以下の通り、活動内容をまとめてみたので、ご参照ください。
(アルルの男・ヒロシさんへ :今西錦司氏は確かに旧日本陸軍の系統でした。「日本の情報将校、今西錦司」ですな。)<<引用元>>
紀伊国屋書店 2002年12月初版
「フォトドキュメント 今西錦司 そのパイオニアワークにせまる」
京都大学総合博物館(編) 梅棹忠夫・斎藤清明ほか(著)<<戦前の今西錦司の探検歴>>
1934年 白頭山
1938年 内蒙古(第一次)
1939年 内蒙古(第二次)
1941年夏 ポナペ島
1941年 大興安嶺
1944年 内蒙古(冬)
※梅棹忠夫氏は1941年夏のポナペ島以降の探検に参画。<<補足>>
桑原武夫氏は京都三高での山岳部時代からの今西錦司氏の親友。戦後の今西錦司氏も京大人文研に迎えられた。<<以下、今西錦司氏の詳細履歴。 これで、京都学派探検系統の戦前の動きも含めてよくわかると思います。太字、下線はよしかわによる強調箇所です。>>
1902年 誕生
京都・西陣の織元「錦屋」の今西平兵衛・千賀夫妻の長男として生れた。
1921年 19歳。三高入学
一年浪人したのち、京都の第三高等学校に入学。
三高山岳部を結成。同じ部員に西堀栄三郎、桑原武夫もいた。
1925年 23歳。京都帝大入学
京都帝国大学農学部農林生物学科に入学。昆虫学を専攻。雪山や岩登りに熱を上げる。
1928年 26歳。結婚
【67ページ引用開始】
今西は、大学を卒業した年一九二八(昭和三)年の暮れに、二六歳で結婚した。妻園子は末妹千鶴子の友だちで七歳下だった。このころ家業は父が亡くなる前にやめていたが、貸家からの収入で生計を立てることができた。
【67ページ引用終わり】
1929年 27歳。陸軍予備役。
【67ページ 引用開始】
二九年には、陸軍幹部侯補生として桃山の工兵隊に入隊し、秋には除隊となり、予備役に編入された。
【67ページ 引用終わり】
1933年 31歳。無給講師、陸軍少尉任官
【67ページ引用開始】
このころ、借家人が家賃を供託したために家計に思わぬ打撃を受け、今西は就職することを考えた。しかし、学位をとるまでは就職しないほうがいいという、理学部教授川村多実二のすすめにより、三三年、理学部付属大津臨湖実験所に無給講師として赴任することになった。
【67ページ引用終わり】【69ページ引用開始】
1933年7月21日、陸軍工兵少尉に任官する。(写真あり)前列右端が(軍服姿の)今西。
【69ページ引用終わり】
1931年 29歳。AACK結成
【83〜84ページ引用開始】
大学院在学中の今西は仲間たちと一九三一(昭和六)年五月、ドイツの登山クラブにならってアカデミッシュ・アルペン・クルブ・キョウト(AACK、戦後に京大学士山岳会とする)を結成する。ヒマラヤ登山をめざす実行団体である。三高・京大時代からの同志、西堀栄三郎、桑原武夫、四手井綱彦や後輩の宮崎武夫、伊藤思らがメンバーだった。(略)しかし準備はしたものの、同年秋の満州事変の影響で実現できなった。
やむなく今西は西堀、高橋健治らと樺太(サハリン)の東北山脈を歩いた。これが、当時の日本領土内の辺境をめざす遠征登山のきっかけとなった。その集大成ともいえるのが、朝鮮の最高峰、白頭山(二七四四メートル)の冬季初登頂だった。
【83〜84ページ引用終わり】
1934年 32歳。白頭山遠征
【88ページから引用開始】
満州事変(一九三三)によってヒマラヤ計画が挫折した後、今西をはじめとしたAACKメンバーは樺太(サハリン)のソ連との国境近くの地図のない一帯への遠征を行なった。さらに、京都帝国大学旅行部と一体となって当時は朝鮮と満州の国境であった白頭山の遠征を計画し、京都帝国大学白頭山遠征隊を結成した。
今西錦司隊長以下二二人の隊員、同行記者二人、案内人三人という編成であり、学術研究もあわせて目的とした科学的探検登山として計画された。一九三四(昭和九)年一二月、遠征隊は京都を出発し、翌年一月中旬までに冬季の白頭山への初登頂に成功し、さらに周辺地域について学術調査も行なった。今西や西堀、高橋健治やヒマラヤ行に名を連ねるはずの顔ぶれをずらりとそろえた、遠征登山であった。これは事実上AACKとしての最初のエクスペディションとなった。ヒマラヤ登山では欠かすことのできない、べースキャンプと前進キャンプによる、極地法(ポーラー・メソッド)を採用した。また、テントなど装備や食糧にも新しい方式を採用し、無線機を導入するなど、わが国の登山や探検に新しい時代をもたらすことになった。さらに遠征隊報告書である『白頭山』も刊行した。
【88ページ引用終わり】
1938年 36歳。第一次蒙古行
【98〜100ページ引用開始】
ヒマラヤ計画が挫折したAACKのメンバーを中心に一九三八(昭和一三年)、木原均会長(農学部教授)を隊長にした総勢一三人の内蒙古学術調査隊が出た。トラックを連ねて広くまわり全行程は五〇〇〇キロに及んだ。(略)
今西の第一次蒙古行は、一九三八(昭和一三)年の自動車旅行であった。これは、満州航空に入社したばかりだった加藤泰安がかぎつけてきた関東軍の内蒙古調査にAACKを中心とした京都帝国大学学術調査隊が便乗させてもらったものだった。そして、草の種類や数を調べる調査を行ない、草原を構成する草の種類によって禾本草原、ヨモギ草原、ニラ草原と三つの類型にわけた。この調査の結果は、木原均編『内蒙古の生物学的調査』にまとめられることになる。ここにはじめて、今西をはじめとしたAACKメンバーは山のない平原の探検に手をつけたのである。
【98〜100ページ引用終わり】
1939年 37歳。第二次蒙古行
【98〜100ページ引用開始】
第二次蒙古行は、今西と森下正明の二人で、興亜民族生活科学研究所から派遣するかたちで実現した。内蒙古に認められる牧野の大類型を設定し、その類型の相違に応じて人間の生活様式にちがいが見られるかどうかを確かめることを目的とした。(略)翌三九年夏、再び内蒙古に入った。張家口から馬車で草原をめざした。この三ヵ月の旅は『草原行』として戦後の四七年に刊行される。
【98〜100ページ引用終わり】
1941年。39歳。梅棹忠夫らの加入。夏に、ポナペ島調査
【106ページ引用開始】
一九四一(昭和一六)年、ベンゼン核グループと自称した、三高山岳部の梅棹忠夫、川喜田二郎、吉良竜夫、藤田和夫、伴豊が京都帝国大学に入学した。彼らは大先輩の今西錦司を師と仰ぎ、いずれも野外研究者をめざし、梅棹は動物学、川喜田と伴は地理学、吉良は植物生態学、藤田は地質学を専門に選んだ。ベンゼン核のもう一人和崎洋一は当時地球物理学専攻だったが、後に人類学に移っている。今西は、彼ら京都探検地理学会の学生会員の訓練を兼ねて、南太平洋にあるポナペ島調査を引き受けることにした。ポナペ島は当時、日本の南洋委任統治領に属しており、南洋興発という会社がこの島でサトウキビを栽培していた。木原均教授が、この南洋興発に頼まれてサトウキビの品種改良を手がけていた関係で学術調査隊の派遣が実現したのであった。行きの船の中で、同船した学者による講義を受けることからはじまり、現地における動植物、産業などの調査を終えて日米開戦直前に帰国した後、今西の指導のもとで報告書づくりが始まった。今西による添削は、元の文章の痕跡が残らないほど徹底していたという。報告書は『ポナペ島』として出版された。
【106ページ引用終わり】
1941年。39歳。大興安嶺探検の実現
【116〜120ページ引用開始 川喜田二郎による記述】
今西さんから学術探検家としての訓練をうけるためにポナペ島に出かけたのだが、すばらしい体験をしたという気持ちのどこかに、「こんなちっぽけな島」に、あきたらなさを覚えたものである。帰りの船の上で、私は「次は北部大興安嶺だ」と考えていたことをはっきりと記憶している。
京都に帰ってからも、グループのなかで、「次はどこをやるんや」ということが話題になった。そこでグループのみんなと今西さんにも来てもらって、北山ヒュッテで話し合いがもたれた。酒を飲みながらだったが、その席で私が、「北部大興安嶺の横断をしたい」と提案した。でも、今西さんは即座に、「そんなとこ、あかん」と言うのである。みんなも友達だというのに、冷たくて、今西さんに同調するだけ。しょうがないので、ちょっとふてくされて、「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の……」って、ひとりで歌っていたら、後輩の川村俊蔵だけは、私といっしょに歌ってくれた。
その夜、全員が山小屋に泊まった。次の日の昼近くになって、山小屋から引き揚げようとしていると、今西さんが私のところにやってきて、「おい、いっしょに帰ろう」という。しかも「ほかの奴らが来たら、巻いてしまおうや」というのである。結局、ニノ瀬ユリから貴船神社の上におりるコースをとったのだが、途中で今西さんが急に立ちどまって、「おれはおまえの案に賛成だ」と、「誰もやらんのなら、二人だけでやろう」というわけであ
る。今西さんは、そういうところのある人だった。
そんなわけで、最初のうちは二人だけで画策していたのだけど、お金の話になって、困ったということになった。一文もないのである。
そんなおり、今西さんの京都一中時代の同期生で、大阪商大の教授をしていた奥平定世という人物が今西さんを訪ねてきた。「大阪の商人たちが、国防科学研究所をつくろうとしている。ついては、その京都支部長を引き受けてもらえないか」ということだった。今西さんは、あけすけな言い方で、「大興安嶺に行く金を出してくれるんなら、やってやるね」というのだ。奥平は二つ返事で「わかった、一わかった」ということになったが、結局、国防科学研究所の線はうまくいかなかった、しかし、奥平によって別の道がひらかれたのである。
北部大興安嶺に入るには、満州国治安部(軍事部)と関東軍の許可が必要だというので、私が新京(現・長春)へ行くことになった。奥平の紹介で、満州国治安部の高級顧問を務める藤村謙陸軍少将に会いに行くことになったのである。忘れもしないが、太平洋戦争が始まったのが一九四一(昭和一六)年の一二月八日、私が京都を出発したのは二日後の一二月一〇日だった。
藤村さんは大興安嶺計画にとても好意的で、資金も関東軍をプッシュして、満州国治安部から出させようとしてくれたのである。しかし、治安部との折衝は、私とあとから来てくれた伴が進めた。治安部に行くと、関東軍のお歴々がいて、私たちの計画をとりあえず聞いてくれるのだが、なんだかんだとケチばかりっけてダメなのである。前もって伴と、なんといわれようと絶対に怒らんようにしようと申し合わせていたので、なんとかしのげたのである。(略)
関東軍が承認して治安部が出してくれた金は、一万三〇〇〇円。そのお金は、調査隊がかろうじて出発できるだけの額だったのだが、今西さんがそれを聞いていうな言葉がまたケッサクなのである。「山ん中入って店があるわけじゃないんだ。それでよろし」。あくまでも、今西さんらしいのである。治安部が出してくれた資金は、最終的に二万五〇〇〇円だった。
当初の計画は、本隊と漢河隊で構成されていたが、やがてガン河上流から本隊と分かれて地理的白色地帯を突破する支隊があらたに加えられた。一そして、今西隊長が本隊を、森下副隊長が漢河隊を、私が支隊を率いることに決まった。
【116〜120ページ 川喜田二郎の記述 引用終わり】【123ページ引用開始】
「探検というものは、そのスタートにおいて、すぐれた発案者と、この案に共鳴して、これを推進してゆく何人かの熱心な同志と、そして背後から、この案が軌道にのるところまで、これを経済的に援助してくれるよき理解者と、すくなくともこの三つが揃わなければ、成立しない」(『大興安嶺探検』)
「大興安嶺の同志のほとんどが、当時学生であったということは、異常な現象として、探検史上に特筆されねばならないであろう。戦争はたけなわであった。えらい学者たちが、われもわれもと軍に便乗して、右往左往している。それを嘲るかのごとく、大興安嶺の学生は、軍を乗りこえ、軍の守りの外に、自由の天地を求めていった」(同)
大興安嶺探検は、今西と若者たちにとって、まさに探検であった。学術的にも空白地帯に挑み、多くの成果を得た。戦後に刊行された『大興安嶺探検』は今なお読み継がれているが、本書では一二六ぺージの大興安嶺探検隊ルート図ほか、多くの未公開写真を紹介する。
【123ページ引用終わり】
1944年 42歳。張家口に西北研究所設立。冬の内蒙古探検。
【122〜123ページ引用開始】
今西の大陸での生活は続く。
戦争中の一九四四(昭和一九)年五月、蒙古連合自治政府の首都、張家口に日本政府系の学術機関として西北研究所がもうけられた。今西が所長となり、敗戦までその任にあった。次長は民族学の石田英一郎(のち東京大学教授)。昆虫学者の森下正明、東洋史学者の藤枝晃、植物学者の中尾佐助、動物学者の梅棹忠夫、登山家の加藤泰安も在籍し、さらには、法社会学の礒野誠一、心理学の酒井行雄、社会学の甲田和衛、言語学の野村正良といった京都と東京からの多彩な人材をそろえた、異色の研究所であった。ちなみに、梅棹は嘱託だったが、新婚間もないその妻、淳子は正式職員で図書係であった。今西たちは、その年の秋から翌春にかけて、冬の内蒙古を横断・縦断する調査旅行を敢行した。この調査旅行の結果、梅棹と今西は独白の遊牧論を生み出した。
このようにして、今西の研究対象はカゲロウなど昆虫からウマなど哺乳類へ、生態学から生物社会学へと移っていくことになった。西北研究所など大陸での調査研究は、戦後の霊長類研究などにおいてめざましく展開していくためのターニング・ポイントとなったのである。
【122〜123ページ引用終わり】
1945年 43歳。敗戦。
【167ページ引用開始】
翌年八月一五日の敗戦とともに、日本軍は撤退し、政府は解消してしまった。今西も、引き揚げをはじめた居留民といっしょに張家口を離れた。今西の乗った汽車は、二一日正午すぎに張家口を出発、その後、梅棹らも汽車で北京に向かった。このように「張家口落ち」した今西は、翌年五月に京都をめざすまで北京で過ごすことになる。この間、年末から年始にかけて、張家口で書きかけていた論文を次々と脱稿していった。
【167ページ引用終わり】
1946年 44歳。日本への引揚げ。追放はされなかった。
【181〜182ページ引用開始】
中国から帰国。京都大学理学部動物学教室に無給講師として戻り、家財を切り売りする生活のなか、しばらくは執筆に専念した。教室別棟の寒々とした実験用の研究室に、家から持ち込んだ畳を敷いて、『人問以前の社会』などを脱稿する。この別棟は、寄生虫を研究していた講師、山口左仲が一九三四(昭和九)年に寄贈したもので、「寄生虫」とか「特研」と呼ばれ今西や徳田御稔など、理学部動物学科の出身でない"外様"の教室員の部屋が多かった。別棟は一匹オオカミのたまり場のようなところだった。
このころ占領軍のGHQ(連合国総司令部)から軍国主義者や戦争協力者の公職追放の命令が出ていた。大学にもその方針が及び、何人かが辞めさせられたり、自ら辞めたりしていたが、今西もひっかかるのではとのうわさが流れた。大興安嶺探検は満州国軍の協力や国防科学研究所の後援で行なったものだが、このとき今西は、「われわれは、軍の守りの外へ出ていったのだ、軍に利用されたのとちがう。むしろ、こっちが「われわれは、軍の守りの外へ出ていったのだ、軍に利用されたのとちがう。むしろ、こっちが軍を利用したんや」といって、居直ったという。しかし、学術探検のために一九三九年につくっていた京都探検地理学会は、GHQからにらまれたので、会員に解散の同意を回覧で得たうえで解散した。一方で新たに「白然史学会」を組織し、例会を開き、会誌『自然と文化』を発行して、またの機会に備えたのである。
【181〜182ページ引用終わり】
戦後の今西錦司
【15〜17ページ引用開始 梅棹忠夫氏の記述】
生物学者としては、今西はながく不遇であったといわなければならないだろう。かれはずっと無給講師であった。わたしたち幾人もの青年たちがかれを師とあおいであつまっていたのだが、本来ならば、かれには公式には学生を指導する権利も義務もなかったのである。かれはこのような立場を「一私講師」と称していた。ドイツ語のプリヴァートドツェントの訳であろう。けっきょくかれは、動物学教室においては最後まで一私講師であった。講義もなかった。一ど短期間の講義がおこなわれただけである。
戦後の制度改革で、大学ではこのような無給職員をおくことがゆるされなくなり、今西も有給の講師となった。しかし、それは理学部動物学教室においてではなく、おなじ京大の人文科学研究所においてであった。友人の桑原武夫教授や貝塚茂樹教授の推挙によるものであったと聞いている。
今西が人文科学研究所の教授になったのは一九五九年、かれが五七歳のときであった。この年に研究所に社会人類学の部門がもうけられて、その初代教授となったのである。これは、新設のポストにかれがむかえられたというよりは、それまでこの研究所で講師の地位にあまんじていた今西のために、このポストがもうけられたといったほうがよい。このポストはのちに、今西の定年退官後にわたしがひきつぐことになる。
今西の社会人類学者としての仕事は、戦前のモンゴル研究をはじめ、戦後の日本の農村研究などで着実につみかさねられていた。それと平行して、戦後はサルの研究がおおきく展開しつつあった。河合雅雄、川村俊蔵、伊谷純一郎などのわかい研究者たちとの精力的なヲールド・ワークによって、ニホンザルの社会構造がしだいにあきらかになってきていた。それは野生ニホンザルの個体識別という、世界でも例のない方法によるものであった。
この研究はのちにアフリカに拡大され、対象はニホンザルからゴリラおよびチンパンジーにうつっていった。こうして、類人猿研究の進展にともなって、一九六二年には京大理学部動物学教室に自然人類学の講座が新設され、今西は人文科学研究所の社会人類学の教授とともに、理学部教授を併任することになる。このように今西が京都大学教授となったのは、定年もちかづいてからのことであるが、それにもかかわらず、京都大学内部における今西の組織者としての活動ぶりにはおどろくべきものがあった。
