[1461] 続々「帝國電網省」 投稿者:小山 みつね 投稿日:2003/07/07(Mon) 18:27:36

皆さん、こんにちは、小山 みつね です。

またまた、「帝國電網省」より転載。

(転載)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/hakusuki.html


14.「倭国」は滅亡していた!! 白村江の戦の結末 (1997.8.23)


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663年、朝鮮南西部の白村江(はくすきのえ)で、東アジアを揺るがす一大決戦が行われました。決戦の名は「白村江の戦」。唐・新羅(しら
ぎ)、倭国(九州王朝)・百済(くだら)の二つの連合軍による、朝鮮半島の権益を巡る一大決戦は、唐・新羅連合軍の勝利によって幕を下ろし
ました。この戦いにより、百済は名実共に滅亡し、新羅による朝鮮半島統一へと時代は動き始めます。この教科書でも習った白村江の戦
が、実は日本にも多大な影響を及ぼしていた事をどのくらいの方がご存じでしょうか? 近未来の朝鮮半島有事にも少なからぬ示唆を与
えるこの戦いの結末について、書いてみたいと思います。

倭国(九州王朝)は、かつて、北方の大国・高句麗と朝鮮半島で、その権益を巡って戦いました。なぜ、倭国、ひいては日本が朝鮮半島に
古代から関わらなければならなかったのかと言う問題は、この際は抜きにしますが(いずれ取り上げようと思っています)、とにかく、倭国は事
ある毎に朝鮮半島に一定のプレゼンス(影響力)を行使してきました。その帰結が先に挙げた「白村江の戦」なのですが、この戦争で負け
た倭国・百済連合の一方の当事者・百済は名実共に滅亡し、その領土は新羅に併合されてしまいました。では、もう一方の当事者、倭国
にはどの様な結末が待っていたのでしょうか?

「倭国は滅亡していた」。ずばり、それがこの答です。国が滅亡したと言う証拠は、「日本書紀」671年の条の、

「筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)が唐から帰国した」(要約)

と言う記事です。「筑紫君」と言うのは、「倭王」の事です。自らは、「日出づる処の天子」・「オオキミ」等と称していた倭王ですが、大和朝
廷(日本国)側からは、筑紫君と呼ばれていました。しかし、この事が倭国の滅亡の証拠になるのかと思われる方もおられるでしょう。それ
が、証拠になるのです。

白村江の戦で、戦争が終結したのが、663年。倭王(筑紫君薩夜麻)が唐から帰国したのが、671年。その間、実に8年。一国の王(現代
で言えば、天皇だとか首相)が他国に8年間もいたと言う事実。更に、倭国・百済連合が「敗戦国」だったと言う事実。これらが物語るものは一
つ。それは、倭王が「戦犯として戦勝国・唐に抑留されていた」と言う事です。

敗戦国の元首(王)が戦勝国に抑留される。これは、先の大戦で満州国皇帝だった愛新覚羅傅儀(ラストエンペラー)がソ連、更に中国の
撫順収容所に「戦犯」として収監された事実を見ても、明らかです。倭王の場合も、おそらく、傅儀同様、戦後、唐に抑留されていたものと
思われます。そして、8年後、ようやく、「釈放・帰国」を許されたのでしょう。しかし、帰国を許された倭王に、帰るべき祖国は最早ありませ
んでした。

九州、かつて、東アジアの超大国、隋・唐に対して対等外交で臨んだ「倭国」の地は、倭国に代わって日本列島の新たな「代表」となっ
た「日本国」(大和朝廷)の領土と化していました。そして、その新領土・九州を管理統括する為、「日本国」が設置したのが、かの有名な「太
宰府」なのです。

太宰府と言うと、皆さんは単に朝廷(政府)の九州に於ける地方出先機関と言ったイメージしか無いのでは無いでしょうか? しかし、当
時の太宰府と言うのは、現代人のイメージとは全く違った存在でした。倭国の異称・「九州」の意味を皆さんはご存じでしょうか? これは
字義通り、「九つの国(州)」の事です。倭国は九ヶ国で構成されていたので、「九州」なのです。これは関東地方をかつて「関八州」等と言
ったのと同じです。その九ヶ国の統治を朝廷に代わって代行したのが、太宰府なのです。これは東北(蝦夷)地方の統治を朝廷に代わって
代行した「奥州鎮守府」と同じです。そして、近・現代史に当てはめれば、「朝鮮総督府」や「台湾総督府」と同じ、つまり、「新たな領土とな
った他国(植民地)経営の為の行政機関」なのです。その様な機関である太宰府が九州に設置されたと言う事実が物語るものは、一つ。や
はり、「倭国は滅亡した」と言う事なのです。

白村江の戦がもたらしたものは「倭国の滅亡」だけではありませんでした。筑紫君薩夜麻らの帰国は、唐人2000人の「進駐」(日本書紀
に記述)を日本側に告知する為になされた措置だったのです。つまり、先の大戦終結後、米軍が「進駐」してきたのと同様に、唐人が進駐し
てきたのです。更に、様々な資料から、唐人だけでなく、もう一方の戦勝国・新羅人も、亡国の民・百済人も、日本に流れ込んできました。
日本側の史料では、彼らを日本に「帰化」したと書いていますが、実際は、日本に「進駐」したと言う方が正しいでしょう。その証拠に、その
後の「親唐路線」や、朝廷内に於ける「帰化」系氏族の増加(彼らの多くが先の敗戦まで「貴族」としての特権を有していた)と言った事実が挙げら
れます。

もし、近未来の朝鮮半島で有事があった際、日本が日米防衛協定(現在調整中のガイドライン)に則って介入し、「敗戦」したとしましょう。お
そらく、その時は、白村江の敗戦同様、中国人民解放軍が日本に進駐、五星紅旗をはためかせ、日本政府に中国人の閣僚を多く送り込
み、「親中路線」と言うよりは、「中国の属国としての日本」を強要すると言う「悪夢」が現実のものになるのでは無いでしょうか? これが
単なる「悪夢」ならば良いのですが、軍拡まっしぐらの中国・北朝鮮情勢・「歴史は繰り返す」と言う法則が重なり合い、「現実」にならなけ
ればと只々願うばかりです。

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(終了)


(転載)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/jinshin.html


15.天智と天武は兄弟ではない!! 真説・壬申の乱 (1997.9.16)


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672年、古代日本最大の事件、「壬申の乱」が起こりました。時の天皇・弘文天皇(大友皇子)に、先帝・天智天皇の「実弟」・大海人皇
子が挙兵、遂に、「甥」・弘文天皇を倒して、新帝(天武天皇)に即位したのです。この古代最大の「内戦」を天武天皇を通して、見てみまし
ょう。そこには事件の意外な「真実」が隠されていたのです。

まず、天智・弘文・天武三天皇の関係を一般の「皇室系図」で見てみましょう。

┌(34)舒明天皇┬(38)天智天皇┬(41)持統女帝(天武帝皇后)
│      │      ├(43)元明女帝
│      │      ├──施基皇子−(49)光仁天皇−(50)桓武天皇
│      └(40)天武天皇└(39)弘文天皇
│      
└──茅渟王─┬(35)皇極・(37)斉明女帝(舒明帝皇后)
       └(36)孝徳天皇

上記の系図でお分かりの通り、天智と天武は舒明天皇を父とする「兄弟」、天武と弘文は「叔父・甥」の関係になります。しかし、これには
間違いがあるのです。例えば、

天智天皇 671年没(享年46歳)
天武天皇 686年没(享年65歳)

と言われていますが...天智が死んだのは、天武より、686年−671年=15年、つまり15年前。
すると、天智が死んだ時の天武の年令は、65歳−15歳=50歳、つまり50歳。
どうでしょう。天智が死んだ時の年令が46歳なのに、その時、「弟」の天武は50歳!! 4歳も年上の「弟」等どこにいるでしょうか? つまり、
ここで、天智が「兄」で天武が「弟」と言う関係はあっさりと壊れてしまったのです。しかし、『古事記』(ふることふみ)も『日本書紀』(やまとのふ
み)も、天智が「兄」で天武が「弟」と書いているのです。これは不思議としか言いようがありません。そこで新たな疑問が生まれました。天
智と天武は本当に「兄弟」だったのでしょうか?

天智と天武は「兄弟」か? 私は兄弟では無かったと思います。では、なぜか? それは、天武の妃を見れば分かります。

天智天皇┬大田皇女─────────┬大津皇子
    │             └大来皇女
    ├ウノサララ皇女(持統女帝)──草壁皇子─┬元正女帝
    ├大江皇女─────────┬長皇子  └文武天皇──聖武天皇
    │             └弓削皇子
    └新田部皇女─────────舎人親王──淳仁天皇

上記の通り、天武の妃の四人までが、「兄」天智天皇の娘なのです。古代では兄弟・姉妹・従兄弟通しでの「近親婚」が珍し
くなかったとは言え、「弟」が「兄」の娘を四人も娶(めと)るのは「異常」です。まるで、戦国時代、互いの娘を相手方の男
子に嫁がせ、「同盟」を結んだようなものです。しかし、戦国時代と大きく違うのは、戦国時代は、「毛利」と「小早川」と
言った様に、違う「家」通しでの通婚なのに対し、かたや、「兄弟」通しでの通婚です。これをどう解釈するか? 先の「年
令逆転」からしても、天智と天武は血がつながっていなかった・・・つまり、「兄弟」ではなかった、としか考えられませ
ん。

天武は天智の弟ではなかった。では、天武とは一体何者なのでしょうか? これを解く鍵はその「名前」にあります。天智の
名前が「中大兄皇子(なかのおおえのみこ)」なのに対し、天武の名前は「大海人皇子(おおあまのみこ)」とされています。しか
し、『日本書紀』天智天皇の条には、一つも「大海人」と言う名前は出てこないのです。ちなみに、大海人皇子が皇太子(弟
なので皇太弟)になったと言う664年の部分には、「大皇弟」・「東宮太皇弟」・「太皇弟」・「皇太子」・「東宮」と言った
普通名詞が出てくるだけで、「大海人」と言った固有名詞は見当たりません。ここで考えられる事は、664年の立太子時に、
「大海人」と言う名前を持つ人物が存在しなかったのではないかと言う事です。そう考えれば、『日本書紀』天智天皇の条
に、「大海人」と言う名前が出てこなくても納得がいくのです。では、天武の本当の名は一体何だったのでしょう? 私は
「金多遂」だったと思います。

天武の本名は「金多遂」だった!! 「金(キム)」と言う以上、朝鮮系です。私自身、彼は新羅人だったと思います。なぜか?
 第一に、天智・弘文父子は親百済政権だったと言う事。これは、当時の「閣僚名簿」を見れば一目瞭然。主要な高級官僚は
祖国を失った亡命百済人が名前を連ねています。第二に、天武即位後の思い切った「行政改革」にあります。それまでの親百
済政権とは一線を画す政権を樹立し、百済人官僚の多くが冷や飯を食わせられました。第三に、天武系の諸天皇は「天皇家の
菩提寺」に祀られていないと言う事実です。天智以前及び光仁以後の諸天皇が祀られているにも関わらず、なぜか、天武系は
祀られていません。そして、これが核心なのですが、天武が新羅人だった最大の理由は、「壬申の乱」にあるのです。

壬申の乱で、弘文天皇率いる朝廷軍を、大海人皇子率いる反乱軍が制圧、大海人皇子は遂に天皇の座を手中に収めたと冒頭で
書きましたが、これこそ、彼が新羅人ではないかと言う最大の理由なのです。時は遡りますが、「白村江の戦」以前、新羅王
族に連なる一人の人物が日本に「人質」として滞在していました。彼の名は「金多遂」。「人質」とは言っても、日本の戦国
時代同様、決して邪険にされるような存在ではありませんでした。従者もいたでしょうし、仮にも新羅王族なのですから、朝
廷や地方の有力者(豪族)とも交流があったでしょう。そんな彼もやがて母国・新羅に帰ります。そして、運命の白村江の戦
が起こったのです。結果は日本・百済連合の敗退。日本には母国を失った亡命百済人と共に、戦勝国・新羅も多くの新羅人を
送り込んできました。その中には、かつて日本に滞在し「知日派」として知られた新羅王族の「金多遂」が含まれていたでし
ょう。以前は「人質」として、今度は「戦勝国のVIP」として。朝廷側は、彼をどう扱ったでしょうか? 新羅王と血縁がある
人物です。丁重に扱ったでしょうし、天皇にしても、有力なコネクションを持ち、「進駐軍」と言う軍事力を背景に持つ人物
にある種、「畏怖」を抱いたのではないでしょうか? だからこそ、天智天皇は自分の娘を四人までも嫁がせ、良好な関係を
維持しようとしたのではないでしょうか? しかし、結果は天智の危惧した通りになりました。

大海人皇子(金多遂)、反逆!! そして、天智天皇の子・弘文天皇は、「大海人皇子」率いる反乱軍(その主力は進駐新羅軍では
なかったでしょうか)に滅ぼされました。しかし、これは「叔父」が「甥」を殺したのではなかったのです。天智と天武が兄弟で
なかった以上、弘文が天武の甥でなかった以上、そして、天武が日本人でなかった以上、「壬申の乱」は決して「甥殺し」等
ではなく、「新王朝」の始まりだったのです。そして、彼の心中にあったもの、それは「金春秋が新羅の王ならば、俺は日本
の天皇になってやる!!」と言った気概ではなかったでしょうか?

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(終了)


[1460] 続「帝國電網省」 投稿者:小山 みつね 投稿日:2003/07/07(Mon) 18:21:10

こんにちは、小山 みつね (1822)です。

再び、「帝國電網省」より転載。

(転載)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku1.html


17.「北朝」は滅亡していた!! 南北朝秘史-其の壹- (1997.11.15)


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南北朝時代。皆さんも日本史で習われたと思いますが、どのように教わったでしょうか? 大抵(と言うよりも、100%でしょうか)の方は、後醍
醐天皇の吉野潜行から南北朝時代が始まり、1392(北朝明徳3・南朝元中9)年の「明徳和約」により南北朝は統一、以後、北朝系が皇位を継
承した・・・と教わった筈です。しかし、真実は違っていたのです。ずばり言いましょう。「北朝」は滅亡していた・・・と。では、「明徳和約」以
降、皇位を継承した「北朝」系の諸天皇とは一体何だったのでしょうか? それを解き明かしていきましょう。

「北朝」は滅亡していた。この衝撃的な事実を語る前に、まずは、南北朝時代の皇統譜(天皇の系図)を眺めてみて下さい。

1.北朝系図   註 (N1)等は、北朝の代数

(93)後伏見天皇┬(N1)光厳天皇─(N3)崇光天皇─伏見宮栄仁親王┬伏見宮治仁王
       │                     ├僧(法親王)
       │                     ├僧(法親王)
       │                     └僧(法親王)
       └(N2)光明天皇─(N4)後光厳天皇─(N5)後円融天皇─(100)後小松天皇

2.南朝系図
               ┌(98)長慶天皇
(96)後醍醐天皇─(97)後村上天皇┤
               └(99)後亀山天皇

通史では、南朝系の後亀山天皇(第99代)の後を、北朝系の後小松天皇(第100代)が継いだ事になっています。これ自体は間違ってはいな
いのです。では、なぜ、「北朝」は滅亡していたと言えるのか? それは、南北朝統一後の初代天皇となった後小松天皇の出生の秘密に
あるのです。

後小松天皇。第100代(在位 北朝第6代:1382-1392・統一後:1392-1412)。名は幹仁。後円融天皇の第1皇子。

後小松天皇の出生にどんな秘密があったのでしょうか? これを語るには、新たな人物に登場願わなければなりません。その人物とは、室
町幕府第3代将軍・足利義満です。

足利義満。室町幕府第3代将軍(在職 1368-1394)。将軍勇退後、明の皇帝・洪武帝に朝貢し、1395年、「日本国王」の称号を獲得。死
後、朝廷より「太上天皇」の尊号を贈られるも、子息で第4代将軍・義持がこれを辞退した。

当時の東アジア世界の「盟主」・明(中国)の皇帝から正式に「日本国王」と認められ、更に、その死に際して、時の朝廷から、「太上天皇」の
尊号を贈られたほどの大人物。この足利義満と後小松天皇との間に、どんな関係があるというのでしょうか? ズバリ言いましょう。

後小松天皇は、後円融天皇の第1皇子等ではなく、足利義満の子であったと。

なぜ、後小松天皇が足利義満の子なのか? それは、後小松天皇の「父」とされる後円融天皇と、足利義満との関係にあるのです。

後小松天皇は後円融天皇の子ではなかった。これは一体どう言う事なのでしょうか? まずは下の系図を眺めてみて下さい。

後円融天皇
  ┠──────────後小松天皇
藤原厳子(通陽門院)

これが通史で言われている両天皇の関係です。後小松天皇は、後円融天皇と通陽門院との間に生まれた子とされています。しかし、ここ
に足利義満が関わってくるのです。そして、それこそ、皇室も宮内庁も決して認めたくはない事実でしょう。それは、

足利義満は後円融天皇の皇妃・通陽門院を犯し、その結果、生まれたのが後小松天皇だった

のです。すると、系図はどうなるでしょうか?

