長に期待している『九州の大友宗麟勢力との合流』という目的から見れば、織田信長の四国侵略は不要である」という観点を持っています。

わたしがイメージしたたとえ話をしてみます。
太平洋戦争末期、アメリカ合衆国本国では「一刻も早く日本本土に攻め込め」と指令しているのに、フィリピン攻略後の将軍マッカーサーが「フィリピンの北側にある台湾島をまずは攻略するぞ」ともしも宣言したら(実際にはそういう事態は起きていませんが)、アメリカ本国はそりゃあ怒るでしょう。こんなイメージです。

 それに九州島では、西暦1978年の耳川合戦での大敗以来、大友宗麟の勢力が衰退の一途。そうした状況の中で、私は以下のような仮説をたてます。

[↓仮説提示開始]

織田信長勢力の四国出兵を、『相互依存関係を一方的に断ち切って手先たるの役割を拒否した上での、衰退中の大友宗麟勢力の領地占領のための出兵である』という風に理解した。これが、ポルトガル・イエズス会勢力が信長を殺害しようとした主要な原因である。このころから、双方は相互不信にあったということでしょう。

そのほか、もろもろの状況(自身を神と同一視したこと等)が決定打となって、上記の不信感をイエズス会勢力側に持たれてしまったのが、織田信長最大の失敗(本能寺の変に至る)だと思います。

織田信長の後継者たる豊臣秀吉は、信長のこのような失敗の姿をつぶさに見ていたと思います。

 ですから豊臣秀吉は、バテレン追放令のとき(事実上、九州制圧を完了した時点)まで、自身の九州地域制圧が、
「相互依存関係を一方的に断ち切って彼らの手先たるの役割を拒否した上での、衰退した大友宗麟勢力(ポルトガル・イエズス会勢力の最大の根拠地)占領のための出兵である」ことを相手方(大友宗麟・イエズス会勢力)にはっきりと感づかれたりしないよう、慎重に慎重を重ねて行動および言動を管理していたと思います。いつからかと言うと、山崎の合戦以降、信長の後継者として名乗りをあげてからです。このような仮説で豊臣秀吉の言動および活動をチェックしても反例は出てきません。

 バテレン追放令のタイミングを豊臣秀吉は、通常のイメージにあるような,
数日間ではなく、わたしは何年間もの間考え抜いていたと思います。本音がどこにあるかわからないような二重底、三重底のものの考え方、用心深さおよび用意周到さが、豊臣秀吉を天下人にするための必要条件だった思います。豊臣秀吉を、とっさの事態において神がかり的にすばらしい判断を示すという理由で、後世の我々が英雄視するのであれば、それは不十分です。その判断に至るまでの情報収集能力および段取りの良さこそが、豊臣秀吉なる人物で一番褒められるべき点です。

 さて、それでは、
織田信長にできなかったこと(相互依存関係を一方的に断ち切って彼らの手先たるの役割を拒否した上での、大友宗麟勢力占領)を、豊臣秀吉はどうしてできるようになったのだということが課題となります。
その辺りを、「武器・弾薬・レアメタル」の流れの変化から説明がついたらいいなあ、とわたしは考えております。言い換えれば、織田信長の時代のような、
「最大軍事力を持った勢力にポルトガル・イエズス会勢力の手で、牛の鼻輪がつけられる」必然性、これが、西暦1580年前後からなくなっていくような変化が現れたのだと私は仮説をたてます。

[仮説の提示終わり]

以上


[4776] 日本の戦国時代について考える。 [織田信長が部下の武将につけた官位は、西側地域の官位のものの比率が高い] 投稿者:よしかわ邦弘 投稿日:2005/01/12(Wed) 13:22:58
「防長墓城掃苔録」というサイトから転載します。
「織田信長が部下の武将につけた官位は、西側地域の官位のものの比率が高い」という事実です。

こういう観点もあるなあ、と感心しました。

「官職の包囲網には、実質的な政治的、戦略的な効果は期待できないでしょうが、その攻略目標の勢力に対して、何らかの呪詛のような意味合いが含まれてたのではないでしょうか? この官職の配置に関しては、対上杉より、対毛利の方が厳重な感じであり、毛利攻めの方が優先事項であったように思えますし、実際に信長は、上杉攻略より、毛利攻略の方にまず力を注いだようです。」の分析にわたしも同意します。


http://www.urban.ne.jp/home/kenf/zassou/zassou-nobunagakansyoku.htm
[引用開始]
信長の官職包囲網

 天正三年(1575)の七月三日に、明智光秀・丹羽長秀が、それぞれ「惟任」・「惟住」の姓を朝廷から下賜されたという逸話があります。当然それには、信長の意向が働いていたと思われます。それと同日、又は同時期に、信長の他の家臣らにも、姓や官職が多く与えられているようです。

武井夕庵→「二位法印」
松井友閑→「宮内卿法印」
明智光秀→惟任「日向守」
塙直政  →原田「備中守」
簗田広正→別喜「右近大夫」
村井貞勝→「長門守」
羽柴秀吉→「筑前守」
滝川一益→「伊予守」
丹羽長秀→惟住
※『織田信長家臣人名辞典』(谷口克広著/吉川弘文館)より

これに、加えて、同年の11月に信長の嫡子信忠は「秋田城介」に任官しています。
 
これら官職(姓)の濫発には、信長に家臣らを慰労しようとの思いが当然あったと思われます。また、「惟任」「惟住」や、「筑前守」「日向守」など、九州に所縁のある、姓・官職が多いことから、後の九州攻略を考えてのことだとも、いわれているようです。

以上、前フリが長くなりましたが、信長が行った、これら一連の姓・官職の濫発について、私は、別の面白い見方もできるのでは?と思ったので、この文章は、以下それに関して述べてみようという試みなわけです。

光秀や、長秀が、「惟任」「惟住」の姓をそれぞれ下賜された天正三年とは、信長が武田勝頼に勝利した「長篠の合戦」があった年です。その合戦は、五月に行われました。官職の濫発は、長篠の合戦が終結し、落ち着いたであろう時期から行われているようで、その意図には、「長篠の合戦」の勝利が大きく関係していると思われます。つまり、信長にとって、東の大敵である武田に大打撃を与えることが出来たということは、新たな敵の攻略に力を注ぐことを可能にしたわけで、そういう意識がその官職濫発にも反映しているのでは、ということです。
当時の信長にとって、最大の敵は本願寺の一向一揆の勢力だったと思われます。その次には、越後の上杉謙信、中国の毛利等を挙げることができるでしょう。実は、その本願寺勢力と、上杉、毛利に関して、地図上の勢力配置で捉えると面白いことが分ります。長篠以後同年の八月に信長軍は越前の一向一揆を平定しており、加賀の一揆勢を挟んで、上杉勢と対峙する格好になりました。一方、毛利が盤踞する中国方面に関しては、石山の本願寺に一向一揆の根拠地を残して、毛利を臨む様相になっていたわけで、北陸と中国方面で、期せずしてか、似たような構造になっていました。

その地図上の構造に、先の官職や姓をそれぞれ所縁のあると思われる土地に配してみると、信長の意図が見えてきそうです。まず、かつて蝦夷攻略の拠点である「秋田城」の長官であった「秋田城介」を東北に配すると、北陸の一向一揆と上杉の勢力圏を、「秋田城介」と信長の勢力圏とで挟み込むことになります。
その一方、九州には、「惟任」「惟住」「原田」「別喜」等の九州の名族と云われる姓と、その他「筑前守」「日向守」を配しています。又、毛利の勢力圏の東端にあたる備中には「備中守」、西端の長門には「長門守」を配し、毛利の制海権(村上水軍の根拠地)にあたる防与諸島から芸与諸島一帯の海を「伊予守」が、抱え込む格好になるわけです。

つまり、信長はまず「秋田城介」と「惟任」や「筑前守」等九州縁故の姓・官職で、自身の「天下布武」の最終到達点を示していたのではないかと思うのです。次に、その他「長門守」「備中守」「伊予守」という官職も含めて、それらが信長の領国と挟み込みながら浮かび上がらせる次なる敵を、自身の部下達に暗示する又は自覚させるような意図もあったのではとも思いました。
それら官職の包囲網には、実質的な政治的、戦略的な効果は期待できないでしょうが、その攻略目標の勢力に対して、何らかの呪詛のような意味合いが含まれてたのではないでしょうか?
この官職の配置に関しては、対上杉より、対毛利の方が厳重な感じであり、毛利攻めの方が優先事項であったように思えますし、実際に信長は、上杉攻略より、毛利攻略の方にまず力を注いだようです。
余談ながら、これら姓・官職が九州(西国)偏重のような気がするのは、信長に、平和的にしろ好戦的にしろ、海外に目が向いていたということを示しているのか?とも思いました。 2000/08/02
[転載終わり]

以上


[4775] Re:[4773] ザビエルの宣教活動から見えてくること。 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2005/01/12(Wed) 00:56:57
>ところで以上見てきたように、日本では、ローマ・カトリック勢力が>占領地域を有していないのに、イエズス会が宣教に上陸してきたこと>になる。これは歴史的には、随分変則的であることかもしれない。

RC:以下の「教会領長崎の誕生である」という一文に注目して下さい。

「貿易都市長崎の成立と構造」から一部貼り付けます。

(貼り付け開始)

『あうろーら』第14号(21世紀の関西を考える会、1999)掲載

 貿易都市長崎の成立と構造
若 松 正 志

1 長崎開港

<中略>

大村氏は天正8(1580)年に長崎をイエズス会に寄進することにした。その内容は、長崎の土地所有権・支配権・行政権・停泊税をイエズス会に与え、大村氏自身は貿易関税のみ収納するというものであった。教会領長崎の誕生である。そして翌天正9年、「神の平和」侵害事件(教会内での異教徒=非キリスト教徒による闘殺事件)が起こり、イエズス会が教会の神聖性を説き、それを異教徒が認めることにより(イエズス会が長崎から撤退すれば貿易ができなくなるという現実的な利害の問題が、その背後にあった)、イエズス会による長崎支配の確立・長崎の「キリシタンの町」化が進んだのである。

わかまつまさし
若 松 正 志 氏

京都産業大学経済学部助教授

1963年金沢市生まれ。88年東北大学大学院文学研究科博士前期課程(国史学専攻)修了。90年同後期課程中退。東北大学助手、京都産業大学講師を経て、97年より現職。専門は日本近世史。主な論文に「豊臣政権と奥羽の領主」(『歴史』76)
・「近世中期における貿易都市長崎の特質」(『日本史研究』415)などがある。

http://www.kyoto-su.ac.jp/~wakamatu/mwoj2502.htm

(貼り付け終了)


[4774] Re:[4773] ザビエルの宣教活動から見えてくること。 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2005/01/12(Wed) 00:40:08
念のため、イエズス会側の文章を貼り付けます。

「イエズス会日本管区」から貼り付けます。

(貼り付け開始)

イエズス会の歴史

イグナチオは1491年(月日は不明)スペインの北部バスク地方にあるロヨラ城で12人兄弟の末っ子として生まれました。ロヨラ家は先祖代々貴族の家系で、青年時代は伯父のもとで軍人としても文人としても恥ずかしくない教育を受けました。しかし、彼自身「若いころは平気で罪を犯した。特に、バクチ、女、決闘が好きで、生活は乱れていた」と述懐しています。

1521年、当時スペイン軍が守っていたパンプローナの要塞にフランス軍が攻撃し、もはや勝利は不可能だから降伏した方が良いのではないかと仲間の兵士たちが話し合っていたとき、大尉であったイグナチオは最後まで城壁を守ることを主張していました。その時砲弾が彼の足にあたり、瀕死の重傷を負いました。手術によって負傷した足は治ったものの、気がつくと片足が短くなっていました。当時彼はまだ世俗的な優雅な生活を夢みていたので、医師に訴えて、短い足を器具でむりやりに伸ばすという拷問に耐えたのです。

しかしイグナチオは手術の後、はかない名誉よりも神の栄光のために奉仕する決心をしました。翌1522年、ロヨラ城を出てバルセロナの近くにあるマンレサの洞窟でおよそ1年間こもって、祈りと断食の生活を送りながら、人生の行く手を見い出そうとしたのです。イグナチオが1548年に著した『霊操(心霊修行)』は、このとき草案をまとめたといわれています。

マンレサを後にしたイグナチオはエルサレムに巡礼し、そこで司祭になるという使命をいだいて1524年、バルセロナのサラマンカ大学でラテン語の勉強をはじめたときにはすでに32歳でした。さらに2年後にはアルカラの大学で学び、1528年、パリに向かいました。

当時、パリの教養学部に入学する新入生の年齢は15,6歳でした。そして20歳ぐらいで修士号を取得し、さらに神学・法学・医学等の学部に進学する者もおりました。イグナチオはパリ大学の50以上もある「学院」の中で「聖バルバラ学院」に入学し、若い学生に負けずに勉強して教養学部の修士を取得、さらに神学課程に進学し、学位を得たのは1534年で、イグナチオはすでに43歳になっていました。パリ大学では長い間、ヒューマニズム(人文主義)という新しい学問を取り入れることを拒んでいましたが、聖バルバラ学院は彼が入学する2年ほど前からその学問を取り入れていました。ここで受けた教育は、後に彼がイエズス会を創設し学校経営に携わったときの教育方針に大きな影響を与えたと言われています。バルバラ学院の学寮にはイグナチオがイエズス会を創設するとき、同志の一人として参加したフランシスコ・ザビエルも寮生でした。

パリでの生活の間にザビエルを始め、イグナチオに会って『霊操』の指導を受けたいというグループは6人になっており、イグナチオを含めた「7人の同志たち」は1534年8月15日、聖母マリアの被昇天の祝日にモンマルトルの丘のふもとにある小さな聖堂で誓願をたてました。

ここでの誓願は、キリストにならって清貧のうちに生き、隣人のために尽くすこと。貞操を守り、エルサレムに巡礼し、自分たちの生涯を人々の霊的指導に捧げること。エルサレムに永住が許されない場合はローマに引き返してキリストの代理者であるローマ教皇に拝謁して、教皇に従順を誓い、より大きな神の栄光のために、どこにでも遣わしてくださいとお願いするということでした。この「より大いなる神の栄光のために」は、イエズス会の標語として現在に及んでいます。

イグナチオと同志たちは司祭を志願して1537年ベネチアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって司祭に叙階され、共同生活をしながら、新しい会について討議し合い、会設立の要旨を作成してローマ教皇に提出しました。そして1540年 9月27日、ローマ教皇パウロ 3世から正式に「イエズス会」創設の認可を受けました。翌1541年 4月14日、会員の投票によってイグナチオは新生イエズス会の初代総会長に選出されました。ちなみに現代のコルヴェンバッハ総会長は第29代です。

http://www.jesuits.or.jp/history.html

(貼り付け終了)

「サンパウロホームページ」から貼り付けます。

(貼り付け開始)

イエズス会の歴史

ウィリアム・バンガート 著
上智大学中世思想研究所 監修

●判型:A5判上製
●頁数:722頁
●税込定価:5,040円(本体4,800円)
●発行:2004年12月25日
●ISBN:4-562-03848-9
●発行所:原書房

 近代世界に登場したイエズス会の、修道会という枠を超えて、世界史のなかで大きな役割を果たしてきた500年の歩みを跡づける名著。
また、監修者の厳密な校訂と編集による詳細な注、参考文献、地図、図版、索引を収録。