一九三一年には京都大学学士山岳会を組織している。この団体はのちに社団法人となり、多数の名登山家を世におくりだして登山界の名門となった。一九三九年には京都探検地理学会を組織して、おおくの探検隊を海外におくりだすと同時に、わかい探検家たちの育成指導をおこなった。一九五一年には生物誌研究会を組織して、マナスル登山隊をはじめ、カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊など、多数の遠征隊をおくりだした。
これらの組織はすべて海外へ登山隊や学術探検隊をおくりだすために今西がつくりだした装置である。しかも、かれは組織を創設しても、けっしてその長になろうとはしなかった。たとえば、京都大学学士山岳会は農学部の木原均教授がながく会長をつとめていた。今西がその会長となるのは、ずっとのちのことである。生物誌研究会はやはり農学部の並河功教授が会長であった。いずれの場合も創設者は今西であることにかわりはなく、実質的な運営と戦略指導は、つねに今西の手ににぎられていたのである。
【15〜17ページ 梅棹忠夫氏の記述 引用終わり】よしかわ邦弘です。
戦後も、今西錦司氏は多方面に活躍しております。今西氏がいなければ、「新・京都学派」はなかったと、わたしは思います。
以上です。
松岡正剛の千夜千冊『中世の説話』から一部貼り付けRC:「ささやき竹」という話。絶世の美女の虜になった僧侶が、竹の節を抜き、夜更けを待って娘と両親の寝間の枕元まで差し入れ、毘沙門のお告げをささやいた。「娘を鞍馬に登らせれば縁が結ばれるにちがいない」と。
まさに中世版「ささやき攻撃(通常版)」です(笑)。更に源流を探ると、1世紀前後のユダヤの古事談に「神が望んだと言って女をかどわかす話」があったそうです。「美女と野獣」の組み合わせは要注意です(笑)。
現代なら早朝のレム睡眠時に、アメリカン・テクノロジー社が開発した「超音波サウンド拡声器(HyperSonic Sound Bluehorn」や超音波を歪ませて人間の耳に聞こえさせる特殊なスピーカー「パラメトリック・スピーカー」などの音を聴かせて「洗脳」する事でしょうか。(貼り付け開始)
この本にはずいぶん影響をうけた。お会いしたことはないが、こういう人が歴史の襞の中を右へ左へ、奥へ裏側へ、あたかも"知の紙魚"のごとく掘削している姿を浩翰な文章で読むのは、まことに贅沢な気分にさせられる。
ささやき竹図版(実践女性大学所蔵)
フランスのグルノーブルの生まれで、戦時中を東京でおくって慶応の経済学部。大学院で中世フランス文学を専攻。その後はパリで古書店をくまなく歩く日々。フランス語は得意中の得意で、とくにファブリオーをはじめとする中世の説話に通暁している一方、落語にも詳しく、とくに御伽噺にはめっぽう強い。こういう人が日本には必要なのである。
松原さんがどのように"知の紙魚"となって昔の話の中に入っていくのか、ひとつ例を紹介する。『お伽草子』に「ささやき竹」という話が入っている。岩波文庫でいえば『続お伽草子』に収録されている。かなりおもしろく、それなりに複雑なのに、分量といい、配役といい、組み立てといい、まことによくできた話になっている(読者諸君、この筋書きはおぼえるとよい。いつか必ず役に立つ)。
昔、二条の小路に左衛門尉という身分の高くない男がいて、子供に恵まれなかったので鞍馬の大悲多聞天(毘沙門天)に願をかけ、一人の女子を得た。この娘が14歳になり蹴鞠を見物しているときに関白が目をとめ、すこぶる懸想したが身許がわからない。「高間の山に住む」と聞いて、さては化生の者かとも思ったが、募る思いは消えず、臥せりぎみになる。周囲の者たちが心配してあれこれ尋ねると、周防内侍が「高間の山」とは和漢朗詠集にも新古今集にも収められている「よそにのみ見てややみなん葛城の高間の山の峰の白雪」という歌に言う高間だろうから、きっと「ありかを定めぬ」ということだろうという。
峰の白雪のように行方が定まらない、そういう意味だというのである。しかしこれではますます居場所がわからないので、陰陽師の安倍仲元に占わせると、物詣(ものもうで)をするとよいということになった。関白は鞍馬に詣でることにする。一方、娘の父親の左衛門は婿さがしを始めているのだが、なにしろ大悲多聞天の申し子なので、鞍馬から西光坊という僧侶を招いて毘沙門の法をしてもらい、そのうえで決めようと考えた。西光坊は七日の行に入って驚いた。絶世の美女なのだ。
67歳のこの日まで片時も勤行を欠かしたことのない聖僧が、肝腎の祈りも上の空になり、たとえ死んで奈落に沈んでもこの娘と契りたいと思う。しかしそこは知恵もある僧侶、一計をめぐらした。
竹の節を抜き、夜更けを待って娘と両親の寝間の枕元まで差し入れ、毘沙門のお告げをささやいた。「娘を鞍馬に登らせれば縁が結ばれるにちがいない」と。
夫婦はガバと撥ね起き、お告げがあったことを興奮して西光坊に伝えると、西光坊は素知らぬ顔で、鞍馬は女人禁制だが、お告げならば仕方あるまいと神妙に説き、それでは自分が先に行って娘を迎える部屋に注連飾りでもしておこうと、いそいそ鞍馬に急ぐ。夫婦は心からよろこんで三三九度の盃を祝い、娘を長櫃に入れ、男二人に担がせた。男たちは祝酒に酔って途中でつぶれ、御菩薩池(みぞろいけ)あたりに長櫃を置く。
そのとき、関白が鞍馬参詣から降りてきた。男が傍らに眠って長櫃があるので中を覗かせたところ、どうやら女が入っているらしいが暗くてわからない。ともかく連れて帰らせることにして、変わりに牛を入れておかせた。西光坊のほうは仲間を呼び、鮒を料理し、鯉を切って、ふんだんの御馳走を用意しているのだが、娘が到着しない。そこへ酔いがさめた男たちが長櫃を抱えて入ってきた。
坊主どもは衣に香を薫き染め、皺だらけの顔を洗ったりして、ようやく長櫃をあけると、そこからはなんと痩せた黒牛が躍り出た。西光坊はさては天狗の天罰でも食らったかと慌て、数珠をとりだし祈るも効き目がない。しかたなく牛を隠し、料理を片付け、何食わぬ顔をすることに決めたが、噂が噂をよんで娘が牛に変じた話が広まり、そこへ一人の納付があれはわしのところからいなくなった牛だと言ったものだから、結局、西光坊の悪事も色事も露見した。
一同が、この悪僧を石子積みにしようか柴漬けにしようかと議論していると、一天俄にかき曇り、雷鳴が轟き雷電がどこやらに落ちた。やがて奥山の杉の梢に引き裂かれて逆さ吊りになっている西光坊が見つかった。
関白のほうはといえば、明るいところで娘を見れば、これこそ懸想した娘、これぞ毘沙門天の引き合わせとよろこび、妻に迎え両親も呼び、お礼にと鞍馬寺を建立することになる。娘は翌年たまのような男児を産んで、これが後の二位の中将となった。そして関白は堀川の太閤と呼ばれるようになったという。ざっとこんな話である。日本の伝説昔話の特徴がよくあらわれている。
さて、この話に似た話がヨーロッパにもあることを、松原さんはずっと気がついていた。1462年にブルゴーニュ侯に捧げられた『新百物語』の第14話がそれで、山の隠者があるとき後家の娘におおいに惚れて、これを首尾よく籠絡するため壁に穴を穿って中空の杖を差し入れ、「その子を山の隠者に差し向ければ法王の子を産むであろう」と天使のお告げを偽り、娘をかどわかそうとしたが、失敗して隠者はどこかに消えてしまったという話になっている。
しかもこの話はラ・フォンテーヌの『寓話集』にも、マルモンテルの『教訓小話集』にもすこし編集されて入っている。実はボッカチオの『デカメロン』にもマズッチオの『ノヴェリーノ』にも同種の話は入っていた。しかし、いずれも「ささやきの竹」は「中空の杖」というふうになっている。
いったいどちらが話の原型なのか。
松原さんはあれこれ推理するのだが、どう考えても「中空の杖」はそれを作るのが難しそうで、竹の節を抜くほうがずっとわかりやすいし、説得力がある。
そうなると中国あたりが話の起源ということになるのだが、案の定、『酉陽雑俎』に原話のようなものがあった。もっと調べていくと、そもそも「神が望んだと言って女をかどわかす話」は1世紀前後のユダヤの古事談にもあった。
のみならずこの手の話は世界中に散布されていた。日本にも『雑談集』に似た話が収録されている。ということは、これはシンデレラ物語と同様の「物語母型」(ナラティヴ・マザー)をもっている話で(シンデレラの母型も『酉陽雑俎』に入っている)、おそらくは竹があとから杖に変わったのであって、その元々の話では、その竹すらもなかったのではないかと気がついた。
すなわち「ささやきの竹」は東洋の発明なのだが、そしてそれを西洋が真似たのだろうが、その奥にはどこが起源の発祥とも区別のつかない「神を騙って女を手に入れる話」と「女が途中で動物にすり替わる話」とがあったのではないか。そういうふうに推理したほうがよさそうなのである。
いやいやもっと突き詰めれば、根本の母型には「神を騙る話」と「女と動物の関係の話」が起源的にあったということになる。それでは、これらはどのように太っていって「ささやきの竹」や「隠者の杖」の話になっていったのか。本書はその「あいだ」にこそ何かの「つなぎの秘密」がひそんでいるのではないかという物語編集の旅をめぐった一冊なのである。http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0540.html
(貼り付け終了)
「アメリカン・テクノロジー社」のサイトから一部貼り付け
(貼り付け開始)
超音波サウンド拡声器(HSS BullHorn)のイメージ写真
http://www.atcsd.com/tl_hss.html(貼り付け終了)
「南フロリダ・サン・センティネル」(シカゴ・トリビューン紙特約記事)から一部貼り付け
RC:アメリカン・テクノロジー社が開発した「超音波サウンド拡声器(HyperSonic Sound Bluehorn」の紹介記事です。
(貼り付け開始)
SOUND WEAPON(音響兵器)
音響弾の発射
アメリカン・テクノロジー社は、非殺傷音響兵器を開発した。この兵器は、激しい偏頭痛とほぼ同じくらいの刺激がある騒音を作り出すと装置の発明者は語っている。1:CDプレーヤーやオーディオ機器に兵器が搭載された。この兵器は、特別に設計された高出力放出器を取り付けた縦横約60cmの平らなパネルがある。赤ちゃんの泣き声のような音は、この兵器が処理して増幅したものである。
2:音響ビームの通り道にいない人々には何も聞えない
3:放出器が出す超音波信号は、壁や人の表面に触れた時だけ聞くことができる。
http://www.sun-sentinel.com/technology/chi-soundweapon-graphic,0,6464386.graphic(貼り付け終了)
日本語版「ワイヤード誌」記事から
米軍がイラクに投入する新たな非殺傷兵器は「音」 AP通信
http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/technology/story/20040308301.html超音波ビームで「ねらい定めて」音を伝える新技術
あなたの頭の中の声は本物かもしれない。
http://hotwired.goo.ne.jp/news/news/technology/story/20020225301.html電気通信大学「電子情報工学講座」から一部貼り付け
(貼り付け開始)
パラメトリック超音波スピーカー(Parametric Ultrasonic Speaker)
(聞こえないはずの超音波から聞こえる音が出てくる 不思議なスピーカー)
http://www.ee.uec.ac.jp/japanese/ee/ej.html
http://www.ee.uec.ac.jp/english/ej2.html(貼り付け終了)
ふじむら掲示板 [4434] 『聖書』から「ささやき攻撃」の源流を探る
http://snsi-j.jp/boards/past.cgi?room=undefine&mode=find&word=%C0%BB%BD%F1+%A4%B5%A4%B5%A4%E4%A4%AD%B9%B6%B7%E2+%B8%BB%CE%AE&cond=AND&view=10「健康用語辞典」から貼り付け
(貼り付け開始)
レム睡眠 【れむすいみん】
「Rapid Eye Movement:REM」浅い眠りを指す。体の骨格筋は弛緩状態だが、脳は覚醒に近い状態で活動し、まぶたの下で目がキョロキョロと動き、「体は眠っているのに脳は起きている」という状態。一般的には、入眠してから最初のレム睡眠出現までは60〜120分。その後、ノンレム睡眠とレム睡眠をおよそ90分周期で繰り返す。ちなみに、夢を見るのはたいていこのレム睡眠のときが多い。http://www2.health.ne.jp/word/d9006.html
ノンレム睡眠 【のんれむすいみん】
「Non-Rapid Eye Movement:Non-REM」 いわゆる深い眠りを指す。脳の温度は下がり、体は弛緩して心拍のテンポも遅くなり、眼球は上転してほとんど動かない、「脳も体も休んでいる」状態。さらにノンレム睡眠にも深い時期と浅い時期がある。このノンレム睡眠の深さは睡眠の質とも関係しており、熟睡感に影響すると考えられている。http://www2.health.ne.jp/word/d5008.html
(貼り付け終了)
田原総一朗は明日の「朝まで生テレビ」の司会ではないようです。
ヤフーのテレビ番組の予定表によると、
なんと司会はあの「宮崎哲弥」です。電通の後ろ盾を持つ田原総一朗の後継は、
やはり、電通つながりで、宮崎哲弥でした。田原総一朗は、電通を後ろ盾として、「青の会」?かなにかを組織し、
言論人の「見番」みたいな事をしていたと、
藤原肇氏が書いてたように記憶してます。宮崎哲弥は、確か、電通関連のシンクタンクか何かの研究員をしてました。
なんだか、あからさますぎて、拍子抜けですが。
ア、そういえば、森田実氏が自身のホームページで、
米国の息のかかった某広告会社について、
恨み言めいたことを書いてたような・・・。「聯合」と「電通」が合併して「同盟通信社」が生まれ、
戦後、「同盟通信社」は、
「共同通信」、「時事通信」、「電通」の三つに分かれたんでしたっけ?
「講談社選書メチエ」のサイトから貼り付け(貼り付け開始)
選書メチエ
モンゴルvs.西欧vs.イスラム
著者: 伊藤敏樹
発行年月日:2004/05/10
サイズ:四六判
ページ数:254
ISBN:4-06-258298-8定価(税込):1,680円
内容紹介
________________________________________
世界勢力三つ巴、殺戮と外交の時代世界制覇に動くモンゴル。十字軍と奮闘するイスラム勇将。数千キロの彼方に親書を届ける西欧の宣教師。世界の3大勢力が武力と外交力の限りを尽くし覇を競った「中世の世界大戦」の時代を活写!
目次
________________________________________
第1章 モンゴル軍の西進
第2章 第7次十字軍の迷走
第3章 モンゴルのイスラム進攻作戦
第4章 西欧対モンゴル・モンゴル対イスラム・西欧対イスラム
第5章 西欧大反攻
第6章 三つ巴戦の行方http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2582988
(貼り付け終了)
「読売新聞」2004年5月23日朝刊16面から貼り付け(貼り付け開始)
『モンゴルVS.西欧VS.イスラム』
伊藤 敏樹著 講談社選書メチエ 1600円「中世の世界大戦」を活写
評者・佐藤 俊樹(東京大学助教授)
昔の歴史に現代を読みこむのは邪道だが、どうしてもそうしたくなるときがある。この本を読みながら、何度かそんな気分を味わった。
題名からして誘惑的である。『モンゴルVS.西欧VS.イスラム』なんていわれれば、ついつい「日本とアメリカとイラク」とか「東アジアと欧米とアラブ」とか連想してしまう。おまけにこの『13世紀の世界大戦』(これが副題)では、ロシア平原で、西アジアの砂漢と都市で、中近東や北アフリカの海岸で、三大勢力が敵と味方を何度もとりかえながら本気でぶつかりあう。まるでゴジラ対モスラ対キングギドラの怪獣大決戦を見るようで、それって実は明日の私たちの姿なのかも……。
おっと感想が先走ってしまったが、中身はまっとうな歴史の本である。一番の良さは当時のフランス語の文献をうまく取り入れているところだ。モンゴルがらみで描かれるルイ9世の十字軍や、ローマ教皇と東方キリスト教の駆け引き、シャルル・ダンジューの地中海制覇の夢などはなかなか新鮮。ただ、その分史料の引力は強烈で、視点が偏らないよう著者も十分注意しているが、「フランス人から見た世界史」という感じはやはりぬぐえない。
しかし、そのフランス中心主義がかえっていい味を出している。極西の辺境ならではの世界観は、極東にすむ私たちの視線と微妙に似ていて面白い。そればかりでない。ローマ教皇庁をフランス人で固め、外交戦を展開し、各地に軍隊や艦隊を派遣する。キリスト教を旗印に、大国にのしあがり、世界の覇権をねらう。その後ろ姿は今のアメリカにも通じる。
アメリカ「帝国」のご先祖は13世紀のフランスだったのか! そう考えると、現代の米仏の対立も「旧いフランスVS.新しいフランス」の戦いに見えてきて、妙に納得できる。まあ、裏返せば、懲りない人たちだともいえるが。
◇いとう・としき=1941年生まれ。パリ大学東洋語学部講師を経て、日本大学教授。専攻はフランス中世史。
(貼り付け終了)
「集英社」のサイトから貼り付け
(貼り付け開始)
分断されるアメリカ
ナショナル・アイデンティティの危機
ブンダンサレルアメリカ/ナショナル アイデンティティノキキ
■著者名: サミュエル・ハンチントン・著者/鈴木 主税・訳
■ISBNコード: 4087734056
■判型/頁: 四六判 /592頁
■定価: 2,940円(税込)
■発売日: 2004/05/26『文明の衝突』の著者が描く洞察力鋭い憂国論!!