後円融天皇
  ┃
藤原厳子(通陽門院)
  ┠──────────後小松天皇
足利義満

となるのです。更に衝撃的な事は、足利義満は後円融天皇の正式な皇妃・通陽門院だけでなく、三人の寵妃までも悉く陵辱−つまり、後
円融天皇の全ての后妃を犯し、その為に、後円融天皇は心身共にやつれ、36歳の若さで死んでしまいました。勿論、全ての后妃を足利義
満に犯された訳ですから、後円融天皇の血を引く者はおらず、後円融天皇の系統は、その死をもって「断絶」してしまいました。そして、足
利義満は次なる矛先を北朝のもう一つの系統・伏見宮家へ向けたのです。

伏見宮家。北朝第3代崇光天皇の子・栄仁(よしひと)親王を初代とする宮家(親王家)で、明治まで続いた名家中の名家。その名家が実は
たったの二代で「断絶」していたのです。これはどう言う事なのでしょうか? まずは下の系図を眺めてみて下さい。

伏見宮家系図   註 (N3)は北朝の、(F1)等は伏見宮家の代数

(N3)崇光天皇─(F1)伏見宮栄仁親王┬(F2)治仁王
                ├僧(法親王)
                ├僧(法親王)
                ├僧(法親王)
                └(F3)後崇光院(貞成親王)┬(102)後花園天皇
                             └(F4)貞常親王・・・

これが通史での伏見宮家の系図です。伏見宮第3代・貞成(さだふさ)親王は、子の彦仁親王が第102代・後花園天皇となったので、「天皇
の父」つまり「太上天皇」となり後崇光院と呼ばれました。そして、この貞成親王こそ、伏見宮家を二代で「断絶」させた張本人なのです。

伏見宮貞成親王。伏見宮初代栄仁親王の子とされている人物ですが、元をただせば伏見宮家の居候で、実父はなんと足利義満だった
のです。それを端的に示す証拠の第一は、明治天皇が勅命をもって編纂させた「皇室系図」や、山岸辰蔵氏の『大日本百科全書』に記載さ
れている下の系図です。

○─貞成親王─後花園天皇

通史では貞成親王の父は伏見宮初代栄仁親王の筈です。それをなぜ「○」印で記載したのでしょうか? 考えられる事はただ一つ。それ
は、貞成親王と栄仁親王とが親子関係ではなかったと言う事。そして、貞成親王の父が素性(名前)を明かせられない人物であったと言う
事です。

貞成親王が伏見宮家の人間ではなかった証拠の第二は、彼自身が書き残した『看文御記』(かんもんぎょき)中の記載です。それらを要約す
ると、

1.貞成親王は40歳まで、菊亭左大臣家に匿姓(氏素性を隠す)の暮らしを続け、後に伏見宮家に参候(居候入り)した。
2.父である筈の栄仁親王の事を、「御所様」(御主人様)と呼んでいる。
3.自分よりも十歳も年下の「弟」治仁王の事を、栄仁親王の「一の宮」(第1皇子)、「新御所様」(新御主人様)と書き、席次も
自分よりも「上座」に迎えている。

となります。これらを見て皆さんはどう思われるでしょう。なぜ名家中の名家・伏見宮家の人間が40歳になる迄、他家に氏素性を隠して暮ら
していたのか? なぜ、父を「御主人様」、弟を「新御主人様」等と呼んでいたのか? これらが示す事は、貞成親王が伏見宮家に連なる人
間ではなかったと考えて初めて納得がいくのです。

『看文御記』の詳細は省きますが、様々な状況証拠から、栄仁親王・治仁王等、伏見宮家直系は貞成親王と黒幕・足利義満によって悉く
「毒殺」されてしまいました。そして、一族全てが「断絶」した伏見宮家を貞成親王は「相続」したのです。つまり、北朝は後円融天皇の系統
も、伏見宮家も、全て、足利義満によって滅ぼされたのです。そして、それ以後の「北朝」系は、足利義満の血を引く者が継承したのです。
最後に下の系図を眺めてみて下さい。

             ┌貞成親王(後崇光院太上天皇)─(102)後花園天皇・・・
             ├(100)後小松天皇─(101)称光天皇
足利義満(鹿苑院太上天皇)┼義持(4代将軍)
             ├義嗣
             └義教(6代将軍)

上の系図の通り、室町時代とは、幕府も、朝廷(皇室)も、全て足利氏に連なる人間が牛耳っていたと言えるのです。そして、この事が、新
たなる争乱の芽を蒔いたのです。

参考文献

皇統正史 (長島銀蔵 自費出版)

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku1.html
(終了)


(転載)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku2.html


18.南北朝、未だ終結せず!! 南北朝秘史-其の弐- (1997.12.3)


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1392(北朝明徳3・南朝元中9)年、「明徳和約」により、南北朝の争乱は終結。南朝の後亀山天皇は、正皇位を「北朝」系の後小松天皇に
譲り、1336年の後醍醐天皇吉野潜行以来、実に半世紀ぶりに京都へ還幸したのです。しかし、後亀山法皇を迎えた京都(幕府)側の処遇
は冷ややかでした。旧南北両朝を平等に扱うどころか「北朝」系ばかりを厚遇、足利義満によって「明徳和約」は悉く反古にされてしまった
のです。しかも、京都は幕府の本拠地。監視の目が厳しく、後亀山法皇をはじめとする南朝系は自由に行動できず、1410(応永17)年、遂に
後亀山法皇は再び吉野へ潜行したのです。そして、これが世に言う「後南朝」の始まりだったのです。

後南朝。この聞き慣れない言葉にこそ、応仁の乱・戦国時代と続く争乱を解くキーワードが隠されているのです。では、後南朝とは一体
何なのか? 端的に言えば、後亀山法皇の吉野潜行から、1514(永正11)年の南帝王崩御に至る一世紀間の、言わば、第二次南北朝時
代とでも言いましょうか。通史には登場しませんが、この間、南北朝時代同様、確かに同時に二人の天皇が存在したのです。

では何故、再び二人の天皇が相並ぶような事態となってしまったのでしょうか? それこそ、「明徳和約」中の最大の条件、「両統迭立」を
北朝(幕府)側が破ったからなのです。しかも、その手段があまりにも姑息だったからこそ、南朝は再び決起したのです。その「姑息な手
段」が何だったのかを語る前に、まずは、下の系図を眺めてみて下さい。

1.「新」北朝系図

    ┌後崇光院─(102)後花園天皇─(103)後土御門天皇・・・
足利義満┤
    └(100)後小松天皇─(101)称光天皇(躬仁 改め 実仁)

2.後南朝・熊沢家系図   註 (S1)等は、後南朝の代数

                   ┌(S2)中興天皇─(S3)自天皇
(99)後亀山天皇─(S1)小倉宮実仁太上天皇┤
                   └(S4)南天皇─(S5)南帝王(西陣南帝)┐
┌────────────────────────────────────┘
├熊沢治広王
└熊沢広敷王─熊沢玄理王─熊沢守久王─熊沢直行王─熊沢広良王─熊沢尊春王┐
┌───────────────────────────────────┘
└熊沢尊成王─熊沢尊泰王┬熊沢尊憲王─熊沢天皇(寛道)
            └熊沢与十三郎─熊沢太郎─熊沢静江
                           ┠────熊沢照元
                   塚原市之甫─塚原両作

この系図を見て何かお気づきになられませんでしょうか? 北朝系の第101代・称光天皇の名前「実仁」(みひと)と、後南朝初代・小倉宮太
上天皇の名前「実仁」。そう、二人は奇しくも同じ名前なのです。しかし、最初から同じであった訳ではありません。称光天皇の最初の名前
は「躬仁」(みひと)。読み方は同じですが、「躬」と「実」の様に、字が違います。では何故、称光天皇はわざわざ字を変えたのでしょうか? 
いや、変えさせられたのでしょうか? これこそが、幕府(北朝系)が弄した「姑息な手段」なのです。

南北朝統一後、「明徳和約」により、正皇位は北朝の後小松天皇が継承しました。そして、「明徳和約」中の「両統迭立」条項により、後小
松天皇の次は、南朝・後亀山天皇の皇子、小倉宮実仁親王が継承する筈でした。とは言っても、後小松天皇も人の子。自分の息子・躬仁
親王可愛さに、「両統迭立」のルールを破って、皇位を躬仁親王に継がせてしまったのです。その際、小倉宮も、自分の息子も、名前の読
みが「みひと」と同じだったのをこれ幸いに、「躬」から「実」へと、字まで変えて、あたかも、自分の息子が、小倉宮であるかの様に演出した
のです。

小倉宮決起!! 「両統迭立」条項を破られ、皇位継承を反古にされた小倉宮実仁親王は、父祖・後醍醐天皇が採ったと同じ手段−吉野へ
の潜行を敢行。後南朝を樹立してしまったのです。一方の当事者で、皇位を継承した称光天皇が安穏としていたのかと言うと、決してそうで
もないのです。本来ならば、自分が即位する筈がなかったにもかかわらず、父・後小松天皇と幕府の画策で、即位したと言うある種の「後
ろめたさ」があったのは言うまでもありません。そして、父・後小松天皇の出生の秘密(足利義満の子)、更に、当時、箝口令が敷かれていた
「伏見宮家断絶」事件(伯父・足利貞成親王による毒殺)を知る所となった称光天皇は、己の中に、本来の北朝と伏見宮家を滅ぼし皇室を奪っ
た一族と同じ血が流れている事に逆鱗し、遂に御所を出奔、皇位を捨ててしまうのです。そう言う意味では、ナイーブな感情を持っていた称
光天皇自身も、ある種、歴史の「被害者」だったと言えます。

さて、後南朝はその後、どの様な運命を辿ったのでしょうか? 天皇の証し「神器」を手中にした小倉宮の子・尊義親王(中興天皇)、その
子・尊秀王(自天皇)と「南朝皇位」が継承されました。しかし、1457(北朝長禄1・後南朝天靖15)年、後南朝側に帰順していた赤松氏の裏切り
で、自天皇は暗殺され、その跡を継いだ小倉宮の第四皇子・尊雅親王(南天皇)も「神器」奪取を目論む足利方の賊に襲われ負傷、その
傷が元で、29歳の若さで崩御してしまったのです。風前の灯火となった後南朝の「皇位」をついだのは、南天皇の子で、僅か5歳の皇子・
信雅王(南帝王)だったのです。そして、最後の希望の星(幼君)を擁した後南朝方は、最後にして最大の決戦を挑み、その結果、「パンドラ
の箱」を開けてしまったのです。

参考文献

皇統正史 (長島銀蔵 自費出版)

http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku2.html
(終了)


(転載)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku3.html


19.最大の決戦・応仁の乱 南北朝秘史-其の参- (1997.12.20)


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1467(応仁1)年、細川勝元を総大将とする東軍、山名宗全を総大将とする西軍、総勢25万の軍勢が激突、11年間に渡る大乱の幕が切
って落とされました。世に言う応仁の乱のはじまりです。一般に、足利将軍家、管領畠山・斯波両家の相続問題(お家騒動)と有力守護大
名の勢力争いと見られていた応仁の乱が、実は南北朝争乱の延長線上にあったと言う事を一体どれ程の方がご存じでしょうか?

西軍の総大将・山名宗全は、宿敵・細川勝元に対抗する為、先手を打って後南朝側に帰順しました。この山名宗全の帰順に従い、大和・
和泉・紀伊の大半も後南朝側に帰順。後南朝勢力の増大は、幕府・朝廷(北朝)にとって由々しき問題となっていったのです。これに対し
て、細川勝元ら北朝勢力は、当時、後南朝軍の指揮を執っていた将軍の宮・尊慶王(日尊)を討ち取り、後南朝の勢力を削ごうとしたので
す。そんな中、山名宗全は一つのカード(切り札)を手にするのです。

1471(北朝文明3・後南朝明応3)年、山名宗全は、後南朝の「天皇」・南帝王(熊野宮信雅王)を、実妹の住む京都西陣の尼寺・安山院の
御所に迎えました。これが一体何を意味するのか? 答えは簡単でした。後南朝の「天皇」・西陣南帝(西陣に遷った後の南帝王の称)を奉じて
天下に号令する!! 山名宗全の最終目標が、後南朝方を勝利させ、西陣南帝の権威の下、自らが天下の政務を執る!! これにあった事は誰
の目にも明らかでした。

1473(北朝文明5・後南朝明応5)年、山名宗全・細川勝元と、東西両軍の総大将が相次いで亡くなりましたが、両軍の対峙は、この後4年
も続いたのです。又、将軍・管領家のお家騒動だった争乱は、いつしか、北朝・後南朝の争乱へと変質、更に畿内を主戦場としていたもの
が全国に拡大、戦国時代へと突入していったのです。そう言う意味では、後南朝−西陣南帝は「パンドラの箱」だったとも言えます。もし、
後南朝が再興されず、西陣南帝も現れず、山名宗全が後南朝勢力と結びつかなかったら、あるいは、応仁の乱は政権中央(畿内)の内紛
に留まり、全国的な争乱へと発展しなかったのかも知れません。しかし、「パンドラの箱」の扉は開かれてしまったのです。その結果、「中
世」−幕府を頂点とする中央集権システム−古い価値観が打破され、「近世」−権威にとらわれる事なく、強者が弱者を淘汰していく封建
制−戦国時代へと突入したのです。

社会システムが「中世」から「近世」へと移行する中、後南朝はどの様な運命を辿ったのでしょうか? 最大のパトロン・山名宗全を失い、
1477(北朝文明9・後南朝明応9)年、中世最大の決戦・応仁の乱が勝者無きまま(ただ全国的な混乱を残しただけ)終結すると、西陣南帝は東海
道を甲州を経て奥州へと下向、名も熊沢現覚坊と改め、身分を秘匿しました。その後、各地を転々とし、1514(永正11)年、尾張一の宮に於
いて、61歳の波乱の生涯に幕を下ろしたのです。後南朝の皇統は、西陣南帝が熊沢姓を称した後、これを継承し、先の大戦後、一世を風
靡した「熊沢天皇」寛道も、この直系だと言われています。

最後に、一つの「謎」を提起して締め括りましょう。戦後、「北朝」の流れを汲む昭和天皇に対して、「南朝」の正系である自分に皇位を譲
るよう、主張した「熊沢天皇」寛道の話は、わりと知られています。しかし、熊沢寛道の父・大然(ひろしか 尊憲王)が、明治天皇に自家(熊沢
家)の南朝皇系正統を上奏し認められた事は、わりと知られていません。この一件では様々な謎が残っているのです。

1.時の権力者・明治天皇と政府が、なぜ、力もない熊沢家に対して、処遇問題も含めて一定の配慮を見せたのか?
2.明治天皇は「北朝」系であるにもかかわらず、明治10年、『大政紀要』編纂の際、「南朝が正統・北朝が閏統(非正統)」と
言う裁可を下したのか?
3.後南朝第3代・自天皇御陵を、明治以来、宮内省(庁)が管理しているのはなぜか?
4.大正天皇が、後南朝第2代・中興天皇と自天皇を祀る吉野朝拝式に、金5千円(当時)と言う大金を献納したのはなぜ
か?

「北朝」系でありながら、南朝系に対して並々ならぬ「配慮」を見せた明治・大正両天皇の行動。これらは「配慮」と言うよりも、「南朝贔屓」
とでも言える程でした。この「謎」については、次回、明らかにしましょう。

参考文献

皇統正史 (長島銀蔵 自費出版)

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[1459] 「帝國電網省」 投稿者:小山 みつね 投稿日:2003/07/07(Mon) 18:06:31

皆さん、こんにちは、小山 みつね (1822)です。

竹下義郎(たけした よしろう)氏の「帝國電網省」なるサイトから転載します。

(転載)
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/hi_izuru.html


9.「日出づる処の天子」は聖徳太子ではない!! (1997.5.15)


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某少女コミックに「日出づる処の天子」とか言うタイトルのものがありましたが、その中では、聖徳太子が「日出づる処の天子」として登場
します。日本史の教科書にも出てくる名文

「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや・・・」

大業3年(隋の年号 西暦607年)、時の「倭王」が隋の煬帝に出した国書の一文ですが、歴史家の多くはこの「日出づる処の天子」を聖徳太
子として紹介しています。しかし、「日出づる処の天子」は言われている様に、果たして聖徳太子なのでしょうか? 私はそうは思いません。
では、どうして聖徳太子ではないのかを以下に書いてみようと思います。

なぜ、「日出づる処の天子」が聖徳太子ではないのか? 簡単な事です。「日出づる処の天子」を名乗った人物は「倭王」、つまり「国王」
だったからです。一方の聖徳太子は、「国王」である推古天皇を補佐する「摂政兼皇太子」。たとえ実力が「国王」級だったとしても、日本の
歴史書「古事記」や「日本書紀」には「摂政」としか出てきません。決して、聖徳「天皇」とは書かれていないのです。そして、もっと重要な事
は、「日出づる処の天子」の「天子」の称号です。「天子」と言うのは、「天なる父」(天帝)より地上の支配権を委託された者の事で、「皇帝」と
同義です。日本で「皇帝」と同列なのは「天皇」ですが、では、当時の天皇、推古天皇が「日出づる処の天子」だったのでしょうか?