●主な目次
 第1章 創立者とその遺産
 第2章 地平のたえまなき拡大(1556年〜1580年) 
 第3章 急速な発展と新たな取り組み(1580年〜1615年)
 第4章 政治、文化の新たな覇権国家からの挑戦(1615年〜1687年)
 第5章 理性の時代との対峙(1687年〜1757年)
 第6章 追放、弾圧、復興(1757年〜1814年)
 第7章 新たな政治的、
       社会的環境と植民地世界への適応(1814年〜1914年)
 第8章 20世紀
 第9章 最近の発展(1985年〜2000年)

http://www.sanpaolo.or.jp/catalog/2004/SelectBook/562038489.htm

(貼り付け終了)

フィリップ・レクリヴァン『イエズス会』1996・創元社「知の再発見」双書53 Philippe Lecrivain : Les Missions Jesuites 1991 垂水洋子訳
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0222.html


[4773] ザビエルの宣教活動から見えてくること。 投稿者:バード(2262) 投稿日:2005/01/11(Tue) 20:11:52
バードです。

ザビエルの宣教活動の足跡を見直してみることにします。
というのは、これによって、イエズス会というものの役割が明確になると思うからです。

▼イエズス会とは何か。

イエズス会の概略を見てみます。

(転載開始:マイクロソフト・エンカルタ大百科事典「イエズス会」より抜粋)

イエズス会とはカトリック教会における最大の男子修道会のひとつで、1534年、イグナティウス・デ・ロヨラによって創立され、40年に教皇パウルス3世によって認可された。現在のおもな活動は宣教活動、教育活動、そして神学研究やその他の学問研究などである。

1534年、イグナティウスはザビエルら6人の同志とともに、パリのモンマルトルで「貞潔、清貧の生活、聖地イスラエル巡礼」という誓願をたてた。聖地巡礼の目的はイスラム教徒の改宗にあったが、オスマン帝国の進攻により、聖地への道は閉ざされた。
そこで、彼らは教皇の希望する地へ宣教に赴くという義務を決め、教皇パウルス3世に会則を提出、40年に認可され、イグナティウスが初代の総会長となった。

宣教地での活動はめざましいものであった。創立後まもなく、ザビエルによってインドと日本への宣教が実現した。
宣教地はさらに中国、南北アメリカへとひろがり、各地の宣教師からの手紙が「イエズス会年報」に発表された。その内容は、各地の民族文化、歴史、地理ほか多様な事象におよんでおり、貴重な歴史的資料となっている。

このような宣教地での発展に対し、ヨーロッパのカトリックの国々からイエズス会は反教皇的であるという偏見が生まれた。宣教地での彼らの指導力が危険視されていたのである。時は宗教改革の時代で、聖職者に対してもきびしい批判がむけられていた。1773年、教皇クレメンス14世はイエズス会の解散を命令した。この命令は、1814年に教皇ピウス7世がイエズス会再興を宣言するまで続いた。

現在、イエズス会は全世界で多様な活動をしている。1614年以来キリシタン禁制がつづいていた日本には、禁制解除後の1908年(明治41年)に再渡来し、上智大学をはじめ多くの学校を創立した。現在も九州、中国地方、関西と関東地区で宣教につとめている。

(転載終了)

これが、イエズス会の概要である。
イエズス会は教皇の希望する地へ宣教に赴くということを義務とした。すなわちローマ・カトリックの教皇(ローマ法王)の希望(意向)に従って行動するために認可され、その許で行動することとなったのだ。
だから、1773年から1814年までの約40年間、反教皇的(反ローマ・カトリック的)と疑われた場合は、解散させられたのであった。多分破門ということだったろう。

繰り返しになるが、イエズス会はローマ・カトリックの許で宣教活動をする聖職者組織なのである。
イエズス会は、アウグスティヌス会、ドミニコ会(1215年設立)、フランシスコ会(1210年設立)などのローマ・カトリック教会の様々な修道会のうちの、ひとつに過ぎないのである。

ただし、設立されたばかりの新興のイエズス会は、『清貧と貞潔(財産を持たず、性欲を棄てた)の誓い』をした鉄の思想戦闘隊であり、その思想的な強さは、当時世界最強クラスであった。
だから、イエズス会というのはローマ・カトリック教会内部では、少し独立した立場にあったと言われる。つまり、単独行動に走りがちな修道会であったと、思う。

▼ザビエルの宣教活動の概略

ザビエルの、計11年間ほどの、宣教活動の概略を見てみよう。

(転載開始:マイクロソフト・エンカルタ大百科事典「ザビエル」より抜粋)

1541年、ポルトガル国王ジョアン3世は、インド方面の布教のためにイエズス会士を派遣することを決めた。ザビエルは教皇使節の資格でインドにいった。42〜48年、ゴアを拠点に、南インド、セイロン島(現スリランカ)、マラッカ、モルッカ諸島まで、広範囲にわたって宣教の旅をつづけ、多くの人々をキリスト教へ改宗させた。

1547年、ザビエルはマラッカで日本人アンジローとであい、日本への宣教を決心する。アンジローは郷里鹿児島で殺人をおかし、ポルトガル商人アルバレスにたすけられて日本を脱出していた。翌年ゴアへ渡って洗礼をうけた彼は、日本の情報を提供し、教義などの翻訳に従事した。

49年(天文18)、ザビエルは案内役のアンジローとイエズス会の司祭トレス(コスメ・デ・トルレス師のこと=転載者注)、修道士フェルナンデスらをともなって鹿児島に上陸し、ここで10カ月間日本語を勉強した。領主の島津貴久にも謁見し、100余人を信徒にした。翌50年には、天皇から布教許可をえるために、平戸、山口をへて京都へ向かった。

1551年1月、京都についた一行が見たのは、荒れ果てた都と衰退した皇室の有り様だった。天皇への謁見も適わず、滞在わずか11日で平戸へもどった彼は、ふたたび山口にいき、大内義隆に会った。この地で宣教活動をしたのち、夏には豊後府内へ赴き、大友宗麟に謁見している。同年11月、日本での布教をほかのイエズス会士に委(ゆだ)ね、ザビエルはインドへむかった。仏教が中国から日本に伝来したことを知った彼は、中国改宗の必要性を感じていたのである。日本での滞在期間は2年3カ月。その間に、およそ1000人の信徒が生まれたという。

1552年、ゴアへもどった彼は、あわただしく中国へむかった。マラッカをへて、8月にはマカオの近くの小島、上川(シャチョワン)島に上陸。ここから大陸潜入をはかったが発病し、12月3日、海辺のまずしい小屋で息をひきとった。

ザビエルによって開始された日本での布教は、その後続々と到来した宣教師に継承されていく。彼はキリシタン隆盛時代と西欧文化の到来をもたらし、日本の文化史に新しい時代を画した。しかしこの国は、まもなくキリシタン大迫害時代をむかえ、鎖国時代に突入していくのである。

ザビエルは1622年に列聖された。遺体はゴアにうつされ、今も同地のイエズス会の教会に安置されている。1748年に東洋の守護の聖人、1904年に教皇ピウス10世により信仰布教の守護者ときめられた。27年にはリジューのテレジアとともに世界の布教の守護者となり、日本のカトリック教会も日本の守護者ときめた。祝日は12月3日。

(転載終了)

これがザビエルの、約11年間の宣教活動の概略である。
その宣教活動の最初の7年間ほどは、ザビエルはゴアを拠点に、南インド、セイロン島(現スリランカ)、マラッカ、モルッカ諸島まで、広範囲にわたって宣教の旅をつづけた。
それから一年程度の準備を経て、日本へ至り、2年3ヵ月間ほど、日本で宣教活動をした。
その後インドに帰った後、中国への宣教活動を開始しようとして、マカオの近くの小島、上川(シャチョワン)島にまで達した。しかし、そこで発病し、大陸潜入はならず、没した。
これが、ザビエルの宣教活動の概要である。

これを、もう少し詳しく見つめ直してみよう。

▼ザビエルがインドへ向かった経緯

前掲百科事典によると、1541年ごろ、ザビエルはインドに向かったが、これはポルトガル国王(ジョアン3世)の意向で、インドに来たことになる。そして、ザビエルは教皇使節の資格であったという。
ポルトガル国王より、教皇の方が権威がある。教皇の方が権威が上である。
だから、ザビエルはローマ・カトリック教会の意向(命令・指令)でインドに来たことになる。

▼ザビエルのインドでの宣教活動

その宣教活動の最初の7年間ほどは、ザビエルはゴアを拠点に、南インド、セイロン島(現スリランカ)、マラッカ、モルッカ諸島まで、広範囲にわたって宣教を続けたとある。

前掲百科事典によると、ゴア、南インド、セイロン島、マラッカ、モルッカ諸島は次のような地域である。

<ゴア>
ゴアはインド西南部の、マラバル海岸に位置する。1510年にポルトガル人によって征服した都市である。
繁栄をきわめた1575〜1675年には、約20万人の住民がくらしていたが、18世紀初頭までに、先住民とオランダ人商人たちによってほとんど破壊され、1759年に都は新ゴア(現在のパナジ)へ移された。

<南インド>
南インドにはコーチンという都市がある。このような南インドの都市のことを言いているのであろう。コーチンを最初に領有したヨーロッパ人はポルトガル人で、1500年に制圧した。2年後には、探検家バスコ・ダ・ガマがポルトガルの商館を創設した。03年、ヨーロッパ人によるはじめての要塞(ようさい)が建設された。77年にはイエズス会によって、インド文字の書物がはじめて出版された。

<セイロン島>
シンハラ王朝は3世紀後半から12世紀中ごろまで、南インドから侵入したタミル人に何度か占領され、その後3つの小王国にわかれた。1505年にポルトガル人が島をおとずれ、17年にはコロンボに砦(とりで)と交易所をつくった。以後、勢力範囲を広げ、16世紀末までに島の大部分を支配した。17世紀初頭にオランダが進出、1638年からポルトガルとの戦いがはじまり、58年には島の大半がオランダ領となる。

<マラッカ>
マラッカは現在マレーシアの州。マレー半島の南部を占める西マレーシア(半島マレーシア)南西部の海岸地方にあり、南西でマラッカ海峡にのぞむ。主産業は天然ゴムの栽培と輸出。
ムラカ(マラッカ)州は、マレー半島で東西貿易のセンターとして隆盛をきわめたかつてのマラッカ王国があった土地である。1511年、ポルトガルの軍人アルブケルケによって占領され、その後1641年には5カ月間の包囲戦にやぶれて短期間オランダ領となった。

<モルッカ諸島>
モルッカ諸島は、インドネシア東部、赤道をはさんでスラウェシ(セレベス)島とニューギニア島との間に散在する島群で、マレー諸島の一部をなす。インドネシア語ではマルク諸島とよぶ。特産の香料のため歴史的には香料諸島の通称で知られた。
中国に最初に香料をもたらしたのはイスラム商人で、香料と交換に絹織物を入手した。
近世にはいると、香料への需要が高まったヨーロッパから商人らが原産地のモルッカ諸島へ直接やってくるようになった。まず1512年にポルトガルが到来し、まもなく進出してきたスペインとはげしい勢力争いを演じた末、29年のサラゴサ条約によって優位を確保した。16世紀末におくれてやってきたオランダは、東インド会社の力を背景に短期間のうちにポルトガルやイギリスを駆逐し、17世紀前半には諸島全域を支配下におさめた。しかし18世紀にはいると、熱帯のヨーロッパ植民地で香料を生産する所がふえたため、モルッカ諸島はその独占的地位をうしない、衰退していった。

このように、ゴアは1510年に、南インドのコーチンは1500年、セイロン島は1517年、マラッカは1511年、モルッカ諸島は1529年に、ポルトガルが征服したところである。いずれもザビエルが到着する前にはポルトガル人によって征服された、都市または地域だったのである。
ザビエルはその征服した地域で、宣教活動をしたのである。
言い換えればやはりローマ・カトリックによって、ザビエルはポルトガルが征服した地域に派遣され、宣教活動をさせられたということである。
ザビエルのイエズス会一行は、原則として武力を持たないので、征服地のみで宣教活動を行なうのは当然のことであった。

▼ザビエルが日本へ向かった経緯

前掲百科事典によると、「1547年、ザビエルはマラッカで日本人アンジローと出会い、日本への宣教を決心する。」とあるが、これは正確であろうか。私はこれは正確ではなく、誤解を生みそうな言及だと思う。
客観的にはやはり、ザビエルはローマ・カトリックの許で活動しているに過ぎないのだと思う。
以下、フロイス『日本史』などに従って、日本への経緯を調べてみよう。

ヨーロッパのイエズス会へ送ったアンジョローの、1548年11月29日付の書簡には、アルバレス(=ジョルジェ・アルヴァレス)というポルトガル商人(=ポルトガル船の船長)が、その時マラッカにいたザビエルのところにアンジロー(弥次郎)を連れて行き、アンジロウのことを詳しく紹介した、ということが書かれている。(『日本史』第一部一章より)
ポルトガルの管区長シモン・ロドゥリーゲス師に宛てたザビエル(=メストレ・フランシスコ師)の、1549年1月20日付の書簡によれば、日本島から戻って来た幾人かのポルトガル人や、ゴアのサン・パウロ学院でキリシタンになった数名の日本人によって、さらに自分にもたらされた報告によって、日本に赴くことを決意したと、書かれている。(『日本史』第一部一章より)

アンジローはサン・パウロ学院の日本人キリシタンのうちで最も身分が高く、最も優秀であり、最も好感が持てたので、通説のように、彼と出会うことによって日本へ行く決心がついたという見方も可能である。
しかし、ジョルジェ・アルヴァレスらポルトガル商人たちがザビエルに日本行きを薦め、またその他のポルトガル人の報告によってもその気になったというように、ザビエルは書いている。
ポルトガル商人たちのもたらした情報は、日本国民は賢明で思慮深く、道理を重んじ、知識欲が旺盛だから、我らの信仰を広めるのに極めて適した状態にあるというような情報だったのだろう。
また、ポルトガル商人ジョルジェ・アルヴァレスが、ザビエルのところにアンジローたち日本人を連れて行って、両者を出会わせている。そのアンジローという日本人は、思慮深く、知識欲が旺盛であった。
そういうことで、ザビエルは日本行きを決意するようになった。

だからアンジローとの出会いも無視できないだろうが、それよりもポルトガル商人の薦めの方がもっと重みがあり、根本的には、ポルトガル商人の意向(薦め、誘導)に従って、ザビエルは日本行きを決意したことになると、私は思う。

1549年4月、ガルシア・デ・サーがインド総督であった時、ザビエル(メストレ・フランシスコ師)は、日本の国王ならびに諸侯の許へ贈り物としてもたらすための相当な数の品を調達した後、七人の人々を伴って、日本へ向けてゴアを出発した。(『日本史』第一部一章より)

『日本史』第一部一章によると、途中のマラッカ滞在中でも、ポルトガル人の商人たちの書簡によって、日本に関する多くの情報がさらに得られ、その中には、日本の一人の大候がキリシタンになりたがっていること、またその大候はインド総督に対し、司祭(伴天連、宣教師)たちを日本へ派遣して欲しいと願い出ているという情報も、あった。
この大候というのは大友宗麟のことである。宗麟はこのとき19歳であるので、19歳以前に、もうキリシタンになりたがっていたということになる。
ザビエルは、この時点で大友宗麟の存在を知っていたのだった。
(このように、ポルトガル人たちは拠点ごとに情報を閲覧できるようになっていたようである。)