WHO ARE WE? と自問する超大国アメリカの危機! 針路は世界主義か、帝国主義か、それとも?『文明の衝突』の著者が母国アメリカ合衆国の未来を痛烈に描いた憂国の書。日米同時発売!!http://www.s-book.com/plsql/sbc_book?isbn=4087734056
(貼り付け終了)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/433493336X/ref=sr_aps_b_1/249-3764090-5269111
「リバイバル新聞」から貼り付け(貼り付け開始)
意見 提言
「平和憲法」の本質を考える キリストの福音大分教会 釘宮義人
真の絶対平和主義日本国の現行憲法、いわゆる平和憲法はアメリカから押しつけられたものだと思われている。たしかに、それに違いあるまい。あの憲法の草案はGHQで作られ、その原稿を日本政府の手で翻訳したとする、その経緯は事実であろう。
この憲法草案が国会に上程されたとき、共産党だけが反対した。例の徳田さんか志賀さんあたりが言ったらしい。「一体、軍備を持たなくて国家の権威がどうして保てるというのか」。
しかし、他に一人として立たない。「どうせ、負けたんじゃないか。GHQの言いなりだよ。何を言っても始まらん」。ここで「丸腰平和論」が国会をスンナリ通過したのである。当時の国会議員諸君の愚弱な姿勢はまことに口惜しい。
しかし、平和憲法の第九条は、私たちクリスチャンにとっては涙が出るほど嬉しい「絶対平和主義」である。絶対平和主義というのは、トルストイが「イワンの馬鹿」で言い、内村鑑三先生が「聖書之研究」誌上で何度も述べた、人間の常識では到底はかりしれない珍無類の非戦論である。敵が来て、どんなに無茶残酷な戦闘をいどみ、皆殺しにやってきても武力抵抗しないというのである。これを「無抵抗主義」という人もあるが、トルストイに共鳴し、これに従って対英人民運動を起こしたガンジーは、これを「無暴力抵抗」と言った。
ガンジーは言う。「私たちは決して抵抗しないと言うのではない。暴力を用いての抵抗をしないのだ。ただ平和と愛の精神の力によって悪の力に抵抗するのである」と。
ガンジーは又、言う。「私たちは卑怯さのゆえに無暴力抵抗を叫ぶのではない。卑怯さのゆえに暴力を用いないよりは、私は武器を手に取ろうと思う。しかし、キリストも言ったように『剣を取る者は剣によって滅びる』。暴力では本当には勝てないのである。真の勇気をもって暴力に向かい、素手で勝った者こそ、本当に精神による勝利を得る」と。
事実、そのようにして、ガンジーは大英帝国に勝った。その英知を学んだマルティン・ルーサー・キングはアメリカの黒人闘争で尊い命を失ったが、しかし黒人の地位保障のため輝かしい勝利を収めた。
しかしながら、日本の平和憲法はこのような雄々しい絶対平和主義に立っているのではないのである。
神を信じた憲法を
日本の憲法の前文を読むとはっきり分かる。そこでは「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。このような前提で、「我々は軍備を持たない。永遠の平和を期待する」という甘ったらしい無責任丸腰平和論なのである。昨今、一時日本全土を覆い尽くした「イラクでの人質、自己責任を負え」の非難攻撃は、これをひるがえして日本憲法に与えるとよい。日本の憲法前文は、頼りにならない国際的公正と信義を信じて平和論をぶつ。ほとんど独りよがり、全世界せせら笑っているのではないか。無知もいいところである。
平和という言葉をひけらかせて、ひら謝りの土下座外交、これが当時の憲法草案、国会での起立賛成の議員諸君、そしてこの平和提案に口あんぐりした当時の国民一般の受入れ思考である。「負けたんじゃもの、仕方なか」。国民も総じて皆、敗戦にくじけていた。卑怯であった。
「日本国民は神を信じ、真理を信じ(最近の流行語のサムシング・グレートの意志と力を信じて、という程度でも私は我慢する)軍隊は持ちません。戦争は一切しません」、と言明してほしいのである。もう一度言う。「諸国民の公正と信義に信頼して」ではない。ただ一つの神、天地の創造者なる神を信じて絶対平和主義の憲法を握ってほしいのである。
戦後の日本政府や、日本人のしまりの無さ、弱腰、はっきりモノを言えない、こういう体質は戦後の平和憲法に原因がある。だから国も、国民もカネだけを追及し、カネだけで交渉する。気品も権威もない。だから、北朝鮮あたりからでも馬鹿にされるのではないか。
http://www.revival.co.jp/syasetu/fuchi01.html(貼り付け終了)
「キリスト教入門 月曜講座」から貼り付けRC:新約聖書の共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とヨハネによる福音書の解説です。それぞれ対象としている人が違います。日本人は“異邦人”なので「ルカによる福音書」を読むとキリスト教に対する理解が深まるそうです。
(貼り付け開始)
4回 5月17日(月)「新約聖書について」
この講座では、ルカによる福音を辿りながら他の福音書との関係を見つめイエスとは、どういう方であるのか捉えていく。
新約聖書の大部分は、いろいろな教会に宛てた使徒たちの手紙である。中でもパウロの手紙が非常に多い。ローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙�機Ν供▲�ラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙。これらの手紙は、パウロが宣教に出かけた先で洗礼を授け教会共同体を作り・その共同体を時折、励まし、教え、導いた。テモテヘの手紙I・�供▲謄肇好悗亮蟷罅▲侫�レモンヘの手紙は、パウロの弟子のひとりの人に宛てられた手紙。ヘブライ人への手紙は、多分パウロの弟子が書いたのであろうと言われている。使徒の書いた手紙ヤコブの手紙、ペトロの手紙、ヨハネの手紙�機Ν供Ν掘▲罐世亮蟷罅∈埜紊縫茱魯佑量杣�録がある。
四つの福音書について。マタイ、マルコ、ルカは、共観福音書。イエスについて共通の要素がある。ヨハネによる福音書は、共観福音書の並行記事は約9%しかなく、自分独自のものをまとめ上げている。マルコによる福音書が四つの中で一番短い。福音書がどういう風に出来上がっていったのか。マタイ、マルコ、ルカ福音書には、四つの資料が使われている。
1:主な資料はマルコによる福音書
2:Q資料、ドイツ語のクエレ「泉、源泉」というQ。元になる本が見つからないので、マタイ福音書とルカ福音書にはあるが、マルコ福音書には無いというのが、Q資料。どんなものがQ資料か。この中には、イエス物語や受難の記事がない。口で伝えられたキリスト教の教説であったのではないだろうか。
3:L資料とは、ルカ資料、ルカ独自の資料。
4:M資料とは、マタイ資料。ルカによる福音にあって他の福音書には無いのは、「マリアヘのお告げ」「マリアがエリザベトを訪問する」「マリアの賛歌」「ザカリアの預言」。マタイ福音書にだけある資料とは、旧約聖書の言葉を引用し、それを説明し、それと関わりを持たせている。福音書はいつ頃できたのか。イエスが活動を開始し、亡くなられたのは、紀元30年頃。パウロの回心は、紀元33年。最初の手紙は紀元50年頃に書かれ始めた。福音書が最初に書かれたのではなく、パウロの手紙の早い時期に書かれたもの。福音書が出来て、配布されていくのは、マルコ福音書が紀元60年代の後半。マタイとルカ福音書が10年位後。ヨハネ福音は、紀元90年代の終わり頃。
マルコによる福音書1章1節は『神の子イエス・キリストの福音の初め』イエス・キリストは、神の子であるということ。「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」そこヘイエスが来て、「洗礼者ヨハネから洗礼を受ける。」イエスが何者であるのか示すのは、「あなたはわたしの愛する子」と天の父。「誘惑を受ける」「ガリラヤで伝道を始める」と速いテンポでまとめ、簡潔にことを進めて書く。ユダヤ人を読者として想定。
マタイによる福音書「イエス・キリストの系図」ユダヤ人たちがメシアであるかないかと議論する時に、必ず聞くであろう血統をまず書く。アブラハム、ダビデの血筋であることを。「イエス・キリストの誕生」マリアの胎の子は、聖霊によって宿った神の子である。「占星術の学者たちが訪れる」「エジプトに避難する」「へロデ、子供を皆殺しにする」「エジプトから帰国」3章になって「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」。ユダヤ人でキリスト教になった人を読者として想定。
ルカによる福音書「献呈の言葉」ルカがテオフィロという人に献呈するという形を取り、この福音によってテオフィロさまに、確実な知識を得てくださいとルカは言う。「洗礼者ヨハネの誕生、予告される11章35節〜『聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる』。「マリア、エリザベトを訪ねる」「マリアの賛歌」「ザカリアの預言」2章で「イエスの誕生」イエスの幼年期のことも書き、3章で「洗礼者ヨハネ、教えを宣べる」。異邦人、ギリシャ人を読者として想定。
ヨハネよる福音書1章1節〜18節『初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった』と序文があって、19節「洗礼者ヨハネの証し」となり、その後の展開は、他の三つの福音とは異なっている。14節ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた。ユダヤ人キリスト者を読者として想定。
四つの福音が共通して言っていることは、イエスは、神の子である。この世に生まれて来た神の子。
イグナチオ教会
http://www.ignatius.gr.jp/(貼り付け終了)
もっと詳しく知りたい方は、
山本襄治神父のキリスト教入門講座を読んで下さい。
http://www.pauline.or.jp/nyuumon/index.html
<書誌事項> 金賛汀(キムチャンジョン)「朝鮮総連」、2004年5月、新潮社(新潮新書068)、P206、本体680円<著者略歴> 1937(昭和12)年京都生まれ。ノンフィクション作家。朝鮮大学校卒業後、雑誌記者を経て独立、歴史に翻弄された朝鮮民族について執筆を続けてきた。92年に上梓した『パルチザン挽歌―金日成神話の崩壊』で北朝鮮政府の「正史」を覆して話題に。他に『在日、激動の百年』など。
<同書「はじめに」より> 新潮新書編集部から執筆の打診を受けた後のある夕食時、家族にその話をしたところ、全く意外にも家族全員が書いたほうがいいという。今、日本社会からバッシングを受けている朝鮮総連を誹謗中傷ではなく、正確に、いささかの同情を持って厳しく批判的に書けるのは私だけではないか、との一致した意見であった。私は連れ合いや子供たちがそれほど私を評価してくれているとは思っていなかったので、少し気恥ずかしい思いもした。だが何より家族が訳のわからない連中の嫌がらせ電話を気にもかけていないのが頼もしかった(藤村注:1992年、著者は金日成の経歴詐称/歴史捏造を暴いた著書『パルチザン挽歌』で脅迫を受けている)。
私の仕事の大半は在日史に関する執筆活動である。朝鮮総連に関する著書もいずれ在日史の関連で書かなくてはと思っていたことでもあり、私の「朝鮮総連」を書いてみようと思うに至った。そして在日同胞の輝ける星から「反民主主義、反民族団体」視される組織にまで、いかに変質してしまったか。その過程を具体的に追い、今後、朝鮮総連が在日同胞の権利擁護団体として存続するためにはどうしたらいいのか考えた。
歴史的に見ても左翼系在日朝鮮人の運動団体は1955年5月に運動方針と活動に行き詰まり、在日大衆の支持を失い、在日朝鮮統一民主戦線(民戦)を解散して朝鮮総連を結成した。今また朝鮮総連が在日大衆の支持を失い、活動に行き詰まっている。当然のこととして在日大衆の支持を失った朝鮮総連は解散するべきであろう。そして新しく誕生する組織が在日の星となることを願い、この原稿を書いてみた次第である。(同書、P9-10)<私 見> 現在、水や土を扱う仕事に従事しておられる方々、アウトドア・ライフや釣りが趣味の方々は別にして、みなさまのお宅にはゴム長靴があるでしょうか。
私のうちにはありません。いつの間に、ゴム長靴を必要としない生活様式に変化したのか、少し考えてみました。
子供の頃、ゴム長靴は家族全員にとって必需品でした。都市部に住んでいても、身の周りには舗装されていない路地がまだいくらでもありました。そこは、少し多めに雨がふればすぐ水たまりができ、泥ハネとヘドロだらけの沼沢地と化すようなおぞましい場所でした。
日常生活で、そんな「水たまり」を目にする機会が徐々に減ってきたのは1970年代の半ば頃だったでしょうか。「水たまり」だけでなく、アジア的な貧しさの名残りがふだん目につく場所から一つ一つ消失して行ったのも、その頃のことだったように思います。ハッキリした境界線がある訳ではありませんが、おそらく1970年代の半ば頃、日本は「豊かな国」へと変貌したのでしょう。もちろん1963年に生まれた私は、飢餓や物資欠乏を経験したことはないし、絶対的な貧困というものを目にしたことすらないのですが。さて、本書「朝鮮総連」を一読して、私は暗澹たる気分になってしまいました。伝え聞くところによると、日本共産党と公明党とは、北朝鮮の犯行による日本人拉致問題に対して極めて冷淡であるとのことです。一体どうして、本邦屈指の正義派と自他ともに認める両党が、そんな風に振る舞わざるを得ないのでしょうか。特に日共は、北朝鮮によるラングーン爆弾テロ事件(1983年10月)以来、北朝鮮のことを公然と非難してきたにも拘わらずです。
その理由は、川崎の町に何年か住み、下町の路地をウロウロしているとなんとなく分かって来ます。もちろんここ川崎でも「アジア的な貧しさの名残り」はもうほとんど目につかなくなっているのですが。
冷戦は終わり、プロレタリア独裁もあからさまな反共主義も、ともに過去の遺物となってしまいましたが、在日韓国人/朝鮮人のための権利擁護団体の必要性までもが消失してしまったとは私には思えません。最近では、帰化を志向する在日の人々が増えてきたとも仄聞しますが、そうスンナリと全てが丸く収まるのだろうかという危惧が私にはあります。まあ、ただの日本人であるこの私が、これ以上立ち入ったことを申し上げるのは僭越というものでしょうが。さて話を戻すと、私が本書「朝鮮総連」から得た最大の知見は、1970年代の半ば頃までは、日本から北朝鮮へと向かう金の流れよりも、北朝鮮政府から朝鮮総連に対し公然と送金されていた援助金の額の方が、実は大きかったという事実です。
(引用、始め)
北朝鮮政府も朝鮮総連の民族教育に対する取り組みの重要性を認識し、全力を挙げて支援した。(中略)
そして1957年4月に1億2109万円、更にその6ヶ月後にほぼ同額の教育援助金が送られてきた。当時の1億円は現在の貨幣価値で十数億円ほどに相当する金額である。
それまで「祖国」が具体的に在日のために何かをしてくれた体験を持たない人々にとって、素晴らしい感激的な出来事であった。そこに人々は「祖国」の「愛」を実感し、未来に対する希望を膨らませた。(中略)
当時、私の近所の小父さん(アジヨシ)は教育援助金が送られてきた事を知り、「在日同胞はこれからは学費に苦労せず、学校で学ぶことができる。金日成は大した男だ」と近所の人々に盛んに吹聴していたことを思い出す。(中略)
朝鮮総連に対する在日の期待が高まる中で、一方の(藤村注:在日本大韓民国居留)民団への信頼は低下していった。いや人々は失望したとさえいえる。李承晩政権は北朝鮮の在日教育援助金には猛烈に反対したが、韓国政府は一銭の援助も言明しなかったからである。
この教育援助金は民族学校の学校運営費や教員の給料などにつぎ込まれ、民族学校の財政的安定と経営基盤を強化する上で計り知れない力を発揮した。(中略)さらに一部は総連の活動費として流用され、総連活動を裏から支える役割も果たした。
総連の発表ではその援助は現在も続行されており、最高は1975年の年間37億円だった。そしてその総額は2002年までに448億6000万円の巨額に達した。この教育援助金が実質的に1970年代半ばまでの朝鮮総連の活動を支えていた。そして朝鮮総連の北朝鮮従属をも決定付けた。それ以降は北朝鮮から送られる教育援助金を在日同胞が北朝鮮に献金させられる金額が上回り、総額からいえば、北朝鮮が総連に与えた金額の数倍が北朝鮮に持ち去られたことになる。それでも朝鮮総連初期の活動、特に民族教育を支えたのがこの北朝鮮の援助金であったのは事実である。(同書、P69-72)北朝鮮は1975年には37億1000万円という巨額の教育援助金を送り、総連活動を財政的に支えていたが、その年をピークに民族教育援助金は年々低下し、金正日の「マルスム」(藤村注:総連自身で企業活動を行い、北朝鮮に送金するよう指示した「お言葉」のこと)が出た1986年には6億8000万円にまで落ち込み、その後もさらに低額になっていく。(同書、P149)
1980年代から90 年代後半まで朝鮮総連が北朝鮮に送金した金額は、日本ではさまざまな噂や怪説が流布され、年間1000億円が渡ったなどと、あたかも見てきたような嘘を述べる人もいる。しかし、在日同胞の経済活動の規模を知る者にとって、そんな数字は到底信じられるものではない。この時期、進行していた在日商工人と北朝鮮との合弁事業の投資金額や有力商工人から私が聞いた話を総合してみると、実際のところは年間100億円を超えることはなかったと思われる。1980年代に入り商工人たちも度重なる献金要求に嫌気が差し、不平不満が強まっていったからだ。(同書、P141)
(引用、終わり)
生まれ育ちは選べないにも拘わらず、本人にとっては一生付いて回る問題です。その限りでは民族問題とは、政治体制や思想信条の違いを越えた人類普遍の問題と申せましょう。ところがそうは言いつつも、時代の流れ/環境変化とともに問題の性質が変遷/変貌して行く側面も、民族問題にはあるようです。特に、お金の問題とは切っても切り離せないようですね。そのことがとても良く分かった一冊でした。(以上)
京都学派の情報提供ありがとうございます。
近衛が出てきたので、よしかわさんが詳しいかな?と思っていましたが、思った通りでした。西田幾太郎の系統がやはり断絶していることがよく分かりました。
今西錦司の探検系統の人脈については、この本には出ていなかったのですが、気になっていたので助かりました。気になるのは今西系はやはり陸軍人脈で、西田系は海軍人脈であって、戦後の海軍系(海自系?)は「海の友情系」になってしまって、ゴリゴリの親米に変わってしまったということでしょうか。戦前から、親英米派の海軍人脈というのは存在したのでしょうが、京都学派の思想的なバックボーンが消えてしまったので、よけい影響力を持ってきたような気が致します。これをちょっと調べる必要がありそうです。とりあえずは阿川息子の本などを検討してみたいと思います。
所長さんに、山折さんがなっていることから何となくわかりますが、国際何とかセンターと名前の付くのは、中曽根/山本正系なのかな?と思えてきました。(笑)
海の友情―米国海軍と海上自衛隊 中公新書
阿川 尚之 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4121015746/ref=sr_aps_b_2/249-1786516-8111505それでも私は親米を貫く
阿川 尚之 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4326351322/qid=1085268600/sr=1-12/ref=sr_1_2_12/249-1786516-8111505物語「京都学派」 中公叢書
竹田 篤司 (著)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/412003187X/qid=1085268655/sr=1-5/ref=sr_1_10_5/249-1786516-8111505