「日出づる処の天子」は推古天皇か? これもNOと言わざるを得ません。なぜなら、「倭王」の国書が隋の煬帝に届けられた後、隋は裴
世清と言う人物を「倭国」に派遣しており、「日出づる処の天子」を名乗った「倭王」とも会っています。その事は隋側の史料にちゃんと書か
れています。さて、裴世清が会った「日出づる処の天子」が、もし、推古天皇だったとしたら、隋側の史料にはちゃんと「女王」として書かれ
た筈です。しかし、なんらその様な記載は見受けられません。三国志の時代から中国側の史料には「倭王」の名前は何人か登場します
が、卑弥呼や壱与と言った「女王」の時は、きちんと「女王」と書かれています。なぜなら、中国は「皇帝」・「国王」イコール「男性」だからで
す。中国の歴史上、女性が「皇帝」・「国王」を含めて名実共にトップに君臨したのは、則天武后ただ一人です。そんなお国柄の中国ですか
ら、相手が「女性」だったとしたら、卑弥呼や壱与同様、「女王」と書いた筈です。

では「日出づる処の天子」とは一体何者なのでしょうか? 私は「失われた九州王朝」や「古代は輝いていた�掘)[柑�の中の九州王
朝」等の著者・古田武彦氏同様、九州の大王だったと思います。その理由は、『隋書』記載の倭国の描写に、

「阿蘇山有り。其の石、故無くして火起こり天に接する者、俗以て異と為し、因って祷祭を行う・・・」

と書かれているからです。阿蘇山と言えば、熊本県の阿蘇山です。まさに九州な訳です。更に、

「倭国は百済(くだら)・新羅(しらぎ)の東南に在り。水陸三千里、大海の中に於いて、山島に依って居る。魏の時、訳を通ずるも
の三十余国、皆自ら王と称す。(中略)其の地勢は東高くして西下り、邪靡堆(ヤマタイ)に都す、則ち魏志の所謂(いわゆる)邪馬
臺なる者なり。・・・」

とも書かれています。この記述からすると、倭国の位置は、百済・新羅、つまり朝鮮南部の東南で、しかも海を隔てた所に在ったと書かれて
おり、地図を広げるまでもなく、そこには九州があります。そして、その倭国は魏志(三国志)の時代から中国とは行き来があり、首都はヤ
マタイと言い、昔の邪馬台国だと言うのです。つまり、「倭国」とは、奈良・京都・大阪と言った近畿地方を拠点とした天皇家や大和朝廷とは
別の国だった訳です。

最後に「日出づる処の天子」が聖徳太子や推古天皇では無いと言う決定的な証拠があります。それは同じく、『隋書』の記述に、

「開皇二十年(西暦600年)、倭王あり。姓は阿毎(アメ 「天」)、字(あざな)は多利思北孤(タリシホコ 「北」は「比」の誤りか 「足彦」タ
ラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ 「大王」)と号す。使を遣わして闕(隋の都・大興城)に詣る。」

「王の妻は鶏弥(キミ 「王」・「君」)と号す。後宮に女六、七百人有り。太子を名付けて利歌弥太弗利(読み方不明)と為す。」

とあるのですが、上の二つの文章を読まれて分かる通り、第一に倭王には「阿毎」と言う姓(苗字)が有る事です。ご存じの通り、皇室には
姓がありません。第二に、倭王は「多利思北孤」と言う名前だと言う事です。この名前からはどう転んでも、聖徳太子や推古天皇との関連
性が出てきません。第三に、「王の妻は・・・」のくだりですが、「妻」と言う以上、倭王は「男性」です。つまり、推古天皇ではあり得ません。
そして、最後に皇太子は「利歌弥太弗利」と言う名前だと書かれています。この名前からは、推古天皇の「皇太子」だった聖徳太子の名前
との接点は出てきませんし、聖徳太子の跡継ぎ「山背大兄王」(ヤマシロノオオエノオウ)の名前との接点も出てきません。どうひねっても、倭
王が聖徳太子や推古天皇だったと言う証拠は出てこないのです。

ここまでの事をまとめてみると、

1.倭王は「日出づる処の天子」つまり「国王」である
2.倭王は「阿毎」と言う姓を持っている
3.倭王の名前は「多利思北孤」である
4.倭王には「妻」がいる。つまり「男性」である
5.倭王の皇太子は「利歌弥太弗利」である
6.倭国は朝鮮から海を隔てた東南にある
7.倭国には阿蘇山があり、首都はヤマタイと言う

と言った具合で、読まれてお分かりの通り、「日出づる処の天子」は、その地位・名前・性別・住んでいた場所等、いずれを取っても、聖徳太
子ではあり得ないのです。

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(転載)
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10.蘇我入鹿とは何者か? 「大化改新」秘史-其の壹- (1997.6.8)


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大化改新。645年、宮中太極殿で、中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌子(後の藤原鎌足)・蘇我倉山田石川麻呂(蘇我氏の傍流)らによっ
て、権勢著しい蘇我入鹿が暗殺された政変。日本史では必ず教えられる事件ですが、実行犯については比較的詳しく教えられるのに対し
て、暗殺された蘇我入鹿については単に「暗殺された」と言った程度ではなかったでしょうか? この政変は、権勢著しい「蘇我氏」によって
「天皇家」が滅ぼされる・・・蘇我氏の血を引かない中大兄皇子自身が殺されると言う危機意識によって引き起こされたとされています。「天
皇家を守る」と言う大義の下に、「蘇我氏を滅ぼした」と言う論法ですが、もし、蘇我入鹿が「天皇」だったとしたら、どうでしょうか? 私は「も
し」と書きましたが、蘇我入鹿は本当に「天皇」だったのです。現在の『皇統譜』(天皇家の系図)にも、様々な辞典にも載っていない「蘇我入
鹿天皇」について、実証していきましょう。それによって、大化改新の「真の原因」も明らかになる筈です。


▲宮中太極殿に於いて暗殺される蘇我入鹿(奥の女性は皇極天皇)

蘇我入鹿。又の名を林太郎・鞍作(くらつくり)。父は大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(えみし)。祖父は大臣蘇我馬子。蘇我氏は、馬子の父・稲目
(いなめ)より代々、大臣として天皇家の臣下としては、大連(おおむらじ)の物部氏と共に最高位を世襲してきた一族。そして、入鹿はその名
門・蘇我氏の当主。物部氏が聖徳太子・蘇我馬子らの崇仏派によって滅亡した後は、「天皇家に次ぐ権力者」として国政を左右したと言わ
れています。しかし、その実はと言えば、私たちが考える以上に蘇我氏の実力は強大でした。明治維新後の絶対天皇制に象徴された「天
皇家」のイメージで当時の天皇家を見ると大きな間違いを犯す事になります。当時の天皇家は有力諸豪族による「連合政権」の「盟主」的
な存在で、その地位は諸豪族のパワーバランスの微妙な天秤と言う「薄氷」に乗る存在でしかありませんでした。ですから、豪族間のパワ
ーバランスの拮抗が崩れると、天皇家にも大きな影響を及ぼしました。そして、そのパワーバランスを崩したのが、物部氏の滅亡でした。

蘇我氏と共にパワーバランスの双璧を為していた物部氏の滅亡(587年)が意味する物、それは、蘇我氏による幕府体制の成立でした。
真の主君である筈の「天皇家」ではなく、「天皇の臣下」ではあるが、天皇家以上の権勢を誇る蘇我氏による政治。これはまぎれもなくプレ
「幕府」体制と言える物でした。そして、蘇我氏の権力が確立した後は、天皇家と言えども、蘇我氏に逆らう事は出来なくなっていたので
す。それを物語るのが、崇峻天皇の暗殺(『日本書紀』に592年とされている)、歴代天皇后妃に蘇我氏の女性がなった事なのです。こう言った
事が何年も何十年も続くと、蘇我氏自身にある野望が芽生えたのも当然でしょう。すなわち、「蘇我氏自身が天皇家」になる!!

「蘇我氏自身が天皇家になる!!」。いや、「なった」と言う方が正確でしょう。その証拠に、例えば、

1.蘇我蝦夷の邸宅を「上の宮門」(かみのみかど)、子の入鹿の邸宅を「谷の宮門」(はざまのみかど)と呼んだ。
2.蘇我入鹿の子らが親王に準じた扱いを受けた。
3.聖徳太子・蘇我馬子らによって編纂された『国記』(くにつふみ)・『天皇記』(すめらみことのふみ)と言った史書が蘇我氏の邸宅に保管さ
れていた。

等が挙げられます。まず、1ですが、「宮門」と言う語。これは「御門」・「帝」とも書かれますが、意味する所は、「天皇の住む処」すなわち「御
所」です。そして、2ですが、これは言わずもがなでしょう。最後の3ですが、国の歴史を記す官撰史書を保管していた事実。一豪族が保管を
許されるようなシロモノではないのです。これらの事実が指し示す物は一つ、当時、蘇我氏が「天皇」又は「天皇に準じる扱い」を受けてい
たと言う事なのです。

ここまで書いても、「いやいや、そんなバカな事がある筈がない!!」と思われる方もいるでしょう。そんな方は下の文章の「□」を文字で埋め
てみて下さい。

□□□天皇御世乙巳年六月十一日、近江天皇(中大兄皇子、後の天智天皇の事)、林太郎□□を殺し、明日を以て其の父豊浦
大臣(とゆらのおとど 蘇我蝦夷の事)子孫等皆之を滅ぼす

これは、『上宮聖徳法王帝説』と呼ばれる史書の中の一文で、大化改新の記事ですが、「□」を埋められたでしょうか? まず、最初の「□
□□」ですが、ここに蘇我入鹿の別名「林太郎」を、次に「□□」に「天皇」を入れてみると・・・どうでしょう。前述の「宮門」等と合わせても、
辻褄が合う事にお気づきでしょう。「これでも信じられない」と言う方、考えてみて下さい。なぜ、「□」の部分だけが欠損していたのかを。こ
れが自然に「虫食い」と言うならば、あまりにも偶然すぎるとは思えないでしょうか? もし、故意に欠損させたならば、なぜ、「天皇」の名を
欠損させたのか? 「林太郎大臣」と書かれていたのならば、なぜわざわざ「大臣」の部分を欠損させたのか? 理由に苦しみます。しか
し、これが「林太郎天皇」と記されていたとするなら、すべての謎は解けるのです。

最後に一つ、蘇我入鹿が「天皇」又は「天皇に準ずる扱い」を得ることが出来た最大の理由について。それは、蘇我入鹿が、当時の「天
皇」・皇極女帝の愛人であり、最大のパトロンだった事です。そして、中大兄皇子ら一派が最も恐れた事、言うなれば、大化改新の「真の原
因」は、すなわち、「林太郎天皇」蘇我入鹿と皇極女帝との間に「皇子」が誕生し、その「皇子」が、中大兄皇子ら「天皇家の正統なプリン
ス」を差し置いて、後継天皇になると言う「悪夢」だったのではないでしょうか?

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11.真の首謀者は誰だ!? 「大化改新」秘史-其の弐- (1997.6.8)


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さて、蘇我入鹿を通して、大化改新の「真の原因」は明らかになりました。しかし、謎はもう一つ残っているのです。大化改新の「真の首謀
者」すなわち「主犯」は誰だったのか?と言う事です。

大化改新の登場人物を眺めてみると、暗殺された蘇我入鹿(被害者)、暗殺を実行した中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌子(後の藤原鎌
足)・蘇我倉山田石川麻呂ら(暗殺実行犯)の他に、もう一人重要な人物が登場します。それは軽皇子(後の孝徳天皇)です。

よく劇画等では大化改新の入鹿暗殺の場面を、颯爽と登場した中大兄皇子が悪名高い蘇我入鹿を鮮やかに暗殺する、と言った感じで描
いています。しかし、実際には中大兄皇子も、中臣鎌子も、そして、蘇我倉山田石川麻呂も、皆震えが止まらず、なかなか暗殺できなかっ
たようです。 つまりは暗殺実行犯の面々は皆肝が小さい連中だったと言う事で、時の権力者蘇我入鹿と言う大人物を、よりにもよって宮中
の太極殿で、入鹿の愛人である皇極天皇の面前で暗殺する等と言う大それた事を計画実行出来る器ではなかったのです。しかし、彼らは
暗殺を実行しました。それには、事後処理において、自分達の身の安全が完全に保障されていなければなりません。又、暗殺段階でさえ、
及び腰だった実行犯の面々が、蘇我氏の本家をも滅ぼす等、作戦はあまりにも電撃的で鮮やかでした。ここで、考えたのは、実行犯と計
画犯(首謀者)は別ではなかったかと言う事です。そんな中浮かび上がった人物が、軽皇子だったのです。

大化改新後、蘇我入鹿の愛人であった皇極天皇は政変の翌々日に退位しました。本来ならば、大化改新の最大の立て役者・中大兄皇
子が即位する筈でした。何と言っても、政変の実行犯ですし、皇極天皇の子なのですから。しかし、ここで即位したのは、中大兄皇子では
なく、皇極天皇の弟で、中大兄皇子の叔父に当たる軽皇子でした。そこで、浮かんだのは、大化改新の計画犯つまり「真の首謀者」は軽皇
子ではなかったかと言う事です。

軽皇子はなぜ大化改新の僅か2日後と言う直後に、何の功労も無いのに、大化改新の最大の立て役者・中大兄皇子を差し置いて即位
できたのか? これは今まで大いに謎でした。正にダークホースです。しかし、もし、彼が中大兄皇子らに計画を吹き込んで、周到な準備を
させ、裏で作戦を指揮していたとしたら、どうでしょう。政変直後に即位出来た事も納得がいくのです。しかし、中大兄皇子がそう簡単に皇
位と言うニンジンを放棄するでしょうか? いや、これがあり得るのです。それは、中大兄皇子の母・皇極天皇の処遇についてです。皇極天
皇は蘇我入鹿と愛人関係にあった・・・つまり天皇家のプリンス達からは、いわば「裏切り者」とも言えます。蘇我入鹿が暗殺された際、本来
なら当然連座して暗殺された筈です。しかし、皇極天皇は退位しただけで、何のお咎めもありませんでした。これは皇極天皇の子である中
大兄皇子にとってみれば、最大の安心材料です。更に、自ら、皇太子になれるのですから、次代の皇位を約束されたようなもので、こんな
好条件を飲まない筈がありません。

更に、軽皇子が首謀者ではなかったかと言う理由の一つに「遷都」が挙げられます。軽皇子が即位し、孝徳天皇となった際、飛鳥の都
(奈良県)をあっさりと棄て、難波長柄豊碕宮(大阪府)に遷都した事実です。なぜ、遷都しなければならなかったのか? 先ず考えられるの
は、大化改新を完全な物とするために新都で政権を刷新した。次に考えられるのは、飛鳥の都では最早、首都として機能させるには不具
合であったから。この両者共に、インパクトに欠けます。前者は現在の「首都機能移転問題」でもそうですが、莫大な財政支出を要します。
いくら政権を刷新するからと言っても、あまりにも負担がかかります。後者は、孝徳天皇の死後、都が再び飛鳥の地に戻された事から、説
得力に欠けます。そこで、第三の理由が浮かんだのです。

その理由とは、政権の刷新でもなければ、首都機能問題でもありません。大化改新と孝徳天皇自体にあったのです。もし、孝徳天皇が大
化改新の「真の首謀者」であったとしたら、自らが滅ぼした「蘇我氏の都」に居続けるでしょうか? 確かに、蘇我氏の本家は滅亡しました。
しかし、倉山田石川麻呂に代表される蘇我氏の傍流(分家)は今だ健在なのです。この傍流蘇我氏がいつ勢力を蓄え、第二・第三の入鹿
を輩出するか分かりません。又、蘇我氏本家が滅亡した際に、「失業」した家臣団が、いつ、自分の寝首をかきにくるとも知れません。そん
な不安だらけの「呪われた都」に居続けるでしょうか? そう考えてこそ、「難波遷都」の理由がつくのです。そして、それこそ、孝徳天皇
が、「大化改新の真の首謀者は私だ」と言っている様なものなのです。

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[1458] トゥルーマン・ショー 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/06(Sun) 23:47:16

「象のロケット」というサイトから貼り付け

RC:集団ストーカーやるって本当ですか?その5
http://society.2ch.net/test/read.cgi/koumei/1056775857/l50

(貼り付け開始)

創価ストーカートゥルーマン・ショー

1998年製作 米

監督:ピーター・ウィアー
出演者:
  ジム・キャリー
  エド・ハリス
  ローラ・リネイ
            ( 103 min )

保険会社の気のいいセールスマン・トゥルーマン。 しかし、彼の親友も、仕事仲間も、そして愛する妻でさえ、雇われた俳優が演じるウソの世界だったとしたら…。 人生そのものをテレビ番組にされてしまった男を描くヒューマンドラマ。

ゴールデングローブ主演男優賞

http://www.paoon.com/film/uklktwcpf.html

(貼り付け終了)


[1457] 誹る者がいれば、それを沈黙させれば良い 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/06(Sun) 23:09:36

『諸君』1981年9月号 文藝春秋のP186から貼り付け

RC:黙れば許すと言われても…

(貼り付け開始)