▼ザビエルの日本での宣教活動

ゴアやマラッカ等々のような、ポルトガル人の征服地域は、日本にはなかった。
ザビエルたちは、日本国民は賢明で思慮深く、道理を重んじ、知識欲が旺盛だから、我らの信仰を広めるのに極めて適した状態にあるというポルトガル商人たちの情報を信じ、そして日本をローマ・カトリックの教皇に献上するために、日本にやってきたのである。
だから、日本でのザビエルは、これまでのインドでの活動とは大きく異なっていただろう。
インドにおけるように、ポルトガル人(その征服地の総督や司令官)の庇護の許に活動することは不可能であり、換わりにその滞在地域の日本人の国主(または領主)の庇護を受ける必要があった。先ず、その庇護を得るところから始めなければならなかった。

インドでは征服地域だったので、ポルトガル人の援助を得て、教会も司祭館も学校も病院も容易に建てられたであろうが、日本ではそれらをポルトガル人の援助で建てられる状態ではなかったのである。そしてそのような援助をしようという日本人国主(または領主)国主は、当時はまだ余りいなかったのである。

前掲百科事典による、ザビエルの日本での宣教活動の様子は、確かに正しい記述であるが、しかし結局は魂の抜けた事実の羅列に終始しており、それによってどこか真実を伝えない記述となっている。むしろ史実を不明瞭にし、間違った歴史観を与える可能性が大きいのではないかと、私は思う。

フロイス『日本史』第一部二章〜五章を纏めると、ザビエルの日本での宣教活動は次のようになる。

ザビエルは、マラッカから乗船したアヴァンと称するシナの海賊の船で、薩摩国の首都鹿児島に到着し、国主(島津貴久)から歓待された。島津貴久からは、小さな家屋を貸与せられ、宣教活動の自由を与えられた。
その地には十ヵ月間滞在し、日本語を習得しながら宣教活動をし、百五十名ばかりの人々を改宗させた。
しかし、島津貴久はザビエルにそれ以上の(特に、ザビエルを京都に連れて行き、天皇に会わせるという約束の履行などの)便宜を決して与えようとしなかった。

そうこうするうちに、シナから来たポルトガル船が平戸(領主は松浦隆信)に入港しているとの情報があったので、日本の都(京都)に行く方法を探るために、ザビエル一行は拠点を平戸に移した。

平戸に着いてポルトガル人も日本人領主(松浦隆信)も京都行きを支援してくれないということが判明したので、ザビエルはそれらの支援なしで、自分たちだけの力で、山口、そして京都を訪れようと決心した。一人の司祭を宣教のためにその平戸の地に残し、自分は一人の修道士だけを通訳として伴い、二人だけで山口、それから京都へと出発することにした。
ザビエルはそこから商人の市(まち)博多を経由して、山口に至り、そこで国主の大内義隆に対面することができた。そこから、ある瀬戸内海の港に出て、船で堺に至り、そして京都を目指した。京都では天皇の住居である御所まで行き、謁見を申し込んだ。が、天皇には謁見できなかった。
ここでザビエルは、日本の都の様相は戦乱によってひどく荒れ果てており、皇室も衰退の有様であり、宣教活動のための平和がそこにはなかったので、現時点の日本で最大の君主は山口の国主(大内義隆)であると判定するに至った。そして、そのまま平戸に戻った。

ザビエル一行はすぐさま全員で山口へ行き、大内義隆と再会し豪華な贈物をした。大内義隆はザビエルに宣教の自由を与え、さらに一寺院を提供した。ザビエル一行はそこで宣教活動を行なった。
ここで「一寺院を提供した」とあるが、当時の寺の敷地は広かったようだ。寺内(じない)と言って、当時の寺とは本堂の周りに門前町のように民家がたくさん集まり、それを土塀で囲ったのが寺内で、当時はその土塀のなか全体が寺院であり、かなり広かったようだ。(寺内は、税については守護代から非課税が保証されていたから裕福だった。どうも当時のてらとはそういうものだった。その存在が当時の全国に存在した一揆や自治都市を底辺で支えていたのだろう。また、何しろ税を納めないということだから、これによって皇室および公家の方は収入がなくなり、衰退していたのだろう。)ザビエル一行の、ザビエルの次に偉い司祭であるコスメ・デ・トルレス師が、当時の書簡に「今や領主(大内義隆)は、私たちに学院を建築するための非常に大きい敷地を与えてくれた。」と書いている。その敷地というのが、この大内義隆が提供した一寺院の敷地だと思われる。
大内氏は当時中国の明や朝鮮との貿易によって、当時の日本で経済的にもっとも繁栄した国主(大名)だったので、ザビエルの贈物を見て、貿易商人の目からその価値を大きく見積もったのだろう。ザビエル一行を貿易相手として大いに期待し、大きな投資をしたのだろう。
だからどうやら、大内義隆は最大級のイエズス会の庇護者、援助者となろうとしたのだろう。
ザビエル一行はそこで本格的な宣教活動を開始したが、ザビエルはここ山口が日本宣教活動の大きな拠点の一つになるだろうと、確信しただろう。
その地の豊かさといい、国主大内義隆の庇護ぶりといい、申し分なかったのではなかろうか。

ドゥアルテ・ダ・ガーマのポルトガル船が豊後の国に入港しているのを聞いたので、ザビエルは豊後の国へ赴くことにした。マラッカでその存在を知っていた、キリスト教に非常に好意的で、かつキリシタンになりたがっている大友宗麟に会うためであろう。ザビエルは、自分以外の一行全員を、宣教拠点となった山口に残し、自分だけが日本人異教徒数名を伴って、豊後の府内へと向かった。

豊後の国主(大友宗麟)は、当時21歳と若く、その国の首府である府内にいた。宗麟はザビエルに会ってこの上なく喜び、ザビエルに対して大いなる敬意を表して歓待した。1551年の夏である。
宗麟はすでに以前から交際していたポルトガル人たちを通じてザビエルのことを知っていたので、ザビエルに会いたいと切望していたのだ。

やはり宗麟は、ザビエル来日のはるか前から、最大級のイエズス会の庇護者であり、援助者であったようだ。

だが、ザビエルは間もなくインドへ旅行せねばならなくなった。
どうやら、ザビエルは日本人からしばしば「日本に宗教を伝えたシナ人がキリスト教を知らぬのはどうしたわけか」との質問を受け、深く考えさせられ、日本伝道の近道はシナのキリスト教化ではないかと自問自答していたとのことのようだ。それで急遽中国への布教の重要性を感じたらしい。(松田毅一『南蛮資料の発見』P38〜39より)

大友宗麟はザビエルを自分の領国に引き止めておくことができなくなったので、インド副王への贈り物を用意したり、イエズス会の司祭を一人豊後の府内に派遣してくれるようザビエルに懇請したり、自分は日本にいる司祭たち全員を常に保護しようとザビエルに言ったり、さらにインド、ヨーロッパに派遣する者たちの準備をしたりしている。

ザビエルは、1551年11月、日本での布教をほかのイエズス会士に委(ゆだ)ね、ザビエルはインドへ向かったのだ。

以上が、ザビエルの日本での宣教活動の実際であったようだ。

この時点において、日本における最大級のイエズス会の庇護者は、大内義隆と大友宗麟の、両大名であった。
島津貴久と松浦隆信は、普通の異国人として歓待はしているが、特別の援助を与えることをしていない。

ところで、ザビエルが山口を発って間もない1551年9月に、大内義隆は、家臣団の不満がつのるなどしたのであろう、重臣の陶晴賢(すえはるかた)らの反乱にあって、自殺させられた。家臣団には、義隆の投資の意義が理解できなかった者が存在し、ザビエル一行に差し出された一寺院の関係者で、損害を被った者たち、およびその周辺の反乱だったのかもしれない。
そしてさらに、山口の拠点は、その数年後には失われるのである。

一方、大友宗麟は先に見たように19歳頃にはもうキリシタンになりたかったのだが、実際に改宗したのは隠居後の1578年で、それは耳川の合戦で大敗した年であり、宗麟が48歳のときである。だから、宗麟は約30年間もキリシタンになりたいと思い続けて来たということになる。
なぜ宗麟はその歳になるまで改宗しなかったのか。
実は宗麟は改宗ができなかったのだ。改宗すれば、家臣が不満を爆発させ、宗麟自身の身が危なかったのである。その他にも証拠が挙げられるが、宗麟は家臣団を余り掌握していなかったようだ。

大内義隆の場合は、イエズス会を保護すれば家臣団に抹殺された。大友宗麟の場合はイエズス会の保護までは安泰だったが、宗麟自身が改宗するとなると、家臣団に抹殺される気配が確かにあったのである。

ここに、日本における「抗体」がみられる。
イエズス会の教えにあこがれ続けた宗麟であったが、実は、その宗麟自身の足元にも、確かな「抗体」がいたのである。それで、宗麟はその隠居するまで改宗できなかったのだ。
「抗体」は地の底から湧き上がるように、日本のどこにでもいたというのが、重要であると、私は思う。
(もちろん、それは後日、秀吉、家康、家光という政権と結びつかなければ、完全なる外敵排除はできなかったが、地の底から湧き上がるような「抗体」がなく、政権だけの「抗体」だけでは、その排除がむずかしいということも事実であろう。)

▼ザビエルが中国へ向かった経緯

前掲百科事典では、
<1552年、ゴアへもどった彼は、あわただしく中国へむかった。マラッカをへて、8月にはマカオの近くの小島、上川(シャチョワン)島に上陸。ここから大陸潜入をはかったが発病し、12月3日、海辺のまずしい小屋で息をひきとった。>
とあるが、事実としてはこれはほぼ正しい。しかし、ここでも事実の羅列による事実誤認が、懸念される。

事実としては、『日本史』第一部六章の記述と重ね合わせると、次のような経緯が見えてくる。

ザビエルは通訳として、幼少時からゴアの学院で教育されたアントニオ・デ・サンタ・フェなる若い一人のシナ人だけを伴って、中国に向かおうとした。
つまり、司祭や修道士などのイエズス会聖職者を一人も伴おうとしていないのだ。事実上ザビエル一人で中国での宣教を行なおうとしているのだ。これはちょっと無謀ではなかろうか。

ザビエルはまた、マラッカにおいて、同地の城塞司令官であるドン・アルヴァロとの間に非常に厄介な問題が生じ、多いに不愉快な思いをしたという。多分司令官に中国行きを諌められたのではないだろうか。
しかしとにもかくにも、ザビエルはマラッカから上川(シャチョワン)島に着いた。

当時はポルトガル人たちがシナ王国に租税を支払うようになる前で、ポルトガル人はシナ人と密貿易を行なっている時であった。この上川(シャチョワン)島は、その密貿易を行なっていたところであったのだ。ザビエルはこんなところまで来ていたのだ。
さらにザビエルは、いかなる困難や危険をも省みずというように、一人のシナ商人と、(シナで非常に珍重される香料の)胡椒を与えて、自分を広東市へ運んでもらう交渉をしていたのだ。
しかしそうこうしている時に発病して、死んだということである。

こうしてみると、ザビエルの中国への宣教活動は、ザビエルの無謀な単独行動のように思われる。
最後は病死ではなく、ポルトガル人かローマ・カトリックに殺されたのではないかという気さえする。
それはともかく、イエズス会聖職者の同伴者が一人もいないのであるから、単独行動であることは間違いないと思う。そんな宣教活動は通常考えられないだろう。
ローマ・カトリックだって予め作成した計画に従って動いているのだし、そんなに急に支援態勢を整えることはできないであろう。
そういう状況の中で、ザビエルは死んだのであった。

▼イエズス会は武力も財力も持たない部隊である

以上ここまで、ザビエルの宣教活動を見てきたが、それは結局、イエズス会員といえども、ローマ・カトリックの後ろ盾、つまりポルトガル商人の支援、あるいはそれと同等の(現地人などの)支援がなければ、宣教活動は始まらないということである。

イエズス会というのは、ローマ・カトリック教会の許で宣教活動をする、数ある修道会のひとつに過ぎないのである。

イエズス会は、言わば友好・和平・協力といった面のみを担う、表のきれいな顔をなす部隊なのである。
他方には、貿易推進、武器供与、戦争協力というような裏のきわどい仕事をなす部隊があり、これがポルトガル商人(あるいはポルトガル人)であったろう。
そしてそれらを統括する部隊があり、それは総督や司令官のような、戦闘を指揮する部隊であったろう。
ローマ・カトリックはこのような部隊配置をしていたのではなかろうか。
(イエズス会のような宣教部隊は、文書にして記録に残せやすいが、それ以外の部隊は、その真の姿を文書に残せるような性質のものではない。)

そして先ずポルトガル商人の部隊が未知の国へ密航したり乗りこんだりして、密輸を含む貿易や、武器販売などで先行して行なう。トラブルが起これば、総督や司令官のような、戦闘を指揮する部隊も登場して戦争に勝利を収める。その地域を占領し、城塞を築く。その段階で、イエズス会のような表の部隊が派遣されてくるのだ。
イエズス会の宣教師一行は原則的に武力も財力も持たないので、当然のことであるだろう。

立花京子氏は「信長は、イエズス会の支援によって全国制覇に挑戦しただけでなく、イエズス会のために立ち上がった武将なのである。」(立花京子『信長と十字架』P187)と言っているが、軍事支援はイエズス会には無理であろう。
これでは、商人たちの役割を無視したということになるだろう。

「信長は、ローマ・カトリックの支援によって全国制覇に挑戦しただけでなく、ローマ・カトリックのために立ち上がった武将なのである。」という可能性はあっても、「信長は、イエズス会の支援によって全国制覇に挑戦しただけでなく、イエズス会のために立ち上がった武将なのである。」という可能性は全くないのである。
今までの日本の議論では、ローマ・カトリックとイエズス会との混同が目立ち、それによって議論の混乱が見られる。歴史の真実を解明するためには、この混同を是正する必要があると、私は思う。
(実はこれを言いたくて、この稿を書き始めたのでした!!)