アルルさんから「京都学派」のお話がありましたので、
私が知っている内容を簡略ですが説明します。まず、大阪読売新聞のホームページから転載します。ここに書いてある「京都学派」に関する内容がとてもわかりやすいからです。
http://osaka.yomiuri.co.jp/omoshiro/010905.htm
【転載開始】
日本で今、哲学者というと、プラトン、ヘーゲルなど、西洋哲学を教える大学教師をいう。しかし、オリジナルな哲学者がいなかったわけではない。それは、京都学派の人々だ。なぜ、京都なのか。それは、京の名刹(めいさつ)での座禅から始まった思想なのだ。
西田幾多郎の散歩コースは「哲学の道」と呼ばれるようになった(京都市左京区)西田って何
ドイツ哲学といえばカント、ヘーゲル。フランス哲学といえばデカルト、パスカル。アメリカならデューイだろうか。
それに比べ、わが京都学派はどうだろう。ほとんど唯一、日本の哲学と呼ばれる存在なのに、メンバーの名前さえ、一般的な知名度があるとはいえない。京都市左京区に「哲学の道」という観光地がある。桜並木が美しく、周辺のしゃれた喫茶店や甘味処、土産物屋も人気だ。東京から来たという若い女性たちに聞いてみた。「西田って知ってる?」
「知らなーい」「何、それ。お店の名前?」
西田とは、ここをよく散歩した哲学者、西田幾多郎(一八七〇−一九四五)のこと。哲学者が散歩したから哲学の道なのだ。
京都学派の哲学者を輩出した京都大。この時計台の中の講義室で西田幾多郎は最終講義をした京都大の哲学科教授だった西田と、その後輩、弟子たちは、まとめて京都学派と呼ばれる。
田辺元や三木清、高坂正顕、西谷啓治、和辻哲郎、九鬼周造。生物学の今西錦司やノーベル物理学賞の湯川秀樹も影響を受けた。だいたいが京都に住んでいた。東京にも、わずかながら独創的な思想家がいるが、大半は西洋思想の輸入に忙しかった。それだけに「京都」が目立つ。
もっとも西田本人は、石川県宇ノ気の出身で、東京大の選科を出ている。京都に来たのは、旧制四高から山口高へと地方を転々としていた教師時代。妙心寺の僧堂で禅の修行をするためだった。
なぜ禅なのか。この時期、西田は、父との確執、娘二人の病死、職業的不遇などに「人生の悲哀」を感じていたのだ。在家の禅修行者だった恩師、北条時敬や親友の鈴木大拙の勧めもあった。しかし、哲学者の禅修行には、根本のところで矛盾があった。最後の京都学派と呼ばれる京都大名誉教授上田閑照によれば、禅とは究極的に「考えるな」ということ。一方、哲学は「考えよ」という。「西田はこのギャップに身を投じ、苦闘した」
そして十年、西田が出した答えが有名な「善の研究」(一九一一年)だ。この本の刊行直前、西田は京都大に招かれる。
京都学派の思想は一人の哲学者の座禅から始まった。今、外国人も禅に関心を寄せる
西田の、そして京都学派の哲学は、禅と哲学から生まれた。それはすなわち、東洋の思想と西洋の思想のぶつかり合い。彼らは、西洋哲学の言葉で仏教思想を語りつつ、両者の根底にあるものを探した。東西の優劣を比べるのではなく、もっと大きな世界という立場、そしてその世界がよって立つ場所を考える。随分な大ぶろしきだ。それだけに誤解も受けやすい。「戦前は右から、戦後は左から批判され、そして忘れられた」と京都産業大教授(哲学)の森哲郎はいう。
「徹底した自由主義者だった西田」(孫の上田薫・都留文科大名誉教授)と京都学派は戦前戦中、文部省教学局を中心とする皇道主義派から激しく攻撃された。
草案と失望そして戦後は一転、「戦争協力者」のレッテルをはられる。
西田については、ジャーナリスト大宅壮一が「文芸春秋」五四年六月臨時号に、ある暴露記事を書いた。日本の戦争方針の根本となる大東亜会議共同宣言というものが四三年、東条英機によって発表されている。その草案を書いたのが、実は西田だったというのだ。
真相はこうだ。確かに西田は、宣言の下敷きとなる「世界新秩序の原理」という文章を書いた。だが、その内容は、東条らには難解すぎた。そこで御用学者がやさしく書き直し、ついでに「聖戦」や「日独伊枢軸」などの言葉を勝手に挿入したのだ。
その内容を知った西田は、和辻あての手紙で「失望いたしました。あれでは私の理念が少しも理解せられてゐない」と嘆いている。
それにしてもなぜ書いたのか。
当時、軍のファシズム的戦争指導を批判していた西田が憲兵隊に逮捕されるといううわさがあった。そこで軍や政界に太いパイプを持つ矢次一夫が「軍が哲学者の教えを請うている」といって西田を呼び出し、東条の右腕で、陸軍軍務局長の佐藤賢了に引き合わせたうえ、身の安全を保障させたのだ。西谷啓治 、高坂正顕、和辻哲郎
西田には、その席での談話を文章にするよう依頼、書いてもらったのが問題の文章という。
哲学者たちは、哲学も現実にかかわるべきだと考えたが、すべてドンキホーテ的な夢想に終わる。左派の三木は、近衛文麿政権のブレーンとして昭和研究会に参加。西洋の個人主義を超えた世界の協同を訴えた。しかし、マルクス主義に接近したとして治安維持法違反で逮捕され、獄死する。
一方、高坂、西谷らが「中央公論」や「文学界」の雑誌座談会で唱えた「近代の超克」は、論壇の流行語にもなった。今日のポストモダンにも通じる思想だ。しかし、政治的には近代、イコール米英に勝つ、という部分が強調され、日本の戦争賛美のスローガンに利用されてしまった。こうして京都学派は戦後、負のイメージを抱えたまま歩む。本家京都大でも、京都学派の思想を教える講座はなかった。それが日本哲学史講座として設置されたのは、ようやく五年前のことだ。
◇「京都学派」 海外で見直しの動き
しかし海外では、われわれの知らない間にキョウト・スクール、キョウト・シューレ(英、独語で京都学派)が再発見されていた。 米・ノース・フロリダ大教授ジョン・C・マラルドは「西洋では過去二十年の間に京都学派に関する文献およびその著作の翻訳が急速に増えてきている」という。グローバル化の進む中で、異文化間、文明間の対話をいち早く、高いレベルで行ったのが京都学派だというのだ。京都に、京都学派を学ぶため、欧米や南米からも留学生がやってくるようになった。
時代は、ひと巡りした。西田のいった「世界性」ということが、世界の文脈の中で、ようやく理解され始めているようだ。
(文中敬称略)
【主な参考文献】
「西田幾多郎全集」(岩波書店)、「西田幾多郎人間の生涯ということ」(同)、「祖父西田幾多郎」「続祖父西田幾多郎」(南窓社)、「京都哲学撰書第一期、第二期」(燈影舎)、「京都学派の哲学」(昭和堂)新京都学派
戦後、京都大人文科学研究所の教授を務めたフランス文学の桑原武夫を一つの中心とする京都の学者たちを新京都学派と呼ぶ。ときに「新」を付けずに京都学派ということもあるので、混同されやすい。民族学の梅棹忠夫、哲学の上山春平、梅原猛、鶴見俊輔、そして生物学の今西錦司も人脈的にはこちらに所属。多くは桑原主宰の人文研共同研究会に参加。ただ、専門はバラバラ。考え方も違う。西田の京都学派と一線を画する梅原は「西田さんや田辺さんの哲学を絶対化し、それを祖述すればいいという人たちにはついていけなかった」と自分の学生時代を回顧している。
文・森 恭彦
【転載終わり】よしかわ邦弘です。
上記の記事は、よくまとまっていると思います。
以下にわたくしの知っている内容を補足します。京都学派には大まかに、
・西田幾多郎の哲学系統、
・今西錦司の探検系統(戦後は、これに京都大人文科学研究所が合流)
の2系統があると考えます。
(通常、湯川秀樹に端を発する京大理系のノーベル賞受賞者の学統は「京都学派」とは呼びません)。まず、西田幾多郎の哲学系統。
上記記事にある通り、戦後に学統が断絶しました。(なお戦後日本の「リアリズム」国際政治学を唱導した京大法学部教授・高坂正尭は、戦前の京都学派の高坂正顕の実の息子ではあります。しかしながら、片岡鉄哉「日本永久占領」(講談社+α文庫)にも記述のある通り、戦後の東大法学部の政治学が丸山真男の影響下で「親米」に持っていけないので、アメリカが京大法学部に目をつけて、それによって育ててもらったのです(米国への留学等)。ですので高坂正尭は、戦前の京都学派の「近代の超克」論などとは全く断絶しています。)
次ぎに、今西錦司の探検系統。今西錦司は戦前、国家戦略の最前線で、探検の仕事をしております。戦争中には、中国東北部の大興安嶺の探検をしました。関東軍からは、当時のお金で約2万円の支援を受けています。
戦後は、この探検の系統から、今西錦司の生物学、梅棹忠夫の民俗学、伊谷順一郎や河合雅雄(河合隼雄の兄)のサル学が生まれました。
本来ならば、国家戦略に深く関係する学問であるはずの民俗学等は、「地政学」と同様、禁止されても何ら不思議はない学問ですが、うまく戦後も生き伸びました。その代わり戦後の日本人にとって、民俗学等の探検学者は、「国家戦略の中枢とは無関係の、非政治的な学者」としてのみ理解されることになります。
なお、戦後、桑原武夫等の京大人文研組が人脈的に合流します。京大人文研は「共同研究」という手法を開発して、一応有名になりましたがどんな学問的成果があったかは不明です。つまり、上記記事の戦後の「新・京都学派」とは、
戦前の探検系統がその素性を隠して展開した「生物学」「民俗学」「サル学」に、京都大学出身者が京大人文研で「共同研究」した文系学問がつけ加わったものだと考えます。現在、「新・京都学派」の根城は以下の2つです。
・ 国立民俗博物館(大阪府吹田市、万博公園内)
http://www.minpaku.ac.jp/
・ 京都大学人文科学研究所(京都市左京区、京大敷地内)
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/これに、京大文系人脈の活動の根城として、以下のものを追加しておきます。
・国際日本文化研究センター(京都市西京区)
http://www.nichibun.ac.jp/これは、中曽根内閣時代に設立された国立の研究所です。
初代所長が梅原猛、2代目所長が河合隼雄(京都大学名誉教授、現・文化長長官)です。
大田龍の時事寸評より。
(転載)
http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jijisunpyou.cgiE・M・ハウス大佐の一九一九年六月の文書の意味するもの。
更新 平成16年05月20日23時01分
太田龍の時事寸評
平成十六年(二〇〇四年)五月二十日(木)
(第九百五十回)○岡崎久彦。
○このひとは、敗戦後日本外務官僚の主流、日米同盟至上主義イデオロギーの
主たる宣伝員として、この二十年、活動をつづけて居る。○このひとの父親も外務官僚。
○昭和二十年八月敗戦時、未だ少年であったこのひとは、父親らが、
(1)アングロサクソン(米英連合)は天下無敵、不敗である。
(2)元祖アングロサクソンとしての英国は、十七世紀以来無数の戦争をし
たが、すべての戦争で、英国は勝者であった。
(3)米国が独立したのち、二十世紀に入って、アングロサクソン米英連合
は無敗である。
(4)アングロサクソン米英連合に敵対した国々はすべて敗れた。
(5)日本が、アングロサクソン米英連合と、二度と戦争してはならない。
(6)今後、日本の国家は、アングロサクソン米英連合との同盟を、絶対の
国策としなければならない。
と言った趣旨のことを語って居るのを聞き、そのことが強く印象に残った、
と、どこかで述べて居るのを記憶して居る。○実際のところ、この二十年来のこの人の言説は、
少年時代に、父親ら外務官僚から聞いた、アングロサクソン至上主義を、
そのまま何千回でも繰り返して居るだけのことに過ぎない。○ アングロサクソン米英連合は、天下無敵無敗であった。
↓
故に、これからも事実上、永久に、
アングロサクソン米英連合は無敵無敗であるだろう。
↓
故に、日本は事実上、永久に、勝ち組について行くべし、と。○そして、明治以降、
東京帝国大学を頂上とする大学で養成された日本の国家エリート権力階級
には、この種のペテン的表面的イデオロギーを批評し、批判し、乗り越え
て行く知識と教養、素養がそもそも存在しない。○キャロル・キグリー教授の、千三百頁の古典的大著、
「悲劇と希望」。○この著作を、
読んだことがないどころかその書名すら、一度も聞いたこともない、
と言うのが、現代日本の自称エリート権力者たちの標準的状況であろう。○ヘンリー・メイコウ(Henry.Makow)は、二〇〇四年五月九日付けの記事で、
一九一九年六月十日付け、
E・M・ハウス大佐「プログレス・レポート」、について論評した。○このハウス大佐レポートは、
米国議会記録、一九三九年十月十三日、五百九十八〜六百四頁、
に収録されたとある。○このハウス大佐の報告書は、
英国がいかにして米国を、再度、英帝国の植民地たらしめるか、について
述べてあると。○このハウスレポート(約十頁)については、後日全文翻訳紹介したい。
○以下、続報する。
(了)
RC:参考として、『聖書』(新共同訳)にある「ささやき」と「つぶやき」を載せます。まず「ささやき」です。「ささやき攻撃」の源流を探るヒントになれば良いなと思っています。(貼り付け開始)
�競汽�12:19 ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」詩41:5 わたしは申します。 「主よ、憐れんでください。 あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」
詩41:6 敵はわたしを苦しめようとして言います。 「早く死んでその名も消えうせるがよい。」
詩41:7 見舞いに来れば、むなしいことを言いますが 心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。
詩41:8 わたしを憎む者は皆、集まってささやき わたしに災いを謀っています。
詩41:9 「呪いに取りつかれて床に就いた。 二度と起き上がれまい。」イザ8:19 人々は必ずあなたたちに言う。「ささやきつぶやく口寄せや、霊媒に伺いを立てよ。民は、命ある者のために、死者によって、自分の神に伺いを立てるべきではないか」と。
イザ8:20 そして、教えと証しの書についてはなおのこと、「このような言葉にまじないの力はない」と言うであろう。2 Samuel 12
19 When David noticed them whispering to each other, he realized that the child had died. So he asked them, "Is the child dead?"
"Yes, he is," they answered.Psalms 41
4 I said, "I have sinned against you, LORD; be merciful to me and heal me."
5 My enemies say cruel things about me. They want me to die and be forgotten.
6 Those who come to see me are not sincere; they gather bad news about me and then go out and tell it everywhere.
7 All who hate me whisper to each other about me, they imagine the worst about me.
8 They say, "He is fatally ill; he will never leave his bed again."Isaiah 8
19 But people will tell you to ask for messages from fortunetellers and mediums, who chirp and mutter. They will say, "After all, people should ask for messages from the spirits and consult the dead on behalf of the living."
20 You are to answer them, "Listen to what the LORD is teaching you! Don't listen to mediums ― what they tell you cannot keep trouble away."(貼り付け終了)
RC:次に「つぶやき」です。
(貼り付け開始)
詩5:2 主よ、わたしの言葉に耳を傾け つぶやきを聞き分けてください。詩106:25 それぞれの天幕でつぶやき主の御声に聞き従わなかった。
知1:10 熱情の神はすべてに耳をそばだて、不信のつぶやきを聞き漏らされない。
知1:11 だから、無意味な不平を鳴らさず、悪口を慎め。ひそかなつぶやきもただでは済まされず、偽りを言う口は魂を滅ぼす。シラ46:7 モーセの時代にヨシュアは忠誠を示した。ヨシュアとエフンネの子カレブは、会衆を向こうに回して立ち、民が罪を犯すのを防いで、よこしまなつぶやきをやめさせた。
ヨハ6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、
ヨハ6:42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
ヨハ6:43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
ヨハ6:44 わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
ヨハ6:45 預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。
ヨハ6:46 父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。
ヨハ6:47 はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。Psalms 106
25 They stayed in their tents and grumbled and would not listen to the Lord.Solomon 1
10 God will tolerate no challenge, and since he hears everything, you cannot hide your complaining from him.
11 So be sure that you do not go around complaining ― it does no good ― and don't engage in bitter talk. The most secret things you say will have their consequences, and lying will destroy your soul.Sirach 46
Caleb
7 Joshua was loyal as long as Moses lived, both he and Caleb son of Jephunneh. They stood up to the whole community, made them stop their ungrateful complaining, and kept them from sinning.John 6
41 The people started grumbling about him, because he said, "I am the bread that came down from heaven."
42 So they said, "This man is Jesus son of Joseph, isn't he? We know his father and mother. How, then, does he now say he came down from heaven?"