「昨日の師・池田大作への手紙」第2部
池田大作“天下取り”秘中の秘策
山崎正友(元創価学会顧問弁護士)

1:池田大作は、石田次男氏との血生臭い権力闘争を経て、3代目の会長になった。(P169)

2:池田大作は、批判勢力やマスコミに対して、なりふり構わぬ弾圧を加えてきた。(P172)
2−1:「誹る者がいれば、それを沈黙させれば良い」と考えるのは、古今東西を通じての独裁者の発想である。
ものの本によると、貴方に似たような人物は、古くは2千8百年も前の中国にもいました。
その昔、周の��(れい)王は、“暴虐を行いて侈傲(しごう)なり。国人、王を謗(そし)る”(史記)といわれた暴君でした。�匆Δ蓮�特高警察みたいな組織をつくって自分を謗る者を弾圧し殺したので、人民は沈黙し、“国人、敢えて云う莫(な)く、道路、目を以てす”という状態になりました。
口で云えないから、目くばせで互いに怨みを訴え合ったということであります。
�匆Δ蓮�
「もう文句を云う奴はいなくなったろう。皆、俺を尊敬し服従しているのだ」
と、大いに得意になっていました。諸侯の1人、召公が、みるにみかねて、“民の口を防ぐは、水を防ぐよりも甚し”と諫言しました。
人々の口をふさごうとすることは、堤防だけで水をとじこめようとすること以上に危険ですよ、という意味であります。決潰したときの被害は何十倍にもなります。しかし、�匆Δ呂海鈴欷世鰺僂い此∩衒僂錣蕕鎖楊韻慮�をふさぐ政策をつづけたため、ついに人民が蜂起して�匆Δ歪匹そ个気譟�他国に亡命したということであります。このように人の口をふさぐこと、言論を封殺することの愚かさは今も変るものではありません。

3:貴方の“天下取り構想”の根底には、“三国志”があります。そしてそれは万年野党の社会党や共産党と組んずほぐれつの“三国志”ではなくて、議会の第3勢力として、キャスティングボートをにぎったら日本株式会社の上部構造である、自民党内での主導権争いに参加する資格をもつことこそが、秘められた“三国志”の構想であり、貴方にとって“本命中の本命”の戦略であります。(中略)
もちろん、日本のエスタブリシュメントの構造が貴方のようなウサンくさい成り上りものをパートナーとして、容易に体制内にうけ入れるとは考えられません。あくまで突っかえ棒であり、体制外の協力者に止めておくよう努力するでしょう。
しかし、貴方の方もそのカベをどう突破するか、そこのところは読んでいます。“日本株式会社の支配層は、下からせめてもだめだ。幸い、議会政治、議院内閣制という制度では、人の数を結集して議席をとり、上から押えれば官僚も財界も支配できる。現に自民党では、成り上りの異端者(RC:田中角栄)でも、金力で力を持つことができるではないか”と考え、そしてその力の源泉としての人集めの手段として、人の内心を完全に支配する方法即ち宗教をより利用するため“仏”になることを考えたのでした。(P177)

4:私は、世間から軽んじられ、権力者が、“反共の犬”扱いして軽くみている間に、いわば盲点になっている間に、いつの間にか権力の座に手がとどく位置についている貴方に、ヒットラーが政権を奪取したプロセスに似たものを感じて、危惧をいだいています。そういえば、ヒットラーの“我が闘争”も、貴方と側近幹部の必読の書でした。(P178)(RC:田中角栄は、“池田大作を法華経を唱えるヒットラー”と呼んだ)

5:私が貴方の天下取り構想にはじめて出会ったのは昭和38年秋でした。場所は、たしか文京公会堂でした。(中略)おどろくほどの単刀直入さで、私達に語りかけました。
「今日、ここに集った学生幹部諸君を心から信頼して、私は本当のことを申し上げる。“広宣流布”とは、しょせん天下をとることだ。諸君、私といっしょに天下取りをやろうではないか。私が立たなければ、日本はつぶれる。これまで世間からバカにされたり無視されながら着々と力をたくわえ、準備をととのえてきた。世間をあっといわせよう。“三国志”をはじめようではないか!」(P179)

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[1456] 属国日本、ネオコン 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/05(Sat) 20:45:32

マールマガジン「メルマ」から貼り付け

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21世紀の外交を追う 23号 2185部(7サイト)
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名言で読む英語23→属国日本、ネオコン→ご意見の順です。

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イラク◆危機アクション 翻弄されるイラクの人権
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日本経済が破綻するまで動きつづけるリアルタイム財政赤字カウンタ
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名言で読む英語23
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In his report to this Council on February 14, Dr. Blix reaffirmed that Iraq's response thus far has been inadequate. Therefore, even if the inspections were to be continued and strengthened, they will hardly lead to the elimination of its weapons of mass destruction, unless Iraq fundamentally changes its attitude of cooperating only passively. There is serious doubt as to the effectiveness of continued inspections(KOICHI HARAGUCHI).

これまでのイラクの対応が不十分であることは、14日のブリックス委員長の報告でも再確認されています。したがって、単に査察を継続・強化しても、これまでのイラクによる消極的な協力姿勢が抜本的に改められない限り、大量破壊兵器の廃棄に結びつかず、査察の継続の有効性に疑問が生じていることは否めません(原口国連代表部大使)。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/15/un_0218.html
http://www.mofa.go.jp/announce/speech/un0302.html
2月18日に国連で行なわれたスピーチの一部です。日経新聞の田勢康弘氏の『だれが日本を救うのか』新潮文庫には、「日本の外交を見てきた人間としては、どうしても英語の表現が気に掛かる。英語と日本語の間にニュアンスの差があることは珍しくないのだ。日本国内向けには反発を恐れてソフトな表現にとどめ、英語でははっきりと言うケースはよくある。おまけに国連では日本語は公用語として扱われない。記録に残るのは英語なのである」とあります。名言?の訳文は確かにソフトになっています。しかし、残るのは「only passively」「serious doubt」というキツイ英語のほうです。
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属国、ネオコン等(岡本氏講演は次号に延期致します。申し訳ございません)
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●属国日本●
昨今、日本は米国の友人だからイラク攻撃に対して忠告すべきだ、という意見がある一方、北朝鮮情勢を考えると米国への配慮は欠かせないという意見がみられます。ただし、それ以前にも日本政府はアメリカ政府からポチと呼ばれているとか、植民地、51番目の州みたいなことも言われていました。このような言葉を頻繁に聞くようになったのは、副島隆彦氏の『属国・日本論』の功績だと1週間ほど前に、氏の『属国日本論を超えて』を借りて読んで気づきました(『属国・日本論』は未入手)。

●ネオコン●
もう一つ昨今頻繁に聞くのは、ポール・ウォルフォウィッツ国防副長官に代表されるネオコンです。『外交フォーラム』2月(1月8日発売)でも共同通信の会田氏が「ネオコンが優勢ってホント?」という解説を施しています。副島氏は95年に筑摩書房から『現代アメリカ政治思想の大研究 世界覇権を動かす政治家と知識人たち』を刊行し、同書を改題、一部訂正、加筆して99年に講談社+α文庫に文庫化されています。小生は昨日文庫版を入手しましたが、ここにはネオコンについて詳しく書いてあるだけでなく、アメリカ政界の全体構図も書いてあります。『外交フォーラム』2月は「アメリカを知るための20冊」というコーナーを設け、佐々木毅氏の『アメリカの保守とリベラル』を紹介しつつ、副島氏の本は紹介されていません。アメリカ政治や外交を理解するには、『世界覇権を動かす政治家と知識人たち』を真っ先に読んだ方が良さそうです。エライっぽい方々が副島氏の功績を黙殺しているため、小生は遠回りさせられた感じが有りです。朝日新聞のインタビューに最近出てきたジョゼフ・ナイ氏もばりばりのネオコンだとわかりました。氏の『金融鎖国』、『覇権国家アメリカの衰退が始まる』も借りて読み終わったのですが、かなりスリリングでした。
副島氏のホームページを以下となっています。
副島国家戦略研究所
http://www.snsi-j.org/
副島隆彦公式サイト「副島隆彦の学問道場」
http://soejima.to/
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前号へのご意見へのご意見(有難うございました)
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N0.22 2003/02/15の「後半に掲載する前号に対するご意見」に関連して私自身の感想を以下に申し上げます。

日本政府が小泉首相の意向を受けて米英主導の戦争開始案の実現にむけて、国連の新決議をまとめるために非常任理事国を説得するという方向に動いている。このような国際社会の重要な時期に際して、日本は「つくべき側」を間違えてはいけない。結論として日本がアメリカ側につくことは間違っていないのだが、やり方や進め方は短期、中長期にわたる日本国の利害得失を十分に熟慮したものでなければならない。

現時点における米英による性急なイラク攻撃開始はアメリカ自体にとって間違った判断と行動であり、アメリカの国力の衰退と威信の失墜を招くでしょうし、それは廻りまわって日本の国益を損なうでしょう。小泉政府のオツムがよくないからと言って済ませられない憂慮すべき状況です。

「日本の総理大臣が人質の盾になる」ことについて、掲載されたご意見は「無責任である」としていますが、私は、これは無責任というのは適切ではない。提案自体が実現の可能性ゼロを承知でなされていますから、むしろ「著しく実現性を欠く提案」というべきでしょう。日本の総理大臣がこの際、なすべきことで、いくらかでも現実性のあることをあげるとすれば、総理大臣がイラクに乗り込んでフセイン大統領に面会して説得することでしょう。説得の内容は「アメリカに敵対することを止めなさい。」であり「国際テロをイラク政府もまた容認せず、その防止に全力を尽くす」ことの確約を求めることです。日本の総理大臣はフセイン大統領に対して、このような直接の説得をこれまでに実行しておくべきであった。これからでも遅くはないから実行すべきでしょう。

「人間の盾戦術」は「座り込み」などと同様、乱用される傾向があるが、文明社会が存続しているとの前提にたてば、やはり言論と交渉でのアピールを粘り強く続ける、工夫して続けるのが正しいし効果的だと思います。

9月11日のテロ攻撃は数千人のinnocent peopleの生命を奪った。このような事件に遭遇すると、私どもはどうしても第二次大戦末期の事件を思い出す。アメリカは日本の主要都市に対してほとんど無差別に爆弾、焼夷弾、原子爆弾を投下して都市を破壊し数十万人の生命を奪った。人命の価値は数では決められないが、それにしても9月11日テロのおよそ2百倍の数になることを無視できない。当時私自身は東京近郊の朝霞の陸軍基地にいたのだが東京の夜空に焼夷弾が投下されるたびに炎が勢いを増して燃え上がる様子が手に取るように眺められた。あの炎の下で大勢の無抵抗な人たちが逃げ惑い殺されていたのです。「戦争だったから仕方がないではないか」という発想もある。しかし、戦争だから手段を選ばなくてよいというのは当たらない。戦争終了後に行われた戦争裁判で手段を選ばなかったと判定された人たちはB・C級戦犯として処罰されている。ニューヨークにおけるテロは悲惨な、胸のつぶれるような事件である。しかし、ブッシュ大統領政府には自身の痛みには敏感だが他人の痛みには鈍感であるという、ひとりよがりなよくない傾向が強く認められる。国籍は異なっても人間としては共通なのだという認識が希薄なのである。

一国の政府とその国民は相互に無縁の存在ではない。しかし、同一視できない存在でもある。つまり、基本的には同じではないという認識が不可欠である。サダム・フセイン政権とイラク国民は同一ではないし、キム・ジョンイル政府と北朝鮮国民とは同じではない。同様にブッシュ政府とアメリカ国民は同一ではないし、小泉政府と日本国民は同じではない。

一国の政府はその時点における国家を手続き的に法的に代表している。ブッシュ政府はブッシュ大統領の任期である今後2年間はアメリカを代表する。しかし、再選がなければ2年後には別な政府がアメリカを代表するのである。1945年の原子爆弾の使用についてトルーマン大統領は「野獣(=日本人)を扱うには、それなりのやり方がある。」と言い、退任後のアメリカメディアによる「原子爆弾の使用について悩んだでしょう。」というインタビューの質問に答えて「いや、まったく悩まなかった。こんな具合だったよ。」と言って指をパチンとならして見せた。いろいろな事情や理由はあったにせよ、また、アメリカの内政についての貢献・業績があったにしてもトルーマン大統領は消えることのない大量殺人者としての汚名を人類史に残すことになった。

日本人はトルーマン政府に対して嫌悪感や拒否感を持たないわけにはいかない。しかし、だからといって日本人はアメリカ人、アメリカ国民に対して同様の否定的感情を持ってはいない。これは何故であろうか。政府と国民を同一のものと見ないからである。

9月11日に起きた、あのテロとサダム・フセイン政府が関わっていたとしても、それを理由にイラク国民を爆撃などによって処罰し殺傷してよいということにはならない。何故ならサダム・フセイン政府=イラク国民ではないからである。

「ご意見」を書いた方が「政治家として戦争の怖さを一番知っているのは現地に赴いたアメリカの政治家である」という場合、そのアメリカの政治家とは具体的には誰なのか。体験すれば体験しない場合よりも理解できるというのは原則ではあるが、必ずしも原則どおりにならない場合も意外に多い。「見れども見えず、聞けども聞こえず。」という経験はわたしどもの日常でもしばしば起きている。軍艦や原子力潜水艦に乗り組んでいる軍人は職業上の使命を遂行するのが役目であり、上級司令官であっても末端の乗組員であってもこの立場は同じである。民主主義で選ばれた政治家だからそれなりの常識や感覚を持っているはずだということも一概には言えない事柄である。論理は積み上げていかねばならないし、短絡や飛躍が多くなれば説得力を失ってしまう。

この「ご意見」の結論が「とにかく、この問題が早く解決されるのを望む」となっている点についていえば、心情的には理解できるとしても、冷静で真剣な立場からいえば賛同できかねます。「とにかく、この問題は(必要な)時間をかけてもよいから適切に、正しく解決されることを望む。」とすべきではないでしょうか。

本文とは直接の関係はありませんが、いわゆる「支持率」のマジックについてかねがね疑問をもってきているので、この場をかりて一つの提案を申し述べたい。そもそも支持率○○%というのはどういうことか。その「支持率」はどのような調査によって算出・計算されたものなのか。その調査の内容や方法はどうなっているのか。いまや「支持率○○%」の威力たるやたいしたものです。しかし、その実態についてはわたしども一般人にはブラックボックス同様判然としない。メディアに限らず、この神通力絶大な「支持率」を引用する場合にはできるだけその根拠、出典を明瞭にできないものかと思います。

わが国は出版が盛んなので、ここで一つの提案をしたい。たとえば「文芸春秋」誌でもよい。雑誌の中に「アンケート葉書」をつけて、購読者が自発的にアンケートに記入して投函できるようにしてはどうか。この種のアンケートに限って50円切手ではなくて、20円〜30円でよいという特例を設けることができれば一層結構である。これなら「文芸春秋○月号」による「支持率」というようになって出所も方法も明瞭になる。「小泉政府に対する支持率○○%」だけを根拠にして引き続いて重要な議論が進められるのはおかしいし、もとが怪しければ結論も間違ってくるおそれがないだろうか。

良心的に考えれば考えるほど、世間を我が物顔に横行闊歩している現状の「支持率○○%」は「21世紀におけるメディア七不思議」の一つといってよい。
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後書き
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ご意見及びご感想は次回から適切な長さに要約するように致します。また、姉妹紙のCNNの方は3日以内に出そうと思っております。ところで、作家・池澤夏樹氏のメルマガ「新世紀へようこそ」
http://www.mag2.com/m/0000077116.htm
の2月20日分によれば、「沖縄と言えば、昨日、名護市議会がイラク攻撃に反対する決議を全会一致で可決しました」とありました。氏のベストセラー『イラクの小さな橋を渡って』の英語版は無料でダウンロードできるようですので、氏のホームページを紹介して米国に住む方々に読んで頂くのもそれなりに意義があるかもしれません。
「やさしい現代政治用語」発行者様
http://www.mag2.com/m/0000073089.htm
は2月15日の渋谷のピースパレードに参加された(5000人)そうなんですが、参加者は元気があり、道行く年配の方々は声をかけたりする人もいる一方、道行く若者はわれ関せずみたいだったそうです。
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メルマガ紹介
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●士族家庭史研究会メールマガジン●
http://www8.ocn.ne.jp/~shizoku/
このサイトで発行者の方に無料購読申し込みをすると送って頂けます。22号のご意見を下さった方をサイト運営者様が評価されておりました。サイト運営者様は竹村健一氏のメルマガに投稿し掲載されたりしているようです。
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姉妹メルマガ
●CNNで世界を追う●
最新のCNNニュース英語を用いつつ、世界の動きを追いかけます。また、関連知識もフォローしていきます。英語や時事に関心のある方は是非ご購読を。
http://www.mag2.com/m/0000098815.htm
http://www.melma.com/mag/04/m00048504/

●CNNで世界を追う last year version●
「CNNで世界を追う」と併読されますと、世界の変化が一目瞭然です。
http://www.melma.com/mag/05/m00075605/
http://www.mag2.com/m/0000099632.htm
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ご感想・ご意見は re でできます(時短のため匿名無断掲載有)
メルマガ相互紹介も募集しております(お引受けできない場合有)。

http://www.melma.com/mag/62/m00075262/a00000023.html

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[1455] 意外に近いアジア諸国 危ない隣人たちは今 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/05(Sat) 13:46:25