イエズス会というのは、武力や財力については、基本的にど素人なのである。
(しかし、そのなかに武力や財力に詳しい者が紛れ込んでいる可能性は十分にある。)
武力や財力については、商人の動きを見なければならないと思う。

信長の秘密はやはり、日本人商人あるいはポルトガル人商人の掌握であり、それによる交易ルートの掌握であろう。

(引用開始:フロイスは『日本史』第一部八六章)

主要な寺院や偶像を祭る寺のすべての仏僧の長老たち、諸城の司令官、堺のような都市や大きい町などは、朱印と称される赤インキの印がある信長の允認状を(中略)を入手しようとして多額の金銀を(信長に贈った。)
すなわち、ある者は一万クルサード、ある者は五千、六千クルサードを提供し、また仏僧らは十五本、二十本の金の棒を差し出した。そしてたえず信長と要件があった高位の貴人や市民は、彼がインドやポルトガルからもたらされた衣服や物品を喜ぶことに思いを致したので、彼に送られる品数はいともおびただしく、非常に多量の品がかくも遠隔の地に、どこから運ばれて来るのか、日本人がどこでそれらを購入できるのかわからないまま、人々は互いに驚嘆し合った。彼らが彼(信長)に提供した品々は、ヨーロッパ製の衣服、緋色の合羽、縁なし帽子、羽がついたビロードの(縁付き)帽子であり、聖母マリア像がついた金のメダイ、コルドヴァ産の革製品、時計、豪華な毛皮外套、非常に立派な切子ガラス、緞子絹、インド製の他の種々の品等で、それらで多くの大きい箱が充満している有様であった。(文庫本P149)

 (引用者注)一クルサードは1559年の日本銀10匁(もんめ)。一匁は約3.75グラム。

(引用終了)

おそらく、フロイスも「非常に多量の品がかくも遠隔の地に、どこから運ばれて来るのか、日本人がどこでそれらを購入できるのかわからな」かったに違いない。
それは商人たちにしか分からない所で売買されているからだ。商人以外にはその売買は分からないだろう。
信長は幼少の頃から(先代から)そのようなところで、軍事力と財力を蓄えていたのだろうと思う。

山岡荘八『徳川家康』には、熊村の若宮と呼ばれた、竹之内波太郎という、信長より10〜15歳程度年長の人物が登場する。
山岡荘八氏は、
【先代は南北朝以来の紀州の海賊(海軍)八庄司の後裔と繋がりを持っていた。そして先代も今の波太郎も誰からの被官も拒んで、神仕えに専念すると称している土豪であった。得がたい古文書の数々と秘宝を預かる竹之内宿禰(すくね)の後裔なのだという。(中略)応仁の大乱以来、世の乱れに面をそむけ、祭壇を設けてしきりに何か祀っている。が、彼らが各所の野武士、乱破(らっぱ)から船頭漁師の脈をおさえ、海と陸とに隠然たる一勢力をなしているのは事実である。】(『徳川家康1』P25-26)
と述べている。この人物が、信長に幼少の頃から接触している。この人物が、人の意表をつく、激しい性格の信長に大きな影響を与えたらしい。
この竹之内波太郎という人物は実在の人物らしい。確かにこのような人物は全国にそこかしこにいたであろう。
信長はこのような人物を通して、堺、博多を始めとする日本全国の商業ネットワークを事実上掌握し、武力と財力を蓄えていったのではないだろうか。

ところで以上見てきたように、日本では、ローマ・カトリック勢力が占領地域を有していないのに、イエズス会が宣教に上陸してきたことになる。これは歴史的には、随分変則的であることかもしれない。

ここまで書いて、また副島隆彦『決然たる政治学への道』(弓立社)を開いてみた。そこには次のように書かれている。

(引用開始:副島隆彦『決然たる政治学への道』)

(1543年「鉄砲伝来」=「日本発見」の)六年後に、フランシスコ・ザビエルが九州に上陸して来たのだ。(中略)彼が日本(鹿児島)に上陸したとき、彼は、日本をこの時期以降、「神の国にする」、すなわち、「ローマン・カトリックの教皇(法王)に献上する」という重要な役目をもっていたのである。その献上の文書がローマのヴァチカン(法王庁、教皇庁)に今でも残っているという。イエズス会は、日本という国を、キリスト教国に変えて、民衆を改宗していく作業に完全と取り掛かったのである。(P186〜187)

(引用終了)

当時この日本では、イエズス会は宣教活動に敢然と取り掛かっていたということになる。(その活動の過程で、そのどこかの時点で変質する可能性はあるが。)

(了)


[4772] 会員番号2003さんへ 投稿者:よしかわ邦弘 投稿日:2005/01/10(Mon) 11:15:48
[4767]で投稿いただいたデータは充分活用に値しますので、もしよろしければ再投稿ください。
よろしくお願いします。


[4771] 無知が栄えたタメシあり 投稿者:藤村 甲子園 投稿日:2005/01/09(Sun) 22:23:05
田中真紀子が外務大臣を免職された時(2002年1月)のことである。
当時、このことは大きな見出しとなって新聞各紙で報道され、ふだんはニュースにあまり関心のない人間でもその見出しが目に飛び込んでくる、といった有り様であった。

ある陽気の良い昼下がり、東横線にのったら若いカップルが仲良さげに噂話に興じていた。話題は田中真紀子の免職のことである。

「オレはあの字が読めなかったよ、ワッハッハ」と男は言った。
「私は、『アレって、自宅で謹慎していなさいって意味でしょ』って、バイト先の店長に言ったら、『クビって意味だよ』ってバカにされちゃった、オッホッホ」と女は言った。

どうも「更迭」という単語が話題になっていたようである。男はこれが読めなかった。女は読めたが、正確な意味を知らなかった。彼らにとって、それは別に恥ずかしいことでもないようだった。二人はとても愉快そうに、人前でネタを振りあっていたからである。二人とも十代ではなかろう、恐らく二十代だと私は見た。

昔(1974年)、「傷だらけの天使」というテレビ・ドラマがあった。貧しい生れ育ちの二人の青年(配役:萩原健一、水谷豊)が主人公である。彼らには難しい漢字を読む力がなかった(たとえば「高山波太郎」のことは「×ヤマ×タロウ」としか読めなかった)。もちろん彼らは、そのことをとても恥ずかしく思っている。だから、ふだんは冷酷で人情味の薄い彼らの上司(配役:岸田森)も、この点には特に気を遣っていて、そういう場面ではさりげなく彼らのことをフォローしてやっていた。

「それが当然だろう」と私はずっと思っていた。「おまえはこんな字も読めないのか」だなんて、他人様に向かって口にしようものなら、血を見る騒ぎになっても文句は言えまい、と私はそう思っていたからである。

(引用、始め)

つい最近、私は、私たちのような生来の読書人階級ではない、全くの馬鹿な若者が、吐いた、次の一行に、私は、のけぞった記憶があります。こいつは平然と言ったのです。「本なんか読む奴ってさあ。あれは、脳内セックスなんだってな。本を読んで、気持ちがよくなるらしいんだよ」と、本当にその馬鹿は、言ったのです。
(重掲、[3932]「本は、古典作品と、現在のものをどれぐらい時間配分して読むべきか」という切実な私の会員読者からの質問に答えます。投稿者:副島隆彦 投稿日:2004/12/23(Thu) 11:27:14)

(引用、終わり)

昭和が遠くなったなあ、とつくづく感じる。
「昭和の社会主義」は(自業自得で崩壊しただけだから)別に懐かしくも何ともないが、私が子供の頃(1970年代)にはどこの家庭でも見かけることのできた、河出書房や筑摩書房や学習研究社、ほるぷ出版の全集本のことが、今では懐かしく思われて仕方がない。
ちなみに今の私の住居には、揃いの全集本など置いてない。5巻ものの百科事典すら、置き場所に窮した挙句、ずいぶん前の「資源ゴミの日」に捨ててしまった。さらば愛しき「啓蒙の時代」よ、さらば。

そもそも「衣食足りて礼節を知った」大衆は「パンとサーカス」にしか興味を示さなくなるものと、ローマ帝国の昔から相場が決まっている。だから、これでいいのだ、多分。(以上)


[4770] ロッキード関連 投稿者:TS 投稿日:2005/01/09(Sun) 12:14:23
アルルさんが記述されていることで、質問があるのです。

私は、
田中角栄はコンスピラシーで失脚させられたという話しが事実なのかどうかは、判断に困っています。
分からないというのが正直な気持ちです。

アルルさんのお話しは、かなりすんなり私の中に入り、
田中角栄は陰謀によって失脚させられたというのは事実だったのだと感じました。
説得力がありました。

しかし、申し訳ないのですが、しっくりいかないことがあります。
気になるのは、文明子の本の引用です。
文明子は、ご存知の通り、かなり問題のある人物なので、
彼女の本を引き合いに出すのは・・・ちょっと抵抗があるのですが・・・。

アルルさん、他の皆様の、
文明子さんの評価と文明子さんの著作の信頼性を伺いたいのですが。
私は、文明子さんがあまりにも政治工作的な動きをされてきた方なので、
ジャーナリストとしての彼女の評価は疑わしいと思うのですが・・・。

文明子さんのこの部分の記述に関して信頼できるのであれば、
すっきりします。
このあたりが明らかになれば、田中角栄失脚が謀略によるものと、
私は納得できます。

ご意見をいただければうれしいです。


[4769] 日本の戦国時代について考える [小山みつねさんへのお礼。] 投稿者:よしかわ邦弘 投稿日:2005/01/09(Sun) 08:54:55
▼小山みつねさんへ。

よしかわ邦弘です。

いろんなことをボーっと考えてみて、小山みつねさんが教えてくれた「結果論的研究方法」は、みずからの推論の道筋が通っているかどうか検証する上で極めて有効な方法だと実感しました。小山みつねさんには、この場を借りて感謝申し上げます。

その成果として、
わたくし自身(よしかわ邦弘)の投稿した内容の部分(fromもしくはtoがよしかわ邦弘になっている投稿)に限定をいたしますが、
このふじむら掲示板にここ1〜2ヶ月の間に投稿された日本戦国時代に関する内容の一連の流れをこれから整理してみます。

流れを整理する上で、小山みつねさんから教えてもらった「結果論的研究方法」(参照:ふじむら掲示板「[4747] インプットとアウトプットの食ひ違ひ」)が威力を発揮しました。
 おそらく、小山みつねさんのご指摘の以前でも、わたし自身の頭の中でこの方法を無意識のうちに活用していたとは思うのですが、小山みつねさんに方法論としてきちんと教えてもらったことで、はじめて、以下のような整理が頭の中でつきました。
 ですから「小山みつねさんから教えてもらった方法でもってようやく理解できたこと」と言い換えてもよい内容です。


【整理をする上での前提】
(1)命題論理学上の概念
・推論規則 「Aである」「AであればBである」この2つが成り立てば、「Bである」が成り立つ。
・対偶:「AであればBである」は「BでなければAでない」と同じである。
・背理法:「Aである」が成立すると仮定して論理的な矛盾が導き出されれば、「Aでない」が成り立つ。論理的矛盾とは例えば「AでありしかもAではない」。

(2)定義:ポルトガル・イエズス会勢力の意向に従わない対抗勢力のことを、以後「抗体」と略称する。
(3)考察の対象: 西暦1570年代の日本の戦国時代。


【以下に、整理した議論の流れ開始】

まず最初に、ごく普通の平均的日本人に登場いただく。彼らは次の命題が正しいと信じている。

「抗体は織田信長である。」
(=(西暦1570年代の日本の戦国時代において、ポルトガル・イエズス会勢力の意向に従わない対抗勢力(抗体)は織田信長である。)

この命題を分解してみる。

「抗体が存在する」、「抗体が存在すれば、織田信長がその抗体である」
この2つの命題がともに成立する、と彼らは信じている。
(信じている内容を有意味なものにしたいならば、「抗体が存在しない」と前提することはできない! 「抗体が存在しない」と信じているのに「抗体は織田信長である」と主張するのは何の意味もないからだ。)

ここで、わたし(よしかわ邦弘)が「織田信長は抗体ではない」と「だけ」主張してみる。
(このことをきちんと根拠を示せば平均的日本人に充分反論できる、とわたしは考えている。)

平均的日本人の頭の中でどのような推論がなされるか検証してみる。

まず信じている命題の一つ「抗体が存在すれば、織田信長がその抗体である」の対偶をとり、
「織田信長が抗体でないとすれば、抗体は存在しない」。
これを彼らは信じている。

さて、彼ら(平均的日本人)に推論してもらう。以下は、背理法。

仮に「織田信長は抗体ではない」(わたしの主張)が成立すると仮定する。
「織田信長が抗体でないとすれば、抗体は存在しない」も成立しているので(!!)、
推論規則を利用すると、
「抗体は存在しない」が成立する。
しかし、当初から「抗体は存在する」の命題が成立するのだから、
「抗体は存在しない」と「抗体は存在する」とがともに成立することになり、論理的な矛盾が導き出せる。
よって、最初に仮定する「織田信長は抗体ではない」という命題は不成立。

となる。

あれれ、見事に反論されてしまった。。。困ったものだ。


さて、ここで一旦私は退却し、結果論的方法論の力を借りてみる。

(対象を西暦1570年代の日本に限定し)以下のINPUT、OUTPUTを設定する。

INPUT:ポルトガル・イエズス会勢力が、日本植民地化を狙いとして攻勢をかけている。
OUTPUT:西暦1570年代末の日本は植民地化を免れている。

ここから、導かれる命題(PROCESS):
 ポルトガル・イエズス会勢力の意向に従わない対抗勢力(「抗体」の定義)が、日本国内に「存在する」。

これは、平均的日本人が信じている命題の一つ「抗体が存在する」と同一内容である。

ここでわたしは、うっと詰まる。
たしかにこの「抗体は存在する」という命題にわたしは反論できない。わたしもこの命題が成立することに、実はひそかに同意している。
平均的日本人が「織田信長は抗体ではない」との主張を突き付けられたときの、底知れぬ不安感の根拠の部分(命題「抗体は存在する」)の正しいことをわたしはようやく知る。

でも、待てよ。

西暦1580年代以後についてはできていないが、西暦1570年代ならば、わたしは一連の投稿の中で、ある「抗体」の存在を主張しているではないか! それが「蓮如」勢力である。

おそらく、「このこともあわせて」主張をしないと平均的日本人にきちんと反論できないのだろう、と推定がつく。

では、と、ふたたび平均的日本人の前に立って、説得を試みる。

平均的日本人の信じている命題は次の2つ。
「抗体が存在する」
「抗体が存在すれば、織田信長がその抗体である」

説得開始。

わたしも「抗体が存在する」が成立すると思う。
ただし、「抗体が存在すれば、織田信長がその抗体である」の部分の再検討を要請する。
わたしは「抗体が存在すれば、織田信長、あるいは、蓮如勢力である」と主張する。
そして、もう一つ「織田信長は抗体ではない」とも主張する。

であるので、わたしの主張を推論すると以下の結論が導かれる。
「抗体は存在する」
  ↓
「抗体が存在すれば、織田信長、あるいは、蓮如勢力である」
  ↓
「織田信長は抗体ではない」
  ↓
結論:
「抗体としての役割を担ったのは蓮如勢力である」

そして、蓮如勢力がどのような位置付けで抗体としての役割を担ったかについては、モデルを使って示したはずである。ふじむら掲示板投稿[4700]を参照せられたし。

ここまで言って、わたし(よしかわ邦弘)は、これで平均的日本人とも議論がかみあうのだろうと一安心をする。

【以上で、整理した議論の流れ終わり】

以下、1点だけ補足です。

「ここで、わたし(よしかわ邦弘)が「織田信長は抗体ではない」と「だけ」主張してみる。(このことをきちんと根拠を示せば平均的日本人に充分反論できる、とわたしは考えている。)」
このような判断を、小山みつねさんは「負け犬根性」と罵倒しているのでしょう。
それならちゃんと、代わりとなる抗体が何なのかを示せ、と。
ようやく理解ができました。

以上


[4768] 島根県って 投稿者:広瀬和牛 投稿日:2005/01/08(Sat) 22:45:52
 いいですね〜。石見の銀山、安来の製鉄、出雲の銅鐸、島根県って
冶金歴史の宝庫ですなあ。


[4766] 副島隆彦先生への御礼 投稿者:よしかわ邦弘 投稿日:2005/01/07(Fri) 17:02:32
▼副島隆彦先生へ

よしかわ邦弘です。
ふじむら掲示板[4765]にて、私の投稿(ふじむら掲示板[4734])を称揚いただきありがとうございます。

とはいえ、わたしが[4734]のような視点で投稿できたのは、副島隆彦先生の著作群を読んでいたからです。副島先生からいただいた学恩は深いです。
属国・日本論に関する副島先生の著作で、わたしが学んだのは以下の2点です。

1.現在のわたしの頭(mind)は誰かに操られているのではないか、と絶えず疑ってみる姿勢。
2.「武器・弾薬・レアメタル」の流れをつかんで歴史を考えることの大切さ。

2点目に関連して、以下、述べてまいります。

 わたしにとって「属国・日本論」(五月書房)の明治編でいちばん迫力のあるのは、イギリスがアームストロング砲を、注文主の江戸幕府にではなく薩長の軍隊に強引に横流ししたくだりです。
ですので、戦国時代においてもそのようなデータがとれれば、それが時代の流れの骨格を物語るだろうとは当初から考えておりました。