43 Jesus answered, "Stop grumbling among yourselves.
44 People cannot come to me unless the Father who sent me draws them to me; and I will raise them to life on the last day.
45 The prophets wrote, 'Everyone will be taught by God.' Anyone who hears the Father and learns from him comes to me.
46 This does not mean that anyone has seen the Father; he who is from God is the only one who has seen the Father.
47 I am telling you the truth: he who believes has eternal life.(貼り付け終了)
更に、『薔薇の名前 上』ウンベルト・エーコ/著 河島英昭/訳 東京創元社の188頁から貼り付け
(貼り付け開始)
「あの二人のあいだでおこった事柄は、わかる気がします」自分の賢さを恥ずかしく思いながら、私は言った。わたくしたちはみながみな、神の慈悲を正しく信じているとは、決まっていないのではないですか? アルデモは、お言葉のように、たぶん懺悔をしたでしょう。ではなぜ、おのれの最初の罪を、明らかにさらに大きな罪で、あるいは少なくともそれに劣らぬ罪で、償 おうとしたのでしょうか?」「誰かが彼の耳に絶望の言葉を
囁 いたからだ。まえにも言ったように、昨今の説教者が書いたもののなかから暗示を得て、誰かがアデルモを怯えさせる言葉を囁き、それを使ってアデルモがベレンガーリオを怯えさせたのだ。じっさい近年ほど、説教者たちが民衆に向かって憐れみや恐れを(そして人の掟 と神の掟への恭順や情熱を)掻きたてるために、身の毛もよだつばかりの恐るべき凄惨な言葉を浴びせかている時代は、かつて存在しなかった。鞭打ち苦行者 の行列の繰り返されるなかで、わたしたちの時代ほどキリストや処女マリーアの苦難に題材を得た讃歌が唱えられた例 はかつてなかった。今日ほど、地獄の責苦を呼び覚まさせることによって、平信徒たちの信仰を駆りたてている例はかつてなかった」「おそらく悔悛の必要からでしょう」と、私は言った。
「アドソよ、すでに説教者も司教もわたしと同門である
厳格主義派 たちも、真の悔悛を推進できない状態にありながら、今日ほど、やたらと悔悛を訴える声を聞く時代はないのだ……」http://www.tsogen.co.jp/np/index.do
(貼り付け終了)
『THE NAME OF THE ROSE』 Umberto Eco TRANLATED FROM THE ITALIAN BY William Weaver
(begin: reprint)
“I believe I understand what happened between the two,” As I said, a page of a modern preacher must have prompted someone to repeat the words that frightened Adelmo and with which Adelmo frightened Berengar. In these last few years, as never before, to stimulate piety and terror and fervor in the populace, and obedience to stimulate and divine law, preachers have used distressing words, macabre threats. Never before, as in our days, amid precessions of flagellants, were sacred lauds heard inspired by the sorrows of Christ and of the Virgin, never has there been such insistence as there is today on strengthening the faith of the simple through the depiction of infernal torments. ”“Because someone said words of desperation to him. As I said, a page of a modern preacher must have prompted someone to repeat the words that frightened Adelmo and with which Adelmo frightened Berengar. In these last few years, as never before, to stimulate piety and terror and fervor in the populace, and obedience to human and divine law, preachers have used distressing words, macabre threats. Never before, as in our days, amid processions of flagellants, were sacred lauds heard inspired by the sorrows of Christ and of the Virgin, never has there been such insistence as there is today on strengthening the faith of the simple through the depiction of infernal torments.”“Perhaps it is the need for penitence,” I said.“Adso, I have never heard so many calls to penitence as today, in a period when, by now, neither preachers nor bishops nor even my brothers the Spirituals are any longer capable of inspiring true repentance……”http://www.randomhouse.co.uk/vintage
(End: reprint)
RC:これらの文章を読むと、「ささやき」と「つぶやき」は、不平や不満などの“口撃”、つまり、敵対する相手に対する武器として使われたと思います。特に「集団」に聞かされた人は、動揺や不安に陥り、最終的には精神を病んでしまうかもしれません。けっして悪用してはいけません。
さて最後に「元祖ささやき攻撃」と思われる箇所を載せます。それは、「ヨシュア記 6章 エリコの占領」の一部です。(貼り付け開始)
ヨシュ6:20 角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。 ヨシュ6:1 エリコは、イスラエルの人々の攻撃に備えて城門を堅く閉ざしたので、だれも出入りすることはできなかった。
ヨシュ6:2 そのとき、主はヨシュアに言われた。「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す。
ヨシュ6:3 あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。
ヨシュ6:4 七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。
ヨシュ6:5 彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、鬨 の声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。」The Fall of Jericho
1 The gates of Jericho were kept shut and guarded to keep the Israelites out. No one could enter or leave the city.
2 The Lord said to Joshua, "I am putting into your hands Jericho, with its king and all its brave soldiers.
3 You and your soldiers are to march around the city once a day for six days.
4 Seven priests, each carrying a trumpet, are to go in front of the Covenant Box. On the seventh day you and your soldiers are to march around the city seven times while the priests blow the trumpets.
5 Then they are to sound one long note. As soon as you hear it, all the people are to give a loud shout, and the city walls will collapse. Then the whole army will go strarght into the city."(貼り付け終了)
今、大橋良介氏の「京都学派と日本海軍」(PHP新書)を読んでいますが、難しいことはわかりませんが、戦前の京都学派の思想は、グローバルな視点で日本の東亜共同体を構築しようとしていたと言うことがわかる。これに対するのは、皇道派の国体明徴思想とは事なり、原理主義的な側面を廃し、世界における日本の声を主張とした京都学派の主張は改めて耳を傾けるべきものがあるのかも知れないと思われた。これに対して、戦後の京都大学は、猪木正道、高坂正堯、そして、中西輝政という人物が有名だが、これらが全て現状維持的保守、親米保守(猪木、高坂)、従米ポチ保守(中西)になってしまっている。中西氏に至っては、オックスフォードで勉強したにも拘わらず、なぜあそこまで短絡的なのだろうか。スタンフォードで「毒」でも呑まされたのか??
戦前と戦後でこの落差。旧京都学派の東亜協同体は、大橋氏によれば今で言えば、「アジア通貨協同体」のようなニュアンスがあるという。
そういえば、中曽根氏を中心にして、アジア協同体構想が復活しつつあると言うが、思想的にはどの辺を継承しているのだろうか。国体明徴派のような、アルカイダ的原理主義にはなるべきではないが、中曽根氏が首相を務めていた頃の従米主義に陥るべきではなく、日本の自立・自存を重視する、アジア協同体構想であって欲しいと願う。
朝鮮日報から転載します(転載開始)
06年から「複式簿記会計制度」導入へ
2006年から16の広域自治団体(地方自治制度で中心的な機能を担う各道・特別市・広域市の行政機関や議会)と、234の基礎自治団体(地方自治制度で中心的な機能を担う各市・郡・区の行政機関や議会)の全国250の地方自治体に「複式簿記会計制度」が導入される。
また、その実現の中間段階として現在9の地方自治体が試験的に実施している複式簿記電算システムを年末まで50の地方自治体に普及し、来年には150の地方自治体に拡大することにした。
行政自治部は20日、このような内容を骨子とした「複式簿記会計制度の導入計画」をまとめ、財務諸表の作成のための「会計基準草案」を発表した。また、この制度の導入とともに、地方自治体が作成した各種の財務諸表に対し、会計法人などによる外部監査を実施することも進めることにした。
複式簿記会計制度は、資産や負債、資本、収益、費用など、地方自治体の予算と関連したあらゆる動産と不動産の状態や流れを一目瞭然に整理した財務諸表を作成することをいう。
この制度が導入されれば、地方自治体は「財政状態報告書」や「財政運営報告書(性質別)」、「現金の流れに関する報告書」、「純資産変動報告書」、「財政運営報告書(目的別)」などを作成しなければならない。
これまで地方自治体は予算の規模と支出の内訳だけをまとめた「予算決算報告書」だけを作成してきた。政府は複式簿記会計制度が導入された後も、従来の予算決算報告書を廃止せず、引き続き作成させる方針だ。
政府は複式簿記会計制度の導入が地方自治体の透明性と競争力の強化に貢献するものとみている。つまり、地方自治体の財政運営の現状が透明に公開されるうえ、行政サービスに費用概念が適用され、公務員の経営マインドが改善するなど、行政の生産性が強化されるとのことだ。
また、複式簿記独特の会計誤謬を自動検証する機能により、公務員の会計不正も大きく減ると期待している。
張一鉉(チャン・イルヒョン)記者 ihjang@chosun.com
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2004/05/20/20040520000082.html
(貼り付け終わり)
『未来会計・未来仕訳のすすめ』阿座上洋吉・吉田久夫/著(1989年) 経営実務出版の10頁から貼り付け(貼り付け開始)
1 複式簿記について
複式とは、二式という意味であり、取引の二面的観察による記録をしたものである。それは、物物交換経済時代で考えて見ると理解しやすいと思う。
物物交換であるから、自分の所有している物の減少と、取引相手から受け取る物の二つの動きがあり、これらの二つの動きを同時に記録するには,二つ同時に記録する技術が必要である。
この記帳技術が複式簿記である。
交換経済時代から貨幣経済時代までは、複式簿記の威力があったといえる。しかし、今日のような信用経済時代には、必ずしもこの複式簿記では満足することができなくなってきている。つまり、貨幣経済時代でも物物交換の片方が貨幣になっただけであり、この時代までは、取引時点で交換が完了するから、交換記録を二式記入すれば十分であった。
しかし、信用経済時代は、交換に時間のズレが生ずるわけだから、従来の同時交換時代に考えられた伝統的複式簿記の考えだけでは,十分とはいえないのである。2 時間差交換について
信用経済時代には取引先から商品等を購入し、その代金は後日に支払ったり、また商品等を販売し、その代金は後日に受け取るように、従来のように同時に二つの動きとして記録するわけにはいかない。そこで、伝統的複式簿記では、交換のズレを次のように記録している。
<例>
4/15.商品¥500,000掛仕入れた。
仕入(商品) 500,000 買掛金 500,000
5/10.上記の代金を現金で支払った。
買 掛 金 500,000 現 金 500,000上記の取引は、4/15の商品¥500,000と5/10の現金¥500,000とは、一つの交換取引であって、そこには25日間の交換に時間差のあることがわかる。
取引とは、5/10の支払いをもって修了するのであって、4/15の購入時点では取引は未完成である。つまり、4月末の試算表を作成した場合には、5/12の未来取引を予定しているものは、買掛金¥500,000として帳簿や試算表等に表示されているだけである。4月末に表示される買掛金は、未来の支払額を表すことになるが、試算表の上では、5/10に支払われるという表示はない。支払日を毎月一定に定めている場合で、資金が十分にある企業は、5/10の支払いを予定できるし、4月末に表示される買掛金は、試算表の上でも5/10の支払計画等を判断する材料になる。
しかし、資金不足の時や手形による決済など、複雑な支払形態をとる企業では、とうてい試算表上で5/10の支払計画などを判断することは不可能である。
ここに,従来の二面観察だけの複式簿記では,近代経営資料としての限界があり,帳簿記録とは別途に資金計画を立てなければならないのである。
信用経済時代でも、経済規模が小規模であった時代は、伝統的な複式簿記で十分に経営資料として満足できた。この複式簿記は、手書きを前提として発達してきたものであって、今日のようにコンピュータを前提とする時代の複式簿記は、視点をかえてみるべきである。
現在、実務界で処理されているコンピュータ会計は、手書きコンピュータ・システムであって、本来のコンピュータを前提とした思想をもった会計システムとはいえない。
つまり、従来の伝統的手書き複式簿記をそのままの状態で、コンピュータに置きかえているにすぎないのである。3 大規模信用経済時代の社会
経済の規模が小規模であった時代における信用取引は、単なる小額資金の不足を借金した時代である。この時代の取引に時間差取引があったとしても、けっして現在のような大規模信用経済とは違うのである。
現在の大規模信用経済時代は、信用(借金)を薬として、不足する資本力をカバーするためのシステム化された社会をいうのであって、経済の小規模な時代の信用取引と近代の大規模信用経済時代とは区別しなければならない。
大規模信用経済時代は、経済社会の麻薬(借金)の効用をフルに活用する時代で、掛売買・手形取引・銀行借入枠などの他人資本が増大している時代であって、今日ほど借金にウエイトがかかっている時代はない。
この借金経営が、日本の企業を急成長させたといっても過言ではない。
「他人のフンドシで相撲をとる」ということわざがあるが、今日の借金経営は、まさしくそのとおりで、他人資本の高度利用である。4 経済社会の麻薬(借金)の効用
経済社会において麻薬(借金)の高度利用とは、どんなものであろうか。
<例〉
5/1.商品¥100,000を掛で仕入れた。
仕 入 100,000 買掛金 100,000
5.上記の商品を¥150,000で掛売した。
売掛金 150,000 売 上 150,000
10.上記の掛代金¥150,000を現金で回収した。
現 金 150,000 売掛金 150,000
20.仕入先の掛代金¥100,000を現金で支払った。
買掛金 100,000 現 金 100,000上記の取引のスタートである5/1には、手元の現金はゼロである。それが商売が終わった時点(5/20)では、手元に現金が¥50,000残ったのである。
この取引は、5/1の仕入¥100,000と5/20の現金支払¥100,000との間に、19日間の交換差(時間のズレ)があり、また、5/5の売上¥150,000と5/10の代金回収¥150,000には、5日間の交換差(時間のズレ)が生じている。
上記の二つの交換差(時間のズレ)を上手に利用したために、¥50,000の利益額を現金で残すことができた。
このように借金を一度経験した人類は、「借金はやめられない」といって、借金を常用しはじめたのである。
この借金は、麻薬と同じであり、一度その魅力にとりつかれると中毒にかかり、抜けだすことができなくなってしまう。
人類は、この麻薬をコントロールすることを覚え、医学の進歩に大変貢献した。借金も麻薬と同じであり、借金をコントロールして今日の経済発展に結びつけたのである。しかし、麻薬の使い方を一歩間違うと、廃人(倒産)になりかねない。
そのため、麻薬の使い方については、十分研究しなければならないのである。5 麻薬(借金)と倒産
一薬の使い方を知らない音は死ぬ一麻薬を上手に使用することによって、事業は拡大するし、高度利用すれば急成長もする。しかしそこには、大変恐ろしい落し穴があり、麻薬のコントロールについての研究をしなければならない。
<例>
5/1.商品¥100,000を掛で仕入れた。
仕 入 100,000 買掛金 100,000
5.上記の商品を¥150,000で掛売した。
売掛金 150,000 売 上 150,000上記の取引では、¥100,000の商品を¥150,000で販売したのだから、¥50,000の利益を上げるための利益計画および¥100,000の仕入計画、¥150,000の売上計画のすべての計画がうまくいき、実施についても順調であった。