【高山正之の異見自在】から貼り付け

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意外に近いアジア諸国 危ない隣人たちは今 [2000年02月19日]

 東京・羽田のオートバイディーラー、佐藤隆夫はその朝、顧客からの電話の洪水に悲鳴を上げていた。店からほんの五分のところに住む顧客は「朝起きてみたら家の横の路地に止めてあったBMWがなくなっていた」という。「鉄棒みたいに頑丈なカギを付けていたのに」と泣いていた。
 一台二百六十九万円もする。好きな酒もやめ、残業も進んでやって、やっと新車を手にしてまだひと月もたっていなかった。

 二本目の電話は六郷川を越えた向こうのお得意で、夫婦でツーリングを楽しむためにそろえた二台の大型バイクがその朝、自宅ガレージから消えていたという。

 彼は盗まれたオートバイのエンジンナンバーや何か目につく特徴を記録する。オートバイ盗難に警察はまともに応対してくれない。ディーラー同士が盗難情報を交換し、そういうバイクが持ち込まれたりした場合に備えているが、成果はあまりない。

 それにしてもこの朝は異常だった。彼の顧客だけで五件六台の盗難が伝えられ、近隣のディーラーから同じように盗難情報を伝えるファクスが休みなく受信音を発していた。

 電話がまた鳴った。六件目の被害状況を聞いている彼の背を従業員が叩く。あとで、と手で合図しても動かない。何だと目顔で聞くと、「ウチの車置き場でもホンダが一台やられてました」。

 車置き場は一・五メートルほどの高さの鉄格子の扉の奥にある。扉は閉まっていたから多分、クレーン車でつり上げていったのだろう。

 自分の店の被害届を作っていると近所の建材業者が仏頂面してやってきた。昨夜、「ユンボ」を盗まれたという。ユンボとはトラックの荷台にクレーンがついた特殊車両、パワーショベルのことだ。犯人グループはまずこれを盗んで、この界隈(かいわい)の高級大型バイクを片っ端から盗んでいったのだろう。嵐のようなバイク盗難騒ぎは実はその前にもあった。九八年夏のことで、一カ月ほど続いてぴたりと収まった。

 何が原因だったのか、首をかしげているところへ、顔見知りの香港系のバイク貿易商がきて「中国政府が今月からバイク部品の輸入を禁止した」という。盗難バイクが「部品」の名でコンテナ輸出されているという話は聞いていた。「おそらく密輸業者が禁止令前に駆け込みで盗み漁(あさ)ったのでは」というのが仲間内の推測だった。

 輸入禁止令が出て間もなく、中国の江沢民国家主席が日本を訪問した。主席の帰国後、部品輸入が解禁され、同時にぼちぼちと盗難騒ぎが始まり、彼はその偶然に少しく驚いたという。

 そして今回。ディーラー同士の情報交換で、符合する時期に「韓国とインドネシアが排気量制限を解除した」というのがあった。

 中東、アジアの一部の国は、オートバイの排気量を125cc以下に制限している。それ以上の大型バイクは、並の四輪車では追いつけない速さと、狭い路地も走り抜ける小回りのよさがある。

 現にイランでは革命の後、大型バイクを使ったテロや暗殺がはびこり、犯人はほとんど逃げおおせた。それで大型は禁止された。

 韓国もインドネシアも同様の理由で大型は禁止されてきたが、その規制が外されたというのだ。

 今度の盗難の嵐もその規制緩和のおかげ、と彼は信じている。

 その騒ぎのさなか、手荒な強盗事件が同じように増えてきた。東京・新宿の仕出し弁当屋に中国人数人組が押し入り、三百数十万円を奪ったほか、新宿界隈だけでも三件の強盗が起きた。

 一味は間もなく捕まったが、これを追うように新宿、上野、湯島などの金融業者をねらってやはり中国人風の強盗が押し入って数百万円から二千万円を奪っていった。上野ではパチンコ店が襲われ、従業員が刺殺された。こうした外国人の凶悪犯罪は警視庁管内だけで九十三件も起きている。

 にわか急増の原因をテレビ東京の報道番組「ニュース・アイ」は、きのう十八日に発効した「改正入管法」の影響と伝えた。

 改正のかなめは、これまで強制退去された不法滞在者は一年で再入国できたものを、その期間を五年に延長するというものだ。つまり今度、捕まればこの次、日本にこられるのは平成十七年になる。身に覚えのある者が目下、五年分を荒稼ぎしていると「ニュース・アイ」は分析する。

                 ◇

 四面を海に囲まれている日本はどうもアジア諸国との距離を大きく感じるきらいがある。

 だから、どこかの不良国家が少女を誘拐しても、飛んでいって取り返そうという発想はしない。ワシントンに出かけて、何とかしてもらえないだろうかと懇願する。北朝鮮は米国より遠いところ、と思っている。

 でも、実際は北朝鮮が日本人を誘拐しようと思えば、小さなボートでも用が足りる。

 もっと遠い国でバイクの規制緩和があっただけでも、日本の法律や中国の貿易品目がほんの少し変わっただけでも、それはすぐさま日本人の命や財産を脅かす事態を招来する。

 日本は孤立なんかしていない。危ない隣人たちがたゆまずそれを教えてくれている。

http://kaz1910032-hp.hp.infoseek.co.jp/120219.html

(貼り付け終了)


[1454] 世の中いろいろあるようだ47:レーザー盗聴器 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/05(Sat) 12:39:19

「盗聴発見調査・各種セキュリティーシステム ARSA」から一部貼り付け

RC:政治家は取り付けるのが常識でしょうか?しかし、約1Km先から盗聴できるとは、クワバラクワバラ。

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盗聴器の種類

レーザー盗聴器
レーザー光線を盗聴したい部屋の窓ガラスなどに照射し、その反射光により盗聴するもの。
盗聴が可能な距離は、約1Km。
価格は数百万円程で、一般には普及していませんが、プロには使われはじめているようです。
対策としては、厚手のカーテンを使うことによりかなり防げます。→壁(ガラス)面盗聴防止器

http://plaza5.mbn.or.jp/~gougasha/kind.html

盗聴発見調査・各種セキュリティーシステム ARSA
http://plaza5.mbn.or.jp/~gougasha/index.html

(貼り付け終了)

盗聴に関する仮説
http://soejima.to/boards/past.cgi?room=sirogane&mode=find&word=%C5%F0%C4%B0%A4%CB%B4%D8%A4%B9%A4%EB%B2%BE%C0%E2&cond=AND&view=5


[1453] 世の中いろいろあるようだ46 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/05(Sat) 02:22:35

RC:凄いですね。

池田大作

[1452] 『オウム帝国の正体』から 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/05(Sat) 00:51:43

『オウム帝国の正体』一橋文哉/著 新潮社から一部貼り付け

(貼り付け開始)

P139 ニューヨークから来た工作員

これまで、述べてきたオウム関連の暴力団情報を追跡していくと、何と、1つの組織に集約されると分かったことだ。それは、1つの大きな暴力団組織が裏側からオウム真理教を支援していた可能性があることを意味している。

その組織は暴力団の中でも武闘派と呼ばれ、さまざまな事件やトラブルで名前が取り沙汰されてきた団体だ。反面、経済活動も巧みで金融、不動産といったフロント企業を多数管理し、莫大な利益を上げてきたとされる。

捜査当局はその組織が89年ごろから、暗殺者(ヒットマン)部隊を創設し、フィリピンなどで実弾射撃訓練を積んでいるとの情報をキャッチしている。また、別の宗教団体に食い込み、年間10億円近い資金提供を受け、幹部の警護や反対勢力の襲撃といった活動を続けてきたという情報もある。

さらに、前述したような北朝鮮人脈との繋がりもある。
「彼らは暴力・恫喝と利権というアメとムチを巧みに使い分け、政財界はもとより、左・右翼、宗教界、外国勢力などに食い込んでおり、影響力は決して小さくない。特に、カネ、人、組織が既に完備している宗教団体を利用するノウハウを持っていて、警戒を強めていた矢先に、オウム事件が起きただけに、ショックを受けた」
そう語るのは、警察上層部の1人。

そうした暴力組織は今なお健在であり、スポンサーとされる暴力団とフロント企業はますます、勢力を拡大している。それどころか、上祐を中心に復活しつつあるオウム真理教に、再び接近し、甘い汁を吸おうとしているのだ。

安企部の在日エージェントは、こう語る。
「狙撃犯はなぜ、捜査の直接責任者である警視総監じゃなく、警察庁長官を狙ったのかがポイントではないか。暴力団と警察、北朝鮮とくれば、想像がつくだろう」

この言葉が何を指していうのかは、第3部で述べることにするが、いずれにしても、長官狙撃事件の真相がオウムと北朝鮮と暴力団を結ぶ線上にあることだけは間違いあるまい。

P162 「ユダにやられた」の本当の意味

村井刺殺の理由として、もう1つ考えられるのは、教団内での権力闘争である。

教団内部では、上祐、青山ら穏健派と、早川、井上ら武闘派との間に、教団の路線をめぐる対立があった、と言われてきた。(中略)

この早川による村井粛清説には、幾つかの根拠がある。

1つは、村井自身が「尊師と早川が自分の処置を相談したらしい」と、側近の土谷に漏らしていたことである。

2つ目は、早川が村井刺殺前にテレビ番組に出演し、わざわざ逮捕されていることだ。彼は地下鉄サリン事件当日はロシアに出張しているなど、アリバイ作りが得意とされ、この不可解な行動も、村井刺殺事件と無関係を装うアリバイ工作ではないか、という訳だ。

3つ目は、村井が死の直前に漏らした言葉である。それは当初、「ユダにやられた」と伝えられ、瀕死の村井に付き添った上祐は後に、「実はユダヤだった」と修正した。

しかし、オウムがユダヤを敵視し、何か起きるたびにユダヤのせいにしてきたのは確かだが、具体的なトラブルはなく、村井クラスの幹部が、それを鵜呑みにしていたとは思えない。

それに、村井刺殺事件後に見せた上祐の異様なほどの怯え方から見ても、村井がもっと具体的な言葉を漏らしたと考えるのが順当であり、むしろ、ユダ(裏切り者)の方が通じる気がする。

上祐は「もういい。しゃべるな」と慌てて村井の口を塞いでおり、嘘をついた可能性もあるが、実は、村井が、“ある団体”の略称を叫んでいたのを、複数の捜査関係者が聞いている。

その団体は、捜査当局の調べで、早川や北朝鮮と深い関わりがあり、略称は漢字で2文字、音読みで3語に相当する、というのだ。

そして極めつきは、徐が早川と関係があったということである。

徐は90年の総選挙の時、麻原をモデルとした張りぼて制作の仕事をしており、オウムと直接関係があったことが分かった。早川とはその時からの知り合いで、犯行前に首都圏のあるスナックで、早川らしい人物と酒を飲んでいた、という情報もある。

しかも、早川の腹心だった中田が、徐が事件直前まで住んでいた家の所有者が経営するクラブに、よく出入りしていたことが判明した。それどころか、その店には、山口組関係者も時々、顔を見せていたのだ。

もう1つ、重要な事実がある。

徐の足取りを追って三重県を訪ねると、そこには意外な事実が待っていた。徐は、あるグループの一員として、三重県内の総合病院の乗っ取りに関わっていたのである。

その病院は69年に設立されたが、バブル時代にゴルフ場や韓国でのリゾート開発に手を広げて失敗し、約60億円の負債を抱え、94年4月に事実上倒産している。

病院の経営不振が表面化し始めた91年ごろから、暴力団や病院乗っ取りで知られるグループなどが次々と訪れ、債権回収を名目に経営権の譲渡を要求。それを拒むと、再三にわたってさまざまな嫌がらせを受け、病院幹部の拉致監禁をはじめ、登記偽造、向精神薬盗難などの事件が多発する有様だった。
「この病院を狙っている連中は大勢いて、誰も執拗に食いついていましたが、実際は裏で繋がっていたようです。特に94年初めごろから頻繁に押し寄せた中に、オウムの幹部がいました。早川と中田、それに“白虎隊”と呼ばれるメンバーです。そして、嫌がらせなどを行う暴力団の1人が、あの徐だったんです」

そう話すのは、病院関係者の1人。つまり、徐と暴力団とオウムは三重県で揃い踏みしていたことになる。

別の病院関係者も、こう明かす。
「実は、その連中とは別に、ある宗教団体絡みのグループも病院買収に乗り出してきました。3者ともお互い、よく知っているような口ぶりで、『グルだな』って感じたことを覚えています」

その新しいグループのバックにいたのが、早川と彼のグループが関わっているとされる宗教団体で、この病院関係者の目には、新グループが主導権を握っているように映ったという。

病院は一時、暴力団風の男が廊下をウロウロし、病院はオウム信者らしい男女が占拠、玄関前には別の宗教団体の信者らしい人々がたむろするといった“奇妙な光景”と化した。何やら、怪しげな“闇のトライアングル”が出現したのである。

P279 カモにされたオウム

Oの周辺には、暴力団による殺人請負組織があったのである。

そのメンバーと見られる人物のうち、取材で判明したのは都内在住の大物右翼思想家の息子であるS・O、その思想家の弟子のJ・O、関西の暴力団員T・M、東海の暴力団幹部T・O、東京の暴力団員T・Aの5人である。

私はこのメンバーの一部と、その周辺にいた仲間に接触し、さまざまな証言を得ているが、情報源の生命の安全を考慮して、本書ではあえて人物描写を省き、証言内容にも配慮を加え、会話形式をとらないことにしたい。

関係者によると、この組織の前身は意外と古く、86年初頭に結成されたという。

創設者の1人は、ある宗教団体で教祖の“私兵”と言うべき組織に入っていた人物。その組織は教祖の警護をはじめ、教団内部の“暴力的支配”や敵対組織との抗争時に活躍するコマンダー、教団内外のスパイ工作などを担当し、まさしく命知らずのプロ集団だったと言えよう。

もう1人の創設者は、ある金融会社と組んで、相当荒っぽい連中を使って債権回収などを生業にしていた男である。

ただ、当初は企業テロ活動を専門にしていたものの、殺人などの凶悪犯罪には手を出さず、メンバーはかなり違っていたようである。

初代メンバー初の大仕事は、87年1月の住友不動産会長宅襲撃事件で、サポート役を務めたことと言われている。日本刀を持った右翼が「住友不動産は地上げで国民を食い物にしている」と主張して会長宅に乱入し、夫人を人質に立てこもった事件だ。

結成当時、西日本には過激な活動で知られる右翼団体を中心とした「S連合」と称する同様な組織があり、しばしば連携を取って行動をともにしたともいう。

現在のメンバーになってから、この組織が関与したと見られている最大の企業テロ事件は、94年9月の住友銀行名古屋支店長射殺事件とされている。

この事件については書き出すと長くなるので、別の機会に譲りたい。

ただ、このメンバーは殺人や企業テロを請け負って、犯行計画の立案や襲撃現場の調査、凶器などの調達、逃走経路の確保……などをサポートするだけで、実行犯についてはメンバーの1人がかつて所属していた暴力団を通じて、手口や報酬などに応じて選抜しているという。

その暴力団はもともと“武闘派”として知られ、数々の凶悪事件への関与が取り沙汰されている集団だ。

ある警察関係者は、こう言う。
「実は、その暴力団が89年ごろから、暗殺者部隊を創設し、フィリピンなどで実弾射撃訓練を積んでいるとの情報をキャッチしている。人数も延べ数百人に上ると聞いているし、射撃能力も抜群らしい。奴らは住銀事件でクローズアップされているが、村井刺殺事件をはじめ一連のオウム事件の裏側でも、その影がチラチラしているんだ」

別の捜査幹部も、こう明かす。
「この暴力団は別の“モンスター教団”に食い込んでいて、巨額な報酬を得て、幹部らの警護に当たったり、反対勢力を襲撃するなどの活動をしてきた。教団施設の地上げなどにも暗躍したとかで、教団側も最初は非常に重宝がっていたが、そのうち歯止めが効かなくなってきて、最近では、完全に食い物になっているようなんだ」

(貼り付け終了)

「雑木」から貼り付け

(貼り付け開始)