 わたしには、以下のものが、どこから(海外?国産?)、どの地点を中継して、誰の手に、どれくらいの数量わたったかに興味があります。
・硝石(火薬の原料)
・大砲
・金(ゴールド)
・銀(シルバー)

ですから、硝石を筆頭に上記4品目の流れをきちんと追いながら、戦国時代について考えたいと念願しております。

なお、こうした観点から見ると、西暦1570年代までに限定しても解明したいことがあります。たとえば次の2点。

1.織田信長の金(ゴールド)

 織田信長の領地には大きな金山がなかったにもかかわらず、部下に大量に分け与えた金(ゴールド)はどこから入手したのか?(この点は、立花京子氏が著書「信長と十字架」で指摘しています。)
 豊臣秀吉の入手した金(ゴールド)とは、入手経路において性質の異なるものではないか?(まだ検証できておりませんが。。)

2.大友宗麟の領地の重要性

 大友宗麟の領地は、ポルトガル・イエズス会勢力が、畿内を「空襲爆撃」(キリスト教布教、織田信長勢力への武器・弾薬・レアメタル援助)する「中継地点」として重要な位置をしめる、いわば「サイパン島」のようなものである。この大友宗麟勢力の盛衰をまず中心に置いて、歴史を再考する必要があるのではないか?
(大友宗麟の足跡についてまったく触れようとしない司馬遼太郎の著作群は、この点で致命的にだめだ。)
 手始めに、九州地域の戦国時代の歴史と畿内の歴史をつなげて考える(=司馬遼太郎が触れたがらなかった、大友宗麟と織田信長とのつながり具合・協力関係を調べる)ことが必要である。

そして、上記を考える基礎知識として大切なのは、

日本の金山・銀山の歴史

です。これをもとに歴史を考える必要があると思っています。
これからもぼちぼちですが、調べていきたいと考えます。

なお、補足ですが、
「[4740] 宋銭・明銭 - 投稿者:会員番号1259さん」で紹介されたサイトは利用価値が高いと思います。

[引用開始]
 国際通貨たる宋銭や明銭は、わが国で産出された砂金、水銀、硫黄、刀剣等と交換されていました。歴史用語では「宋銭の輸入・明銭の輸入」と称しています。しかし宋人や明人の自国通貨が、わが国で自由に使えると言う事は、経済的“属国”状態にあったと考えられます。だが16世紀になると「戦国大名が金山・銀山を開発」して、金、銀を貿易の決済に使用しています。
参考
「コインの世界史」
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/A002.htm
「近世の東アジア貿易」
http://www1.u-netsurf.ne.jp/~sirakawa/C019.htm
[引用終わり]

よしかわ邦弘です。最後にくりかえしになりますが、副島隆彦先生には、私の投稿[4734]を称揚いただいたことを御礼申し上げます。

以上


[4765] ここの「4734」でよしかわ君が書いた以下の文は、極めて重要です。当時の「硝石(火薬の原料)」に入手の問題がやはり何よりも重要です。 投稿者:副島隆彦 投稿日:2005/01/07(Fri) 11:13:24
副島隆彦です。

このふじむら掲示板の「4734」番として、よしかわ君が書いた、以下の部分は、極めて重要だと私は思います。おそらく日本の戦国時代研究が、これで、「属国・日本論」の視点からみて、一気に業績進歩したと、私は考えます。よしかわ君が、ここで「ポルトガル人と硝石=火薬の日本への輸入の構造、それとの関係で、戦国大名たちの盛衰が決まった」という重要な業績を示したのです。

1560年代の日本への、ポルトガルからの硝石(鉄砲の火薬の原料)の輸入の規模とその国内での需要の構造を示すことで、戦国時代研究は
一気に前進するでしょう。 立花京子著の「信長と十字架」は、悪書であって、何がなんだかわけの分からない本でした。どこに本当の世界視点があるのかが、私には分かりませんでした。それが、よしかわ君の以下の文で明確に分かりました。 事実と文献に基づいて、きちんと推論して、ひとつの大きな理論に仕上げてゆくことが大事だと思います。

当時の硝石の輸入ルートは、今の世界の、各国の安全保障政策の要である、プルトニウム(核兵器の原料)の輸入と、その精製と濃縮の問題と同じくらいの重要性をもっていただろうと、私にもピンと来ました。
着実に、証拠をあげて、文献に当たって、自論を優れたものに仕上げてください。 

それから、庄司誠君へ。その『福澤諭吉の真実』についての書評文を、
重要箇所を何箇所か引用しながら、長めのものを書きましたら、今日のぼやきの広報ページの方にのせてくれませんか。
著者の平山洋(ひらやまよう)氏が、せっかくこの掲示板を見に来て
そして君にご挨拶なさっているのですから、その返礼として、きちんとしたまとまりのある、その秀作への書評を発表してください。お願いします。   副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)


ふじむら掲示板「4734」 から

・・・ 以下にわたし(よしかわ邦弘)の考えを述べます。
結論としては、「戦国時代(ただし西暦1570年代までに限定)を勝ち抜く上での死活的重要性を持つ硝石・大砲について、ポルトガル・イエズス会に依存せざるを得ない以上、命題Aは成立する」とわたしは考えます。

根拠は以下の通りです。

根拠その1.硝石について
 硝石というものがあります。硝酸ナトリウムを主成分とする天然に産する硝酸塩の混合物のことで、火薬、染料、肥料など窒素を含む化学物質の原材料として良く用いられていました。 戦国時代には火薬の原料となっていたのですが、どのような流通経路で、どこに流れたかについて考えます。日本への流通経路を握っていたのは、ポルトガル商人です。大量の硝石は、当時タイやベトナムで生産されていました。

http://www.st.rim.or.jp/~adachima/sinpou2002.02.09.1.html
[転載開始]
石見銀山 タイ製の壺片出土 戦国後期から江戸初期輸入 火薬原料の器か

戦国時代後期から江戸初期、日本に輸入されたタイ製の壺(つぼ)の破片が、大田市の石見銀山遺跡で8日までに確認された。火薬の原料となる硝石を入れた器とみられる。タイ製の壺は、国内約30カ所の遺跡でしか出土していない。同遺跡が大航海時代、中国や朝鮮半島はもとより、東南アジアも含む貿易ネットワークに組み込まれた国際都市だったことを物語る貴重な資料となる。
 見つかった破片は、壺の口縁部で縦10センチ、横15センチ、厚さ1センチ。壺は、口縁の周辺に4つの耳を備えた四耳壺(しじこ)。茶褐色で重厚に作られ、焼き締められている。

 道路建設に伴い大田市教委が、旧代官所跡の石見銀山資料館北側に位置する宮ノ前地区(同市大森町)を発掘調査した際に出土。その後、担当者が遺物の整理を進めた結果、タイの壺と判明した。破片は、江戸初期の金属の精錬工房を築くために整地された土層から見つかった。

 タイ製の壺は、国内で堺や博多などの貿易港や、キリシタン大名・大友氏の館(やかた)跡の府内町遺跡(大分市)などで出土。島根県内では、戦国武将・尼子氏の城下町だった富田河床遺跡(広瀬町)で確認されている。

 戦国時代、鉄砲の普及に伴い硝石の需要が急増。当時、硝石の山地はタイやベトナムに限られ、戦国武将が南蛮貿易を通じ競って輸入した際、タイの壺がもたらされた。

 大友宗麟(そうりん)は、ポルトガルのキリスト教宣教師に、毛利元就に勝つため、自分にだけ良質な硝石を送るよう要求。壺は、石見銀山を支配した元就が、鉄砲を使う上で流入した可能性があり、銀山には山吹城の下に火薬を保管した「えんしょう蔵」の地名が残っている。

 貿易陶磁に詳しい広島県立美術館の村上勇学芸課長は「ダイナミックな大航海時代の遺物が見つかったことで、銀生産を通じ石見銀山が世界史の中で大きな役割を担い、国際都市として繁栄した姿がより明確になった」と話している。
2002年2月9日(土)  山陰中央新報P30より

[転載終わり]

よしかわ邦弘です。
ですから、武器の一番大切な部分を握った人たち(ポルトガル・イエズス会)から見れば、その需要者(日本の戦国大名)に死活的な影響力を行使できるわけです。

 ところで、あまり知られていない事実ですが、長篠合戦より5年前、西暦1570年、大坂本願寺勢が織田信長の軍勢を鉄砲で追い払っています。実は本願寺は、海外からの火薬製造技術を元に、火薬を国産化していたようです。

http://www.bigai.ne.jp/~miwa/miwa/kayakumino.html
[転載開始]

4. 法敵信長打倒の激しい戦い
 私は図書館で『本願寺文書』をあらためて読んでみた。当時の本願寺の顕如や教如という高僧たちの生の書簡や日記を読むと、その淡々たる表現ゆえに伝わる戦国時代の切迫した情勢が生で伝わってくる。現代の小説家の作り話を読むより、はるかに迫力がある。「法敵言語道断之次第無念至候」「よろず一味同心に申し合、法敵を平らげ」「大坂本願寺は敵対する。

(信長)欝憤(うっぷん)少なからず。五月三日大坂勢鉄砲千挺をもって打掛打掛戦いければ信長勢思いもかけず逃散」。これは天正4年だから何と長篠で武田を破った翌年のことだ。日本史で一般に習う長篠で信長が鉄砲を使ったのは,それから5年後のことだ。私は図書館で二日間、夢中で読んだ。信長側からの記述だけからは分からなかった事実だ。表1のような年表をゆっくりたどると、つかず離れず信長と戦ったり、和解したりしながら門徒に残忍な仕打ちをなす信長をあやつるための火薬だったと理解できた。

[転載終わり]

 [転載開始]

3. 戦国時代の火薬製造工場
 日本の戦国時代は世界一の鉄砲技術と鉄砲保有国だったといわれている(ノエル・ペリン著川勝平太訳『鉄砲をすてた日本人』(紀伊国屋書店、 1984))。しかし「鉄砲も火薬なければただの筒」。戦国時代以来、明治21年まで塩硝産地であった富山県東砺波郡平村で全国的に散逸した資料を集約した報告書『塩硝一硝石と黒色火薬)全国資料文庫収蔵総合目録』(1995)、平村郷土館一がある。

これによると鉄砲伝来当初には、火薬のひとつの原料である硝石を、堺の商人を通じて外国から輸入したが、まもなく本願寺の仲介で国産化した。それは日本独自のすぐれた技術だったとある。悪童どもの出番だった。西洋や中国では気候風土の違いで,家畜の糞や壁土から採取した。確かに日本独自の技術だ。別の塩硝の産地として東北地方では相馬藩が幕府に献上したり,東北諸藩へ輸出していた。

[転載終わり]

よしかわ邦弘です。
 本願寺は、日本国内の最大の塩硝生産地(五箇山、富山県東砺波郡平村)に火薬生産技術を供与しております(西暦1570年)。

同じホームページにあった、年表から転載します。
http://www.bigai.ne.jp/~miwa/miwa/kayanobunen.html

[転載開始]
1569 永禄12 信長,堺を制圧し本願寺と講和
1570 元亀1 本願寺の仲介で五箇山へ技術者派遣(南坊:鉄砲史研究,昭53),8月本願寺摂州野田福島で信長と銃撃戦,信長おおいに驚く『鷺森日記』(宗意編)(大日本仏教全書p.495)
1571 元亀2 長島一揆,信長延暦寺焼討
1572 元亀3 五箇山から日本海経由で石山城へ火薬運搬(養照寺由緒書),五箇山の硝石で本願寺火薬使用,顕如信長と和睦
1573 天正1 信長,将軍義昭を追放,長島一揆,紀州坊主門徒宛の顕如の書簡に鉄砲衆(『石山本願寺日記』)
1574 天正2 本願寺光佐,信長の居城攻撃,長島一揆で門徒虐殺,長島滅さる
1575 天正3 本願寺顕如,信長と第二次和睦,信長長篠の戦で鉄砲使用,越前一向一揆信長に敗れ虐殺さる
1576 天正4 安土城築城,本願寺謙信と盟す。鉄砲千挺で信長逃散(大谷本願寺由緒通鑑第3巻p.36)

[転載終わり]

よしかわ邦弘です。
 西暦1570年代前半(後半ではない)では、本願寺勢力が鉄砲・国産火薬という武器の点で、かなり優位に立っていたことがわかります。このことから織田信長は、本願寺勢力への対抗上、大量の硝石をポルトガル勢からどれだけ入手できるか、これが大きな課題になっていたことが推察できます。

(補足:上記の引用は、三輪茂雄さんという方のHPからです。粉体工学の専門家です。
http://www.bigai.ne.jp/~miwa/miwa/miryakureki.html


根拠その2.大砲について

 武器についても、西暦1570年代までは戦国大名にとり、やはりポルトガル製の武器が必要でした。

「小袖日記」というサイトから転載します。
http://blog.goo.ne.jp/aduti-kosode/1
[転載開始]
(歴史小説&小説 / 2004-06-16 00:50:06)
イエズス会の武器援助

武村鏡村氏の「大いなる謎・織田信長」PHP文庫によると、

信長の鉄甲船を目撃したオルガンチーノは「豊後の大友氏が数門の小さな大砲を造った以外には、日本に大砲はないはずだ」と大いに驚いているが、ヨーロッパの軍事と兵器の情報は、ポルトガル商人や宣教師によって信長に伝えられていたとみてよい。
信長が接触を持ったイエズス会の多くは軍事経験者であった。

と書いています。信長はかなりのヨーロッパの情報を軍事にも生かしていたのではないかと思われます。しかし、フロイスの書簡には、この辺権力者の求めているの情報を提供する代わりに、布教を許してもらうという構図は一切書かれていないんですよね。

そして、イエズス会の武器援助を受けた代表的な大名として、九州の大友宗麟や大村純忠はキリスト教を庇護し、神社仏閣を破壊する事を約束する代わりに、軍事援助を受けポルトガル船を入港させることで莫大な利益をもたらしたのです。[略]

宗麟は大砲の贈与をインド総督に請い、2回の船の遭難に会いましたが、遂に1577年(天正5年)正月に大砲が豊後臼杵の城内に運ばれました。
これを考えると、1578年の信長の鉄甲船の大砲は、大友宗麟が信長に献上したとも考えられるのです。

[転載終わり]
[転載開始]
信長の鉄甲船の大砲が何処からきたのか?という事を前に書いたと思います。
イエズス会からの武器援助として、間接的ではありますが、証拠としての書簡が一例だけあります。

天正十二年(1584年)羽柴秀吉が紀州根来衆を攻める時、小西アゴスチィノ行長が率いた艦隊の船に、「豊後国主が信長に贈った大砲一門」が多数モスケット銃とともに備えてあったという
〜長崎発信イエズス会総長宛てのフロイスの書簡写しより〜

豊後の国主は大友宗麟ですから、彼がポルトガルから大砲を送られ、それを信長に献上していたと考えられるのです。それより前(1577年)にも、大友宗麟はポルトガルから大砲を贈られています。それがいくつだったかの記録はありません。

[転載終わり]

よしかわ邦弘です。
上記は、西暦1578年、毛利水軍を打ち破った織田信長方の軍船(九鬼水軍)の中に、ポルトガルから寄贈された(大友宗麟経由)大砲が積んであった可能性が高いという指摘です。

