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NASAは NSA(国家安全保障局)の“フロント企業”であると考える。以下の記事は“直系組織”の動きです。
CNNサイトから転載します。
(転載始め)
最高極秘扱いの米軍事衛星発射 電子傍受専門か
2003.09.09 Web posted at: 20:32 JST - CNNケネディ宇宙センター(CNN) 米空軍は8日、任務内容が最高極秘扱いの軍事衛星を同日夜に打ち上げたことを明らかにした。赤道上空約2万2300マイル(約3万5680キロ)の軌道を周回、地上の電子傍受に当たるとみられている。
衛星は国家偵察局(NRO)の指揮下に入るもので、衛星の製造費、目的などについての説明を一切拒否。「国家指導部や軍の能力をさらに高める」とだけ述べている。
大型の衛星打ち上げ用のロケットが使用され、大規模な傍受アンテナを備え付けているとみられる。強力な能力を持つ電子機器傍受用の衛星ともされ、携帯電話を使った会話内容も盗聴可能との見方もある。
同衛星の打ち上げは、過去3年間計画されていたが、技術的な問題などから遅れていた。
(転載終わり)3265は、話の流れが大人的ではない、とは思います。
考え方、言いたいことの詳細はいつか直接会う機会があればその時にでも・・・。
そもそも理系技術者は一定の政治的利益追求のために、技術部隊として雇われているのだ山田宏哉です。
先日、副島先生及び学問道場の方より電話があり、私の書いた重掲[3034]「ナチュラル・サイエンスは政治に従属する」論が問題となって、私のプロフィール(個人情報)が2ちゃんねる等に流出している、と知らせていただきました。私は、見ていないのですが、私の言論が一定の衝撃力を持っていることがわかって嬉しく思いました。「山田宏哉の小論文を読んで口惜しくて眠れなかった」という少々どう反応してよいやら、という感想もいただきました。ただ、自明の当たり前のことを言ったに過ぎないのに、なぜこんなに問題になるのかかえって不思議にも感じます。
この「そもそも理系技術者は一定の政治的利益追求のために、技術部隊として雇われているのだ」論では前稿では舌足らずだったため、十分に言い尽くせなかったことを誤解の余地のないように敷衍(ふえん。付け加えること)している。「自分は理系で頭が良くて、政治的には全くの中立で、真実しか言わない」という態度のうぬぼれた(しかし私の文章でショックを受けた)理系技術者たちにトドメの一撃を加えようと思います。(なお、私は「敵」に攻撃を加える際は、一撃で一気に勝負を付けてしまうたちです。ダラダラとしたおしゃべりのような論争はしないし、つきあわないので悪しからず。)
私は、これまで「理系は頭がよく、文系は馬鹿」というような言葉を聞く度、「この人たちは何もわかっていない」と不愉快な気分になってきた。だから、この文章にはそのような固定観念や常識に対する、ソシアル・サイエンス系の人間からの反論・反撃という意味もこめられている。
まず、私の前稿「ナチュラル・サイエンスは政治に従属する」論の趣旨は、「政治学の研究成果が理系の学問分野にも影響を与えている」といった類の学問の内容に関わる学問談義では断じてない。勘違いしないでほしい。ナチュラル・サイエンスの研究体制や制度そのものが、不可避的に現実政治に翻弄(ほんろう)されるのだ、という意味なのである。
そこで、理科系の技術者に問うが、あなたの膨大な研究開発費や給料は一体どこから出ているのか? あなたはあなたにお金を出している人たちに逆らうことができるのか? 彼らの望まない分野の研究をし、望まない研究成果を発表することはできるのか?
このような問題を考える前に、言っておきたいことがある。たいていの理科系の人たちは「権力闘争」(「出世競争」とおきかえてもよい)や「敵と味方の区別」といった政治(学)の考え方を軽視しすぎている。古来から、あらゆる組織のトップに立つ人間は、たいてい事務系の帝王学を修めたようなタイプの人間であって、細かい技術に精通した人間ではない。例えば現在の東大総長の佐々木毅はなんと「君主たるものは愛されるより怖れられなければならない」と『君主論』で書いたマキャベリが専門である。
そもそも、国立大学や私立大、企業の研究所に理系の研究者なり技術者として雇われるためには、国(大学)や企業が有意義と認めた研究分野を専攻しなければならない。逆に言えば、国(大学)や企業が有意義と認めない研究分野では雇ってもらえず、食べていけない。例えば、ITが国家戦略ともなれば、SEが大量発生し、重厚長大な分野の技術者は打ち捨てられていく。
だから、理系の技術者は自分で自分の好きな分野を選んでいるように見えても、あくまで政治(と経済)が要請する分野の範囲内から選ばねばならず、その枠内から逃れることはできない。このルールに従わないものは、自称UFO研究家や発明家とでもなって、変人扱いされるのが関の山である。
そしてさらに重要なことは、どの研究分野が重要で、どの程度の予算を投入すべきか決定するのは、当の理系の技術者・研究者ではない、という事実である。それを決めるのは、理系の技術者の上に立つ、政治的・経済的な価値判断を下す事務系の支配層に属する人々である。つまりは、理系技術者は、国や企業や大学の一定の政治的(経済的)利益追求のために、技術部隊(もの言わぬ便利な道具・ツール)として雇われている(利用されている)のである。
これを「ナチュラル・サイエンスは政治に従属する」と言わずして何というのか。広い意味での政治があるからこそ、ナチュラル・サイエンスも制度として存在可能なのであって、その逆ではない。この自覚なしに、「自分だけはしがらみのない科学の人」のような立場を取るのはやめてほしい。
だから、当然ながら、理系の技術者は、できるだけ自分の雇用者の望むような研究分野で彼らが望むような研究成果なり開発結果を出さなければならない。特に企業においてはそうだ。逆らうなんてとんでもない。大学においても、「大学の威信」に貢献したり、文部科学省(税金)からたくさん研究費をぶん取ってこれそうな研究が歓迎されるのは言うまでもない。果たしてこれで、「学問の独立」とか「自然科学の中立」とでも言えるのだろうか?