『実録・創価学会=七つの大罪』吉良陽一著から。次の引用は、後藤組組長の後藤忠政が、83年3月に池田名誉会長と公明党の竹入委員長に送った内容証明付郵便。

”「昭和55年12月、富士宮市議会における百条問題は学会にとって大変な出来事でした。斉藤滋与史氏(静岡県選出の自民党代議士)にしろ、杉山憲夫氏(自民党静岡県議)にしろ、百条問題調査打ち切りに関しては多少なりの力添えはあったにしろ、現実はそのような甘いものではなかった。四方八方に手を尽くしてもどうにもならなかった学会側は、以前の富 士桜墓地霊園(公園)造成の時と同じ様に、今度は百条委員会調査打切り、池田大作先生の名誉市民剥奪を叫ぶ市民会議解散、山崎正友元弁護士の証人喚問阻止を、土橋(昌訓)公明党富士宮支部長、公明党元代議士・高橋繁、公明党稲田(圭佑)市議の三氏が、学会側の代理人として私の元に依頼してきたのです。私はこの問題解決のため全力を尽くし解決いたしました。
 百条委員会に関しては中心人物、河原崎(澄雄)市議を自宅に呼び、説得に説得を重ねました。 私は常に物事に対処する時は、自分の生命を賭け、明日を考えずにその一事、一事、に全力をぶつけて力一杯生きています。ですからこの件にしても、若しこれが刑法223条に於ける処の強要罪になったとしても、信念を持ち行動して来ました。 また、市民会議の代表者である川村、黒田の両氏を喫茶店『ミミ』に呼び、市民会議を解散するよう得々と説得いたしましたし、山崎弁護士に対しては、私自身かなり強い態度で接して私の真意を伝えました。この件に関して私と学会は一心同体のはずです。先にも書いた様に、富士桜自然墓地霊園造成問題に関係して、私の若い者が学会のために6年もの刑を受け今だに受刑中です。それを知り、あえて私に百条委調査打切り、市民会議解散、山崎正友の証人喚問阻止を依頼して来た事実は拭う事の出来ない事実であり、私の信念五分、学会側の依頼五分を言うのも判って頂けると思います」
「しかるに学会側は、そんな私の心を踏みにじる問題を投げつけてきたのです。私は地位も名誉もないが仁義は守り、その上での意地があります」
「学会の指導者はおのれだけの権力志向を欲望に生き、口先きだけの勤行を唱えているにすぎない。私は池田大作氏の真の声が聞きたい」”

http://www6.plala.or.jp/X-MATRIX/data/f-hirotatu.html

http://www6.plala.or.jp/X-MATRIX/

(貼り付け終了)


[1451] デートクラブで『現世利益』 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/04(Fri) 18:41:38

『週刊新潮』1984年2月16日号から貼り付け

RC:一度、ホテトル経営で逮捕されたのに創価学会をクビにならず、再びデートクラブを経営する学会員。凄い「人間革命」である。更に応募して来た「デート嬢」を折伏して働かせている。もの凄い「人間革命」である。昔、銀座のマヤさんは、「今晩、体を売るのは浄財を得るためです。お許し下さい」と、ご本尊に祈って稼いだお金を「財務」に寄付し、秋田の支部長に収まったそうである。折伏された「デート嬢」の稼ぎも「財務」に寄付されるのだろうか。凄まじい「人間革命」である。なお学会員が「格安ソープ G」という店を経営していると「2ちゃんねる」に書いてあった。「ソープ嬢」が稼いだ金も「財務」に寄付されるのだろうか(苦笑)。

(貼り付け開始)

デートクラブで『現世利益』
―3ヵ月で千5百万円稼いだ学会員―

自宅を事務所兼置屋にしてデートクラブを開業、わずか3カ月間に千5百万円も荒稼ぎしていた創価学会員の女性が、埼玉県警上尾署に逮捕され、送検された。

埼玉県上尾市の主婦・板谷芳江(49)が自宅を事務所に、デート嬢5、6人を常時待機させてデートクラブを始めたのは昨年の10月。これ以前に、彼女は東京・浅草でホテトルを経営していたが、警視庁少年課に摘発され、「今度やるなら警察の目をごまかしやすいデートクラブ、場所も同業者の少ない上尾で」と計算しての開業だった。(RC:法華経兵法というらしい〔笑〕)

『あなたの愛車で迎えに来て下さい』という広告に釣られて集まった客は、県内はもちろん、東京や千葉、遠くは宮城などから医者や自営業者、教員など。1回2万6千円、うち1万円を芳江が手数料として受け取っていたが、殺到する客についにはデート嬢が不足、新聞広告で大募集していた。

こうした派手な広告が上尾署の目にとまり、約1カ月の内偵の末、売防法違反(売春の契約)容疑で彼女は逮捕されるのだが、新聞広告で集まったデート嬢は22歳から35歳までの約15人。「結婚費用を稼ぐため」という元銀行員、「サラ金返済に」と主婦、「海外旅行の費用稼ぎ」と元OLなど。

デート嬢の勤務時間は午後1時から11時まで。1回の基本料金は70分、時間延長の場合は30分3千円。延長料金の半分は手数料として芳江が取るというあくどさ。捕まるまでの3カ月に約千5百万円を稼いでいたのだ。しかも、「あまりの盛況」に警察を警戒し、近日、事務所を移動しようとしていた。

彼女の家は市内でもまだ自然の残る新興住宅地。周辺の人たちは今回の事件を、「あの人ならそのくらいのことやるでしょう」とあっさりしたもの。というのは、板谷夫妻が熱烈な創価学会員で、学会員以外とは「挨拶もしない」変り者。

しかも、板谷家の飼い犬にコートを咬み切られた近くの人が苦情を言いに行ったら、「バカ呼ばわりされ、おどかされた」ということもあって“コワモテ”的存在。3年前に1人娘をなくしてからいよいよこの傾向は強まっていた。

芳江の夫(60)は、自称「東京にある会社の社長」で、「学会支部の指導者」。だが、これはウソ。東京・赤羽の会社に勤めるサラリーマンで学会の方も平会員。「どうせでたらめに違いない」と信用していなかった地元の人のカンが当っていた。

一方、芳江は「気が強くて、見栄っぱり。ショートカットの髪を茶色に染め、服装は30代の派手なもの。ブランドものを着て八百屋や魚屋へ買いものに行き、支払いは万札の詰った財布から抜き出すピンピンの一万円札。冬でも西瓜を買う豪勢さ」と近所の人。

昨年、彼女が「東京のデパートに店を出した」と、昼ごろから出掛けていたというが、これがちょうど浅草でホテトルを経営していた時期と符合する。居宅は2階建て。階下の居間に“ご本尊”を置き、脇の電話がデートクラブの受付用。客からかかる電話に対応しながら、お題目を唱える“信仰と実益”を兼ねた性活をしていた。

そればかりか、新聞広告で応募してきたデート嬢を折伏(しゃくぶく)し、2、3人を入信させていたという。それにしても、妻にホテトルやデートクラブを経営させ、平然としている学会員の夫の神経はどうなっているのか。以下はその夫の弁――。
「私もウスウスは知っていましたよ。でもウチには借金があるし、デート嬢にも経済的な理由がある。だけど、私は彼女たちにこんなことやめなさいと再三いったんだ。実際にやめた子もいますよ。家内とも、やめろやめないで大喧嘩して、やっと今月限りでやめるつもりになってたんだ…」―-よく言うョ。

(貼り付け終了)

CLUB 銀座ネオン街を支える創価学会員たちの生態
http://soejima.to/boards/past.cgi?room=sirogane&mode=find&word=%B6%E4%BA%C2%A5%CD%A5%AA%A5%F3%B3%B9%A4%F2%BB%D9%A4%A8%A4%EB%C1%CF%B2%C1%B3%D8%B2%F1%B0%F7%A4%BF%A4%C1%A4%CE%C0%B8%C2%D6&cond=AND&view=5

『諸君』1982年4月号から一部貼り付け

(貼り付け開始)

月報「創価学会問題」その4
続発する創価学会会員の犯罪
内藤国夫(ジャーナリスト)

(前略)

「仏法上の夫婦関係」

(中略)

池田大作氏の女性スキャンダルが法廷で裁かれる以前に、創価学会のいう“現証”として、社会事象として、ただれきったウミが噴出しているのである。
「上が上なら、下も下」そのままなのだ。

宗教は、本来、心の悩みや苦しみを救うものである。病める人、悩める人に救いの手をさしのべ、心の奥深くにあるものをさらけ出しあい、浄化・解脱をはかる。

だが、創価学会の実態は、汚濁にまみれた池田大作氏に象徴されるように、浄化・解脱とは、ほど遠い。「疑ってはならぬ。疑うのは信心が足りないからだ」と説くことによって、多勢の学会員を欺し、ひたすらにカネをしぼりたて、票集めに狂奔させるのみ。

宗教に名を借りた、信心利用の疾患が、いま、新聞の三面記事を賑わす事件として、輩出しているのである。ただ、新聞では、例によって「熱心な宗教団体員」と報道するだけで「創価学会員」と書かないから、一般には、これらの事件が、創価学会がらみとは知られていない。
「創価学会問題」が、いまや、こういうかたてでも、社会を毒し始めていることを指摘したく、あえて、創価学会がらみであることを明らかにした次第。「創価学会問題」は、もはや社会病理学、精神病理学の対象として、メスを入れられて然るべき、と痛感させられる。

というのも、創価学会関係者の性の乱れは知る人ぞ知る、であって、その遠因には、創価学会特有の「世法上の夫婦」と「仏法上の夫婦」という使い分けがあるからと、解説される。
「月刊ペン」裁判で、「池田大作は、若き日の渡部(当時は松島)通子さんの前で、すっ裸でつっ立っていた」と勇気ある証言をした、小沢よねさんも、現職の公明党都議会議員と一緒に、東北地方へ折伏に出かけた際、うっかり同じ部屋に泊まったため、「仏法上の夫婦関係」を迫られて困った経験を打ち明けたことがある。

我こそはミスター創価学会

小沢よねさんが、「世法上の夫」を家で留守番させたまま、ある時期、ほかの男性幹部と折伏に全国をとび回ったように、多くの創価学会員は、男女が役職のコンビで、深夜まで学会活動に献身する。成年男女が一緒に行動している間に、「世法上の夫婦関係」とは別に、「仏法上の夫婦関係」が結ばれてしまう。

妻や夫を寝取られた、と苦情が持ちこまれると、創価学会幹部は、平然と指導する。
「仏法上の夫婦関係は、世法上の夫婦関係に優先する。あなたが奥さんと(あるいは、夫と)世法上のほかに、仏法上の夫婦としても結ばれたいのであれば、信心を強めて、早く地区幹部となり、夫婦でコンビが組めるよう頑張りなさい」

こうした乱れた性関係の“氷山の一角”として、三角関係のもつれから、旧愛人が新愛人を刺殺、などの凶行にも及んでしまう。

社会病理学、精神病理学のメスを「創価学会問題」に加えるべきと、考えさせられるのも、学会特有の「世法」と「仏法」の使い分けが、乱用されすぎているからだ。

(貼り付け終了)

『週刊宝石』1981年10月31日号のP24から一部貼り付け

(貼り付け開始)

脱党した公明党議員座談会 前編

(中略)

――女性の世話は……。
小沢 それは会合のとき、好きなタイプの女性にお数珠をあげるんです。その女性を覚えておいて、あとで池田の接待をさせればいいんですよ。
原島 そうですね。あうんの呼吸だ。それがわからんようでは「おれの弟子じゃない」ということになります(笑)。
――池田氏の好きなタイプといいますと。
小沢 女優の山本富士子に似た女性。地元・土浦のご指名の女性も山本富士子にそっくり。
――そういえば、池田氏と噂のある渡部通子さん、多田時子さんもそうですね。

(貼り付け終了)


[1450] 世の中いろいろあるようだ45 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/02(Wed) 23:36:54

RC:凄いですね。

和田真一郎

http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jphoto/read.php?id=enjoyjapan_11&nid=13045&work=list&st=&sw=&cp=1


[1449] 創価学会は武力クーデター作戦を練っていた 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/02(Wed) 22:15:50

『週刊宝石』1981年10月31日号のP24から貼り付け

RC:創価は昔から変わらないようだ。

(貼り付け開始)

脱党した公明党議員座談会 前編
創価学会は武力クーデター作戦を練っていた
1 自衛隊に潜入
2 新宿騒乱事件を研究
3 大型トラックを倒して道路を遮断せよ


創価学会の体質が問われているなかで、公明党を脱党した議員の座談会が、本誌の要請で初めて実現した。出席者は4名。
飯島勝氏 香川県議
横井正吉氏 香川県丸亀前市議
小沢和夫氏 茨城県水海道市議
小谷野文雄氏 埼玉県行田市議

党活動の最前線にいた証人が語る「公明党=創価学会」の日本占領計画、警察との癒着、替え玉投票、池田大作氏の実像――密かに準備された“創価王国”構想が、白日のもとに……。


――まず脱会、脱党の理由をお聞かせください。
横井 一言でいえば、創価学会が池田大作さんに私物化され、宗教のカケラもない組織になってしまったからです。
小沢 もう無茶苦茶ですよ。宗教も会員も、池田大作が自分の政治的野望のために利用しているにすぎませんね。
小谷野 池田大作の野心は、“天下取り”にある。公明党はそのための手段だ。
飯島 そうそう。公明党は“開かれた政党”といいながら、現実は創価学会の御用政党、池田先生のボディガードなんです。池田先生に直言する人が、学会にも公明党にもいないんです。
――いまみなさん、「池田大作さん」「池田大作」「池田先生」と違った言い方をされていますね。その辺に複雑な心境の違いを感じるんですが。
飯島 私は“生涯の師匠”と一度誓ったのですから、問題があっても池田先生を憎む気持ちにはなれないんですよ。
小沢 (憤然として)それは甘いですよ。私は「先生」なんて呼ぶ気がしません。クソくらえです。あれだけ社会的な不正をやってきた人物ですから。
横井 私ももう「先生」とは呼びません。彼のやってきたことは宗教上、また社会的にも絶対許されないことです。
小谷野 そう、許されない。だから当然「池田大作」。
飯島 なるほど、国民的な立場から考えると、そうなるでしょう。悪いものは悪いです。(一同、うなずく)
――脱会したとき、迫害とか妨害、いやがらせなどは。
飯島 私が離党したときなんか夜も昼も電話が鳴りっぱなし。罰が当たるの、地獄に行くの、恩知らずのと大変でした。

小沢 2年たった現在ですら、「小沢は強度のノイローゼで凶暴性をおびている。何されるかわからないから、近寄るな」と言われています。(RC:都合が悪いと病人呼ばわりするワンパターンな団体である)


小谷野 私は豆腐屋をやってたんですが、学会員はピタリと買いに来なくなりましたよ。
――それは組織の上から会員に指示が出るんですか。
小谷野 ええ、奴は脱会したんだからもう買いにいくなと。
小沢 全部そうです。脱会者が出ると、あっという間に指示が流れる。
飯島 組織的ですね。横井さんが脱会したときもたいへんだった。個人的なスキャンダルをデッチ上げて、横井さんを批判するんです。
横井 無茶苦茶ですよ。口では言えないようなデマをつくって全会員に流すんです。地元の学会員にほんとうのことを知らせるために、いろいろ試みてみましたが、全部組織的につぶされてしまいました。それで夜逃げ同然に、丸亀を出ました。しかし丸亀の同志に学会の誤りを教えていく戦いは、今後も続けていくつもりです。
――それなら、どうして丸亀に留まらなかったんですか。

横井 そんな生やさしい組織じゃないんです。議員を辞めてから新しい勤め口をさがしたんですが、とてもじゃないけど見つかりませんでした。いろんな圧力がかかって。
小沢 たとえば、横井さんが市内の会社に就職しますね。そうすると、学会はその会社にまで手を伸ばして邪魔するんです。「社長さん、横井という男は学会でこういう悪いことばかりやってきた男です。使ったら大変なことになるよ」と――。(RC:逆に圧力を掛けて会社をクビにしたりすることもあるそうです。)


小谷野 移転先がわかれば、どこへ移転しても組織を通じて魔の手を伸ばしてくるんです。―-投石で窓ガラスを割られたとか、暴力を受けたとか、そういったことは。
飯島 これは誰がやったかわかりませんが、新車を4回、釘で傷つけられた。離党するまでは、そんなこと1回もなかったんだけれども。
小谷野 私はやられたことないですが、学会員が日本刀を抜いて脱会者の家に殴り込み、警察沙汰になった話がある。
横井 営業妨害なら全国的にたくさんありますよ。