なお、大友宗麟の場合には、大砲を入手した翌年の西暦1578年、九州一島の制覇をかけて日向国に攻め入りました。また、この年、大友宗麟はイエズス会から洗礼を受けました。物量面・精神面で、ポルトガル・イエズス会の全面的支援を受けて、島津義久に挑んだ戦いでしたが、耳川の合戦にて予想外の負けを喫し、一路大友氏は衰運をたどっていきます。

西暦1580年代の豊臣秀吉の時代以降は不明ですが、西暦1570年代までは、武器そのものも、ポルトガルに頼っていたことは明白です。

以上のことから、
「戦国時代(ただし西暦1570年代までに限定)を勝ち抜く上での死活的重要性を持つ硝石・大砲についてポルトガルに依存せざるを得ない以上、命題Aは成立する」とわたしは考えます。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝


[4764] キリシタン大名・・キリシタン武将一覧 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2005/01/06(Thu) 03:24:30
「ウィキペディア(Wikipedia)」から一部貼り付けます。

RC:よしかわさん、この表に載っている人物を丁寧に調べると大きな事が分かるかもしれません。

(貼り付け開始)

キリシタン大名 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E5%A4%A7%E5%90%8D ・キリシタン武将


• 大友宗麟 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AE (フランシスコ) 豊後領主。代表的なキリシタン大名の一人。
• 大友義統 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E7%B5%B1 (コンスタンチノ) 大友宗麟の子。棄教。
• 織田有楽斎 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%9C%89%E6%A5%BD%E6%96%8E (ジョアン) 織田信長の弟。
• 織田秀信 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BF%A1  三法師、織田信忠 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%BF%A0 の子、信長の孫。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%83%B3%E4%B8%80%E8%A6%A7

<以下略>

(貼り付け終了)


[4763] 作戦成功 投稿者:小山 みつね 投稿日:2005/01/05(Wed) 22:29:25
こんにちは、小山 みつね です。

▼よしかわ邦弘様へ
>「(キリスト教徒の謀略が溢れてゐたにもかかはらず!)日本には敵の謀略を撃退してあまりある抗体(今風に言へば、愛国者?)があつた」といふことを【ウラから証明】することになるのである。」
>ここのところですね。
この部分を説明しないと、みずからの主張をきちんと証明したことになりません。
ご指摘の通りです。

この部分が私の言ひたかつたことの核心です。
キリスト教徒の謀略を明らかにしつつ、同時にそれがいかに効力を失つたか。この両者を同時に明らかにしてゆく。かういふ結果論的研究方法をこの時代の研究のガイドラインとするのがよいでせう。

それさへ伝はれば、目的を達したといふ意味で、私としては作戦成功です。

よしかわ氏によれば、「西暦1570年代までの一向宗・蓮如勢力だけです、残念ながら。ですので、正直、西暦1580年代以降に日本の独立を守った「抗体」については、わたしもいまだ整理ができておりません。」とのことです。といふことは、1580年以降の抗体はエスタブリッシュメントと考へればよいでせう。フロイスの『日本史』豊後編に、島津軍が豊後に攻め込み、大友は豊臣に援軍を要請する箇所があります。このときの豊臣軍のやり口は、たいしたものです。

1.長宗我部軍を援軍の先鋒として島津軍にぶつける。当然、長宗我部軍は小勢なので大敗。
2.勢いに乗つて、島津軍が豊後を破壊(大友家は復興する力がもはやない。事実上の滅亡)。
3.島津軍が豊後を破壊したのを確かめて、豊臣軍本隊は島津軍に対して報復攻撃。島津軍の敗北。

(おまけ 朝鮮出兵の先鋒隊はもちろん 島 津 軍)

どさくさにまぎれて、長宗我部・大友・島津に大打撃を与へる。キリスト教王国(大友宗麟の妻イザベル(田原氏)は神仏の味方だつたが)だらうとさうでなからうと、これほど好き放題のことのできる政権が「抗体」でないわけがありません。


[4762] 【実体的真実主義】といふ名の地雷原 投稿者:小山 みつね 投稿日:2005/01/05(Wed) 22:00:05
小山 みつね です。
まず、バード氏の投稿に若干のコメントを付け加へておく。

▼バード様へ
>小山さんは「対日謀略」はなかったと言っていたのではありませんか。

それは誤解です。怪我をした人間が、怪我から回復しても、怪我に従属してゐる、といふのはおかしいでせう。それと同じく謀略を仕掛けられて、その謀略をハジキ返した国が、未だに謀略者に従属してゐるといふのはおかしい。さういふことです。「対日謀略はあつたが、それを撃退した」「謀略はあつたが撃退した。その意味で、対日謀略は【なかつた】(=無力化された)」といふのが私の主張です。仮に私が「対日謀略があったというのは事実でない」と主張したかつたら、「1543年にポルトガル船が種子島に来たのは事実でない。事実の捏造だ。そのやうな事実はない。その根拠は・・・」と、堂々と主張します。ご安心されたし!

>とにかく、完全な結論をそう焦らないで下さい。
そういう彼らの失敗の理由は、じっくり研究・調査して、結論を出せばいいのです。
解明されている史実がまだまだ乏しいのですから、むしろそうすべきです。

それならば、「信長はキリスト教勢力の側に立っているつもりはなかったが、キリスト教側勢力は信長の武力を利用した。信長はそのことに最後まで気づかなかった」とて「完全な結論をそう焦らないで」いただきたい。

>私は愚かなりにも、主観的には「敏感に反応して驚いて」いるのです。(でも小山さんはそうではないと言いいます。これは何なのでしょうか。主観の相異ということなのでしょうか?)

私は、バード氏の「主観」にまで責任を負ふことはできません。

>そうですね、「謀略」が多ければ多いほど、「愛国者」が多くなる可能性がありますね。
もしそうであっても、私には何の不都合もありません。

「私には何の不都合もありません」とか他人事にやうに言はないでいただきたい。「信長はキリスト教勢力の側に立っているつもりはなかったが、キリスト教側勢力は信長の武力を利用した。信長はそのことに最後まで気づかなかった」。ここまで断言した人は誰ですか。あなたは第三者ではなく当事者です。「不都合」に決まつてゐるではないですか。

>でも彼らを撃退できたのは、彼らの内部抗争や、地理的条件や、時代的制約なども考えられ、それらを踏まえた上での「愛国者」を考えたいですね。

「彼らの内部抗争や、地理的条件や、時代的制約」は「彼ら」の手落ちであつて、日本側に手落ちではありません。たとへば、大東亜戦争中に東南アジアにゐた欧米軍は、内乱鎮圧用の軍隊でありました。日本軍を仮想敵としたものではありませんでした。だからといつて、それは「彼ら」の責任です。「彼ら」に手落ちがあつたからといつて、日本軍が東南アジアにゐた欧米軍を打ち破つた功績が少しでも減るわけではありません。それと同じことです。「敵に内部分裂があつたから、売国奴だらけ日本でも勝てただけ」とことさらに描きたがるその根性を「負け犬根性」と申し上げたのです。敵の失策を咎めるのは卑怯でもなんでもありません。当然のことです。

>プラトンや林房雄や岡義武やイーストンなどからの豊富な知識で自分を着飾って

「豊富な知識で自分を着飾」らないで、どのやうに敵の細かな「謀略」を明らかにしていくのですか(かなりオタッキーな世界に入りこまざるをえないですぞ)。さういふ離れ業を是非とも私にも伝授していただきたい。なるほど! 相手の武器を封じておいて、自分だけ抜け駆けするつもりなのですね! さすが!!

バード殿。 
そ ち も な か な か の ワ ル よ の う。
___

では、本題に入ります。

●【実体的真実主義】といふ名の地雷原


>とにもかくにも、史実を掴むのが先決だと思っています。
「謀略」があると言いながら、その具体的な姿を把握しない段階で、「抗体」云々と言っても、始まりません。
ということですので、やはり先ず「対日謀略」をひとつひとつ具体的に解明していくことが先決だと思います。

 ▽参考リンク 【実体的真実主義】についての予習
http://www.google.co.jp/search?q=cache:AINJEqieLwMJ:www1.plala.or.jp/kunibou/houritu/keice1-8-1.html+%E5%AE%9F%E4%BD%93%E7%9A%84%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9&hl=ja

http://www.google.co.jp/search?q=cache:2lpt3Kc24psJ:www.trkm.co.jp/ningen/sinjitu.htm+%E5%AE%9F%E4%BD%93%E7%9A%84%E7%9C%9F%E5%AE%9F%E4%B8%BB%E7%BE%A9&hl=ja

『論理の方法』―社会科学のためのモデル 小室 直樹 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4492222308/qid=1104923151/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/250-4383027-3385069

バード氏の議論は典型的な【実体的真実主義】である。【実体的真実主義】とは、真実の発見を最大の目的とする考へ方である。【手続的真実主義】(手続を経ないで得られた事実はないものとみなす)と対立する概念である。立花隆が実体的真実主義を悪用して田中角栄を陥れた。曰く「田中角栄の犯罪という 事 実 そ れ 自 体 が 問 題 だ」「手続なんかどうでもいいのだ」と。実体的真実主義の暴走の恐怖たるや、かくのごとし。

事実は無限に複雑である。無限に複雑な事実をシラミつぶしに捉へることは人間にはできない。そんなことをすると、人間の脳はパンクしてしまふ。事実をシラミつぶしに捉へることは、神にしかできないからだ。すべての事実を捉へられないのに、無理に捉へようとすると、【結果として】事実の一部分しか捉へることができない。事実の一部分しか捉へられないちふことは、そこで捉へられた事実は偏つた事実でしかありえない。【結果として】それは、無自覚な情報操作である。

事実をシラミつぶしにできない以上、神ならぬ人間は、効率的に頭脳を使はなければならない。効率的に頭脳を使ふためには、思考の定石(じょうせき モデル 手続)を確立する必要がある。その思考の定石が【手続的真実主義】(手続を経ないで得られた事実はないものとみなす)である。そのために、私は、【実体的真実主義】への【対案】として、試みにイーストンモデル(少し修正したそれ!)を提示したのである。相手を批判するだけで対案を出さないのは無責任だからである。

INPUT→SYSTEM→OUTPUT→(FEEDBACK)・・・・

(注 システムとブラックボックス同意語として使つてゐる)

「事実は大切だ」(実体的真実)と「事実をすべて頭の中に入れることはできない」(手続的真実=モデル的思考)との矛盾に葛藤する。人間とはさういふ存在である。「事実は大切だ」にも「事実をすべて頭の中に入れることはできない」にも偏つてはいけない。謀略の存在をシラミつぶしにするのはよい。但し、いかにしてその謀略が失敗したかも同時に論じないと公平ではない。さうしないと結果と整合しないではないか。「常に結果はどうなのか」といふことを見ながら、事実を追求すべきである。私は、本掲示板の閲覧者が「実体的真実」の罠に陥ることがないやうに、また、常に結果と事実の整合性をを忘れることのないやうに「手続的真実=モデル的思考」といふ対案を提示したのである。さういふ意味において、私は【結果主義者】である。

【実体的真実主義】で、自分の頭をパンクさせてよいといふ人は、私の忠告など一切聴く必要がない。

【実体的真実】の視点から【手続的真実】の視点に転換せよ!

以上。


[4761] わたしからの情報 「[4741] Re: 世尊布施論のコピーについて - 投稿者:畠瀬 和志さん」 投稿者:よしかわ邦弘 投稿日:2005/01/05(Wed) 18:11:15
▼畠瀬 和志さんへ。

よしかわ邦弘です。
「[4741] Re: 世尊布施論のコピーについて - 投稿者:畠瀬 和志さん」から引用します。

[引用開始]
知人(カナダ人)が中央アジアのキリスト教を研究しているのですが、彼から「中世以前のキリスト教の日本への伝来は、まだ通説ではない」と聞かされました。そこで、「世尊布施論」の話をしたら、かなり興味を示しました。
どなたか、「世尊布施論」のコピーのありかをご存知ありませんか?現物を示すことが出来れば、一発で「中世以前のキリスト教の日本伝来」が通説になります。畠瀬 和志 拝
[引用終わり]

よしかわ邦弘です。
わたしもあいにくコピーのありかは不明です。以下の本に「世尊布施論」の写真が掲載されています。はっきり写っていますので、ご確認ください。

ケン=ジョセフ シニア&ジュニア著
「隠された十字架の国・日本―逆説の古代史」
# 単行本(ソフトカバー): 304 p ; サイズ(cm): 19 x 13
# 出版社: 徳間書店 ; ISBN: 4198612870 ; (2000/12)

(↓アマゾンでの本の紹介)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4198612870/250-6719743-0462633

(↓目次)
第1章 ルーツに引き戻した出会い
第2章 自由を求めて古代日本に来た秦一族
第3章 仏教以外の日本がある
第4章 日本人のルーツ=シルクロード
第5章 日本文化に残る渡来人の影響
第6章 渡来人の町だった奈良や京都
第7章 ルーツに帰った人々


なお、この本には、
以下のような内容が、根拠となる事実とともに記載されています。

・高野山の坊さんは、真言宗で執り行う儀式が景教の影響を受けていることを認めている。この点では、むしろ仏教学者が否定しにかかっている。
・千利休を祖とする日本の茶道の儀式(茶室の構造等)は、戦国時代のローマン・カトリック教の影響を受けている、とこのようなことを、家元・千宗室が英文文書で主張している。

他にもいろんな事実が記載されています。この本の中から、「これは伝えてもいいなあ」という事実を畠瀬さんの目で厳しく選んでいただいてお話をされれば、そのカナダ人はほんとかいなと目を白黒させながら根拠事実を確かめにかかると思います。カナダ人の知人の方への良いみやげ話になると思うので、わたしはこの本をお勧めします。

補足:上記の本には見開きのところに、平山郁夫と永六輔が推薦のことばを書いてます。わたし自身は、永六輔にまったく興味はないのですが、平山郁夫の絵は好きです。

以上


[4760] 権威主義は止しましょう。 投稿者:バード 投稿日:2005/01/05(Wed) 01:41:10
バードです。

明けましておめでとうございます。
といっても、今年の正月元日は、ただの1月1日でした。
年末年始の街で買い物をする人々の貧乏たらしさは隠しようもなく、正月どころの気分ではありません。
日本の正月をただの1月という月にしたのは、誰なのか。
日本の正月をただの1月にしたのは、竹中金融大臣、小泉首相、5大新聞、5大テレビ、ではないのか。
これは、歴史として子や孫に語り継ぐべきことだと思います。

それにしても小泉首相はここのところずっとお疲れのようで、新年の記者会見でもげっそりした表情をなさっていました。
楽しみが何にもないという表情です。つまんないという表情です。
見ている国民もつまんないという感じです。
こうしてみると、田中角栄元首相という人は元気だったですね。
当時は私には分からなかったけれど、首相という重圧をみごとに絶えていたんだなぁ、とつくづく分かります。
田中元首相は、農村出身で低い学歴(15歳で上京し、中央工学校を卒業)の首相だったですね。
高学歴の首相さん、あなたは国民の代表です、しっかりして下さいね。

ところで、小山みつねさんが、当掲示板の『[4747] インプットとアウトプットの食ひ違ひ』において、よしかわ氏および私を、「撃退」しています。そのつもりのようです。

実は、余り前向きな議論ではないので嫌なのですが、一応それらについて、回答しておきたいと思います。

よしかわ氏は↓の[4759]にて、「自分でもかなり整理がつきました。どうもありがとうございました。」と言っていますが、私はそうではありません。
とにもかくにも、史実を掴むのが先決だと思っています。
「謀略」があると言いながら、その具体的な姿を把握しない段階で、「抗体」云々と言っても、始まりません。
そんな論理で歴史に取り組むと何の成果も得られないと思います。
以下は、私なりの回答です。