もちろん、このような政治的な自覚をしている人は滅多にいないだろう。特に平凡な日常が続いているだけに見えるような時代においては。そのような状況では、アポロ計画に関して言えば、根拠もなく何となく感覚だけで、「NASAは絶対に正しい」となってしまうのである。
しかし、NASAもまたアメリカの国益に逆らうことは絶対に出来ないし、国民の「有人宇宙旅行」という願望を表現したケネディ大統領の命令に従うしかなかったのである。たとえそれが、ナチュラルサイエンス的見地を無視したものであっても。(これについては前稿で述べた) 何しろ、国民を敵に回して税金がNASAに回らなくなったら、それこそ彼らにとって死活問題なのである。だからNASAの、「なんとしてでも有人の月旅行をしなければならない」というプレッシャーや責任感・使命感は筆舌に尽くしがたいものだったろう。
どうして、理科系の人々はこういう政治的な見方をする人が極端に少ないのか。(もっともこういう人はもともと文系志望だが)
だから副島隆彦も言うように「文科系の連中にいいように利用されて終わる」のだ。アインシュタインだって、ひとたび国家が危機に陥れば、ナチスに対抗するためにアメリカの原子爆弾開発に貢献した。よく、「その後、アインシュタインは平和主義者になって原爆開発を後悔した」ということが美談として語られるが、それは戦後ある程度平和な世の中が訪れたからこそ、である。自分の住む国が滅びたり、自分の勤めている大学や企業が倒産してしまったら、そんなことを言っている場合ではない。政治権力の利益のために理系の人々が技術部隊として利用されるのは、構造的な問題であって、個人の性格の問題ではない。
私は何か間違ったことを言っているだろうか。細かい事実誤認はあるにせよ、大筋では当たり前のことを言っているだけだ。ただ、あまりに露骨なため、みなが口にしないだけの話だ。
また、以上のことについては理科系以外の学問についてもほぼ同じことが言えるが、この人たちには自惚れは感じられないので特に触れなかった。私が何を言っているか理解できない人は本稿と前稿を何度も読み返してほしい。「政治に従属するナチュラル・サイエンス」に関して、言うべきことは言ったと思う。このテーマに関しては、ひとまずこれで終わりにする。(了)
ナチュラル・サイエンスは政治に従属する山田宏哉です。
初めに断っておくと、私は1969年7月16日(月面着陸があったとされる日)の真実がどうであったか、現時点ではわからない。考える材料を集めている最中だからである。ただ、人類の月面着陸が実は嘘っぱちの政治的演出だったとしても、政治の性質を考えれば、ことさら不思議なことではない、と思っている。
もっとも、私が興味が持ったのはむしろ副島先生の「月面着陸なかった論」に対する多くの理科系の人たちの激しい反発だった。私はすぐに、理科系の人たちは「ナチュラル・サイエンスは政治に従属する」という大きな事実から目を反らしたいのだ、と気付いた。たしかにそれはそうで、プロ野球の選手が「野球は玉遊びにすぎない」と本当のことを言われて怒るのと同じである。自分の存在を否定されるのと同じだからである。
私は、理科系の副島隆彦の読者の「先生、専門外のことには口を出さないでくれ」という態度が好きではないが、理解はできる。この人たちは、副島隆彦が文科系(私の嫌いな言葉だ)の分野で辛辣なことを書くのは、痛快で大好きだが、「学問の王様は政治学である」みたいな考えで、自分たちの領域に入ってこられては技術者としての自分のアイデンティティが否定される困る、と考えているのだろう。(もっとも「学問の王様は政治学である」というのは私の確信でもある)
だが、私は、学問や知識に関しては妥協を許さないため、以下、意地悪に見えようとも「学問の独立」や「自然科学の中立」といった考え方がいかに理科系の人々の願望にすぎないか、ということを今話題のアポロ計画を辿りながら嫌というほど示そうと思う。
ここに、ロバート・L・パークという物理学者(メリーランド大教授 専門は結晶構造)一般向けに書いた「VOODOO SCIENCE」(邦題「私たちはなぜ科学に騙されるのか」主婦の友社 2001年)という平易な理科本がある。この中で米ソの宇宙開発戦争の実態が活写されている。重要で示唆に富む部分を引用しながら「ナチュラル・サイエンスは政治に従属する」という大きな真実を解説していこうと思う。