党大会での質問も、そして批判もすべてサクラだった


――結局、皆さんは脱党されたわけですが、公明党議員になるときは誰から党の候補として任命されたんですか。
横井 公明政治連盟の時代は、学会本部から任命を受けました。
小沢 もともと公政連は創価学会政治部ですから、池田大作直結ですね。
横井 今でも全部、池田からでしょう。
飯島 対外的には、公明党が任命して発表するという形をとりますが、その裏には必ず学会の承認がいる。地方議員なら、学会のその県担当の副会長、国会議員になると池田先生が決めるわけです。
小谷野 学会幹部にゴマをすらないとだめでしょう。結局。
小沢 公明党がどう考えていようと、もらう票は学会の票なんですから、どうしてもゴマをするようになってしまうんですね。
飯島 私は党の幹部からではなく北条前会長と森田副会長に何回も「辞めろ」と言われたことがある。ゴマすっている人間に譲れ、というわけです。
――党首脳の人事はどうです?
小沢 まったく同じですよ。
横井 党首脳の場合は、最初から学会が押しつけてきますね。池田の任命ですよ。
――そうすると、政策なんかにしても党の自由にならないじゃないですか。
飯島 もちろんです。創価学会の浮沈に関わるような事態が生じると、重要政策を変更しても自民党に救いを求める。公明党は変えたくなくても、学会の命令で変更させられます。
小谷野 52年ごろ、公明党が安保や自衛隊で右傾化したのも民社党が創価学会の不正を追及する構えを見せたからだった。
小沢 おそらく学会の至上命令ですね。「池田先生を守れ」ということですよ。
飯島 公明党が宗教政党ではなく、“開かれた国民政党”ということで行くなら、学会本位じゃだめだ。中央委員会に行っても、「今日は新聞記者が来るから、これとこれだけは、言うなよ」「変な質問するなよ」とやる。ですから“シャンシャン大会”だ。党の大会から地方本部の大会まで、みんなそうです。
――最近は、いろんな質問や批判が出るようですが。
横井 あれも全部サクラです。
小沢 たとえば、「小沢さん、外部の目があるから、あなたはこの点を質問しなさい」と。そこで原稿をつくって県連本部長にチェックしてもらう。「よし、これならイケる」――全部そうですよ。
――すると政教分離という発表を組織内ではどう理解していたんですか。
飯島 最高幹部は、「あれは社会やマスコミを欺くためにとった建て前論で、実際に分離しちゃいかんのだ」と公然と言っていた。それが本音でしたね。
――末端の会員まで、そういう認識をしていたんですか。
小沢 全部そうでしたね。そう指導、徹底しましたから。そうでなければ、選挙をやれないですよ。
横井 公明党の議員は、学会の役職を離れただけです。いまだに公明党の党員の中に、学会員以外の党員はいません。
小谷野 よその政党のような、本当の党員は1人もいませんよ。みんな学会員。選挙になると、みんな学会の組織に帰り、学会幹部の指揮で動くんです。
飯島 そう、公明党側でつくる選対本部もカムフラージュ。学会側の選対本部が本物。
横井 候補の行動日程も、全部学会がつくっちゃう。
飯島 議員、候補者は完全にロボットですよ。

警官の不祥事を情報収集 これは権力との取引材料


――その選挙ですが、替え玉投票とか住民票移動の実例をご存じありませんか。
飯島 私が徳島県の総司令として選挙の指揮をとったとき、あったと聞いています。ずっと前の話ですが、抜き取りはなかったが、病気の学会員とか、選挙に関心ない知人の入場券をもらってきて、それに似合った年頃の人を仕立ててやったらしい。
横井 それは全国的にやったんですよ。学会では選挙は法選、仏法のための戦いだという考え方が徹底されていますから。それが仏法のため、学会のためになると思えば、罪の意識を感じません。幹部から命令されなくても平気でやってしまう。
小沢 池田大作自身が、そういう選挙違反した人に、“法難賞”を贈って賛えるんですから、違反することが正義になってしまいますよ。
小谷野 法難賞は“選挙違反奨励賞”の意味を持っていますね。だから全国的になるんです。
――陣中見舞の額なんか、候補者は知ってるんですか。
飯島 それはわかりません。絶対に聞いちゃいかんのです。
小沢 誰が、いつ、いくら持って来たか、その帳簿も絶対見せてもらいない。
――議員の給与の扱いは?
飯島 国会議員の場合は、今でも全部党が集めて、その議員の生活に応じて分配します。
横井 地方議員の場合は党には出さないです。個人個人がもらってます。
小沢 ただ、あくまでも市からもらっているのではなくて、創価学会の池田先生からいただいているのだ、という考え方。これは一貫して変わらない。(RC:税金では)
飯島 まあ、常々「池田先生のおかげで議員になれたんだぞ」と指導されていますから、不満に思って口に出せない。
小沢 お金といえば、もうひとつ不明朗なことがあります。4、5年前の老人福祉週間に、寝たきり老人を助けようということで、私が先頭に立って街頭募金をやり、16万円集めたんですが、その半分がどこへいったかわからなくなってしまった。
――それは党に持っていかれたということですか。
小沢 そうですね。党から「募金をやれ」と指示が出たんですから。茨城県では全議員がやりました。その半分が公明党に吸い上げられた可能性が濃厚なんです。
飯島 重大問題じゃないか。突っ込んで調査したの。
小沢 その当時、党の責任者に問いただしたら、「県で集めた金は全部赤十字に寄付した」というので、「じゃあ赤十字の領収書があるだろう」と追及したんですが、うやむやです。
小谷野 赤十字の側に聞いたんですか。
小沢 「もらってない」という返事でした。
飯島 告発したら刑事問題だ。
横井 はっきりしてる8万円はどうしたんですか。
小沢 それは私が党員といっしょに水海道市の社会福祉協議会に持って行きました。「8万円しか集まりませんでした」と、ウソをいって。私も辛かった…。
――ほかに辛いことは? たとえば、交通事故を起こした学会員の貰い下げとか。
飯島 それは年中です。学会員が電車にひかれて即死したとき「お前、行って来い」といわれて、賠償金の交渉をさせられたこともある。
小沢 46年ごろ、学会の青年が3人で窃盗を働いて逮捕されたことがあります。すると、すぐ学会から電話があって、「全紙の新聞記者に会って、学会員じゃないとよく伝えろ」と。
――新聞に圧力をかける……。
小沢 圧力というより、お願いに行くわけです。つけ届けしたり媚びへつらったり。
横井 とにかく新聞に創価学会の4文字を出させないために、ずいぶん苦労させられました。
――不買運動などは。
飯島 それもよくやった。学会のことを少しでも悪く書くと、「今日から、とるのやめようぜ」という調子で(笑)。
――権力との癒着では、やっぱり警察が1番ですか。
小沢 そうですね。盆暮れに2回、必ず署長につけ届けするとか、警察の予算どりに頑張って貸しをつくるとか。

横井 会員から入る情報を渡して恩を売る。だから、犯罪の捜査なんかに、よく協力を頼まれましたよ(笑)(RC:笑っているが、学会員を使ったストーカーなどしているようだ)
飯島 警察官の悪事なんかも、会員から情報をとっておいて、いざというとき取引します。
小沢 「池田先生と学会にさえ傷つかなければ、公明党はボロボロになってもいいのだ。それが議員の役目だ」ですから、媚びもすれば脅しもやります。


――池田氏を守るための議員活動としては、ほかにどんなことやるんですか。
横井 池田の警備もやります。だから、池田が地方指導に来るときは大変です。警察に頼んだり、木の陰に隠れてお庭番だ。影武者です。

このとき、この座談会があるのを知って原島嵩元教学部長が駆けつけて来た。出席者は大感激。本誌記者が、これまでの経過を原島氏に説明し、座談会を再開。

指令――ヒットラーの「第三帝国」を熟読せよ


飯島 先生が連絡船で四国に渡るときでも、事前に船中を全部点検して、われわれは寒風が吹く中でずっと警護するんです。アンマの世話もやらされた。

小沢 それは会合のとき、好きなタイプの女性にお数珠をあげるんです。その女性を覚えておいて、あとで池田の接待をさせればいいんですよ。
原島 そうですね。あうんの呼吸だ。それがわからんようでは「おれの弟子じゃない」ということになります(笑)。
――池田氏の好きなタイプといいますと。
山本富士子山本富士子渡部通子渡部通子多田時子多田時子

小沢 女優の山本富士子に似た女性。地元・土浦のご指名の女性も山本富士子にそっくり。
――そういえば、池田氏と噂のある渡部通子さん、多田時子さんもそうですね。(RC:創価教育では、池田氏は“道徳家”とされています(爆笑))


池田大作前に「天下取り」ということが出ていましたが、何か具体的な計画はできていたんですか。
原島 かつて青年部の最高幹部の間で、きわめて過激な日本占領計画が話し合われたことがあります。つまり、学会の人材を密かに送り込んで、自衛隊と放送局、電波を全部押えようというわけです。
一同 (驚いた表情で)ホーォッ!
横井 それは、いつごろですか
原島 昭和46年ごろのことです
小谷野 そういえば、青年部員に自衛隊入隊をすすめるような空気がありましたね。
原島 また革命決行の日に、学会員で大型トラックを持っている者を全部都市部に集中させ、それをみんな路上に倒して交通遮断するとか、たくさん消火器を買い込んでおいて、向かって来る警察官にぶっかけ、次の日動けないようにしてしまうとかね。
飯島 ずいぶん具体的だな。
原島 冗談半分ではあったんですが、しかし「いざとなったら、こういうことも本気で考えなければいけない」という話が交わされていたことも事実なんです。現に49年ごろ、ある団体が学会本部に乱入したとき、実際に消火器を使って応戦しました。それより、ちょっと前の昭和43年の新宿騒乱事件のときには「いざというときに備えて警察とデモの動きを勉強しておけ」と言われて、ビルの屋上などから混乱のようすを研究した人たちもいました。
飯島 ヒットラーの「第三帝国」を熟読せよ、という指令もありましたね。
――驚きました。冗談ではすまされませんね。
原島 今の話は非合法の占領計画ですが、公明党では、実は合法的で綿密な占領計画が練られていたんです。(以下次号)

(貼り付け終了)


[1448] 池田大作の策謀! 1990年、私は日本を支配する 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/02(Wed) 22:14:03

『週刊宝石』1981年11月7日号のP186から貼り付け

RC:「和田さんの野望(スーフリ)」ならぬ、「大作さんの策謀(創価)」のうち、幾つかは実現しているようだ。「日本の闇勢力」はクワバラクワバラ!! そして鉄腕DASHは平和ですが、政権奪取は勘弁して欲しい(苦笑) 和田さん=和田真一郎(スーパーフリー)=強姦魔

(貼り付け開始)

脱党した公明党議員座談会 後編
池田大作の策謀! 1990年、私は日本を支配する
1 田中派との提携
2 自民党と連合政権
3 文部、法務、厚生の各大臣要求
4 1990年に公明党政権樹立
創価学会には武力クーデター作戦があった――前号の衝撃的な証言は、池田大作氏、創価学会=公明党の危険な体質を暴露した。原島嵩元教学部長も駆けつけて佳境に入った後編では、さらに現実的な政権奪取作戦が明らかにされていく。


――前回、「公明党には綿密な日本占領計画があった」という話が出ました。今回はそのへんを具体的に話していただきたいのですが。
原島 端的にいえば、「天下を取る」という池田大作の野心を実現するための政権奪取構想なんですが、その段階的なプログラムができていたんです。
小沢 まず自民党との連合政権をつくって、大臣のポストを3つ取る、ということです。これは公明党の夏期講習会で多田省吾(RC:多田時子(お下げ渡し)の夫)、鈴木一弘、黒柳明など党幹部がはっきりといいました。
――いつ聞いたのですか。
小沢 49年と50年です。(RC:昭和)
――連合政権の樹立は、何年ごろを目標に……。
小沢 だいたい55年ごろまでに、という話でした。
小谷野 昭和55年は創価学会の創立50周年にあたり、その記念すべき年に標準を会わせた、ということでしょうね。
飯島 一時は、40年代後半に政権取るのも夢ではないような感がありましたね。創価学会も公明党も破竹の勢いで伸びて行きましたから。
横井 それも公明党単独で取れるかのような。ところが、それが言論弾圧問題で挫折したため、自公連合政権構想に切り換えたわけですよ。
――その構想が49年の夏期講習会で発表されたということですが、公明党は48年以降、社公民を軸とする「中道革新連合政権構想」で来ていますね。その点どうなんですか。
小沢 あれは国民向けのポーズにすぎませんよ。49年は田中内閣から三木内閣に政権交代が行われた政局激動の年で、国民の間には、政権を任される第2党の出現を期待する声が高まっていました。だから、革新ポーズをとったほうが得策だという打算的行動です。本音は全然違います。
飯島 そのとおりですね(と大きくうなずく)。49年の党大会でも、保革大連合の立場はとらないとしながら、「自民党であっても中道革新連合政権の諸原則に賛同する者なら排除すべきではない」という含みのある発言をしていますが、この発言の中に保革連合志向の本音が秘められていたんです。
横井 その発言は、保革連合への“誘い水”ですよ。当時、自民党は真っ二つに分裂する可能性がありましたからね。割れたら、その一方と組むことも、当然考えていたんです。
飯島 分裂はともかく、過半数を割る可能性は十分あった。そのときは自民党に手を貸して、内閣に入るということだな。
原島 (うなずいて)その構想は池田さんから出ていると見ていいと思います。じつは池田さんは、昭和50年11月1日の日蓮正宗との連絡会議で、「将来、保革連合を支えるのはうち(学会)しかない。正反対の手を打つかもしれぬ。しかし、こちらを先にやると危ない。……極端にいえば、内閣に入るかもしれぬ。大変な共闘だ」といっているんです。
小谷野 つまり、当面は危険だから中道革新連合政権構想を表に出して行くが、いずれ正反対の保革連合の手を打ち、「内閣に入る」と。
原島 そうですね。内閣に入って、大臣のポストを3つ取るということでしょう。
――その3つのポストについて具体的な話が出たんですか。
小沢 ええ、「文部、法務、厚生の3つをもらう」と。黒柳さんも鈴木さん、多田さんも「おれが厚生大臣だ」とか、黒ちゃんは何だとかいってました。冗談半分ですが。
――とくに文部、法務、厚生の3つを望む裏には、何か狙いがあるんでしょうか。
飯島 文部省には宗務課があるんで、宗教関係を押えるということだな。
小沢 創価学会は宗教法人にあるまじき不正行為をたくさんやっていて、「解散させろ」という声まで出ています。それに対する抑えの意味もあるんじゃないですか。
横井 池田さんは創価大学から幼稚園までつくって、洗脳教育をさせているでしょう。ですから将来的には、文部省を押えて全国民を洗脳することも考えていると思いますね。
飯島 法務は、創価学会に対する弾圧の抑えだろう。
小沢 それと同時に、学会以外の者に対する弾圧も考えていると思いますよ。当面はどうか知らないけど、政権を完全掌握したら必ずやりますね。
小谷野 厚生は、福祉に力をいれて国民を喜ばせ、勢力拡大をはかるのが狙いでしょう。
飯島 現在もそうです。
――いま、政権を完全掌握したらという話が出ましたが、そこまでのプログラムは。
小沢 途中の段階については聞いていません。党首脳は考えていたかもしれませんが。
原島 最終ゴールは池田さんが発表しています。池田さんには「留言録」というのがあって、それを48年末のある重要な会合で池田さん自ら披露したのですが、それには、「1990年に天下を取る」と明確に書いてありました。この「天下を取る」という意味は、明らかに政権の完全掌握であり、池田さんが日本を支配するということです。
小谷野 1990年というと、あとわずか9年後ですね。しかし、9年で天下を取るのは無理なんじゃないですか。
飯島 無理でしょうね。学会の伸びも頭打ちだし、政界もそう甘くありませんよ。
横井 学会の社会的不正に対する糾弾も厳しい。スケジュールの変更は避けられないでしょう。
小沢 しかし、池田大作の執念深さは、世間の人が考えているほど生やさしいものではありませんよ。多少の紆余曲折はあるでしょうが、彼は「天下取り」を絶対捨てないと思います。
原島 (大きくうなずいて)同感ですね。池田さんは1度立てた構想は必ず完成させる、という強い信念を持っています。

自民党を取り込むのは簡単 最後の敵は共産党だ


――では、そういう厳しい状況の中で、なおかつ政権を完全掌握するとすれば、どんな手を考えているでしょうか。
小沢 その手始めが、自民党と連合して大臣のポストを3つ取ることです。
原島 そのためにも、田中派との結びつきを今まで以上に強めていくでしょう。自らの安全確保をはかるとともに、連合政権内に大勢力を形成するわけです。
――田中角栄氏と池田大作氏と結びつきはいつごろから。
原島 個人的に会ったのは14年前、田中さんが幹事長のときでそのとき「あなたが早く総理大臣になってください」と激励した話は有名です。その後も何回か、同じように激励しています。
飯島 それは竹入さんが間に入っていますね。竹入さんと田中さんのパイプは、その前から強かったですから。
横井 そのパイプが、創価学会の言論弾圧問題のときにいっそう強くなった。
原島 ある幹部の話では、田中さんのある問題を、その後の自分のロッキード問題よりも深刻に受け止めていたそうです。
小沢 あのときは、共産党が創価学会をつぶしにかかりましたが、自民党は創価学会を共産主義の防波堤にしたいと考えていましたから。そのためでもあると思いますね。
――田中角栄という人は、直接自分の利益にならないと動かない人だと聞いていますが、その点で選挙も……。
飯島 選挙が1番でしょうね。自分の息のかかった者を当選させるために、創価学会・公明党の応援を頼む。そういう例はたくさんありますよ。
横井 そこにまた、池田大作が付け込むスキがある。
小沢 そうそう。田中派と自公政権内に大勢力をつくれば、ほかの勢力に対する多数派工作はそう難しいことはないでしょう。ここまで来れば、もう天下取ったと同じですね。
小谷野 そう簡単にいかないと思うが、田中派を完全に抱き込んでしまえば、可能性はありますね。田中派とつながりの強い派閥もあるわけですから。

小沢 池田大作はつねづね、私たちにいっていましたよ。「自民党を取り込むことなんか簡単だ。やろうと思えばどうにでもなるよ」と。社会党や民社党などは問題にしていなかった。