▼その1(当掲示板の[4747])

キリスト教徒の対日謀略が飛び交つたのは事実である。私はさういふことを否定してゐるのではない。私が問題にしてゐるのは、「それがけ謀略が飛び交つたのに、なぜ、日本は植民地化されなかつたのか。なぜ日本は鎖国に成功したのか。なぜキリスト教徒はそれだけ頑張つたのに日本植民地化に失敗したのか」といふことである。

●回答1

なんと、小山さんは「対日謀略」があったのは事実であると、今回はここでそのように言っています。
小山さんは「対日謀略」はなかったと言っていたのではありませんか。
では、当掲示板の『[4711] 歴史はありのままに捉えるべきである。それ以上でも以下でもない。』において、
「帝国主義時代の欧州のイメージを16世紀にまで拡張して考へるのは、・・・歴史主義にすぎない。」
とか、
「過去の日本人をことさらに【外国の手先】と描きたがるのは、典型的な敗戦国民の心理ではないかと私は推測する。」
とか述べたのは、何だったのでしょう。
(と言っても我々は、帝国主義時代の欧州のイメージを16世紀にまで拡張して考へている訳でも、過去の日本人をことさらに外国の手先と描きたがっている訳でも、ありません。史実として問題にしたいだけです。)

小山氏の反論があるとすれば、「対日謀略があったというのは事実でない」というような言及があるものとばかり思っていましたのに。

ところで次の、なぜ彼らは失敗したのか、ということですが、それは、「対日謀略」をひとつひとつ具体的に解明すれば、自ずと問題になり、そして分かってくるはずです。
ということですので、やはり先ず「対日謀略」をひとつひとつ具体的に解明していくことが先決だと思います。

とにかく、完全な結論をそう焦らないで下さい。
そういう彼らの失敗の理由は、じっくり研究・調査して、結論を出せばいいのです。
解明されている史実がまだまだ乏しいのですから、むしろそうすべきです。
(現在は状況証拠が揃ってきているところですが、−−欲が深すぎるかもしれませんが、今−−直接証拠をかぎまわっているところです。)

また、何人も短文では−−短文でなくとも−−考えていることすべてを書き切ることはできません。
文章を書くとはそういうものです。だから、読み手はそのつもりで読む必要があると思います。
だから、いきなり、なぜ彼らが失敗したかを述べないから間違っていると言うのは、不当というものです。

▼その2(当掲示板の[4747])

常識的に考へれば、それだけの謀略を仕掛けられたら、日本は簡単に植民地化されてゐたはずである。(=キリスト教徒は日本の植民地化に成功してゐたはずだ)しかし、結果は、その逆であつた。といふことは、キリスト教徒の謀略を跳ね返した人が日本国内にゐたと考へないわけにはいかない。さうではないか。さうでないと、インプット(キリスト教徒の謀略の横行)とアウトプット(日本植民地化の失敗)の勘定が合はない。病原菌を体に注射されたのに、なぜかピンピンしてゐる。といふことは、体自体に抗体があつた。さう考へないと、辻褄が合はない。

●回答2

日本は植民地化されなかった。そうですね。しかし謀略の限りを尽くせば、必ず成功するとは限りません。彼らだって、失敗することはあります。むしろ失敗することが多いと思います。当時失敗したということは、特別不思議なことではないでしょう。

もちろん「抗体」はあったでしょう。(よしかわ氏も多少言及していましたが。)
「謀略」が解明されれば、それに付随して「抗体」が問題になり、そして解明されることになるでしょう。
現状では、別に焦る必要はないでしょう。「謀略」の解明の方が先です。

▼その3(当掲示板の[4747])

プラトンは、哲学者にとつてもつとも重要な能力は驚くことである、と述べた。かういふインプットとアウトプットに食ひ違ひに敏感に反応して驚くことのできないものに、日本の歴史を論じる資格がない。さうではないか。

●回答3

そうですか、我々は「敏感に反応して驚くことのできないもの」で、「日本の歴史を論じる資格がない」とのことですか。そうですか、分かりました。
でも、私は愚かなりにも、主観的には「敏感に反応して驚いて」いるのです。(でも小山さんはそうではないと言いいます。これは何なのでしょうか。主観の相異ということなのでしょうか?)
とにかく、こんな単純な私の主観も読めないようでは、小山さんも大したことはないですね。

それはともかく、小山さんに資格なしと言われても、私は私なりに(プロではないので、気が向いた時だけで、軟弱ですけど)書きたいことが出てくれば、「日本の歴史を論じ」ようと思います。
もっとも、もっと別の正当な理由が認められれば、その限りではないです。

▼その4(当掲示板の[4747])

ゆゑに、バード氏・よしかわ氏が、キリスト教徒の謀略が溢れてゐたと言へば言ふほど、そのことは、両氏の意図とは逆に「(キリスト教徒の謀略が溢れてゐたにもかかはらず!)日本には敵の謀略を撃退してあまりある抗体(今風に言へば、愛国者?)があつた」といふことを【ウラから証明】することになるのである。さうではないか。自分で自分の首を締めるやうな問題設定はそれ自体が負け犬根性の産物にすぎない。そのことを悟られたし! そしてさういふ負け犬根性を、【誰が一番喜ぶか】まで考へることができれば、なほ宜しい。

●回答4

そうですね、「謀略」が多ければ多いほど、「愛国者」が多くなる可能性がありますね。
もしそうであっても、私には何の不都合もありません。別にうれしくて手先を見つけたがっているわけでもないのですから。史実としてどうなるかの問題ですから。

でも彼らを撃退できたのは、彼らの内部抗争や、地理的条件や、時代的制約なども考えられ、それらを踏まえた上での「愛国者」を考えたいですね。
現にウィリアム・アダムズやヤン・ヨーステンのような、(日本から見れば)内部抗争を示すチクりがありましたよね。

私は、−−よしかわ氏もそうだと思いますが、−−別に「負け犬根性」で「謀略」を追求しているのではなく、「史実」として追求しているのです。
どうして、小山さんは「負け犬根性」からだと決め付けるのでしょうか。不思議でなりません。

●最後に

私たちを批判するのならば、私たちの述べた言葉そのものに対して、直接的に行なってほしいものです。

小山さんは、私たちの言葉そのものに対して批評するのではなく、ただ自分の考えを述べ、それで私たちを撃退したつもりのように思われます。
そして、プラトンや林房雄や岡義武やイーストンなどからの豊富な知識で自分を着飾って、それで自分の結論を正当化しようとしているように思われます。

私には、こういうのは権威主義に見えます。
豊富な知識で自分を着飾るのは、東洋の呪(まじな)い師だという、そういうイメージが、私にはあります。
そういう権威主義は、私には通用しません。当掲示板の愛読者の多くもそうだと思います。
権威主義に捕われている、すなわち無条件に権威に従順な、「優等生」に対しては、効き目があるでしょうが。

権威主義者は、自分の結論の正当性(証明、根拠、理由)を必要以上に述べます。
もちろん正当性や根拠などを述べることは絶対に必要です。が、権威主義者はそれが並外れて多いのです。余り関係ないところまで話を進めてしまうのです。
その結果、話は横道に大きく反れていきます。そして、話(論理展開)に無理が出てきます。でも東洋の世界では論理破綻は権威によって隠蔽され、権威の方のみが重視されて来ました。東洋には、そして我が日本には、そういう伝統があります。それは、今も残っていると思います。

近頃の政治家も国民を誤魔化すのに、この話法を使います。本論になかなか戻らないようにするわけです。聞いてる方は、何がテーマだったのか、分からなくなり忘れてしまうほどです。実は政治家は、それを狙っているのです。彼らは権威主義者の手法を用いていると感じます。

副島隆彦氏の場合は、述べられている言葉そのものについて批評し、そうすることによって重要なことを指摘します。
そうすると、指摘された方も自分の問題点や至らない点が、分かるのです。指摘された意味が分かるのです。
でも私の経験では、そのような人は日本では稀有です。

ところが、欧米人はそれができる人が多いようです。欧米人の本を読んでいるとそれをよく感じます。フロイスを読んでいても、そう感じます。昔からよく進んでいるなという感じです。
欧米においては、普通の知的労働をしている人ならば、それができる、−−確か副島隆彦氏はそのようなことを言っていたと思いますが−−そういう感じが確かにします。

とにかくそういう、自然で正当な批評ができる人は、古今東西を問わず、本当に尊敬され、本当の「権威」を賦与されるのだろうと思います。
権威主義から脱しないことには、本当の「権威」は生まれないのだろうと思います。
(了)


[4759] RE:「[4747] インプットとアウトプットの食ひ違ひ」 投稿者:よしかわ邦弘 投稿日:2005/01/04(Tue) 22:56:26
よしかわ邦弘です。

▼小山みつね様へ(よしかわ様へと書いてもらっているので、わたしも様つけにします。)

下記の小山様のおっしゃりたいことはよくわかりました。見事に筋が通っています。

[引用開始]
キリスト教徒の対日謀略が飛び交つたのは事実である。私はさういふことを否定してゐるのではない。私が問題にしてゐるのは、「それがけ謀略が飛び交つたのに、なぜ、日本は植民地化されなかつたのか。なぜ日本は鎖国に成功したのか。なぜキリスト教徒はそれだけ頑張つたのに日本植民地化に失敗したのか」といふことである。常識的に考へれば、それだけの謀略を仕掛けられたら、日本は簡単に植民地化されてゐたはずである。(=キリスト教徒は日本の植民地化に成功してゐたはずだ)しかし、結果は、その逆であつた。といふことは、キリスト教徒の謀略を跳ね返した人が日本国内にゐたと考へないわけにはいかない。さうではないか。さうでないと、インプット(キリスト教徒の謀略の横行)とアウトプット(日本植民地化の失敗)の勘定が合はない。病原菌を体に注射されたのに、なぜかピンピンしてゐる。といふことは、体自体に抗体があつた。さう考へないと、辻褄が合はない。
インプット(キリスト教徒の謀略)とアウトプット(日本植民地化の失敗)に因果関係の食ひ違ひがある。かういふところに敏感に反応しなければならない。インプット(キリスト教徒の謀略)とアウトプット(日本植民地化の失敗)に食ひ違ひがあるといふことは、ブラックボックスの部分にインプットを撃退する抗体が備はつてゐた、といふことにほかならない。
[略]
ゆゑに、バード氏・よしかわ氏が、キリスト教徒の謀略が溢れてゐたと言へば言ふほど、そのことは、両氏の意図とは逆に「(キリスト教徒の謀略が溢れてゐたにもかかはらず!)日本には敵の謀略を撃退してあまりある抗体(今風に言へば、愛国者?)があつた」といふことを【ウラから証明】することになるのである。さうではないか。
[引用終わり]

 よしかわ邦弘です。

「(キリスト教徒の謀略が溢れてゐたにもかかはらず!)日本には敵の謀略を撃退してあまりある抗体(今風に言へば、愛国者?)があつた」といふことを【ウラから証明】することになるのである。」

 ここのところですね。
この部分を説明しないと、みずからの主張をきちんと証明したことになりません。
ご指摘の通りです。

 そのため、私の投稿では、考察の及ぶ範囲を西暦1570年代までに限定しました。
というのも、「日本には敵の謀略を撃退してあまりある抗体(今風に言へば、愛国者?)」について、私なりに整理のついたのは、西暦1570年代までの一向宗・蓮如勢力だけです、残念ながら。ですので、正直、西暦1580年代以降に日本の独立を守った「抗体」については、わたしもいまだ整理ができておりません。

 はっきり言えば、織田信長がポルトガルに逆らえなかったのに、なぜ、豊臣秀吉がポルトガル・スペインに途中から逆らう動きを示せたのか、を説明がつけるところまでの事実集めはできておりません。

 小山様のご指摘により、私の考え事の中身がどうなっているか、自分でもかなり整理がつきました。どうもありがとうございました。

以上


[4758] メモ:ボキャビルと速読 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2005/01/04(Tue) 21:05:17
ボキャビルと速読

Word Power Made Easy
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/067174190X/ref=pd_sim_dp_2/249-8572189-5961154

Speed Reading Made Easy
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/0446314420/qid%3D1104813867/249-8572189-5961154

ボキャビルについて

 デンマークの英語学者オットーイェスペルセンは、英語という言語は、非民主的言語(undemocratic language)であり、簡単な事が難しく言える。例えば、

1.Cryptogamous concretion never grows on mineral fragments which decline repose.

2.A rolling stone gathers no moss.

1と2、両方とも「転がる石にコケはつかない」と言う意味である。

 米国で下層の者が出世するには、単語試験に合格しなければならない。そのためにボキャビルが必要となる。(参照:渡部昇一、松本道弘『英語の学び方』三笠書房、P.140-141)

 カーター元大統領が、官庁や裁判などで Plain English を使用する法案を通した。日本ではケリー伊藤が提唱している。(参照:ケリー伊藤『プレイン・イングリッシュのすすめ』講談社現代新書)

速読について

 カーター元大統領は、自伝『カーター回顧録 上』日本放送協会出版に、大統領就任後に、記憶速読術を学び、2回の訓練で本を読む速度が4倍になったと書いている。(参照:斉藤英治『ホワイトハウスの記憶速読術』ふたばらふ新書、P.107)

 米国の大学・大学院生、エグゼクティブらは、大量の本や書類に目を通す必要があるので、速読術の講座がある。


[4757] 平山洋様へ 投稿者:庄司 誠 投稿日:2005/01/04(Tue) 20:05:19
 平山洋様へ

 庄司誠です。

 いや、なんとも平山洋様本人にご投稿いただけるとは、なんと申しましょう、びっくりしています。ありがとうございます。恐縮します。

 私は、福沢諭吉を、よくわからないままですが勝手に尊敬し、先生と密かに呼んでおりましたので、石川幹明なる人物が福沢諭吉先生の文章を勝手に捏造し、創作し、当時の政局に都合のいいように組み替えたことについて、許し難いことだと怒り続けております。

 福沢先生がアジア蔑視の激しい、そんな愚かな知識人であったはずがないのです。
 私は平山様の著書により、まさに『福沢諭吉の真実』を改めて教えていただいた次第です。
 この本についての感想は、時間を見つけてかならず、【重たい掲示板】に投稿します。それで、福沢諭吉先生に興味を持つこの学問道場の会員に紹介したいと思います。
 今は私の論敵ですが、小山みつねさんもきっとこの本を読んでくれることでしょう(もうすでに読んでるかも)。

 ありがとうございました。

 庄司誠拝。


[4756] 小山みつねさんへ 投稿者:会員番号2312 山崎隆徳 投稿日:2005/01/04(Tue) 19:17:59
こんにちわ、山崎隆徳です。

小山みつねさん、レス、有難う御座います。私自身、法律のことは無知にひとしいですが、但し書きをつけることで法的には問題ないですね。

●【姥捨て山法案】を国民的運動で実現しませう。

小山みつねさんの上記の言葉、すごい、うれしいです。問題はどうやってこの「姥捨て山法案」を実現するかでしょうが、まあ、実現性は限りなくゼロにひとしいですね。

しかし、私自身、今の日本人、とくに若者たちは、口にはだせませんが心の中では、これ位のことは、けっこう、肯定してくれる日本人、多いんじゃないかと考えています。

私がこの掲示板で「姥捨て山法案」の実現を訴えても、学問道場に集まる皆様にしか影響力はないですが、この「姥捨て山法案」小林よしのり氏のような影響力のある漫画家に描いていただきたいですね。小林よしのり先生、この掲示板、読んでたら宜しくお願いします。(読んでるわけないな。笑)