しかし、資金計画の段階で、次のような結果になった場合は、どうなるのであろうか。<例>
5/10.売掛代金¥150,000の回収ができなかった。
20.買掛金の支払¥100,000をしなければならない。この地球上に「倒産」という言葉ができたのは、人類が借金を経験した後からである。
前例のように、5/10の取引と5/20の取引が、逆になってしまうと、この企業は倒産する。
倒産は、企業の利益や欠損に間接的には関係があるが,直接的には関係がない。つまり、前例では、黒字倒産のケースである。黒字倒産に対して赤字不倒産だってあり、資金計画に左右される。
まさしく借金は、麻薬である。上手に利用すれば良薬となるが、無茶な使い方をすれば廃人となる。
したがって、企業は、利益管理だけでは継続しない。同時に資金管理も重要となるのである。
資金管理とは、取引の時間差の研究であって、前例の四つの取引の中に説明されている。6 麻薬(借金)の処万せん
大規模信用経済時代には、大量の麻薬(借金)が用いられており、信用経済の拡大とともに、麻薬販売業が登場した。銀行の出現である。
この麻薬をコントロールするには、さらに麻薬をもって処置しなければならない。<例>
5/1.商品¥100,000を掛で仕入れた。
仕 入 100,000 買掛金 100,000
5.上記の商品を¥150,000で掛売した。
売掛金 150,000 売 上 150,000◎ここに借入取引を挿入すると……
○19.銀行より現金¥100,000借入れる。
現 金 100,000 借入金 100,000
20.仕入先の掛代金¥100,000を現金で支払った。
買掛金 100,000 現 金 100,000
25.得意先より掛代金¥150,000を現金で回収した。
現 金 150,000 売掛金 150,000◎この借入返済で一連の取引は完了する……
26.銀行へ借入金¥100,000を返済する。
借入金 100,000 現 金 100,000以上のとおり、信用取引(麻薬取引)を、さらに麻薬によって治療すると、5月末には、利益の額¥50,000だけ現金が残り、資本の蓄積ができる。
これらの六つの取引は、広い意味での一つの取引とみるべきで、銀行の返済をもって完了するとみるべきである。
しかし、これらの取引が多重化するのであり、とうてい手書きによる処理では、対処することができない。
まして伝統的複式簿記で、管理することは無理だから、資金管理については、別途に資金計画を立てるのが一般的となっている。
しかし、今日ではコンピュータを前提としている時代であり、伝統的複式簿記の部分である財務会計のコンピュータ・システムと資金管理のコンピュータ・システムの統合化について研究すべきである。
7 パソコンによる未来会計
信用経済時代の時間差取引データは、手書き複式簿記によって管理することは、前述のとおり不可能である。
とくに、財務会計と資金管理のシステム化は、パソコンなどのコンピュータを利用しなければ不可能である。
信用経済時代の時間差取引のデータは、当初の売買時点で代金受け払いの情報まで処理すべきで、未来情報についての処理は、パソコンがなくてはならない道具である。
伝統的手書き複式簿記の時代には、売買時点では、売買の記録だけしか考えなかったであろうし、その時点で代金受け払いの情報まで処理することは、不可能なのである。
ここに、パソコンを前提として、時間差取引を販売時点で未来取引を同時処理するシステムを導入すべきである。
従来の財務会計における複式簿記の範ちゅうには、未来取引の部分についての処理(未来仕訳という)は入らないが、コンピュータを前提とする時代は、複式簿記の範ちゅうに入れてもよいのではないか。そこで、未来仕訳についての研究をしなければならない時代であり、未来仕訳についての考え方を普及しなければならないだろう。8 パソコンによる未来仕訳のすすめ
コンピュータを前提として、複式簿記をもう一度考え直してみよう。時間差取引が発生した場合に、予定されるすべての取引を、発生した時点でコンピュータヘ入力する。予定される未来仕訳のすべてを発生時点で入力する。
<例>
5/15 商品¥800,000掛で仕入れ、支払予定――。
¥400,000は(当社支払日6/10)小切手で支払う。
¥200,000は(期日7/10)約束手形で支払う。
¥200,000は(期日8/10)約束手形で支払う。
5月15日に下記のすべてを仕訳します。
仕 入 800,000 買 掛 金 800,000(5/15分の現実仕訳)
買 掛 金 800,000 当座預金 400,000(6/10分の未来仕訳)
支拡手形 400,000
支払手形 200,000 当座預金 200,000(7/10分の未来仕訳)
支払手形 200,000 当座預金 200,000(8/10分の未来仕訳)以上の五つの取引の仕訳を5/15に、コンピュータに入力することによって、近未来に予定されている取引を経営資料として利用することが可能となる。
9 現在のパソコン利用状況
当初のパソコンは、主として現業部門の合理化を中心に発展してきた。それは、現場の物理的な仕事量を合理化しなければならなかったことから、当然といわなければならない。
財務・経理関係におけるパソコンの利用状況は、次のとおりである。1) 現業部門のパソコン利用状況
・給与計算
・得意先管理(顧客管理を含む)
・仕入先管理
・原価管理
・その他現業部門の各種管理2) 経理部門のパソコン利用状況
・財務会計
・資金計画(資金管理を含む)
・利益計画現業部門のパソコンについては、歴史的にみてもかなり研究されており,今後もその研究は加速度的にすすむものと思われる。
また、経理部門のパソコン利用状況についても、資金計画や利益計画については、パソコンの得意とする推計やシミュレーションなどの方法によって、戦略的会計法の研究がすすんでいる。
しかし、財務会計の部分だけは、依然として前述のとおり、手書き複式簿記と同じ処理方法を、パソコンに置き換えただけであって、パソコンの特質を生かしたコンピュータ会計システムとは言い難いのである。
その意味で、複式簿記のパソコンによる応用形態の研究として、本書は、未来仕訳の実践的研究を提案したものである。10 未来会計情報の記録
今日のようにパソコンが普及してきた時代だからこそ、パソコンを前提にした、複式簿記の応用形態を考えなければならないのである。
手書き複式簿記時代では、過去の記録をするだけで、未来に向けての記録は、とうてい考えることができなかった。
しかし、中小企業においてはもちろん、小規模企業においてもパソコンを導入している時代であり、現代の通常会計は、パソコンによる処理が常識となってきた。このパソコンによる会計には、事前会計と事後会計に分けることができるが、現在の利用状況を分類すると次のようになる。
◎事前会計……資金計画・利益計画・各種経営計画(取引が生じる前に計算処理するものである。したがって予想・推計等のマクロ的手法が多く用いられる)
◎事後会計……財務会計(財務会計は、取引が生じたつど記録処理することから、事後会計といわれる。事後会計は、企業の財務取引の日記であって、過去から現在に至るまでの記録・分類・集計を、一定の法則によって処理するもので、企業の過去から現在に至るまでの状況判断には、欠くことができない)
しかし、従来の事後会計の分野とされている部分に、未来取引の確定情報が混入しているし、その中から未来取引情報を抽出して,今後の経営情報として利用することが、本書での研究テーマである未来仕訳の問題となる。
前述のように、時間差取引によって発生する売掛金や買掛金、未収金、未払金、貸付金、借入金、その他について予定される未収額や未払額の支払予定記録について、未来会計では,経理伝票の設計変更をしなければならない。
それは、従来の伝票は、当日の会計情報を記録するだけのものだったのに対し、未来に予定される会計情報を記録する部分が必要になるからである。会計伝票へ未来情報を記録をするためには、会計伝票以前の伝票についての未来情報記録に関係があるか一ら,売買契約書や納品書等にも、未来情報記録の部分をもうけなければならない。
以上、未来仕訳についての準備もいろいろしなければならないが、伝票設計や伝票シスステムについては、後の項で詳細に解説してあり、ここでは省略する。ここでは、個々の取引についての未来仕訳について研究することにする。しかし、ここの未来仕訳とは、不確定、不安定な想像上の予想仕訳ではないことに注意すること。(貼り付け終了)
『だれにでもできる マトリックス会計』越村信三郎/著(1980年) ソーテック社の180頁から貼り付け
(貼り付け開始)
第8章 しろうとにもわかる損益分岐点分析
この公式が悩みの種
1:これまでは、損益分岐点とは何かをつかむため、単純な数字を使って、結論の数字をだしてきた。しかしこれだけでは、あまり実際の役にたたない。なぜだろう。
2:変動費や固定費や売上高は、会杜によってみんな具体的な数値が違うからだ。だから、原理、原則をたてるには、どんな会杜にも通用する一般公式が必要になる。
3:ところで、こんにちの経営学の本をひらくと、損益分岐点のきめ手として左図のような公式がボソとでてくる。説明も、証明も、ほとんどないから不親切である。これでは、しろうとに取りつく島がない。だから、損益分岐点分析は、いまでも学者の独りよがりに終わり、その実用は、せまい範囲内に限られている。
4:この公式を証明するには、少しぱかり数学をいじくる必要がある。数学ときいて、おじ気をふるう必要はない。でてくるのは、徴分や積分や行列ではない。こんにち、中学校でみんなが教わっている初等代数学の知識で十分間に合うのだ。
5:プラトンは、みずから建てたアカデメイア(学舎)の入口に「幾何学を知らざるものは入るべからず」と書き記したと伝えられている。
6:しかし心配は無用。金文学の門は万人にむかって開かれている。読み書きと初等数学を知る人は、大手をふって通れるのだ。安心して、入ってきてください。
やさしい操作で問題は解ける
あのむずかしそうにみえる損益分岐点の公式は、つぎの操作で難なく証明できる。
前にも述べたように、損益分岐点にある売上高を、ほかの点にある売上高Sと区別するために、S0で示すことにする。この点では、損も得もトントンで営業利益G=0となるからだ。またこの点における変動費も、同じ意味合いでV0という記号で表わしておく。固定費は、売上高や変動費の増減にかかわりなく一定であるから、Fという記号のままにしておく。1:損益分岐点では、営業利益G=0となるので、売上高S0は変動費V0と固定費Fとの和に等しい。だから(1)式が成りたつ。
2:この式の両辺をS0で割れば(2)式ができる。
3:この(2)式の右辺の第1項は、変動費率である。この比率は、分岐点であろうがなかろうが一定である。だから、(3)式が成りたつ。
4:これを(2)式に入れると(4)式ができる。
5:右辺の第1項を、符号を変えて左辺に移せば(5)式となる。
6:この式の両辺にS0を掛けると(6)式になる。
7:1−(V÷S)が0でなければ、両辺をそれで割ると(7)式ができる。これが求める損益分岐点の公式である。前(177ページ)の例によればV0÷S0=2億円÷8億円=1/4、F=6億円である。だから分岐点売上高は、S0=F÷(1−V÷S)=6億円÷(1−1÷4)=6億円÷(3÷4)=6億円×(4÷3)=8億円となる。
(貼り付け終了)
農業管理会計学
http://biowww.hiroshima-pu.ac.jp/kanrikoukai/tubomoto/kaikeigaku/agriguide.files/frame.htmSTRAC (戦略会計) 入門
http://www.nishiken.jp/ppt_strac.files/frame.htm行列簿記入門 「だれにでもできる マトリックス会計」越村信三郎 ソーテック社
http://biowww.hiroshima-pu.ac.jp/kanrikoukai/tubomoto/kaikeigaku/agribookkeep1.files/frame.htmマトリックス会計
http://www.nishiken.jp/mx.htmマトリックス会計表による経営シミュレーション
http://www.sanjo.co.jp/useful/matrix.pdf
http://www.sanjo.co.jp/useful/matrix.doc
太田竜の時事寸評より。
(転載)
http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jijisunpyou.cgiリンドン・ラルーシュ(「EIR」誌)を日本人がしっかり消化するための正道。??
更新 平成16年05月16日22時43分
太田龍の時事寸評
平成十六年(二〇〇四年)五月十六日(日)
(第九百四十六回)○リンドン・ラルーシュ(「EIR」誌)の日本語訳本が、
始めて本格的なかたちで、この五月連休明け、日本の読書界に登場した。○ラルーシュは、これまでの敗戦後日本のアメリカ問題専門学者、アメリカ専門
マスコミ人、アメリカ専門官僚、その他、ゴマンとうごめく「アメリカ通」の
描くすべてのアメリカ像から、はみ出して居た。○これらの極悪売国奴日本のアメリカ問題専門家のアメリカ観は、次の通り。
(1)ユダヤ問題。
これは、触らぬ神にたたりなし。(2)アメリカ批判は、日本のエリート、日本の著述家、日本のマスコミ人、
日本の学者官僚にとって身の破滅。(3)アメリカが、日本のすべてを掠奪することは、完全に正統であり、
正義であり、当然である。(4)日本がアメリカの日本掠奪、日本侵略にいささかでも抵抗することは、
絶対的な悪、である。○これらの極悪売国奴日本のアメリカ問題専門家の白痴的アタマには、
リンドン・ラルーシュ(EIR)の文章と言説は、全く、入って行かない。○ラルーシュの西洋史像をごく単純化して表示すれば、次の通り。
○是とさるべき人々。
1)プロメテウス
2)ピタゴラス
3)アルキメデス
4)ソクラテス
5)プラトン
6)ジャンヌ・ダルク
7)ルイ十一世
8)ニコラス・クザーヌス枢機卿
9)ケプラー
10)ライプニッツ
11)スイフト
12)ガウス
13)リーマン
14)ベンジャミン・フランクリン
15)シラー
16)リンカーン
17)F・D・ルーズベルト
18)J・F・ケネディ○非、悪とさるべき人々。
1)ゼウスとその一味
2)ソフィスト
3)アリストテレス
4)中世ヨーロッパのアリストテレス学派
5)ローマ帝国のすべて
6)ヴェネチアの金融オルガルキー
7)ガリレイ
8)ニュートン
9)ロック
10)マンデビル
11)ホッブス
12)マキアベリ
13)ユークリッド幾何学
14)英国東インド会社(BEIC)
15)シェルバーン卿
16)アダム・スミス
17)ケネー
18)マルサス
19)H・G・ウェルズ
20)バートランド・ラッセル
21)チャーチル
22)ノイマン
23)ウィーナー
24)レオ・シュトラウス
25)アレクサンドル・コジェーブ以下略。
○この問題については続報する。
(了)
【参考文献】
○ ラルーシュ、EIR誌著、太田龍監訳
「獣人ネオコン徹底批判」(成甲書房)http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jijisunpyou.cgi
(終了)[4429]ロックフェラーとロスチャイルドは、対立闘争する敵、ではなくて、イルミナティの世界人間牧場を建設管理するための、仲間、なのである。(転載)
http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jijisunpyou.cgiソロスとブッシュの見えすいた八百長に乗せられる愚かな人々??
更新 平成16年05月18日08時27分
太田龍の時事寸評
平成十六年(二〇〇四年)五月十七日(月)
(第九百四十七回)○ジョージ・ソロスが、
ブッシュ米現政権に対する闘争を公然、宣言すると言う。○ソロスのこの言動を、額面通り受け取って、ソロスを正義の人士、として
持ち上げるような、みっともないことをしてはならない。○ダニエル・プーズナーが、
ロスチャイルド(ユダヤ人)の主任エージェントが、ジョージ・ソロス
(ユダヤ人)であり、
ロックフェラーの主任エージェントが、キッシンジャー(ユダヤ人)である。と述べて居ることについては、既に紹介した。
○ロスチャイルドとロックフェラーの関係については、
ユースタス・マリンズ著「世界権力構造の秘密」(日本文芸社、絶版)参照。○フリッツ・スプリングマイヤーは、「イルミナティ惡魔の13血流」(KK
ベストセラーズ)の中で、イルミナティ世界権力の実体を、イルミナティの血流五百家族、とする。
そしてこの五百家族の頂点に、十三血流。
更にこの頂上十三血流の中核体として、五血流が存在する、と言う。○スプリングマイヤーは、この中核五血流の名前を指定して居ないが、
推定すれば、(1)ロスチャイルド家
(2)ロックフェラー家
(3)ラッセル家
(4)コリンズ家
(5)アスター家と言う顔ぶれは、良い線を行って居るであろう。
○つまり、ロックフェラーとロスチャイルドは、対立闘争する敵、ではなくて、
イルミナティの世界人間牧場を建設管理するための、仲間、なのである。○しかし、「陰謀論」を取らない人々は、物事の現象、表面しか見ない。
○ジョージ・ソロスが、ブッシュネオコン米現政権を激しく弾劾する、
と言う。
その現象を、丸呑みしてしまう。○ソロスが、今、もっとも力を入れて居る政策目標の一つは、
全世界で麻薬の製造販売使用を全面合法化すること、である。○この点については、
太田龍著「痲薬――惡魔のくすり」(たべもの學 第五部、自然食ニュース
平成四年十一月〜平成六年九月)、参照。○ソロスのこの麻薬合法化は、冗談か、と言うと、
そんなことはない。○これは、世界人間牧場に、全人類を家畜人間として狩り立て、収容管理する
上に、決定的に重要な役割を果たすであろう。○そのことは既に、オルダス・ハクスレイの古典的著作「すばらしき新世界」
によって完璧に立証されて居る。○ソロスが、当局、米国大統領選挙に於て、ブッシュの当選を阻止するために、
全力を尽して活動中である、などと言うデマ宣伝とペテンにだまされてはならない。
○ソロスは表面上は、米民主党大統領候補を支持して居るようなフリをしながら、
同時に、ネーダーを独立候補として支援して居るのはどう言うことか。○しかしこの問題は、ここでは省略する。
○この件は続報する。
(了)
【近刊予告】
六月下旬、
太田龍著「痲薬――惡魔のくすり」雷韻出版から公刊予定http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jijisunpyou.cgi
(終了)
<書誌事項> 大森義夫「『インテリジェンス』を一匙(副題)情報と情報組織への招待」、2004年4月、発行所=選択エ−ジェンシ−、発売所=紀伊国屋書店、191P、税込1,500円<著者略歴> 1939年12月生まれ。東京大学法学部卒。63年警察庁に入庁。67年日本政府沖縄事務所。74年在香港総領事館領事。84年鳥取県警察本部長。88年警視庁公安部長。92年警察大学校校長。93年〜97年内閣情報調査室長。現在、NEC取締役専務。
<内容紹介> インテリジェンス戦略に欠けた日本がいかに世界に取り残されているかが、浮き彫りになる。平和ボケした、我々へ警鐘の一冊。
「知性」も「情報」も毒がある
「インフォー」を軽視するなかれ
「クラシファイド」私の五原則
「解毒」の社会装置を構築する
「ウサギの耳」にできること
九・一一予見「失敗の本質」
オキナワという名の「学校」
「特務ハ特務ヲ特務ス」
与件を疑うことから始まる
情報融合と外交一元化〔ほか〕 (サイト「本やタウン」より)<私 見> 本に読まれてしまった。