原島 問題なのは共産党。「最後の敵は共産党だ」というのが池田さんの口癖でした。創共10年協定は、そのための抑えの意味もあったわけです。共産党を協定で押さえておいて、その間に自公連合、入閣の手を打って行く――。
横井 そうして多数派工作をうまくやって、内閣総理大臣を手中にする。
飯島 そううまく行くかな(笑い)。
――うまく行かない場合、非常手段に出ることもあり得るでしょうか。たとえば、前に出た武力革命のような。
小沢 私はあり得ると思いますね。池田大作は「天下取り」の野心を除いたら何も残らないほど、執念を燃やしているんですから。
原島 前にも話したとおり、武力革命の話が冗談半分であったにせよ「いざとなったら、本気で検討しなくてはいけない」という話が真面目に交わされたは事実ですし、その1つの方法が現実に実行されたことも事実なんです。ですから、その可能性は否定できませんね。さらにいえば、学会の最高幹部が同じような話し合いをしていたこともあるんです。自衛隊に学会員をたくさん送り込むとか、電波を押える話ですね。それは皆さん方の耳にも入ってるんじゃないですか。
飯島 それは池田先生もしばしばおっしゃっていました。創価学会にはファッショに通ずるようなことがあらゆる面にありますから、何か1つのインパクトがあれば、学会全体がドーッと爆発する危険性は現在でもありますね。
横井 とにかく池田大作は「おれが死ねといったら死ねるか」といって、青年を訓練してきたんです。池田が命令すれば、青年は死も辞さないですよ。
小沢 私たちの青年時代は、上からの指令があって、女房と水盃を交わして家を出た。「たとえどこで死のうとも、先生を守るためには断じて命を惜しみません」と、女房と2人でやったんです(笑い)。
小谷野 今でもやってる人がいますよ。池田の警備に行く日は白いさらしの胴巻きをして、木刀持って、カアちゃんと水盃交わして行くんだから(笑い)。
飯島 私も特攻隊の行き残りの1人だったんだけれども、特攻隊の精神どころじゃない。

いざというとき池田氏はナチスと同じ方法をとる


原島 今は外部向けに格好つけて、文化とか平和とか盛んにいっていますが、あれはカムフラージュなんです。池田さんは、「文化活動は煙幕だ。内部はどこまでも革命児でなければならない」という考え方です。
横井 池田が「水滸伝」や「三国志」、ヒットラーの「第三帝国」を公明党の議員や青年部の幹部に勉強させたのは、伊達や酔狂ではありません。そこからありとあらゆる権謀術数を会得させようとしたんです。(RC:神崎武法には天下取りのために「関が原」(司馬遼太郎)を読ませていた)
原島 そのヒットラーの「第三帝国」を勉強した公明党のある幹部は、「ヒットラーが悪かったのは、戦争で多くの人を殺したことだけだ。あとの戦略戦術は悪くない」と、池田さんに話していましたよ。
池田大作が、学ばせたかったのは、まさしく権謀術数です。いざというとき、池田さんは必ずナチスと同じ方法をとると思いますね。だから、それは“日本占領”といっても過言ではないんです。
――仮にそうなった場合、総理大臣には池田大作氏がなるんですか。
飯島 最高幹部の間では、“池田総理”の実現を夢見ていた時期がありましたね。40年代に。
横井 昭和42、43年の創価学会の幹部会で、竹入さんが、「ぜひ池田先生に総理大臣になっていただこうではありませんか!」と叫ぶと、会場の日大講堂が割れんばかりの大拍手だった。
原島 一時期、池田さんは自分が総理になると明確に言明したこともあるし、多田省吾さん(RC:多田時子(お下げ渡し)の夫)を総理にしようと考えていたこともある。しかし、その後の構想では、池田さん自身は総理の上に君臨する形ですね。
飯島 公明党を結成したばかりのころ、池田先生は「天下を取ったら、2つの党をつくって政権交代させる」という考えを披露したことがありましたね。
――2つの党というのは。
横井 それは、そのときは日本の大半が創価学会員という状況が想定されていますから、公明党を2つに割って、池田さんがその2党の上に君臨し、操るという考えですよ。
――ほかの政党はない……。
原島 あったとしても、取るに足らない少数政党でしょう。想定としては。
――なぜ、公明党をわざわざ2党にするんですか。
原島 1党だと腐敗しやすいということもありますね(笑い)。
小沢 2党を競争させて忠誠度をはかり、池田大作により忠実なほうに内閣をつくらせる。というのが本音ですよ。つまり、2党とも池田のロボットです。
――天皇はどうする考えだったのですか。
原島 とくに論ずることはなかったですね。天皇制に対する国民感情を大事にする、ということじゃないですか。

マスコミが“しまった”と思うときが創価学会の天下だ


――では、池田氏がそういう形で政権を完全奪取したら、一般国民はどうなるんでしょう。
横井 まず言論の自由、信教の自由はなくなりますね。現在の創価学会、公明党の中にもないんですから。
原島 池田さんは「マスコミが“しまった”と思うときが広宣流布(こうせんるふ)だ」つまり、創価学会の天下だということを、今でもいっています。
小谷野 完全な独裁政治。この座談会を企画した「週刊宝石」も危ないですよ(笑い)。
横井 昭和31年に、池田さんは選挙違反事件で逮捕され、拘置所に入ったのですが、出て来て開口一番叫んだことは「権力と断固闘おう!」ということなんです。自分をいじめたものに対する復讐心、怨念には、すさまじいものがある。

原島 被害者意識の固まりですよ。それが天下取ったら加害者になります。
小沢 そうなんです。まず仕返しを徹底的にやります。
飯島 いや、天下取ったって、そんなバカなことしませんよ。やれば国民の批判を受けるんですから。仏法の慈悲の精神を政治の中に反映させて――。
小沢 (遮って)とんでもない!慈悲があれば、こんな問題は絶対に起こらないんですよ。そんな甘いものじゃありません。
横井 そうです。私たちが脱会したとき、学会はどんなことをしましたか。社会的に立ち上がれんような、ありとあらゆうる弾圧をしてきたんですよ!
小谷野 そうそう。それも、国民の批判を浴びている中でじゃないですか。彼らは批判なんか恐れないですよ。それを“法難”としか受け止めないんですから(RC:学会員の心の中で“法難”と受け止めないと精神に異常をきたす恐れがあるだろう)
原島 飯島さんの話は、理想的に行けば、のことでしょう。また、そうあってほしいという願望で……。
飯島 ええ、そうです(とうなずいて)。現在の体質のまま天下を取ったら、これはもうファッショになりますよ。そして、創価学会員だけが優遇され、そうでない人は差別待遇を受ける時代が来るでしょう。
小谷野 権力を握ったら、差別待遇どころじゃない。それこそ恐怖政治で、批判分子は粛清されると思いますね。
横井 私なんか銃殺刑ですよ。
小沢 藤原弘達さん、内藤国夫さん、隈部大蔵さん、山崎正友さん、原島さん、皆そうなります。その陰には何千人も。(RC:藤原弘達さんが亡くなったとき、「おめでとうございます」という電話が一晩中鳴り続けたと「週刊金曜日」に書かれていた。隈部大蔵さんは「月刊ペン」事件(名誉毀損)の被告。同事件の最高裁判決は「池田大作さんの下半身には公共性がある」であった)


――最後に、池田大作退陣の日はどういうふうに想定されますか。
飯島 退陣を余儀なくされるような、よほどのインパクトがないかぎり、身を引くということではないでしょう。
横井 同感ですね。あくまでも支配者の座にしがみついて離れないと思います。
小沢 しかし、何とかして追放しなければ。私は、こういう批判の積み重ねが、必ず将来実を結ぶと信じています。
横井 その日が来るとすれば、それは公明党の議員が激減し、政党としての力がなくなったとき以外にないと思うんです。
原島 とにかく、創価学会には宗教の原点に、公明党には政治の原点に返ってほしい、念願しています。
一同 同感です(うなずく)。
飯島 とくに公明党は、池田創価学会の御用政党から早く脱皮してもらいたい。それができないなら、解党すべきですね。
――ありがとうございました。

(貼り付け終了)


[1447] 財界展望2003年7月号 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/02(Wed) 01:32:35

「白川勝彦Web 資料室 財界展望2003年7月号」から貼り付け

(貼り付け開始)



http://www.liberal-shirakawa.net/scrapbook/0307zai.html

(貼り付け終了)


[1446] Re[1444]: ありがとうございます 投稿者:おるぶらいと 投稿日:2003/07/01(Tue) 22:23:46

>用心するにこしたことはないと思うのです。
専門家の方と、一般の人の心情の違いを理解していただけたらうれしいなと思います。

了解しました。ご心情は充分察せられます。
ちなみに、私は組換えDNA技術を日常的に行なう仕事をするようになったのは、大学院を出て3年後です。学生時代には、まだ組換えDNA技術を大学では教えていませんでした。今では、高校生の理科実験でも出来てしまうレベルなのですね。そういう仕事につかなければ、今でも遺伝子って何??と言っていたかもしれません。

そうして、そういう立場からマスコミの一時期(数年前)の遺伝子組換え食品反対キャンペーンをやっているのを見るにつけ何か、中世のヨーロッパのジョルダーノガリレオの宗教裁判の再現か??ととても奇妙な気持ちになったものです。

その中で、中にはアメリカ系の悪徳バイオ企業もいたのですが、良心的な企業もありました。そのいくつかが、市場撤退を余儀なくされました。奇妙なのは遺伝子組換え食品には反対していても、遺伝子組換え医薬品にはノーコメントであること。薬がOkで、食品がなぜだめなのか?遺伝子組換え食品反対キャンペーンというのはいろいろ奇妙なところがあるのです。もちろんそこには副島さんのいうロックフェラー系とロスチャイルド系のような商業利権とか、宗教倫理問題とかも複雑にからんでいます。

それはさておきこういった技術について、世間一般に認知してもらう努力を怠っていたのだと言えなくもありません。いずれにしましても、組換えDNA技術そのものは広く使われており今さら差し止めることは、不可能になっています。これによって得られるメリットを無駄にしてしまうのはあまりにももったいないという心境です。今後の普及と一般の理解に期待するしかないかもしれませんが、、。

この話題はひとまず置いテ起きます。お騒がせして申し訳ありませんでした。


[1444] ありがとうございます 投稿者:会員番号1269 投稿日:2003/07/01(Tue) 20:46:18

おるぶらいとさん、ご指摘ありがとうございます。

安田さんって選挙に出てる方だったんですね。私は知りませんでした。
まあ、顔写真がHPにあったものですから何かしらの政党関係の方
かな?とは感じていましたが・・・。HPのアドレス載せる場合はもう少し
気を配るように気をつけますね。

それでも、「安全でおいしいものを食いたい」というのは、どんな思想・
宗教等をやっている人でも、基本的には共通ではないかなあと思うのです。
市場のバランスにまかせておいては手に入らないものもあるのではとも
思います。それは、環境にしてもそうだと思います。

おるぶらいとさんが紹介してくださったHPには、中立の立場で安全性を確かめてゆくことが大事とのことが書いてありましたが、まさにそう思っております。

私を含めて一般の人々にとっては、遺伝子組み換えというのは、よく
わからない世界であり、個人の嗜好の問題といいきれるかどうかですね。
しょっぱい、あまい、というあきらかにわかりやすい味覚とはまた次元が違うのではと思うのです。
ですから、この先、なんのためらいもなく導入されるような時期がくるかも
しれませんが、用心するにこしたことはないと思うのです。
専門家の方と、一般の人の心情の違いを理解していただけたらうれしいなと思います。

ご指摘、大変うれしく、ありがたく思っています。


[1443] 法善寺横丁復興の夏祭り開催へ 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/07/01(Tue) 19:27:08

「Fresheye - リアルタイムニュース - 芸能・娯楽ニュース速報」から貼り付け

RC:直接、関係はありませんが、復興してよかった。

(貼り付け開始)

法善寺横丁復興の夏祭り開催へ

【共同通信文字ニュース(話題・娯楽) 2003/07/01 18:19:15】

 火災に見舞われた大阪・法善寺横丁の復興を盛り上げようと、ゆかりの芸能人や文化人、関西財界関係者が1日、記者会見し「がんばれ法善寺横丁!七・二・八夏祭り」を今月28日に大阪市中央区のマザーホールで開く、と発表した。作曲家の服部克久さん、作家の難波利三さん、藤本義一さん、歌手の金田たつえさんや俳優の渋谷天外さんら約20人が歌やお笑い、トークショーを披露する。

http://www.fresheye.com/news/wadai/news40.html?id=1057052226

(貼り付け終了)


[1442] Re[1441]: Re[1437]: 食べ物は安全のほうがいい 投稿者:おるぶらいと 投稿日:2003/07/01(Tue) 19:24:45

医療掲示板[882]でなおこう氏の興味深い発言がありましたので、転記します。

<以下転記>
教訓その2「法規制すると、必ず<闇の社会>が生まれる」
「ダメなものはダメ!」という、「土井たかこ」的、「主婦連」的発想で法規制を増やしていくと、表からは窺い知れない、暗ーい<闇の社会>を生み出すことになります。<転記終了>

バイアクラだって、臓器売買だってりっぱな暗ーい<闇の社会>ですしねえ。芸能人が大金のカンパを募ってアメリカまで行って代理母に子供を産んでもらうために渡米する事態、生体肝移植の為に健康な人が死に到る事件などを見るたびにやりきれない思いがするのは私だけてなないでしょう。遺伝子組換え食品の規制も同じです。この奇妙な規制は即刻やめるべきです。遺伝子組換え食品だって規制など設けなくても市場の需要がなければ消えるだけ。需要と供給の市場バランスにまかせておけばよいだけのことです。


[1441] Re[1437]: 食べ物は安全のほうがいい 投稿者:おるぶらいと 投稿日:2003/07/01(Tue) 17:48:14

[1437]: 食べ物は安全のほうがいい

これは確かにおっしゃるとうりでしょう。
しかし、たとえば、安田節子氏
(http://www.yasudasetsuko.com/profile.htm)
のすすめる有機野菜、無農薬野菜がすべて絶対安全などと断言出来るでしょうか。有機野菜、無農薬野菜だって危険なものは危険なのです。遺伝子組換え食品だって同じです。遺伝子組換え食品だって危険なものは危険だし、安全に作られたものは安全なのです。「遺伝子組換え食品だから」という理由で危険と決めつけ市場から排除するというのは、どういう理屈でしょうか?

「遺伝子組換え食品みたいな得体の知れない気持ちの悪いものを食べさせられるのはかなわん。そういうものが存在すること自体得、私は生理的に許せない。」というのならはっきり正直にそう言えばいいのです。そのほうが偽善者っぽくなくて、好感が持てます。

食品の安全性はそれがどういう方法でつくられたかでななく、個々の食品が安全かどうかで判断すべきです。特定の工法でつくられたものを排除するという理由にはなりません。要するに安全で、有用であればなんだって(どういう方法で作っても)OKなのです。組換えDNA技術を排除する理由にはなりません。

まして、食べ物とかは、個人のし好の問題で、他人のし好の問題に対して、自分の価値観を押し付けるなんで厚かましいというものです。遺伝子組換え食品が食品の中の選択肢の一つとして存在していて、何の不都合があるというのでしょうか?


[1440] 全日本仏教会ほかの紹介 投稿者:ロシアチョコレート 投稿日:2003/06/30(Mon) 23:05:04

『読売新聞』朝刊2003年6月30日のP4から一部貼り付け

RC:私には直接関係ありませんが、頑張って下さい。

(貼り付け開始)

約百の宗教団体が加盟する全日本仏教会(森 和久 理事長)は、自民党が創価学会と連立したことに反発。自民党候補への推薦を中止していたが、再開する方針だという。

http://www.yomiuri.co.jp/

(貼り付け終了)

財団法人全日本仏教会は日本の伝統仏教界における唯一の連合体。公式WEBサイト。
財団法人 全日本仏教会(Japan buddhist federation)
http://www.jbf.ne.jp/

おまけ:
世界宗教者平和会議日本委員会(日本語)
http://www.wcrp.or.jp/Html/index.htm

神社本庁は伊勢の神宮を本宗と仰ぎ、全国8万の神社を包括しています。
このホームページは、日本の固有の信仰である神道についてわかりやすく紹介するために開設しました。
http://www.jinjahoncho.or.jp/

カトリック東京大司教区 / Catholic Archdiocese of Tokyo
http://www.tokyo.catholic.jp/


[1439] Re[1437]: 食べ物は安全のほうがいい 投稿者:おるぶらいと 投稿日:2003/06/30(Mon) 22:59:51

>安田節子の遺伝子組み替え食品入門−遺伝子組み換えFAQ
http://www.yasudasetsuko.com/gmo/faq.htm

ちなみにこの安田節子氏はリベラル(社民党)系消費者団体(反原発運動とか)の運動家代表者でその道ではかなりの有名人です。典型的なヒューマンライツ派で私が最も嫌うタイプです。御注意を、、。
http://www.yasudasetsuko.com/profile.htm
http://www.yasudasetsuko.com/profile.htm
http://www.jiminyokohama.gr.jp/senkyo/tokuhyo.html

ちょうどこの人と正反対の主張をしているHPがありますのでバランスをとるため以下に紹介しておきます。こちらも啓蒙書をだすなど結構熱心です。

生物学が嫌いなんて言わせない。
http://members.jcom.home.ne.jp/biology/welcome.htm