私自身、「家族や周りの人間に迷惑をかける位なら死んだほうがましだ」という考えは、高邁で、すばらしい理想だと思います。そのように考えることのできる人間に、家族と世の中が尊敬の眼差しを向けるような世の中が来ればいいなと思います。

「姥捨て山登録」制度が、もし、出来たら、私は「姥捨て山登録」一番最初の登録者になりたいです。

以上。雑文で失礼しました。


[4755] 庄司誠さんへ 投稿者:平山 洋 投稿日:2005/01/03(Mon) 19:21:39
 あけましておめでとうございます。
 拙著『福沢諭吉の真実』をお褒めくださりありがとうございます。ぜひご感想をお寄せください。
 5日以降は大学に戻っております。
 とりあえずお礼のみ。


[4754] ●【姥捨て山法案】を国民的運動で実現しませう。 投稿者:小山 みつね 投稿日:2005/01/03(Mon) 17:48:07
●【姥捨て山法案】を国民的運動で実現しませう。

こんにちは、小山 みつね です。

▼山崎隆徳様へ
「姥捨て山制度」は別に人でなしではないですよ。
ただし、現行刑法とは抵触します。ですから、現行刑法の改正を必要とするでせう。現行刑法の不備を改正することは違法でもなんでもありません。

たとへば、

(転載)
http://www.houko.com/00/01/M40/045.HTM

第30章 遺棄の罪

(遺棄)
第217条 老年、幼年、身体障害又は疾病のために扶助を必要とする者を遺棄した者は、1年以下の懲役に処する。

(保護責任者遺棄等)
第218条 老年者、幼年者、身体障害者又は病者を保護する責任のある者がこれらの者を遺棄し、又はその生存に必要な保護をしなかったときは、3月以上5年以下の懲役に処する。

(遺棄等致死傷)
第219条 前2条の罪を犯し、よって人を死傷させた者は、傷害の罪と比較して、重い刑により処断する。

http://www.houko.com/00/01/M40/045.HTM
(終了)

これらの条文(刑法217〜219条に「姥捨て山制度」は抵触します。といふことは、逆に、これらの条文を改正すれば、問題はないといふことです。

小山の私擬刑法改正案を提示します。

▼小山の私擬刑法改正案

(刑法217〜219条)
(遺棄)
第217条 老年、幼年、身体障害又は疾病のために扶助を必要とする者を遺棄した者は、1年以下の懲役に処する。

(保護責任者遺棄等)
第218条 老年者、幼年者、身体障害者又は病者を保護する責任のある者がこれらの者を遺棄し、又はその生存に必要な保護をしなかったときは、3月以上5年以下の懲役に処する。

(遺棄等致死傷)
第219条 前2条の罪を犯し、よって人を死傷させた者は、傷害の罪と比較して、重い刑により処断する。
【ただし、姥捨て山法案○○条に規定のある場合は、この限りでない。】

(特別法)
【姥捨て山法案○○条】
【「姥捨て山登録」を、厳密な審査を経てなしたる者は、刑法217条218条219条の適用を除外する。】

▲参照条文― 刑法第8条但(ただし)書き

(他の法令の罪に対する適用)
第8条 この編(刑法の 第1編 総則 注記)の規定は、他の法令の罪についても、適用する。ただし、その法令に特別の規定があるときは、この限りでない。

(【】内は小山による改正箇所。)

よろしければ、山崎流の私擬刑法改正案(+特別法新設案)を提示されたし!

「法律のために人間がある」といふ視点から「人間のために法律がある」といふ視点に転換せよ!
「自然になるやうになる」といふ視点から「自分からなにかをなす」といふ視点に転換せよ!
「反論のための反論」といふ視点から「対案のための反論」といふ視点に転換せよ!

▼補遺
ちなみに、刑法改正を一番嫌ふのは、刑法学者である。なぜなら、今まで自分が書いてきたことをすべて【改訂】しなければならなくなるからである。といふわけで、その不毛な改訂作業にかかつたコストを「改訂版が出たので改訂版【も】買へ!」「新しい六法が出たから買へ!」とかいふ形で回収しなければならない。
ところで、最近の刑法改正は【平成15(2003)年7月】改正(8月施行)である。この改正で、日本人が外国で外国人に殺されたりしたときに、日本の刑法を外国に【域外適用】できるやうになつた。(無論、自国法の【域外適用】が【一番大好き】な国は日本ではなく【アメリカ】である。このことは強調しすぎることがない。)すなはち、平成15年改正以前は、日本人が外国で外国人の犯罪にあつても、日本国刑法による保護はなかつた、といふことである。刑法改正案自体はあつた。しかし、刑法学界も学界のボス(?)平野龍一(ひらのりゅういち)氏以下、反対してゐた。察するに、【2003年12月】の自衛隊イラク派遣に反対する外国人の日本人へのテロ攻撃に備へて、【滑り込みセーフ】的に刑法を改正したものと推定される。

刑法をどんどん改正して刑法学者をもつとこき使ひませう。それが、(仕事へのインセンティブを与へてあげるといふ点で!)【彼らのため】でもある。「こちらの目的を達して、かつ、相手に恩着せる」といふのは作戦上の常套手段である。

参照条文
刑法【平成15(2003)年7月】改正(8月施行)による追加条文

(転載)
http://www.houko.com/00/01/M40/045.HTM

(国民以外の者の国外犯)
第3条の2 この法律は、日本国外において日本国民に対して次に掲げる罪を犯した日本国民以外の者に適用する。

1.第176条から第179条まで(強制わいせつ、強姦、準強制わいせつ及び準強姦、未遂罪)及び第181条(強制わいせつ等致死傷)の罪
2.第199条(殺人)の罪及びその未遂罪
3.第204条(傷害)及び第205条(傷害致死)の罪
4.第220条(逮捕及び監禁)及び第221条(逮捕等致死傷)の罪
5.第224条から第228条まで(未成年者略取及び誘拐、営利目的等略取及び誘拐、身の代金目的略取等、国外移送目的略取等、被略取者収受等、未遂罪)の罪
6.第236条(強盗)及び第238条から第241条まで(事後強盗、昏酔強盗、強盗致死傷、強盗強姦及び同致死)の罪並びにこれらの罪の未遂罪

http://www.houko.com/00/01/M40/045.HTM
(終了)

以上。御無礼。


[4753] 相殺(そうさい) 投稿者:小山 みつね 投稿日:2005/01/03(Mon) 13:38:38
こんにちは、小山 みつね です。
新年最初のこぼれ話。


今は昔、民法学界のドンに、我妻栄(わがつまさかえ)といふ者ありけり。才知誉れ高き者なり。ある日、我妻氏、我妻軍団を集めて以て、民法上の相殺(そうさい)について議論せしめたり。時期は年末なりき。やをら(おもむろに)、我妻氏いはく、「年賀状を相殺しよう」と。一同笑ふこと限りなし。

以上


[4752] あけましておめでたうございます 投稿者:小山 みつね 投稿日:2005/01/03(Mon) 13:36:37
〃、2005
<)〓 ) 酉〓
⌒ヽ / 〓 彡
ヽ(〓 ̄/⌒フ
〓\_ ミ彡〓
  _」」


[4751] 臓器移植なるものについて、ドナー登録からの思いつき 投稿者:会員番号2312 山崎隆徳 投稿日:2005/01/02(Sun) 17:03:10
新年明けましておめでとうございます。山崎隆徳です。

まず、細木数子氏の著書、「六星占術の極意」より引用します。

(引用はじめ)117〜118

近頃は臓器移植がどんどん行われています。しかし、この臓器移植は、「因果の法則」からすると、神をも恐れぬ所業と言っていいでしょう。
たしかに、臓器が移植されて命が助かることもあります。しかし、仮に臓器移植によって命が助かったとしても、もともとの臓器の持ち主の「因果」は、移植された人に移るだけで、根本的に消えてなくなるわけではありません。すると、臓器の移植を受けた人は、自分を生んでくれた両親、そしてその先祖の因果と、臓器を提供してくれた人、その両親、さらにはその先祖と、膨大な人の因果をすべて背負うことになるわけです。これは考えてみると、恐ろしいことです。一人の因果を背負うだけでも大変なのに、ふたつの家系のいんがを一所に背負うのですから、その人はものすごいエネルギーの消耗を強いられることになります。その圧力に耐えられるという人は、まずいないといってもいいでしょう。

臓器移植を受けた人の子孫、あるいは家族たちのその後がどうなっているかについてのデータはまだありません。ですから、あまり軽率なことはいえませんが、「因果の法則」に照らし合わせてみて、それが理にかなったこととは決して私には思えないのです。どんな人も美しく年をとりたい、天命をまっとうしたいと考えています。しかし、だからといって、臓器移植を受けたりするのは考えものです。大切なのは、先祖代々、また自分自身で積んだ造悪の因果を少しでも減らすことです。知らず知らずに積んでいる造悪の因果こそ、私たちの不幸の根本原因です。それを完全に消すことはできませんが、自分の努力で多少なりとも、薄めることは可能です。それを修善といいますが、「脩善」とは「善」を修めることです。つまり、先祖をきちんと供養して差し上げることをいいます。

(引用おわり)

私は、この一文を読んだとき、映画館で鑑賞した「21グラム」をいう映画をおもいだしました。この映画は臓器移植を題材に、3人の主人公の因果が絡みあう物語です。この映画は、ハッピーエンドにはなりません。3人の主人公の苦難の人生が描かれ、臓器移植などしても、一時、命が永らえるだけで、臓器提供者の因果が降りかかり、さらなる苦難が
主人公たちに襲い掛かります。

臓器移植が人類にとって幸せをもたらすかどうかは、わかりませんが人間は死ぬときがきたら、自然にしぬのが「自然の法則」にかなった死に方なのだと思います。

日本にも、骨髄バンクの「ドナー登録」なるものがあります。そういえば、昔、テレビのCMで「もし、その当時、骨髄バンクがあったら、46歳になった夏目雅子さんにあえたかもしれません」などというCMが流れていましたが、細木数子氏の主張が正しければ、「提供者の因果を背負い不幸になった夏目雅子さんにあえたかもしれません」(笑)

日本の統計局のホームページをみても、骨髄移植後の患者のデータはありませんが、日本政府は移植患者のその後の人生がどうなったかを、統計学的にしらべ時間をかけてでも、そのデータを集めて骨髄移植が本当に日本国民にとって幸せな人生の選択になるのかを証明していただきたいものです。

最後に、「ドナー登録」で、ひらめいたのですが「姥捨て山登録」という制度もあってもいいんじゃないかなと・・・どうでしょうか、やはり、俺はひとでなしかな・・・「私は将来、年をとって、体が動かなくなったり、痴呆で頭がクルクルパーになったり、植物人間になったりしたら、おにぎり、一個だけもたせて山に捨てていいですよ」と「姥捨て山登録」を実行して、山の中で自然に亡くなり、家族、および、国に負担をかけなかった人には、お墓、仏壇、三回忌までの法要は国が負担しますよ、そして家族には、月に一回位のお墓参りを義務ずけ、素朴な先祖崇拝という民族固有価値を守る一助にもなると思います。

やはり、俺はひとでなしだぁぁぁーー

以上。新年早々、雑文で失礼しました。庄司誠さん、不肖な、やまちゃんを今年も宜しくお願いします。


[4750] 追記として。 投稿者:庄司 誠 投稿日:2005/01/02(Sun) 09:18:04
 小山みつねさんへ

 続けて庄司誠です。

 一応、私は林房雄や岡義武の本も読んでおきますが、「論争はお前(庄司)が林や岡の本を読んでからにしてくれ、お前みたいな不勉強の、独立自尊の精神からは程遠い、副島の腰巾着では話にならない」ということであれば、あらかじめそう書いて投稿して下さいね。

 本当はこの休み中にアイン・ランドの『水源』と『肩をすくめるアトラス』を読みたいんだけどね。


[4749] 小山みつねさんへ。 投稿者:庄司 誠 投稿日:2005/01/02(Sun) 09:04:07
 皆様、あけましておめでとうございます。
 庄司誠です。これからもよろしくお願いします。

 小山みつねさんへ。

 庄司誠です。

 まずは、拙稿の返信をありがとうございます。論争大歓迎!ということなので、それでは私の方も暇を見つけてボチボチと小山さんにからませてもらいます(年始はあれこれと忙しい、でも時間はかかっても返事はしますよ)。
 私の脳や信念や人格を根こそぎ叩き潰すぐらいの気持ちでかかって来て下さい。
 なんの遠慮もいりませんのでね。つまらん考え方をしている方が淘汰されるというだけのことで、判定は賢い見物人が冷酷に下してくれるでしょう。

 まずは、グローバリスト(手先)やポチ保守と小山みつねさんを一緒くたにしたことは素直にあやまります。すみません。これについては私が悪かった。

 しかし、「歴史をあるがままに見るべきだ」という前提に立って副島先生の属国日本論を敗戦国民のルサンチマンに過ぎないと断じるのは、私は浅はかだと思いますね。
 人間は歴史をあるがままに見ることなど決してできない。
 小山さんも岡田英弘先生の『歴史とはなにか』(文春新書・2001年)ぐらい読んだでしょう。歴史は科学ではなく、物語であり、文学なのです。
 人間の動きなどはもともとバラバラで整合性などないものだから、なにかのまとまった視点がなければ、歴史の流れなど叙述できないのです。
 今の(インテリ型の)日本人にとって最も説得力のある、史実に基づいたヒストリーというか国民史は、副島先生の属国論であるべきだというのが私の立場です。おおまかな流れを属国論でつかんで、あと個別にチョコチョコと修正を加えるというだけでいいと思っています。
 私は中国文明や近代ヨーロッパ文化に張り合えるだけのものを我が国が内包していた、などということをとても信じることができない。だから、日本史の大きな流れとしては、属国日本論の立場でいいのだという構えです。

 だから、私が小山さんに言いたいのは、属国日本論の他に優れた歴史観なり立場があるのなら、司馬史観でもなんでもいいから、それを私に教えてくれよということです。そこで、歴史はあるがままに見るべきだとかなんとか自分を超越的な立場に置いて神様のような視点で判定を安易に下さないでくれということです。

 それとですね、私のことを罵倒するのは別に構いませんが(アホボケカスというのは前から言われ慣れている)、私は「あー!!小山のやつが副島先生の悪口を言ってる〜言いつけてやる〜チクってやる〜」などというケチなさもしい根性はしていないですよ(笑)。

 はっきり言って私の歴史観なんてないですよ。
 そんな大層なものはないのです。私は副島先生が「真実暴き教」を創設するなら信者になってもいいくらいの人間だけど(笑)、実は司馬遼太郎の本を結構読んでる人間でもあるのです。大きくは副島先生の考えや主張に従って自分の歴史観を組み立てているのです。それが今の自分にとって一番説得力があるからです。
 だから、小山さんもそれ以上の大きなスケールでもって歴史を説明してくれて、それが副島先生の属国日本論より説得力のあるものなら、私は副島先生の言ってることなど全部かなぐり捨てて小山さんを先生と勝手に呼んで小山説に従います。それでもう一度自分の考え方を組み立て直します。

 それだけです。

 ああ、あともうひとつ。これは関係ない話だけど、平山洋・著『福沢諭吉の真実』(文春新書・2004年)はいい本ですね。本当はこの掲示板でこういう本も紹介していきたいのですが。

 小山さん、「お前みたいなカスなど相手にするだけ時間の無駄だ」と言わずに私と論争しましょうよ。私はマイクみたいに関係のないことをベラベラとしゃべりませんから。