本書の一番の魅力は、どこまでが真実で、どこから先が真っ赤なウソなのか、部外者にはウラの取りようがないことだ。ウサン臭いが面白い、一旦読み出すと目が離せなくなる本なのだ。結局私は、著者に手玉に取られてしまったようである。少々くやしい。著者は日本のスパイマスター、いわば古狸中の古狸である。本書はまるで「お年寄りの気楽な自慢話」みたいなスタイルで書かれているが、そう見えるのは著者の張った「煙幕」というものだろう。文章の上っ面に惑わされることなく、著者の真意を汲み取ることが私にはできなかった。だから私には、本書の要約や評価をする資格はないと思う。私に言えるのは「政治に興味を持つ人間にとって、本書は一読の価値がある」ということだけだ。
(引用、始め)
知られているように一九九八年北朝鮮によるテポドン発射が寝耳に水だったショックから日本も自前の監視の目を持とうとする機運が急速に高まった。それに対して、何のために情報を得ようとするのかの全体図もなしに、その場の空気で「情報安保」に走るのは成算がない、米国の商業衛星から必要な画像を買った方が経済的で性能もよい、とする強い批判もあった(〇一年十月七日「日経」など)。我々は米国と協調し、米国に依拠しつつも日本独自の情報手段を持つべきだ、との主張をテポドン以前から抱いていた。同志を一人だけ紹介すれば外務省国際情報局長だった茂田宏さんである。「宇宙開発利用は平和目的に限る」とした国会決議を楯に門前払いだった社民党議員達にも熱心に説いてまわった。「これこそが平和利用です」と。次に米国から買えばよい、との主張には一つの事実を申し上げれば反論として十分だろう。米国の商業衛星は米国政府との契約によって「シャッター・コントロール」条項を持つ。つまり米軍の軍事行動は撮影しない。米国の担当者は「米本土とイスラエルの上空写真は撮らせない」と言う。米国の支援を受けつつも我が国が独自の衛星を運用したい所以(ゆえん)である。私の体験でも米国の関係者は米国の国益をゴリゴリ押してくる。タカ派もハト派もない。国益の実現方策が異なるだけである。米国の国益に合致する範囲で同盟国の利便をはかる、その範囲で世界平和を推進する。意志と能力がない者を米国は正当な相手とみなさない。それがパワーポリティクスの現実である。(本書、P117-118)
(引用、終わり)
本書の版元(選択出版)は、最近新聞沙汰を起こした。この先、この会社がいつまで存続しているか分からないので、多少なりとも興味がおありの向きには「保険」の意味からも本書をお買い上げになられることをお奨めする。(以上)
☆http://bbs5.otd.co.jp/201689/bbs_plainより転載
180 Res 業界筋の有力情報です シカネーダ 2004/04/21 16:10
eaoska178199.adsl.ppp.infoweb.ne.jp
1990年10月鹿内信隆さんが亡くなった時、ロックフェラーなどから花輪が送られたそうです(放送前にカットされました)
その後フジテレビのマークが”独目”になりました。
『世界思想』2004年4月 31号 世界思想社の36頁から貼り付け(貼り付け開始)
自然の意味と自然法
中川淳私は、ささやかな趣味として、夫婦で園芸(ガーデニング)を楽しんでいる。種子から育てることもあるが、時折、園芸店で鉢植えを求めてくることもある。花の鉢植えには、外来種のものも、最近では少なくない。これらの花は、我流で育てているせいか、時折、枯死または矮小化することがある。
近年、園芸人口が増加しているといわれている。園芸関係の雑誌、単行本が書店にならび、また、テレビなども園芸の番組を放映している。テレビの園芸番組をみていたところ、悩みごと相談のコーナーがあった。そのなかで、枯死または矮小化について視聴者からの相談があり、園芸の指導者が、鉢植えの花の性格・ルーツを知ることが大事であると答えていた。それによると、その草花の原産地の成育条件、例えば、地中海の原産のものであれば、その自然的風土を、また、ジャングル育ちの植物であれば、同じくその自然と環境を、それぞれ知ることが必要であるということである。このような原産地の自然と成育条件にしたがうことが基本であるという。湿地帯の植物には水分を十分に与えることが基本であり、太陽を十分に浴びてきた植物には、太陽光線を欠かすことのないように注意しなければならないということである。
理屈のうえでは、当り前のことかもしれないが、実際には理想通りにはいかないことが多い。枯死または矮小化してはじめて、植物ごとに異なる成育条件を学び管理することが、いかに大切であるかを思い知らされることがしばしばある。このように、園芸ひとつとってみても、原産地の自然状況に戻ることの重要性を示している。
***
今日、自然が昔のままに残っていることは、次第に少なくなっている。山林の例をみても、戦時中に乱伐され、戦後に、以前の姿に戻すべく、植林が行われていることが少なくない。植林自体は、人工的・人為的な営為であるが、自然の姿に戻すという意味では、自然への復帰であるともいえる。
わが国では、山林を開発して、ゴルフ場にしているところが少なくない。ここでは、自然に戻るという意識はまったくない。このような環境破壊が各地で広がっている。無意味な環境破壊については、阻止しなければならない。それは行政の仕事でもある。
昔の小学校唱歌にある「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」(文部省唱歌「故郷」大正6年)は、自然の姿が多く残っていた時代の作品である。最近の日本においては、山村に至るまで開発の手がまわっているように思われる。
人の手がたとえ加わっていても、自然の姿に戻すということであれば、これを自然の範疇に入れてもよいのではないかと時として思う。現在では国土のどこをとっても、人の手が加えられていないところはないだろう。自然の姿に戻すという意図であれば、広く自然の姿と同視してもよいのではないだろうか。私は、自然の山河と親しんだ子どもの時代を懐かしく思い出し、荒廃していく山河をみると、一種の淋しさを感ずる。
***
自然とは何か。それは、一体どういう意味、内容をもっているものなのであろうか。私は、以前から時折考えることがあったが、本稿を書くに当たって、あらためて自問自答する羽目になった。解っているようで、よく解らないものである。
本稿のはじめのところで、私が用いた自然という言葉は、もっとも単純な意味である。一般の人たちが普通に使っている常識的意味といってもよい。すなわち、人の力を加えない事物の在るがままの状態、すなわち、天然の状態を意味するものといえる。身近な意味としては、山川、草木、湖沼など、人がそこで生まれ生活してきたところであり、とくに人が自分たちの生活の便宜のために改造の手を加えていないものをいう。自然とは、人工、人為になったものとしての文化にたいして、人力によって変更、形成、規制されることなく、おのずからなる生成・展開によって成るにいたった状態、さらに、おのずからなる生成・展開を引き起こす本質のことである。ただ、人の手が加わっても、すでに述べたように、復元の意味をもつ場合には、これを自然の内容に含ませてもよいのではないかという見方もできよう。
***
しかし、自然という言葉の意味については、多義的で複雑なようである。学問的な分野の専門家が、それぞれの立場から、その定義・内容を説明している。哲学、自然科学、社会科学など、歴史的にも、思想的にも、古くから論議されてきた問題であることも、また事実である。
法学の分野においても、自然法、自然権という言葉がよく使われている。このような言葉も、やはり自然にかんする思想と切り離して考えられるものではない。歴史的にも、古くから議論されてきたものである。自然法は、古代からの法思想の長い歴史にあらわれた伝統的な考え方に即していえば、人為から独立した何らかの自然的な事態・秩序または先験的な倫理的法則・価値にもとづいて必然的に存立するものとされる、正しい人間の生活のための規範であるといわれている。すなわち、人間のつくった法ではなく、時と所とを超越した普遍妥当な法であり、先験的な根拠にもとづいた絶対的な規範である。
自然法の内容、実定法との関係についての議論は、歴史的にも、また、法学者によってもさまざまであるものの、実定法にたいして、自然法は、価値的にも効力的にも優位していると考えている点では共通している。したがって、自然法は、絶対的正義の法であり、実定法の正否を判断する基準とされ、自然法に反する実定法は、法としての効力を有しないと考えられている。
***
歴史的には、自然法は、古代のギリシア哲学以来論じられてきたといわれている。そこでは、ロゴスによって生活すること、普遍妥当性をもつ理性のルールというかたちでの自然法の考え方がとられていた。中世においては、カトリック神学と結び付いた。その代表的な地位にあるのが、トマス・アクィナス(1225〜1274)である。その著書である『神学大全』において、法を神法、永久法、自然法、実定法に分類する。神法は、神の啓示そのものであり、永久法は、神の理性にもとづく法の源泉である。人間は神からの理性に参与、すなわち、永久法に参与することができる。これが、すなわち自然法である。人間は自然法を通して永久法を知ることになる。実定法は、人間が作った法であり、自然法から導き出されたものでなければならないとする。このように、中世の自然法思想は、神の理性、意思にその根拠をもとめ、教会の正当性と中世封建秩序を維持する役割を果たした。
中世の社会秩序が崩壊し、教会の権力がその力を失っていくと、自然法も、神学から解放され、その根拠も神の理性から人間の本性に置さ換えられ、個人主義、自由主義にもとづく自然法思想が支配するようになってきた。近代初期の自然法思想は、自然状態と社会・政治状態とを媒介する社会契約であるという考え方である。これは、共同体に埋没した個人ではなく、個人の主体性を基礎とし、その理性に国家・社会の存立の意義をかからしめるものである。すなわち、人は生まれながらに自由・平等であり、不可侵の自然権をもち、このような不可侵の自然権をもつ人間は、国家による拘束を受けないで自由に生活していく自然状態から出発するが、他方、人は孤立して生活することができないことから、自分たちの自然権の保障を確実にするために国家をつくることを約束するのである。自由な個人から出発し、国家の基礎を人間の自由な意思に求め、自由と権力による拘束を自律の原理によって説明するものである。
19世紀にはいり、近代的国家体制が確立し、法制度が整備され、自然法の理念が実定法に吸収、具体化されるようになると、18世紀に至るまでの法思想を支配してきた自然法思想の役割が、表面から次第に退いていった。それにかわって、法実証主義が有力になってきた。ここでは、経験的な実定法が力をもち、超経験的な自然法は排除された。ドイツにおいて、法実証主義が価値判断を退け、法律にしたがって政治権力にたいする批判を放棄する傾向のもとで、ナチスの独裁的政治体制が維持された。しかし、ナチスが崩壊し、第二次世界大戦が終わると、その人権を無視した数多くの悪法にたいして批判が高まり、ふたたび自然法思想が浮上し、ドイツにおける自然法の研究が復活していった。とくに、現在のドイツでは、自由の尊重、人権の保障という価値を自然法の内容に盛り込む姿勢が強いといえよう。
今日、自然法については、多様な理論が行われているが、自然法と法実証主義のいずれを選ぶかという視点は、むしろ弱く、この両者を調和または止揚する方法が注目されているといってよい。
(なかがわじゅん/京都女子大学・民法)
http://www.sekaishisosha.co.jp/
(貼り付け終了)
<書誌事項1> 郡山総一郎「独占手記・会見やテレビでは言わなかったこと」、週刊朝日、Vol.109、No.24 (2004.5.21)、P22-25、朝日新聞社<書誌事項2> 藤田知也「高遠菜穂子さん『沈黙』に世界の同情/『変な国ニッポン』の人質たたき」、週刊朝日、Vol.109、No.24 (2004.5.21)、P135、朝日新聞社
<私 見> フォトジャーナリスト・郡山総一郎氏による、イラク人質事件に関する手記は、いかにも「プロの書いた文章」だった。さすが筆一本で生活している32歳のオトナが書いただけあって、論旨はよく整理されていて読み易いし、観察も行き届いている。「迫力ある体験談・目撃談」と「冷静な観察・考察」とが交互に出てくる文章構成も、メリハリが利いていてウマい。文中では露骨な感情表現を抑え、客観的(と見える)描写の中に自分自身の意見を忍び込ませる技巧も、はっきり言って「オトナ」のものである。
また本件手記には、どことなく本多勝一の戦場ルポルタージュを思わせる雰囲気がある。「さめた顔つきの煽動者」とでも言おうか、朝日新聞のオツにすました世論操作・大衆工作の伝統芸とも、ほど良い調和を見せている一文なのである。
(注)「朝日新聞のオツにすました世論操作・大衆工作の伝統芸」については、稲垣武氏の諸著作のほか、下記「本多勝一研究会」HPが参考になる。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/8442/もしかしたら郡山氏は、「週刊朝日向けの原稿ならば、こんな感じでチョチョイのチョイ」といった声色を、自在に使い分けられる人なのだろうか。もしそうだとしたら、氏はかなりの曲者である。
さて、同じ週刊朝日の別の記事によると、解放された3人の人質が日本で国民的非難のマトになっているのは、外国人には理解できないことらしい。
(引用、始め)
日本を席巻する「自己責任論」に、海外メディアは「これがニッポンの村八分か」と言わんばかりの反応だ。
際立った扱いは、米国の有力紙ニューヨーク・タイムズ。4月23日付の1面で「解放された日本人、拘束よりひどい苦痛」と題した記事を掲載。高遠さんらのイラクでの活動内容を紹介し、疲弊した高遠さんと平謝りの家族の写真とともに、こう評した。
「犯罪者のように扱われ、自宅で囚人同然の状態だ」
「政府に反して個人の目的を追求することは許されない」(藤田・前掲記事より)(引用、終わり)
確かによくよく考えてみれば、どこか遠い所でカン詰めにされていた間に、一躍「時の人」に仕立て上げられてしまった彼ら3人も、いささかお気の毒ではある。だが、その点を割り引いたとしても、私は彼らが言ったり書いたりしていることに全く賛成できないのだ。
アメリカが今、イラクでやっていることに対して、賛成の立場であれ、反対の立場であれ、「私のやることには大義名分がある(だから私は正しい)」と称したがる全ての人間に対して、私は激しい不信感を持たざるを得ないからだ。「イラクによる大量破壊兵器使用を阻止するため、これは必要な戦争なのだ」という当初の大義名分は、アメリカ自身がもうとっくの昔に放棄してしまった。
抵抗するイラク国民の戦いを「テロリズム」呼ばわりするのもウソ臭いことだ。
また、「自衛隊によるイラク復興支援」という日本国政府の大義名分も、負けず劣らずウソ臭い。
そして、「私たちの使命は、イラクの真実をありのままに報道することだ(そうすればイラクに平和がもたらされる)」という大義名分にもまた、私はウソ臭いものを感じずにはいられないのである。イラク戦争に(賛成であれ反対であれ)何らかの形でコミットすることに、(賛成であれ反対であれ)何らかの意義を見出している人々から見れば、解放された3人の人質に対する日本国民の強烈な非難ぶりは、いささか異常な光景とも感じられるだろう。
だが、「アメリカのやることに賛成であれ反対であれ、もうこんな汚い仕事には関わりたくないんだ」というヤミクモな虚無主義が、日本全体に充満しているとすればどうか(少なくとも、私の体内にはこういった虚無主義が充満している)。不安とも不満ともつかぬ、虚無的で否定的なガスが充満し切ったところに、たまたまあの3人の椿事が持ち上がって、ガス爆発が起こったのだとすればどうか。そうでなくとも我々の生活には、年金問題やらリストラやらピッキング強盗やら、欲求不満のネタが日常あり余るほどあるというのに。
おそらく、世論が「ガス爆発」を起こすきっかけは、人質事件でも何でも良かったのだ。今回はたまたま、火をつけた人間の方が吹き飛ばされるハメになったというだけのことなのではなかろうか。なんだかとっても理不尽な話ではあるが、日本は土人の国、または猿の惑星なのだから、これでいいのだ。
運不運もあるが、やはりただの素人が徒手空拳で政治的発言などするものではないと思う。我々があの3人を「村八分にしている」という、海外メディアの指摘は正解だと思う。私はアメリカの掲げる「大義名分」も気に食わないが、それに反対する者たちのアンチ「大義名分」もまた、同じくらい気に食わないのである。言い分なんて誰にだってある。サダム・フセインにだってあるのである。
(引用、始め)
私たちを攻撃するために使われる「自己責任」という言葉は結局、「結果責任」のことだ。結果に責任を負え――だから、最悪の結果が起こるかもしれない危険な場所へは行くな、ジャーナリストもボランティアもイラクからは退避せよ。
だが、危険な地域、困難な地域だからこそ、NGO(ボランティア)やジャーナリストが必要なのだと私は感じる。信念を持って、ときに危険を背負ってでも現場へ行き、この目で見て感じた事実や真実を伝えることが、私の仕事の責任であると思う。
「今度イラクに行くなら、『人質にされたら救出しなくていい』と一筆書いていけ」と言った人もいたらしいが、それが本来の「自己責任」の形なのだろうか。(郡山・前掲記事・P25より)(引用、終わり)
この下りは、私の耳には「動機さえ正しければ、結果に対する責任は負わなくてよい」と言っているように聞こえる。これは無責任だ。ブッシュやブレアや小泉純一郎が現在進行形で行っている無責任と対になった(ネガ・ポジの関係になった)、もう一方の側の無責任というものである。
私には「大義名分」などというものは、所詮、一つの不正を別の不正に置き換える働きをするだけのものに過ぎない、という気がしてならない。ベトナム反戦、文革否定、ソビエト崩壊と、ここ数十年の間に大きな政治的価値が世界規模で何度も反転するのを目の当たりにしてきた、これが今の私の偽らざる心境である。(以上)
『実話 マッドマックス』2004年 VOL1 コアマガジンの46頁から貼り付け(貼り付け開始)
暗黒伏魔殿 記者クラブ
低迷する日本マスコミ界の元凶! ウミ!
スクープのため――役人と癒着する本末転倒
世論操作の片棒かつぐ犬畜生、許すまじ 鬼! 地獄! 特権におごる圧力団体!国民利益のための真実追求こそ、マスコミの本分だというのに、私利私欲のために情報を独占し、権力側に都合のよい情報ばかり垂れ流す、伏魔殿のごとき暗黒組織――それが記者クラブ。金券、利権は当たり前、権力からの豪華接待で飼い馴らされることに至上の喜びを得る、許すまじき実態を紹介しよう。 文・亜美京寛太郎
ブライアントと寝た女
国民的超人気スポーツ・プロ野球は、公式戦以外のストーブリーグ、球界裏事情や選手のプライベート記事に至るまで、常にスポーツ新聞のトップを飾る。各運動記者クラブに所属する記者たちは、日頃から球界関係者との人脈をせっせと作り、生き馬の目を抜くような情報合戦を展開している。ある時期、在京の某民放が突出して多くのスポーツ・ネタを飛ばすことがあった。当時、地団太を踏む記者クラブの間である噂が広まった。
「間違いなく『ブライアントと寝た女』の仕業だよ」
言うまでもなく、ラルフ・ブライアントはかつて、近鉄バッファローズの主砲として活躍した、あまりにも有名な助っ人外人である。そのブライアントと寝た女性記者がこの民放にいたのである。彼女は、派手目なメイクとスレンダーなスタイルが売りの美人で、アナウンサーも兼務している。記者はブライアント以外にも、数多くの現役選手と肉体関係を持ち、その「肉弾取材」でたくさんのスクープネタを得たとの評判で持ちきりとなった。この記者は某有名プロ野球選手と結婚して、コトブキ退職すると同時に、この民放のスクープ連弾はパタリと止んだのである。
女性記者が身体を張ってネタを取るケースは必ずしも珍しくない。取材成果は彼女らの努力の結晶であり、むしろ高く評価したい。しかし、彼女らとて、なんのコネもなく取材対象に近づけるわけではない。その大きな後ろ盾になっているのが「記者クラブ」である。
記者クラブは100年の歴史を持つ日本特有の制度でもある。原則として記者クラブ非加盟(例えば週刊誌)のマスコミは記者会見の出席はもちろん、記者室に入ることさえ断られている閉鎖的な組織でもある。情報の独占ともいえるこの閉鎖性が、時に大問題を巻き起こし、日本のマスコミ業界を世界的に低レベルなままにしている元凶なのである。肉弾取材! セクハラ蔓延!