なお、ロバート・L・パーク自身は、「実は人類は月に行っていなかった」などとは全く考えていない。
(引用開始)
ケネディ大統領には、国民が心に秘めている願望を把握する天賦の才があった。ケネディは、有人宇宙飛行が冷戦の象徴として絶大な意味を持っていることをすぐに見抜き、ウィースナ報告書の忠告を無視して、宇宙計画の焦点を「機械」から「血も肉もある人間」へと――「無人」から「有人」へと――移行せよ、と即座にNASAに指示を出した。
パーク前掲書 P152
(引用終了)山田宏哉です。
アメリカは当初ガガーリンに人類初の宇宙旅行を先にこされ焦っていた。
本書によると、ウィースナMIT(マサチュ―セッツ工科大)教授(当時)が長をつとめる調査団は、「無人宇宙船の方が効率よく低予算で活動できる」という報告書をケネディに提出していた。が、ケネディは政治的理由でこのような「科学的見地」を無視してしまうわけだ。このように米ソの宇宙開発競争はそもそも当初から政治的なものであり、ナチュラル・サイエンス的な色は薄かった。引用を続ける。(引用開始)
それから1ヶ月もたたないうちに、ケネディは国民に対して「1960年代のうちに、月に人類を送り、無事、地球にもどすことをお約束する」と明言した。冷戦という状況下で、それは危険な賭けだった。・・・
宇宙開発競争において、知識の進歩は二の次であり、国家のテクノロジーを誇示する小道具にすぎなかった。・・・取るに足りない調査結果がまぶしいばかりの偉業として宣伝され、スペースシャトルの目的は「科学」ではなく「政治」になった。
パーク前掲書 P152
(引用終了)山田宏哉です。
パークはここで宇宙開発は政治であったと、あからさまに書いている。つまりは、「ナチュラル・サイエンスは政治に従属する」という私が何度も言っていることだ。(私は自分の考えの正しさを専門家の権威を借りて証明する、という方法は嫌いだが、思考力の足りない人には効果的だと思う) 「1960年代のうちに、月に人類を送り、無事、地球にもどすことをお約束する」というケネディの約束が絶好のタイミングで守られた、という点も注目に値する。(引用開始)
1969年7月16日、ケネディ大統領の約束ははたされた。信じられないことに、ニール・アームストロングが、地球から約38万キロ離れた月面に立ったのである!アポロ11号をどう表現すればいいだろう? それは技術がなしとげた偉業であり、比類なき大胆不敵な行為であった。アポロ11号の月面着陸は、世界支配をめざす米ソ間の闘争を超越し、人類全体にとっての誇りとなり、さまざまな発想の源となり、人類が到達できる高みの象徴となった。
・・・そのうえアポロ11号は政治的圧勝でもあった。全世界がアメリカの偉業に畏敬の念をおぼえた。
パーク前掲書 P154
(引用終了)山田宏哉です。
このようにパークはアメリカ人として興奮気味に語っているが、案外重要なのは物理学者のパークがうっかり漏らした「信じられないことに」という一言のような気がする。「そのうえアポロ11号は政治的圧勝でもあった。全世界がアメリカの偉業に畏敬の念をおぼえた。」という部分も見逃せない。確かに、仮にアメリカの月面着陸が捏造だとしたら、このように捏造する「動機」はあったのである。だがこれ以上の詳しい事実は私にはわからない。
だが、アメリカが政治的に決定的勝利を収めた後、せっかくアポロ計画はナチュラル・サイエンス的に見れば最も面白く刺激に満ちた時点にまで来たにもかかわらず、アポロ計画はあえなく終わってしまう。アポロ計画は「はじまりではなく終わり」(前掲書P155)だった。「科学の精神」も何もあったもんじゃない。
もっとも、私が言いたいのは、何度も言っているようにこのようにナチュラル・サイエンスは究極的には政治に従属するものであって、理科系の人たちにはこの問題を見てみぬ振りをすることはできない、ということだ。
この大きな事実を見ずして「私は科学の専門家です。門外漢はだまっとれ」みたいな態度で知識をひけらかさないでほしい、とかねてから思っている。(了)