肉欲魔殿 警察・司法記者クラブ「事件」は5年前のとある夜、東京・霞が関の警察庁記者クラブ内で起きた。その日、警察庁側の主催で、懇親会が開かれていた。午後9時過ぎ、クラブ室のソファに座っていた読売新聞社会部のA記者(35)が、酔いも手伝ってか、隣に座っていた日本テレビの女性記者に「きれいだなぁ」「ホテルいこ」「(読売)系列だからやらせろ」などと言い、抵抗する日テレ記者の顔を触ったり、肩に手を回したりしたという。まるでキャバクラでの一場面のような破廉恥な一部始終である。こうした不祥事も、閉鎖された記者クラブの出来事とあって、なかなか表面化しない。はたして記者クラブとはどういう場所なのか?
日本最多の事件取材を扱う警視庁記者クラブ。全国に8百あるといわれる記者クラブの中でも最大規模を誇る。加盟各社には15畳ほどの個室(ブース)が与えられ、各社の最高責任者であるキャップ以下10人前後の記者が常駐して取材活動を繰り広げている。棚には新聞のスクラップブックや各資料が並び、原稿作成用のパソコン、写真電送用の機材、中継カメラなどから泊まり用の布団までが無造作に置かれたタコ部屋といった風情である。
記者たちは、日夜スクープ取材にいそしんでいるかと思いきや、実は活動の大半が独自取材ではなく、警察側が垂れ流した発表の後追い取材である。広報課の警察官が事件の発表があるたびにプリントされた資料を持って各ブースを回る。その中身が大ネタだった場合は記者会見を開き、小ネタだとブース内からの電話取材で済ませる。銀行強盗や殺人、大規模災害など広報課が「重大事件」と判断した場合は、各ブース内に設置されたスピーカーで「○○で事件発生」と一斉広報がされ、各記者が現場に飛び出す、という寸法である。記者たちの日常は、警察におんぶにダッコのタレ流し取材に追われている。
こうした日常業務の合間に、各社はブース内でスクープを得るべくこそこそと取材を展開するのだが、警視庁クラブのように大きいブースが与えられていない記者クラブでは、隣の他社に取材内容が盗聴されないよう、ラジオやテレビの音を大きく鳴らして、カモフラージュするなどしている。また、くだんのセクハラ事件の舞台にもなったように、サロン風にソファが並べられた各社共有のスペースもあり、そこでののんびりと寝そべって雑誌を読んだりしては「ヒマだなぁ」と平静を装い、他社をケムに巻く猿芝居も演じているのだ。
そして夕方、警察が閉庁して当直体制に移ると、記者たちは三々五々、街へと散っていく。いわゆる「夜討ち朝駆け」である。帰宅した刑事たちの家に行き、広報では発表されなかった極秘情報をこっそりと聞き出すのである。実は、記者クラブという密室ばかりでなく、こうした夜の作業の中にも、若い女性記者たちにとっては危険が渦巻いている。
昨年7月、大阪府警淀川署の副署長(58)が、夜取材に訪れた共同通信の女性記者を飲みに誘い、大阪市淀川区の居酒屋などで飲酒。午後11時過ぎ、「夜は危ない。遅いからホテルに1人で泊まっていったら」などと言ってビジネスホテルまで連れて行き、密室内で無理やり肩を抱き寄せたり、抱きついたりした。副署長は懲戒処分を受けた後、以来退職している。また今年1月には、京都府警警備三課長の警視(56)が、取材を通じて顔見知りだったNHKの女性記者に携帯電話をかけて飲食店に呼び出し、店内で身体を触るなどしたという。警視はセクハラの事実を認め、これまた依願退職している。
いずれの女性記者も「相手が日常的な取材対象者だったため、断れば怒らせてしまうと思い断り切れなかった」としているらしいが、こうして表面化したのはまさに氷山の一角。朝日新聞では一時期、取材先でセクハラされる危険を回避させるため、女性記者にスカートやキュロットをはかないよう指導していた。いずれにしても、天下の警察幹部が次々とこうしたエロ行為に及ぶのは、さらに多くの女性記者が日常的に「肉弾取材」に応じている証左でもあろう。豪華接待(税金で)! 金の虫!
物乞い魔殿 国会・行政記者クラブ全国の役所に設けられている記者クラブ。そのスペースは役所の中に設けられている。新聞社やテレビ局はそのスペースを無償で借りており、光熱費や電話代もタダ、記者にお茶を出したりコピーを取ったりする事務職員の人件費もタダ。それはもちろん、国民の税金で払われている。岩瀬達哉氏の『新聞が面白くない理由』(講談社文庫)によると、「記者クラブ」に対するそれぞれの役所の経済的な便宜供与は、全国紙一社当たりで約5億3千万円に上ると推定されるという。
記者クラブによっては、月に一度の定例記者会見も弁当付き。年に数回開かれる懇親会、忘年会の飲食費の類もすべて役所持ち。官官接待が社会的に問題になった時、情報公開の資料に記者クラブや社名が記載されて、記者連中が大あわてをする場面も少なくなかったほどである。
記者たちへの便宜供与は飲食だけではない。贈り物攻勢もすさまじい。地方の市役所記者クラブでは、盆暮に地元の企業や百貨店などが、こぞってテレカやビール券、商品券を持ってくる。千葉県庁の記者クラブでは、東京ディズニーランドの無料入場券。そうした貢ぎ物がポンとクラブの机の上に置いてあるため、記者たちは贈ってくれた先も確かめずにそのまま財布の中に放り込んで、私的に使ったりしている。
また、関西の鉄道取材の拠点である「青灯記者クラブ」(JR西日本社内)では、阪急電車の全線乗り放題の無料パスが配られたという。記者同士で企業からの御中元や御歳暮を見せ合い、品評会を繰り広げるを繰り広げる記者クラブもあるというからオドロキだ。
全国の役所の頂点に立つのは、なんといっても国会の記者クラブである。国会詰めの記者たちの優遇ぶりもハンパではない。宮沢首相(当時)が訪米時、随行した33名の記者たちは政府専用機に便乗して高級シャンパンを飲み交わし、日本大使館の招きでステーキハウスに案内されたばかりでなく、マジソンホテルでは専用の部屋を与えられ、帰路には記者ひとりひとりに17年もののスコッチウィスキーのボトルが配られたという。
とはいっても、各社のスクープ合戦は行われており、女性記者が女性ならではの「武器」を駆使するケースは、行政担当記者の世界でも変わらない。
一昨年、北朝鮮の拉致被害者・横田めぐみさんの愛娘キム・ヘギョンさんとの独占会見がフジテレビに流れた。その会見でインタビューを務めたのは女性記者O氏。O記者は、そのスクープの大きさから、一気に記者仲間での注目を集めた。しかし、O記者の経歴を遡ると、世紀の大スクープが得られる背景に、ドロ臭いコネクションが次々と浮き彫りになってきたのである。
O記者は在日コリアンで、東京外大を卒業後、同局の官邸記者クラブで首相番記者を経験している。しかも彼女は、外務省領事移住部の高級官僚と結婚し、すぐに離婚するというド派手な私生活も送っている。帝国ホテルで開かれた結婚披露宴には、媒酌人である大島正太郎局長(当時)夫妻のほか、政財界から269人もの宴客を招いた。招かれた顔ぶれは、海部俊樹元首相や梶山静六元内閣官房長官をはじめ、大臣経験者、愛知県知事、日本医師会会長、銀行頭取など超VIPクラスである。O記者の両親も朝鮮総連の実力者ではあるようだが、一人の女がこうした強大なコネクションを築き、太いパイプを軸にスクープを手にできた背景には、記者クラブという特権待遇があったとは否めない事実である。利権の亡者! 政府の飼い犬!
国賊魔殿 経済記者クラブ一時、新聞上をにぎわした「MOF担」という言葉がある。銀行・証券会社内で特命を帯びた社員のことで、絶大な監督権限を持つ旧大蔵省の官僚を相手に、業務検査の情報や日程、検査する支店名などを入手するため、飲食や女など数々の接待を繰り返し、世間の批判を浴びた。そのMOF担もビックリというような連中が記者の中にもいるのである。
悪名高い記者クラブの中でも、欲に目のくらんだ記者たちがとりわけ入りたがるのが財務省記者クラブである「財政研究会」、略して「財研」。財務官僚は、財研メンバーの記者たちに、オフレコを条件に政財界の裏話や国家の行方を左右するような政治戦略を漏らしている。公定歩合や銀行合併などのトップシークレットも誰よりも早く入手でき、そうした情報をもとに個人的な株売買でインサイダー取引をして儲ける輩もいるほどである。官僚たちは、記者にそうしたエサを与えることで、官僚たちの意のままに記事を書かせ、世論を操作していくわけである。まさに彼らこそ、マスコミという名の企業に巣喰うMOF担である。
とにかく経済担当記者は、カネ――。一企業であるマスコミの利益の先兵として働くことも多い。東京証券取引所の決算発表で、数年前ひともんちゃくがあった。証券記者クラブ(通称『兜クラブ』)で、決算資料の電子化を進めようとしたところ内紛があり、計画取り止めとなったのである。コンピューター普及に伴ない、すべてがデータ化されて取引されるのが当たり前の世の中で、時代錯誤な主張を繰り返したのは日本経済新聞と共同通信だったという。当時、日経と共同は経済情報端末を運営していたが、企業の公開情報が電子情報として報道各社へ配信されるようになると、注目企業の決算は瞬時に電子メディアを通じて世界中に伝わり、既得権が奪われる可能性があるからだという。まさに、マスコミが利己的にうごめき、国益を害している典型例である。餓鬼の棲み家“記者クラブ”
記者クラブは、国内の新聞社・通信社・放送局の多くが加わる日本新聞協会加盟社とこれに準ずる報道機関から派遣された記者などで構成されている。ルーツは明治23年(1890年)、帝国議会の傍聴取材を要求する当時の記者たちが「議会出入り記者団」を結成したことに始まる。記者クラブは権力側に情報公開を求める団体として機能した。しかし、第二次世界大戦の戦時統制下では、体制側の発表だけを報じる広報機関に成り下がる。戦後も米軍が「記者クラブ体制」を日本統治の手段に使うため存続させた。その時、国民の知る権利が強く求められるに従い、公的機関に真の情報公開を求めていくという美名のもとに活動を続けている。しかし、記者クラブは世界でも日本と韓国だけに見られる特殊な制度である。雑誌の記者やフリー・ジャーナリスト、外国報道機関のほとんどはカヤの外に置かれたままで、その閉鎖性が国際的に問題視されている。忌まわしき魔言! 記者クラブ用語集
キャップ…記者クラブの中での最高責任者。マスコミ各社に一人ずついる。
レク…レクチャーの略。記者は会見のことを略してこう呼ぶ。
投げ込み…記者会見するには及ばない小ネタの場合、文書だけが記者クラブに配られる。そうした資料のこと。
しばり…記者クラブの中で結ばれる報道協定のこと。会見があっても、なんらかの理由で記事にするのを一斉に止めることを「しばる」という。これに違反すると除名や出入り禁止の措置がある。
幹事社…記者クラブの代表として1〜3ヶ月単位で各社が持ち回りで務める。記者会見では、質問が殺到しないように、幹事社が代表質問することが多い。
夜討ち朝駆け…昼間の役所取材では知り得ない極秘情報を、役人や警察官の自宅にこっそり行って、個別に聞き出すこと。門前払いや空振りも多く、記者にとって一番ツライ作業である。
番記者…記者クラブの中でも、派閥の領袖、警察の課長クラスなど情報が集まるセクション別に担当を分ける。番記者たちは「○○担」とか「○○番」などと呼ばれる。
ピーコ…編集局内には通信社からの専用線が引かれ、四六時中、スピーカーで全世界の速報が流されている。この速報の前に流されるのが「ピーコ」と呼ばれる電子音。号外が発行されるくらいの重大ニュースを知らせる時には、「ピーコ」ではなく、「ドラ」が鳴る。ピーコはほとんど聞き流されるが、ドラが鳴ったら、記者は作業を止めて聞き入る。
特オチ…一社だけが報じる「特ダネ」の反対で、一社だけ、情報に遅れて書き損じること。記者としては最大のタブーで、これを犯した記者は左遷も覚悟しなければならない。
遊軍…記者クラブに所属しないで、特別なテーマで動くフリーハンドの記者のこと。しかし、取材する時にはちゃっかり記者クラブの情報も頼る。
極魔の所業 記者クラブ問題事件録
身代金目的の誘拐事件など、報道によって被害者に危険が及ぶ恐れがある事件などが発生した場合、警察当局が記者クラブに所属しないメディアがこうした情報を察知して報道し、問題化することがある。こうした「報道協定破り」の一例として、昭和60年、一連のグリコ森永事件で、『噂の真相』がマスコミと警察との間で結ばれた報道協定の存在をスッパ抜いたケースがある。警視庁幹部の記事指し止め要請を拒否すると、当時同誌編集部がガサ入れされ、同誌が発行元になっていた『ザ・ゲイ』の東郷健編集長がワイセツ罪で逮捕されるという大騒動に発展した。こうした協定破りは、皇室ネタでも多く見られる。宮内庁はその内容のデリケートさから、頻繁に記者クラブと協定を結ぶからである。古くは現天皇が昭和34年に成婚した時に、報道自粛の申し合わせを行うマスコミ各社の中で、米国の週刊誌『ニューズウィーク』がいち早く報じた。現皇太子妃に関する報道についても、ワシントン・ポスト紙が、お妃に外務省職員の小和田雅子さんが内定したことを速報したことが大きな原因となって、一年近く守り続けてきた協定を解除、一斉報道になだれ込んだ経緯がある。また平成10年には、国税庁が発表している高額納税者番付を記者クラブの解禁前に写真週刊誌『フライデー』が掲載したこともある。犯人は日経新聞の社会部記者と判明し、この記者はツルし上げられたが、もはや情報流出の流れが止められないのは火を見るより明らか。昨年、インターネットの特命掲示板に、報道協定が成立したばかりの愛知県新城市の社長誘拐事件を知らせる書き込みがされた。ネット全盛の社会になり、もはや記者クラブ単位の情報独占にどんな意味があるのか、問い直さなければいけない時代になっているのである。「伏魔殿」一掃作戦 脱記者クラブを進める自治体の試み
欧州連合(EU)が「情報の自由流通を阻害する障壁」ととらえ、政府に対し「記者クラブ制度の廃止」を要求している。その根拠として、英国人女性ルーシー・ブラックマンさんの殺害事件で、クラブ未加盟の外国人記者が警察での会見に出られなかったことを挙げている。日本独自の記者クラブ制度が国際的にも孤立していることを示す例である。国内でも、平成8年に鎌倉市が記者クラブを廃止して広報メディアセンターを設置。同13年には田中康夫・長野県知事が「脱・記者クラブ宣言」を発表、東京都も記者クラブ内のブース使用にかかわる光熱費の徴収を決定した。記者クラブに対する逆風は年々強まっており、各地の自治体からそうした時代遅れの風習に風穴を開けようという動きが出ている。そんな中、福田康夫官房長官は、日本が武力攻撃を受けた際、報道機関に一定の報道制限を要請することを明らかにした。肝心の中央政府が記者クラブとのなれ合いに拘泥し、一番時代遅れな要求をマスコミに要求し続けているのである。http://www.coremagazine.co.jp/
(貼り付け終了)
毎日新聞 「系列だろう!」と迫った 読売セクハラ記者の横暴
http://www.mainichi.co.jp/life/family/syuppan/sunday/99/0926/tokusyu1.html大阪府警淀川署の長岡徳治副署長が共同通信大阪支社社会部の女性記者へセクハラ行為を行なったとして、同府警は、減給3ヶ月の懲戒処分にした。
http://www.janjan.jp/living/0307/0307235072/1.php警視が女性記者にセクハラ 京都府警減給処分に
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040319-00000010-kyodo-soci●フジテレビ、北朝鮮=外務省の宣伝工作にマル乗り!!
キム・ヘギョン独占インタビューの裏に潜む恐るべき陰謀!!(前編)
http://www.asyura.com/2002/bd20/msg/664.html「日本の中の在日朝鮮韓国人」(3月25日)
番組アシスタントの小川美那さんは、父が韓国人、母が日本人。東京外国語大朝鮮語科に学び「日本の中の朝鮮、韓国人」という卒論を仕上げた。親友に在日であることを告げた時、“大丈夫、日本人に見える”と言われた体験が、この卒論を書かせたという。
http://www2j.biglobe.ne.jp/~FURU/Challenge/challenge95a.htm
アルルさんへ
奥田勝典です。すげえ!凄すぎる。体が震えた。
実は、私は、陰陽師とか安倍晴明公や菅原道真公については好きなので、たぶんかなり詳しいのですが、菅原道真公のことを知るにつれ、なんで妬みにより流されて憤死した、祟り神であり、怨霊信仰に基づいた凄まじい霊力を持つといわれた方が、単に学問の神様になるのかなあ、と疑問があったのがやっとわかった。
まだ、興奮してちゃんと読めてませんが、とりあえず書き込みします。そうですよね、学問と神学は対立概念なのにおかしいですものね、よく考えてみたら。たぶん、それを知っているからそうしたんでしょうね。
ここまで、考えて占領政策をしているとは! 副島先生の本を読んで、大抵のことには驚かなくなったのですが、これには驚きました。やっぱり、アルルさんは凄いです。最近ではミルトン・フリードマンの面白い論文を見つけてきましたし。アルルさんはプロの文筆家になれる、何か他の人にはない鋭さがあると思う。
まあ、あとはドコモに入って、ロケットに乗って日本のために彗星につっこんで(例のよしりんの)くれたら、最高なんだけどなあ(笑)。あと、約束のDVDを送ってくれたら、・・・これは冗談としても、アルルさんは才能があるから、頑張ってこれからも暴き続けてください。期待しています。
奥田勝典拝